本日は、ロシア革命について説明します。現在残っている社会主義諸国は、中国や北朝鮮といった変質した社会主義なので、平成以降に産まれた方は、想像が難しいかと思います。
ただかつては、社会主義こそが、資本主義を凌駕する政治・経済体制であると考えられていた時代がありました。その残り香のようなものは、今の日本共産党の考え方を見れば、わかるかもしれません
簡単にいうなら、貧しい者たちの味方が、社会主義だと覚えておいてください
1917年にロシア革命があるので、レーニン、ロシア行く、いーな(1917)で覚えましょうか
ということでロシア革命を成立させるのは、レーニンです。
-レーニン-
第一次世界大戦中のロシアは、いまだロマノフ朝(1613~1917)という王制で、王の意見のもと作戦を決定するので、まったくうまく行きませんでした。家柄がいいだけで、すべての王様が頭がよいわけではないので、当然ですね
結果、首都のペトログラードで、労働者を中心に暴動がおきます。これが1917年の3月だったため、ロシア二月革命(三月革命)といいます
まずペトログラードという言い方ですが、開戦前はサンクト=ペテルブルクと言われていましたが、敵国ドイツの発音に近いため、1914年にペトログラードに改名されています
レーニンが、新しいロシアを作ったのを記念して、1924年~1991年の間は、レニングラードと言われます。レーニンが作ったソ連が崩壊後は、サンクト=ペテルブルクに戻ります
-ペトログラード-
またロシアは、暦も古いユリウス暦を使用していたため、現在では3月ですが、当時のロシアでは2月になります。そのため、ロシア二月革命(三月革命)といいます
ここで議会であるソヴィエトの中で、まず権力を握ったのは、レーニンでなく、立憲民主党でした。この政党は、資本主義を認めている政党です。
レーニンは、労働者が主役の国家運営を目指しているので、経済格差をうんで、一部のお金持ちと多くの貧乏人に分かれる資本主義が、好きではありません
したがって、ロマノフ朝を倒してうまれた立憲民主党主体の臨時政府と対立を強めます。レーニンは、亡命先のスイスからロシア入りし、四月テーゼを発表し、「すべての権力をソヴィエトへ」をスローガンにしました
この対立は、臨時政府 x ソヴィエトの構造で、どちらも「私がロシアの主役だ」と主張したので、二重権力状態とよく表現されます
臨時政府側のリーダーには、立憲民主党と提携していた社会革命党出身であるケレンスキーがトップとして君臨し、レーニン率いるボリシェヴィキという団体を弾圧しようとしました
レーニンは、トロツキーや軍部の支持を取りつけて、ケレンスキー側を倒します。これをロシア十月革命(十一月革命)といいます。この混乱の中、ロマノフの最後の王、二コライ2世は処刑されます
ここで全ロシア=ソヴィエト会議が開催され、平和に関する布告が発表されます。このなかで、無併合・無償金・民族自決が唱えられます
「みんな戦争やめよーぜ」という宣言ですね。レーニンを指示するのは、貧しい労働者や兵士です。戦争の影響を一番に受けるのは彼らなので、戦争を止めたいレーニンは、熱烈に指示されます
結果、いまだ全世界は戦争中でしたが、1918年にロシアはドイツとの停戦に成功します。この条約をブレスト=リトフスク条約といいます
また党名を、ロシア共産党に変更し、首都をモスクワに変更します。メンシェヴィキという「ゆっくり社会主義の国を作ろう」という考えの人たちも退け、一党支配に成功します
レーニンは、コミンテルン(第3インターナショナル)をモスクワで結成し、ロシア以外の国も社会主義にできるよう、動き始めます
この運動は、多くの資本主義諸国を恐れさせたため、第一次世界大戦中、また戦後にかけて、対ソ干渉戦争(1918~1922)が勃発します
日本も領土拡張のチャンスのため、シベリア出兵(1918~1922)を実施しました。社会主義のイメージカラーは、赤です。だから中国の国旗は、赤です。したがってロシアの軍隊は、赤軍とよばれました
また干渉した国家の軍は、反対に白軍といわれました。国内で革命を中止させようとする勢力を取り締まるために、チェカ(非常委員会)という組織も、この際に作られました
この戦争に耐え抜くため、ロシアは資源を国有化し、食料等の配給制を実施します。これを戦時共産主義といいます
1921年、レーニンの強烈で、ハイスピードな改革についていけなくなった国民が多くでてきたため、彼は新経済政策(ネップ)を発表し、農民の農作物を販売する権利や中小企業の経営の許可を実施しました。部分的な資本主義を可能にしたわけです
そして1922年、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ(白ロシア)・ザカフカースを構成国としたソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の成立を宣言するに至りました。この構成国を聞く問題もあるので、受験生は4つとも覚えておいてくださいね
ここにウクライナが含まれているため、ロシア自身は属国的な思いで、ウクライナを見ていました。だからこそ、ウクライナが資本主義国として自立し、ロシアから離れる素振りを見せた際、2014年にプーチンは、クリミアを無理やり併合したのだと思います
ソ連ですが、1922年にドイツがラパロ条約で承認し、1924年にイギリス・イタリア・フランスも承認。日本は1925年で、一番遅くアメリカは1933年に承認することになります
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ただかつては、社会主義こそが、資本主義を凌駕する政治・経済体制であると考えられていた時代がありました。その残り香のようなものは、今の日本共産党の考え方を見れば、わかるかもしれません
簡単にいうなら、貧しい者たちの味方が、社会主義だと覚えておいてください
1917年にロシア革命があるので、レーニン、ロシア行く、いーな(1917)で覚えましょうか
ということでロシア革命を成立させるのは、レーニンです。
-レーニン-
第一次世界大戦中のロシアは、いまだロマノフ朝(1613~1917)という王制で、王の意見のもと作戦を決定するので、まったくうまく行きませんでした。家柄がいいだけで、すべての王様が頭がよいわけではないので、当然ですね
結果、首都のペトログラードで、労働者を中心に暴動がおきます。これが1917年の3月だったため、ロシア二月革命(三月革命)といいます
まずペトログラードという言い方ですが、開戦前はサンクト=ペテルブルクと言われていましたが、敵国ドイツの発音に近いため、1914年にペトログラードに改名されています
レーニンが、新しいロシアを作ったのを記念して、1924年~1991年の間は、レニングラードと言われます。レーニンが作ったソ連が崩壊後は、サンクト=ペテルブルクに戻ります
-ペトログラード-
またロシアは、暦も古いユリウス暦を使用していたため、現在では3月ですが、当時のロシアでは2月になります。そのため、ロシア二月革命(三月革命)といいます
ここで議会であるソヴィエトの中で、まず権力を握ったのは、レーニンでなく、立憲民主党でした。この政党は、資本主義を認めている政党です。
レーニンは、労働者が主役の国家運営を目指しているので、経済格差をうんで、一部のお金持ちと多くの貧乏人に分かれる資本主義が、好きではありません
したがって、ロマノフ朝を倒してうまれた立憲民主党主体の臨時政府と対立を強めます。レーニンは、亡命先のスイスからロシア入りし、四月テーゼを発表し、「すべての権力をソヴィエトへ」をスローガンにしました
この対立は、臨時政府 x ソヴィエトの構造で、どちらも「私がロシアの主役だ」と主張したので、二重権力状態とよく表現されます
臨時政府側のリーダーには、立憲民主党と提携していた社会革命党出身であるケレンスキーがトップとして君臨し、レーニン率いるボリシェヴィキという団体を弾圧しようとしました
レーニンは、トロツキーや軍部の支持を取りつけて、ケレンスキー側を倒します。これをロシア十月革命(十一月革命)といいます。この混乱の中、ロマノフの最後の王、二コライ2世は処刑されます
ここで全ロシア=ソヴィエト会議が開催され、平和に関する布告が発表されます。このなかで、無併合・無償金・民族自決が唱えられます
「みんな戦争やめよーぜ」という宣言ですね。レーニンを指示するのは、貧しい労働者や兵士です。戦争の影響を一番に受けるのは彼らなので、戦争を止めたいレーニンは、熱烈に指示されます
結果、いまだ全世界は戦争中でしたが、1918年にロシアはドイツとの停戦に成功します。この条約をブレスト=リトフスク条約といいます
また党名を、ロシア共産党に変更し、首都をモスクワに変更します。メンシェヴィキという「ゆっくり社会主義の国を作ろう」という考えの人たちも退け、一党支配に成功します
レーニンは、コミンテルン(第3インターナショナル)をモスクワで結成し、ロシア以外の国も社会主義にできるよう、動き始めます
この運動は、多くの資本主義諸国を恐れさせたため、第一次世界大戦中、また戦後にかけて、対ソ干渉戦争(1918~1922)が勃発します
日本も領土拡張のチャンスのため、シベリア出兵(1918~1922)を実施しました。社会主義のイメージカラーは、赤です。だから中国の国旗は、赤です。したがってロシアの軍隊は、赤軍とよばれました
また干渉した国家の軍は、反対に白軍といわれました。国内で革命を中止させようとする勢力を取り締まるために、チェカ(非常委員会)という組織も、この際に作られました
この戦争に耐え抜くため、ロシアは資源を国有化し、食料等の配給制を実施します。これを戦時共産主義といいます
1921年、レーニンの強烈で、ハイスピードな改革についていけなくなった国民が多くでてきたため、彼は新経済政策(ネップ)を発表し、農民の農作物を販売する権利や中小企業の経営の許可を実施しました。部分的な資本主義を可能にしたわけです
そして1922年、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ(白ロシア)・ザカフカースを構成国としたソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の成立を宣言するに至りました。この構成国を聞く問題もあるので、受験生は4つとも覚えておいてくださいね
ここにウクライナが含まれているため、ロシア自身は属国的な思いで、ウクライナを見ていました。だからこそ、ウクライナが資本主義国として自立し、ロシアから離れる素振りを見せた際、2014年にプーチンは、クリミアを無理やり併合したのだと思います
ソ連ですが、1922年にドイツがラパロ条約で承認し、1924年にイギリス・イタリア・フランスも承認。日本は1925年で、一番遅くアメリカは1933年に承認することになります
コメント
コメント一覧 (2)
参考書でつまったときなど、この記事に助けられました。
苦手だった文化史もわかりやすくまとめて下さり、とても勉強しやすかったです!センター試験まであと1ヶ月切っていますが9割、満点目指して頑張りたいと思います。 本当にありがとうございます!
kさん、コメントありがとうございます!!
9割~満点を目指すとは、優秀な受験生ですね!
ここからは、時間もないと思いますので、過去問で実践力をつけてくださいね!