夜遅く、突然、自宅の電話が鳴った。誰だろう今ごろ……。時計を見ると、午後十一時を回っている。子機のディスプレイには、見覚えのない携帯番号が表示されていた。間違い電話だろうと受話器をとると、
「近藤かッ! オレだ、オレッ!」
酔っ払いの声が飛び込んできた。
(誰だ?……)
「上杉だ。オマエのことだから、まだ、エッセイ書いてたんだべ」
(う・え・す・ぎ……)
「ああッ! どうもお久しぶりで……」
平成十七年(二〇〇五)に定年退職した上司である。私は食卓テーブルの上にノートパソコンを据え、文章を捻(ひね)っているところだった。平成十九年秋の話である。
「今、オレ、どこにいると思う」
「さぁ……(そんなこと、わかるわけないだろう)」
かつて別の上司から、北海道の私の実家の近くにいると電話があったことが頭を過(よぎ)った。この上司も北海道出身である。それにしてもひどく酔っている様子である。
「わからねえよなぁ。コゲツカンだよ、コ・ゲ・ツ・カ・ン」
「え? ええッ!……」
私は椅子から転げ落ちそうになった。実は、テーブルの上のパソコンの画面には、能登の旅館、湖月館での女将との思い出を綴ったエッセイが表示されていた。八年前に書いたものを、思い出したように手直ししていたのだ。
湖月館とは、私が学生時代に訪ねた能登半島西岸にある富来(とぎ)という町の小さな旅館である。高校時代の国語の教科書に、福永武彦の随筆「貝合せ」があった。福永武彦が能登を旅する中で出会った湖月館の若女将との思い出を綴(つづ)ったものである。私はこの福永武彦の文章に強く惹かれるとともに、いつかこの富来という地と湖月館を訪ねてみたい、という思いを抱いていた。
昭和五十六年(一九八一)。大学三回生の冬、北海道へ帰省するため京都から日本海周りの特急列車に乗っていた私は、たまたま眺めていた列車の時刻表の地図に、富来という地名を見つけた。列車は、金沢に差しかかろうとしていた。
私は夕暮れ迫る金沢の駅に降り、バスで富来をめざした。幸運にも湖月館を探し当て、女将に会うことができたのである。そのときの思い出を「増穂(ますほ)の小貝」というエッセイにしていた。上司はそれを目にしていたのだ。
「いいか、オマエ、絶対に湖月館にいけッ! 命令だッ!」
ひどくロレツの回らない電話が切れた。
この上司、私が入社したときの新入社員研修での教官だった。当時、我が社の研修は、神奈川県の茅ヶ崎海岸で行われていた。午前六時に起床後、江ノ島の海をランニングするのである。早朝から泳いでいるサーファーに向かって、
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが。少々お待ちください……」
大声で叫ぶ。
「ダメだッ! 声が小さいッ! やり直しッ!」
喉が破れるほど叫ばされた。
新入社員研修は、五人一組で班を組み、ホテルにカンヅメになって研修を受ける。一人の失敗やミスは連帯責任となる。
「天突き体操、十回ッ! 始めッ!」
屈伸しながらバンザイをするように両手で天を突く。一日に何度も、天突き体操をさせられた。学生気分を引きずって参加した我々の幼弱性は、一週間の研修で、木っ端微塵に打ち砕かれた。それから十五年、彼が定年退職するまでの六年間、私は上杉氏と仕事を共にした。
上杉氏は本社の社員が四名という子会社の社長になっており、私はその部下であった。妻が精神疾患に陥り、残業も転勤もできず身動きが取れなくなった私は、子会社に出向したのである。
出向にあたり、私の頭には上杉氏の強烈なイメージが過っていた。つまり、ビビッていたのだ。だが、しばらく一緒に仕事をするうち、奇妙なことが起こり始めた。
私はひとりの作家が気に入ると、とことんその作品を読む傾向がある。そのころ私は、重松清の小説に夢中になっていた。そんな話を上杉氏にもしていた。すると数か月後、上杉氏は重松清の発刊本のすべてを密かに入手し、それを全部読破したのである。
「おまえが好きだっていうから、オレも読んでみたべよ。すっかりハマッたもな」
(何という人だ……)
私は目を瞠(みは)った。さらに立原正秋の作品も、数年かけて中古本屋を歩き回り、すべての文庫本を集めつくし読んでいた。立原の発刊本は、五十冊近い。彼はそのことを一切語らず、後になっておもむろに明かすのである。当然私は、驚嘆した。
その後も私の読書癖にあわせ、彼は車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)、南木佳士(なぎ・けいし)と傾倒していった。文藝春秋の『ベスト・エッセイ集』と佐藤愛子の文庫を集めあぐねていた私の欠本は、ことごとく彼が見つけ出してくれた。
かくして、かつての鬼軍曹と二等兵は、ルバング島のジャングルに戦後二十九年間潜伏した元日本兵、小野田少尉と小塚上等兵よろしく、階級を超えた深い黙契(もっけい)を結んだのである。
その上杉氏が退職後、身動きの取れない私に代わって、密かに湖月館を訪ねたのである。私が「増穂の小貝」を書いた経緯や、湖月館を訪ねることができない事情を女将に話しながら、夜遅くまで酒を飲んでいたのだ。それが酔っ払い電話の正体である。
私は上杉氏の行為に発奮し、所属する同人誌に手直しした「増穂の小貝」を発表した。文藝春秋が年に一度発行する『ベスト・エッセイ集』への収録を狙ったのである。前年に新聞雑誌などに発表されたエッセイが、『ベスト・エッセイ集』の選考対象になる。祈るような気持ちで、応募の書簡をポストに投函した。
待つこと五か月。平成二十一年(二〇〇九)のゴールデンウィーク明け、文藝春秋からの封書を受け取った。恐る恐る開けてみると、それは『〇九年版ベスト・エッセイ集』収録の通知であった。喜びが胸の中で炸裂(さくれつ)した。
すぐさま上杉氏に連絡を入れた。
「そおーか、やったな」
上杉氏は、その二か月前に胸部大動脈瘤の難しい手術を終えたばかりで、療養中であった。
私は平成二十一年八月に、発刊された『ベスト・エッセイ集』を湖月館に送った。そして二十八年ぶりに女将からの電話を受け取った。
「立派なご本にしてくださり、ありがとうございます。感無量です」
電話口の女将の声が、涙で震えていた。当時四十歳だった女将も六十八歳になり、旅館経営を息子夫婦に譲り、第一線を退いていた。受話器の向こうの女将の言葉の語尾に、独特のご当地訛りの抑揚があった。その懐かしい抑揚に心地よさを感じながら、夜更けまで語らった二十八年前の光景を思い出していた。
その後、上杉氏の術後の快復を待って、横浜で一献(いっこん)を交えた。言葉にならない喜びを分かち合った。
追記
平成二十三年(二〇一一)七月、私は湖月館の大女将と三十年ぶりに再会した。六月から札幌の北海道立文学館で福永武彦展が行われていた。古希を迎えた大女将が能登から札幌を訪ねてきたのである。
私は、その前年の四月に妻と離婚し、大学四年生の娘を東京に残し、この三月に転勤で室蘭に来ていた。妻は同じ病気の入院仲間であった男性と暮らすことを決意し、家を出たのである。私の転勤の挨拶状を目にした大女将から電話があり、再会が実現したのである。
平成二十四年十月、『〇九年版ベスト・エッセイ集』が文庫化された。文庫本が本格的に出回り始めた翌年になってから、拙作を読んでくださった何組もの方が旅館を訪ねてくださった、という電話を大女将からいただいた。
「北海道からも九州からもきていただいて……」
こんな嬉しいことはなかった。
2010年4月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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