(一)
この私が、と笑われるかもしれないが、高校時代は北大(北海道大学)を目指していた。
東京や関西の大学をイメージして北大を想像するの的外れである。とにかくキャンパスが雄大で美しい。札幌市の真ん中にあって、日本離れした風景が広がっている。森あり川あり農場あり。おまけに地平線もある。学内を観光バスが走る大学である(二十数年前の光景なので、現在はどうかこころもとない)。
そういうわけで「目指せ北大一直線」の三年間だった。
そもそも、札幌の高校へ進学する予定はまったくなかった。受験が近づいたある日、
「万が一ということもあるし……私立、受けてみるか?」
という担任のひとことが、私の運命を変えた。担任は、私がここ一番に弱い男であることを見透かしていた。そのころ、私の田舎では、私立を併願する生徒など、皆無に等しかった。だから、幼稚園から高校までほとんどの者が一貫教育を受けるのだ。
私は地元の公立高校にも受かったのだが、一大決心をして都会に出た。両親は内心、青くなったに違いない。二学年下に妹が控えているのに、私立でしかも寮生活である。
私の実家は、北海道の太平洋岸に面した小さな漁村、様似(さまに)である。当時、札幌までは、汽車で五時間ほどの距離だった(二〇二一年日高本線廃線)。都会の私立の男子校、しかもミッションスクールがどんなものか、皆目見当がつかなかった。入学して初めてわかったのだが、そこは「おぼっちゃま学校」と囁(ささや)かれる学校であった。
入学式の後、入寮生だけが古い煉瓦造りの修道院に集められ、ミサが行なわれた。初めて目にする神父が、異様な服装(祭祀用の正装)で、聖書を読みつつ謎めいた儀式を始めた。悪魔の儀式だと思った。気持ちの悪い学校へ入ったものだとひどく後悔したのだった。
寮は学校の敷地内にあり、校門をくぐらないで学校へいくわけで、今考えれば、職場に寝泊りしていたようなものである。最初のころは、授業が終わり校門を出ていく友人の後姿を恨めしく眺めていた。
勉強には極めてうるさい寮だった。学力試験のたびに学年上位五十番内に入った者の名前が、寮のロビーに貼り出された。一学年六百人のマンモス学校だったが、上位五十名の大半を寮生が占めた。
高校一年の初めての学力試験の発表があった日、たまたま父が出張で札幌にきており、寮に立ち寄った。父を迎え入れた寮長先生(寮長は生徒ではなく、教鞭をとっている先生が夫婦で住みこんでいた)が、
「近藤君はたいしたものです。とても優秀です。学年で、七番ですよ」
と褒めに褒められたという。父は内心、それはオカシイだろうと思いながらも、ありがとうございますと恐縮していたという。実はもうひとり近藤がいた。寮長先生が間違えたのだ。そのときの私は三百番台だった。担任から、百番以内に入っていないと、国立大には入れないぞと脅された。二年の成績で、三年生のクラスが決まる。上位百人が国立文系と理科系コースに分かれるのだ。そのとき私は、都会の学校で六百人のど真ん中、オレもたいしたものだ、と内心思っていたのだ。
さらに私は、北大なんてたいしたことはないと思っていた。毎年、北大の合格発表の様子をテレビで観ていた。掲示板の前で、大喜びをしている受験生を見て、「あんなビートルズみたいな長髪のヤツが受かるのだから、オレが受からないわけはない」と思っていたのだ。当時はまだ、長髪の男を蔑(さげす)む風潮があった。髪の長い男は、女みたいであり、それはつまり「不良」と見なされていた。その代表格がビートルズだった。
私の猛勉強は、このときから始まった。中間試験が終わると、翌日には期末試験に向けて勉強していた。学校の体育館は、日曜日の夕方、寮生に解放されており、みんなチームを組んでバスケットを楽しんでいたのだが、私はひとり寮の部屋で机に向かっていた。お金のかかる都会の、しかも私立高校に進学させてもらった親に申し訳ない、という気持ちが人一倍強くあった。
私は中学時代、野球に明け暮れる生活をしていた。高校の担任が、野球部の監督だった。入学早々、
「お前、左だってな。野球やらないか」
と誘ってきた。それが二度、三度と執拗に続いた。
「お前、一番でファーストだったんだろ。左、欲しんだよな。野球部も楽しいぞ。青春の汗を流してみないか」
気持ちがグラリと揺れた。だが、真面目一直線だった私は、
「ボクは、勉強をするためにこの学校へきたので、野球はできません」
とぬけぬけと言ってしまった。担任は、二年間変わらなかった。そんな大風呂敷を広げてしまった手前、私は否が応にも勉強に走らざるを得なくなった。
「お前がこの寮で一番勉強しているんじゃないか」とか「このペースだと北大は間違いないぞ」と、先輩からも言われていた。部屋は、一年、二年それぞれ二名ずつの四人部屋だった。
だが私は、あまりにも頭が悪かった。ひとの二、三倍勉強しなければ、並みの人間と同じ土俵には上がれなかった。普段、遊んでばかりいるヤツに余裕で抜かれていた。私は中間試験や期末試験で、全科目平均八十点を密かな目標にしていた。二年の三学期にとうとうそれを達成した。
三年になって駆け込み乗車で、国立文系クラスに潜り込んだ。当時は、このクラスで十番内にいなければ、現役での北大合格は難しかった。私は限りなく二十番に近い十番台にいた。
三年になるまで右肩上がりの成績を続けていたのだが、三年の夏、とうとう化けの皮が剥(は)がれた。北海道には全道の受験生を対象とした「北海道模擬試験」、通称「道模試」なるものがあった。私はそれまで道模試をきちんと受けていなかった。中間・期末試験に夢中になりすぎていたのだ。
その道模試の数学の試験で、記録的な点数をとった。一二〇点満点中、三点である。つまり、最初の点取り問題の、一問しか正解していなかったのだ。
私は数学を大の苦手としていた。いつも平均点を若干下回る程度の点数だった。夏期講習などの特別講習でも弱点を克服すべく、積極的に数学を選択していたし、国立文系の数学の感触というかコツがつかめてきたぞと感じ始めていた矢先のことだった。
この三点事件を機に、私はキッパリと〝都ぞ弥生〟を断念した。〝エルムの森〟にこだわっている時間的な余裕はなかった。しばらく北大への未練は残ったが、三点を思うと諦めがついた。
あの三点の答案、もうどこにも見当たらないのだが、記念に取っておくべきだった。今になって悔やんでいる。
(二)
血気盛んな男子校生を律するためとはいえ、そこまでやるかというほど寮則が厳しかった。門限は午後六時(冬は五時半)。外出には制服を着用。親からの仕送りは、毎月寮の銀行口座に振り込まれた。私の小遣いは月五千円だった。
「買い物にいきたいので、千円お願いします。エー、買うものは……」
いちいち、寮の事務室に申し出なければならない。使う分だけしかお金を渡してもらえないのだ。
「雑誌? この間も雑誌だったぞ。ちょっと買いすぎじゃないか」
下手なウソはすぐに見透かされた。毎回、買い物内容を出納帳に書き込まれた。
朝は、六時半のチャイムとともに起床し、掛け蒲団を四つにたたんでベッドの足元に置く。洗顔後、モップで部屋を清掃。七時のチャイムで廊下に整列し、寮監の点呼を受ける。慣れるに従い、七時のチャイムまで誰も起きなくなった。
三年のとき、新しく来た寮監がアメリカ人のエミール・デューマス神父であった。寮は四階建てで、寮生の居住する二階から上の各階に寮監が一人ずついた。
廊下の両側に整列し「おはようございます」「おはようございます」と連呼する我々の間を歩きながら、部屋が乱れていないかいちいち寮監がチェックする。デューマス神父がくる前までは、寮長先生が竹刀を片手に点呼を行っていた。
デューマス神父は点呼の様子がいかにも軍隊的なのを嫌い、
「グッモーニン、オハヨございます」
という和やかな挨拶だけでおしまいにしていた。
日曜日は点呼がなかったが、六時半にはチャイムが鳴る。四人部屋だったのでときどき寝ぼけて叫ぶ者がいる。
「点呼だ!」
私も何度かやった。そのたびに四人とも一斉にベッドから飛び跳ねた。
「何だよ、今日は休みだろ。いい加減にしろよな」
寝ぼけているから、廊下に出るまで誰も気づかないのだ。ほかの部屋からも廊下に飛び出しているのがいた。
夕食時間は、門限の三十分後である。大食堂で一八〇名の男子生徒が一堂に会した。食事の始めと終わりにはお祈りがある。神父とともに「天にまします我らの父よ……アーメン」である。中には、「ラーメン」とやっているやつが必ずいた。
食事には自分の箸を持参する。あるとき外出先で菜箸を見つけた。これで食事をしたらさぞ面白いだろうと考え、さっそく購入した。三十センチもある箸なので、食べにくいことこのうえない。歩きにくい高下駄を履いて通りを闊歩(かっぽ)する旧制高校の生徒のような感覚である。
私が菜箸を使い出すと、あっという間に三年の寮生のほとんどが菜箸を使うようになった。そのうち長さを競うようになる。どこから見つけてきたか、五十センチもある菜箸を買ってきたやつがいた。そんな我々を一年、二年は羨ましそうに眺めていた。後輩には遠慮があったのだ。札幌市東区の光星地区で突然菜箸が売れに売れ出したので、さぞや箸業者は首をひねったことだろう。
夕食後、テレビを観ることを許された時間は、午後八半時からの一時間だけであった。一八〇人で一台のテレビである。その時間、食堂にある三台のガスコンロに手鍋とインスタントラーメンを持った行列ができる。五円玉で五分間、ガスが使えた。ラーメンができるまで、五分もかからない。時間をおかずに次の鍋が乗るので、うまくいけば、タダでガスが使える。ひどく得をした気分になった。
そんな我々を横目に、練習を終えた同学年の二人の野球部員が夕食をとっていた。泥だらけのユニホーム姿で、顔も汗と泥にまみれ、疲れ切った表情でいつも黙々と食事をしていた。二人は利尻、礼文という北海道の北端の離島出身者だった。
後に彼らは、名バッテリーとして野球部を牽引した。三年の夏、甲子園の北海道大会の地区予選を勝ち抜き、南北海道大会に進んだ。準々決勝からは全校応援で我々も円山球場に繰り出した。白球を追う彼らを見ながら、ああ、私も野球をやりたかった、という思いが胸に込み上げた。残念ながらその年の我が校の甲子園の夢は、準決勝で潰(つい)えてしまった。
(三)
寮生活には、プライバシーがない。一年生と二年生、それぞれ二名ずつの四人部屋だった。三年になると、二人部屋と個室があった。もっとも我々が二年生(一九七六年)になるとき、寮の増築が行われ、四人部屋がなくなった。
一年の私たちの部屋は二階であった。成績順に部屋割りがしてあり、成績のいい者は四階、続いて三階、二階と下るようになっていた。一年生は入学試験の成績で決められていた。
寮長先生は、ノックをしないで部屋に入ることが許されていた。ちゃんと勉強しているか、見回りにくるのだ。ほかの部屋でたむろしていたり、ベッドに寝転がっていると怒られるのだ。勉強していなくても、みんな机に向かっていた。
午後十一時消灯で、部屋の電源が自動的に切れた。仕方なくベッドに潜り込む。通路を挟んで二段ベッドが向かい合わせになっていた。
「シンタケ(竹内慎一)、初恋はいつだった」
話を切り出すのはいつも二年生の住友栄さんだった。彼は二年ながら、寮のリーダー格的な存在だった。抜群の社交性で、三年生からも可愛がられていた。詩を書くのが好きで、自作の詩を朗読してくれる。その詩がいいのか悪いのか、当時の私にはさっぱりわからなかった。住友さんは勉強があまり得意ではなかったが、私がわからないところを質問すると、勉強のできる三年生の部屋へ連れていってくれる。受験生とはかくなる雰囲気の生活をしているのかと興味津々な私は、緊張もあいまって半ば上の空で三年生の説明を聞いていた。
もう一人の二年生は遠藤靖弘さんで、この人も勉強は得意ではなかった。だが、電気関係に滅法強く、壁に据付(すえつ)けの照明器具から配線を引き出し、コンセントを作るのを得意としていた。寮の部屋には、寮生が無闇に電気を使わないよう、コンセントがなかった。この遠藤コンセントが重宝した。彼は各部屋から発注を受けて、電気屋顔負けの工事を請け負っていた。もちろん工事は、監視を立てて行われた。
さらに遠藤さんは、ラジオからテレビの音を出すことができた。これは嬉しかった。だが、音だけのテレビは、目をつぶってご飯を食べているようなもので、味気なかった。彼は日がなラジオを分解しては組み立てていた。
一年生のシンタケは、色白の男前である。祖父さんがロシア人だったので、クォーターである。父親が銀行員で、羽振りのいい寮生活を送っていた。一番勉強しないシンタケが、四人の中では最も成績がよかった。誰よりも勉強して成績が悪かったのが私である。
シンタケの取り柄は、読書だった。寮にいるときは、いつも文庫本を手にしていた。背表紙を覗くと『城之崎にて』(志賀直哉)とある。当時まったく本を読まなかった私は、こいつは凄いやつだと、ひどく感心したものである。
私が本を読むようになったのは、このシンタケの影響である。シンタケと同室にならなければ、こうしてエッセイを書く自分の素地もなかったと思う。
中間・期末の定期試験が近づくと、消灯後、洗面所に椅子を持って集まり、画板を利用して駅弁売りのような格好で勉強を続けた。勉強できないヤツに限って夜中まで残っていた。私はいつも最後までいた。
試験のないときは、消灯後それぞれのベッドに入り、夜中まで語り明かすこともあった。それぞれが地方出身である。いくら語っても話はつきなかった。一番の話題は、やはり恋愛である。初恋、片思い、十五、六歳の男が真っ暗闇の部屋の中で、それぞれの思い出を語った。ラジオの分解に明け暮れる遠藤さんも、地元留萌での片思いの話を半ば脅迫されながら、含羞(がんしゅう)を持って訥々(とつとつ)と語っていた。
窓の外がほんのり白み始め、
「おいヤバイぞ、そろそろ寝ようぜ」
こんな日を何度すごしたことだろう。住友部屋は着実に結束を固めていった。寮の各部屋は、代表格の先輩の名を冠して呼ばれていた。どの部屋も同じようなことをしていた。語り明かす日は、「受験」を忘れた。
万事要領のいいシンタケは、受験地獄を経験することなく某大学の推薦試験に受かり、余裕で卒業していった。
住友部屋解散の日、
「オレたち、十年後にみんなで会わないか」
という住友さんとの固い約束で、部屋を別(わか)った。
高校卒業後の住所は、誰もわからなかった。とりわけ転勤族のシンタケについては、いまだに不明である。かろうじて住友さんと遠藤さんの実家の住所は把握していた。
十年後、私は川崎にある会社の独身寮にいた。あるとき、ふと当時の約束を思い出した。指折り数えると、ちょうど十年目だった。そこで住友さんの実家宛に手紙を出した。北海道の栗山町という小さな町である。「あれから十年が経ちました。お会いしたいものです」と。ズボラな私は、三人の誰にも年賀状を出していなかった。
しばらくして手紙が届いた。差出人が住友栄母とあった。怪訝(けげん)に思いながら手紙を開くと、万年筆で書かれた達筆な細い文字が、ところどころ大きく滲んでいる。読み進んで愕然(がくぜん)とした。
「(住友)栄は、大学四年生の夏、帰省のため自宅に向かう途中、自ら運転する車の暴走により亡くなりました……」
涙の手紙だった。そのころ、オートマチック車の暴走による事故が問題になっていた。住友さんは自宅を目前にして、塀に激突していた。
当時のことを思い出そうと、古い日記をめくっていたら、四つにたたんだ大学ノートの切れ端が出てきた。住友部屋を別つ日、餞(はなむけ)として住友さんがくれた詩だった。いつもながらの内容で、当時はなんとも思わず、日記に挟んだままになっていた。
その見覚えのある鉛筆書きの文字を見たとたん、涙が溢れた。殴り書きの独特の筆跡の詩は、友情に関するものだった。十六、七歳というまだ青年とも呼べない若さが、文面に横溢(おういつ)していた。私の涙は、嗚咽に変わっていた。
(四)
冬休みに入ると同時に、大半の寮生が待ってました、とばかり大挙して帰省する。勉強しなければと思う私は、学校の冬季講習に参加していた。それだけでもう勉強をした気分になっていた。そもそもそれがいけなかったのだ。遊ぶときは大いに遊び、やるときはしっかりやる、そういうメリハリが必要なのだ。今だから、そう思えるのだが。
寮の食事は、五人ほどの通いのオバさんが作っていた。我々は彼女らを「飯炊きバアさん」と陰で呼んでいた。みんな五、六十代だった。昨今の韓流ブームを見れば一目瞭然なのだが、オバさんは、若い男が大好きである。もちろん、その逆はオジサンにも言えるのだが。
私は彼女らから妙に気に入られていた。ほかの寮生よりもかなりいい、特別ともいえる待遇を受けていた。それには理由があった。
夕食のとき、おかずの入ったお盆を受け取り、ご飯と味噌汁は各自がよそう。一八〇人分の味噌汁の大鍋からこれまた大きなオタマで味噌汁を掬(すく)うのだ。私は底引き網漁よろしく、いつも鍋の底から大きく掬っていた。あるときオタマにタワシが乗っかっていた。近くにいたバアさんに、
「オバさーん、これ!」
とオタマを掲げてタワシを見せたら、バアさんが血相を変えた。
「アンタ、誰にもいっちゃダメだよ」
と拝まれた。以来、私への待遇は特別なものとなった。しかもそのバアさん、ひどい訛(なま)りがある。聞き覚えがあるなと思って、
「オバさん、松前の人?」
と訊くと、
「アンタなんでわがったの」
「いや、父が松前だから……」
これが決定打になった。そのバアさん、飯炊きバアさんのリーダー格だった。春、夏、冬といった学校の大きな休みにはバアさんたちにも余裕ができる。
「アンタ! ちょっとアンタ……」
食堂の奥の休憩室から手招きをしている。講習会から帰ってきた私を窓越しに見つけるのだ。
「誰にもいうなや、アンタだげだよ」
といって休憩室で茶菓子をたらふく食べさせられるのだ。小腹がすいているので嬉しかったが、その茶菓子がおこしだったり、干しイモだったり。今となってはその古風な茶菓子が妙に懐かしい。そこで彼女らとどんな会話をしたかは覚えていないが、真面目でおとなしそうな顔をしていた私は、彼女らの母性をくすぐるものがあったようだ。今の私の風貌には、その片鱗もないが。バアさんは卒業まで私をアンタと呼んでいた。
三年生の冬。
閑散とした寮の部屋の窓に、ポツリ、ポツリと灯りがともる。夕方からしとしとと冷たい雨が降っていた。冬の雨は、憂鬱な気分を増長させる。冬季講習など受講せず、さっさと帰省すべきだったと後悔する。
雨音を聞きながら、ひとり黙々と窓際の机に向かっていた。宿題の量が半端ではない。その日は重い気分ながら、途中から勉強に加速がついていた。
どのくらいの時間が経ったことか、ずいぶん寒いなと思いながら、サッ、サッ、サーというボールペンを走らす音が耳につきだした。外が静かである。雨が止んだかと思ったが、車の音も聞こえない。ハッ、としてカーテンを開けると、窓の外が一面の雪だった。かなり前から降っていたようで、家々の屋根はふかふかの掛け布団をすっぽりとかぶったようになっている。窓から漏れる灯が雪を照らし、昼間のように明るかった。
窓の下には、小道を隔てて古いレンガ造りの修道院があった。小窓からもれる黄色い灯が雪に映え、幻想的な風景を作っていた。時計を見ると午前零時を回っている。いつもならとっくに電気が消えている時間である。クリスマスイブの夜だった。礼拝堂の窓の奥にいくつもの人の気配があった。静かな祈りが捧げられているのだろう。差し迫る受験に汲々(きゅうきゅう)としていた中で、雪明りの心休まる風景をいつまでも眺めていた。
クリスマスになると、あのイブの夜の光景と、当時の私の心持ちを思い出すのである。
2006年10月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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