国鉄民営化とは何だったのか? 十河総裁退任と、石田礼助総裁誕生 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

十河総裁退任

国鉄の十河総裁は、二期8年、任期満了という形で、昭和38年5月19日に退任します。
その背景には新幹線の建設費が予定よりも増大していた事の責任を問われる形となったものでした。
もちろん、それも原因かもしれませんが、それ以外にもローカル線建設などに難色を示していた、十河総裁に対する見せしめ人事であったという見方もありそうですが、後任の総裁として、政府は財界人から起用しようと躍起になったようです。
しかし、責任は重いが権限はない国鉄総裁になりたがる財界人は居らず、その上厳しい労使関係に悩まされるのであればと言うことで、誰も引き受けてはありませんでした。
この人事には、静的である佐藤栄作との権力争いに勝利したい池田勇人首相の思惑もあったと言われています。
佐藤栄作は、岸信介の実弟で、元鉄道官僚であり、新幹線建設では世界銀行の出資を纏めるなど、鉄道への関与を強めていたことも気になっていたようです。
 
石田礼助総裁誕生
 
十河総裁の後任を探す人事は困難を極めました。
責任は大きい割には権限は少ない、そんな仕事をやりたがる財界人は殆どいませんでした。
池田勇人は、佐藤栄作の影響を排除したいこともあり、財界人の起用にこだわり、困り果てた経済連会長の石坂泰三は、親友でもある石田に頼むこととしたそうです。
石田禮助は、すでに国鉄監査委員長として昭和31年から二期6年を務めており、むしろその申し出を待っていたとも言われています。
こうして、就任することになった石田は、この時すでに77歳と高齢であり、世間からは本当に大丈夫なのだろうかと心配されたといいます。
就任後の記者会見では、 「気分はヤング・ソルジャー​、心はウォーム・ハートじゃ」と言って、アピールした石田は、非常に気骨のあるところを見せてくれました。
石田禮助総裁は、就任にあたり、二人の国鉄OBを呼び戻すこととしました。
それは、磯崎叡と藤井松太郎でした。
二人とも、十河総裁時代に国鉄を退職していた人たちでしたが、副総裁として、磯崎叡を、更に技師長として藤井松太郎を呼び戻し、実務はこの2名に任せて、自身は国会答弁などを中心とした総裁でしか出来ない仕事をするとしていました。
「弁解はしないが責任は取る」
国鉄を本気で改革していこうという気持ちは強く持っていったのでした。
 
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