pure fabrication -ANIMATION BLOG-

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人は何故、映像作品に心動かされるのか。
それが知りたくてアニメを観ています。
一行でも自分なりの解釈が書ければ本望です。

頂戴したコメントの一部は情報共有の趣旨から
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2015年9月終了アニメ作品雑感-1『赤髪の白雪姫』
マイキーさん

【全話雑感】『Dance with Devils』
マイキーさん

『響け!ユーフォニアム』第8話
しろかぶくんさん
たっピーさん

Clarks Desert Mali ダイナイトソール仕様
Victorian Angelさん

スパムコメントを見極める3つのポイント
皆様から貴重なコメント頂戴しました

『中二病でも恋がしたい!戀』第12話(最終話)
YASUみちのく@黒猫&六花&天使の党さん
たっピーさん

『中二病でも恋がしたい!戀』第9話
YASUみちのく@黒猫&六花&天使の党さん
たっピーさん

『中二病でも恋がしたい!戀』第7・8話
YASUみちのく@黒猫&六花&天使の党さん
たっピーさん

『中二病でも恋がしたい!戀』第6話
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『中二病でも恋がしたい!戀』第5話
たっピーさん

△クチ記号論『お姉ちゃんが来た』
冷やし中華さん

『中二病でも恋がしたい!戀』第4話
たっピーさん

【所感】『中二病でも恋がしたい!戀』
らふぇスターさん

【所感】『劇場版「空の境界」TV放送版』
コノヨノシルシさん

『2013年6月終了作品雑感』
むすびむさん

『這いよれ!ニャル子さんW』第12話(最終話)
ポポノタンさん

『フォトカノ』第13話(最終話)
多くの方からご意見頂戴しました

『翠星のガルガンティア』第13話(最終話)
多くの方からご意見頂戴しました

『惡の華』第13話(最終話)
みーみさん
ヒークンさん

『うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVE2000%』第13話(最終話)
むすびむさん

『RDG レッドデータガール』第12話(最終話)
多くの方からご意見頂戴しました

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この記事の続きです。

 

 




また時間が掛かってしまいました。でもこれで良いと思います。じっくり時間を掛け長文で語る価値がある作品ですし、リアクションだけの感想は書くのも見るのも御免被りたいので。

 

チーフと佐久間、2羽のハチドリ

作中度々出てくる「ハチドリ」。このハチドリとは導き手であり、還る場所であり、希望の光。前半の重要人物「チーフ」と中盤以降に出てくる「佐久間」が当てはまると思います。シリーズ全体で言えばジョーもハチドリなのかも知れません。




チーフはハチドリを「故郷を想う証。還る場所があることを想い出させてくれる」と言っていました。




マックの目には佐久間が素晴らしい導き手に見えたことでしょう。視聴者も佐久間登場時にはマックと同じ印象を持っていたはずです。




佐久間はハチドリの御伽話や象徴性を知りませんが、BESの被験者であるマックを希望の光に喩えているところから、視聴者の目を通せばマックもハチドリと言えるでしょう。

佐久間の言う希望の光は誰を照らすのでしょうか。それはあたかも民衆に見えます。ところが彼の言葉尻や、愛息子ミゲルへのドナー提供を材料にして意識が戻らない夫をBESの被験者にすることをマヤに迫っていたところから、照らしたいのは自分であることが明らかになりました。佐久間は都合良く受け入れてくれるカモを狙っていたのです。

視聴者としてなら佐久間はニセのハチドリと判断できます。しかし、現実世界では恐らく気付きもせず佐久間こそ真のハチドリだと思い込むはず。みんな「イノベーション」「チェンジ」「ニュープロダクト」が大好きですから。

佐久間は言葉の端々にマック一家の言動を予測していたかの如く振る舞うところから心理学を後ろ盾にしていることが伺えます。皮肉にも佐久間の一連の言動こそ心理学上では「認知的複雑性が低い」と見なされます。




ミルトン・フリードマンは見事な数学モデルを示したので「最強の」経済学者だと寝ぼけたことを言っている人がいます。しかし、フリードマンの理論はもはや実際の経済動向とはかけ離れ、詐欺とまでは言いませんが、水素水やなんちゃら酵素くらい疑わしいシロモノであることは明白。経済は数学モデルがあれば大丈夫と考えることこそ「認知的複雑性が低い」と疑われても仕方ありません。「最強の」と大袈裟な言葉を安易に付けるセンスも同様。

フリードマンを引き継いだロバート・ルーカスの「効率的市場仮説」にしても合理的経済人なる輩が単なる自惚れ屋であることがわかりメッキが剥がれました。ただ、フリードマン達よりも彼らを信奉し曲解した輩の方が罪深いでしょう。すべからく、竹中平蔵はぶっ殺されるべき人間ということです。

 

葛藤の場としての「家庭」

この作品は「家族の再構築」がゴールになっています。「再構築」という表現が適切かはわかりません。ただ、家族の繋がりを取り戻す道程を丹念に追っています。

家族とは実は難しいもので、「家庭」は凡そ異質な者同士があいまみえる葛藤の場ではないでしょうか。当然です。男と女は言うまでもなく性質が違います。男は女のPMSを体験できませんし、女は勃起と射精のメカニズムを理解できません。

 

禁欲を顔めがけて叩きつける

近代はとりわけ女が発言力を高めています。フェミニズムなる棍棒を振りかざしては男を殴り始めました。

レースクイーンを廃止させ、当時、莫大な高給に釣られて売春婦に志願した数十年後には性奴隷にされたと泣き叫んで見せ謝罪と賠償を求め、ピンクは女の子の色と決めつけるのは抑圧だと喚き、私たちは買われたと被害者になりきり、禰豆子の竹筒は女はしゃべるなというメッセージだと印象操作を試み、「おかあさん食堂」は女を家事に縛る名称だとして変更を訴える。

「ジェンダーバイアスガー」と喚き、小賢しいフィルターで半径5メートルの事象を凝視して、男が悪い、男は酷い、男は謝れ、男は察しろ、男は譲れ、男は失せろ、と傷めつけられたら、オットー・ヴァイニンガーの過激な主張に頷く男も増えていくのではないかと思います。

そして、ヴァイニンガーに倣い「女は論理的思考も倫理観も無い」「女は性交することで男から存在を与えられている道具のようなものに過ぎない」「女との性交で男は汚される」「禁欲こそが男が汚されず女を道具として見なさない道である」「性交しなければ人類は滅びる?それのどこが悪いのか」と呟きながら、それらの主張が書かれた分厚い本『Sex and Character(邦題:性と性格)』を女の顔めがけて叩きつける男だって100人に1人くらい現れるかも知れません。

それほど男と女には常に闘争と言っても差し支えないくらいの葛藤があるわけで、そんな異質な者同士が結婚してすんなり行くことのほうが珍しいのです。男と女がうまく夫婦生活をおくれているなら離婚なんて無いわけですから。
 

血が繋がっているという油断

では血の繋がった存在である子供はどうでしょう。親は赤ん坊の夜泣きに悩まされますし、おねしょがいつまで続くのか不安になることもあります。小さい頃から自由意志を尊重すべきか、小さい頃だからこそ厳しくするべきか葛藤が絶えません。オモチャを買って欲しいと懇願されて困ります。

この記事を書いている時点だと「ミュークルレインボウ」や「DX刃王剣クロスセイバー」を買ってあげるべきか否かと悩んでいる親御さんもいるでしょう。あるいは「ニンテンドースイッチ」をねだられたり。

私が子供の頃、親にねだったのは「ジャンボマシンダー」「超合金ゲッターロボ」「ローラースルーゴーゴー」「ゲームウォッチ」等。女の子なら「ドレミまりちゃん(真理ちゃん自転車)」「ひみつのアッコちゃん テクマクマヤコンコンパクト」等といったところでしょう。

今『美少女戦士セーラームーン』を観ているので当時の女の子がねだったのは「ムーンスティック」かなと思いを馳せています。(セーラームーン、面白くて新規アニメそっちのけで観ています。やっとSuperSまできました。『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった』なんて私に言われてもそんなもん知らんがなとしか思えません)

そうやって思い悩み大切に育ててきたからこそ、子供にはこうあって欲しいという願望が芽生えたり、いやこうなるはずだという油断がでてくるのかも知れません。学校に通い始めた子供は親以外から様々な情報を得たり集団生活を体験し独自の文化が形成され、親の文化と衝突することがあるので家族が不安定になりやすいのです。

特に近代化を進めた明治以降の日本では、学生時代の体験が親世代と子世代とでかけ離れる場合が多く、「そんなの今時常識だよ」と子供に言われて、諭すべきか受け入れるべきか頭を悩ませます。

児童、生徒、学生と教師の間でも摩擦が起き、いわゆる「非行」が増えたのは高度成長期を経てバブル経済に向かう昭和50年代(1980年代)。『積木くずし』や『不良少女とよばれて』という作品が出てきた時期です。

不倫を題材にした『金曜日の妻たちへ』も昭和50年代(1980年代)。そこからマザコン冬彦さんの『ずっとあなたが好きだった』、教師と生徒の恋愛『高校教師』の平成一桁年代(1990年代)へと続きます。

第二次産業(鉱業、建設業、製造業)が50%近くまで達した70年代の高度成長期。第三次産業(サービス業、卸売・小売業など)が過半数を占め始めた80年代。前々回の記事で触れたシュペングラーの「秋冬」の条件と重なっています。

急速な近代化や、技術を優先した結果、コモンセンス(常識)とモラル(道徳・倫理)がコロコロ変わり、世代間の溝を広げ近親者の関係性を狂わせてしまう。シュペングラーの述べた没落には家族の崩壊も含まれているのです。

『伝説巨神イデオン』では未知のテクノロジーによって引き裂かれていく家族を鮮烈に描いています。

「私の恨みと哀しみをロゴダウの異星人にぶつけさせて貰う」「ハルルが男だったらという悔しみ。カララが異星人の男に寝取られた悔しみ。この父親の悔しみ誰がわかってくれるんだ」




『Another』では介護疲れの息子が母を殺めてしまいます。



 

家族とは「有る」のではなく「成る」もの

「有る」から「成る」という思い込み

人は婚姻という形態が「有る」から夫婦に「成る」と思い込んでしまいがち。結婚したからといって即夫婦とは限りません。「有る」と「成る」は同義ではないのです。

そう考えるとお見合い結婚は最初から「夫婦に成ろうとする努力」や「夫婦に成ろうとする心構え」が恋愛結婚に比べてあるので「成る」意識という観点から優れたシステムと言えます。

もっとも、お見合いは紹介者の眼力と人柄と人脈が関わってきますから不安定なシステムです。私も一度友人の仲介をしたことがありますが結婚には至らず、後に彼女は恋愛結婚しました。その結婚相手も私の知人ですが。

お見合いは結婚相談所やマッチングアプリと似ていますがやはり違います。お見合いは古臭いと思う人が多いかも知れませんが、自由度の高い恋愛結婚だから良い夫婦になれる保証はどこにもありません。

親子も同じで、DNA上の親子は精神上の親子を裏付けてくれません。人はそこをつい忘れてしまうのではないでしょうか。

自分の子供だからわかってもらえるだろう、親だからわがままを押し通しても平気だろうと、相手の領域に土足で踏み込むようなことを繰り返していると取り返しのつかないことになりかねません。

家族に「成る」というのは実はかなり難しいのではないでしょうか。

 

親子のフリだよ

『ぼくの地球を守って』で身請け人のラズロが紫苑の頬にキスをします。「親子のフリだよ」優しく語るラズロの前で紫苑は涙を流しました。自分が孤児であることを自覚したからです。

血が繋がっていないからこそ、親子という形態が無かったからこそ、親子が如何に大切であるか、家族が如何に稀有な共同体であるかを痛感するのかも知れません。



 

サチオの幼さとジョーの過ち

チーム番外地という家族が崩れ始めたのはサチオの吐露からでした。余命短い南部を何とかできなのかというサチオの訴え。ジョーはそこからリュウとの試合にこだわり南部の見舞いにすら行かなくなります。

ついには危篤状態でも試合当日という理由から病院に駆けつけることさえしませんでした。たとえそれがジョーと南部との間にある信頼関係によるものであっても、幼いサチオが理解するにはあまりにも難しかったのです。




「出ていけ」「俺達の前から消えてくれ」サチオの言葉はジョーをダウンさせるには十分過ぎるものでした。ボクシングしか取り柄のないロクデナシだった男はサチオ達から去ることしか出来ません。それなのに「立つんだジョー」と言い放つのは酷です。




二人は過ちを犯しました。しかし、チーフと出会い彼が守った街で過ごし故郷の大切さを胸に刻んだジョーはサチオ達の元へ帰る決心をします。そして、サチオを叩きのめすことでメガロボクサーという贖罪から彼を開放し、「全部俺が勝手にやったことだ」と伝えることでジョーは全ての過ちを引き受けたのです。




それはジョーが父親になった証であり、家族再生の兆しが見えた瞬間でした。

 

故郷を作る物語

台風で倒壊したチーム番外地の家屋をジョーは修繕します。ストーリー上、その方がドラマティックだからなのでしょう。では何故ドラマティックになり得るのか少し掘り下げてみましょう。




何故ドラマティックになり得るのか。それは「留まる」ことに大きな意味があり、それを示したからだと思います。

大石久和氏は「国土学」という観点から日本の歴史観の形成について次のような説を唱えました。日本は自然災害が多い。沢山の人命や建造物が失われるのは殆ど自然災害。相手が自然災害なので憤りを誰かにぶつけることが出来ない。そんな悲しい歴史観を持つのが日本人なのだと。

自然災害により唐突に家族・友人・暮らし・共同体などといった「常なるもの」を奪われ「無常」を思い知らされる。だからこそ、その土地に留まることで行き場のない悲しみをぶつけて、「常なるもの」を再建するのではないでしょうか。

「無常」を思い知らされるから「常なるもの」の大切さを刻み込まれるのです。毎日同じ人に会い挨拶する。いつものように授業を受けたり仕事をする。50年後には変わっているかも知れないが少なくとも数年は「常なるもの」を体験する。その体験は人間にとって非常に重要だと思います。

『ゆゆ式』最終話のタイトルを覚えているでしょうか。「ノーイベント グッドライフ」です。高校生活3年間は短い。だから「常なるもの」が貴重なんだと暗に言っている気がします。




愛着とは「常なるもの」への尊さから湧き出るもの。尊さとは心の拠り所であり還るべき場所。「常なるもの」を大切にし留まる意志を示すこと。それが故郷の原点なのです。

『キャプテン翼』の岬君は「常なるもの」を父親の都合で体験できないまま小学生時代を過ごします。そんな彼が素直に育ったのは奇跡としか言いようがありません。サッカーという「常なるもの」が彼を支えていたのでしょう。

また「常なるもの」はコモンセンスとモラルを確立し安定させます。テクノロジーが急速に入ってくるとこれらが目まぐるしく変わるため、「常なるもの」が消失し「無常」の状態に晒されます。

ジョーが台風で倒壊したチーム番外地を「元通り」にしようとするのはまさに「常なるもの」の再建。つまり故郷を作ること。たとえ家屋が壊れても川辺に留まりチーム番外地という故郷を作ろうする姿がドラマティックなのだと思いました。




まだまだ書き足りないのですがあまりにも長くなるのでこれで感想記事を終わります。