馬齢を重ねる | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 今年もまた新年を迎え、一つ年をとった。一月生まれなので、年明け早々に誕生日がくる。五十三歳(二〇一三年時点)だ。

 誕生日がきても嬉しくはない。声に出しはしないが、「あー」と、深いため息をつく。三年前に妻と別れているので、気楽なひとり暮らしだ。ひとり娘は東京で生活している。自分の誕生日を無視して過ごそうとするが、娘や妹から律儀にも毎年電話がくる。ありがとうと言いながら、内心、そっとしておいてくれと思っている(電話がなければ寂しいくせに)。

 あるとき酒の席で、誕生日が不愉快だと親しい友人にこぼすと、

「バカじゃないの、お前。自分が祝福される日だと勘違いしてんだろう、誕生日を。誕生日ってえのは、自分を生んでくれた母親に感謝する日なんだよ。わかっちゃいねえな」

 容赦のない一撃をくらった。祝ってもらおうなんていう気持ちはない。ただ、誕生日が人生の終焉へ向かうカウントダウンだという思いが払拭できないのだ。だから年をとるのが嫌なのである。どう足掻(あが)いても〝時の流れ〟に逆らうことはできない。受け入れるしかないのだが。

 年を重ね、それなりの立派な大人になっているかと、ときおり自問する。お前はなにをやっているんだ、と自らに強めのボディーブローを入れてしまう。「漂白の思いやまず」弟子の曾良(そら)を伴って奥の細道へ旅立った松雄芭蕉は、四十六歳だった。五十一歳で亡くなっている。その十二年後、大石内蔵助が吉良邸に討入り本懐を遂げた。四十四歳のことで、翌年には切腹を命ぜられている。

 西郷隆盛が西南戦争で陣没したのは五十歳。吉田松陰は三十歳で斬刑に処せられ、坂本龍馬は三十一歳で暗殺された。いずれもそんな遠いむかしの話ではない。みんな人生を駆け抜けている。バラク・オバマが第四十四代米国大統領に就寝したのが、四十七歳である。彼は私のひとつ下、元号でいうと昭和三十六年生まれだ。それに比べ私は……。そんなものと比べてどうする、という話だ。ただ無駄に馬齢を重ねているだけの自分が情けない。私はそういうふうに考えてしまうのだ。損な性質(たち)である。

 四十代の後半に差しかかったある日のこと。ぼんやりとTVのスポーツニュースを観ていて、相撲界や野球選手などのプロスポーツ選手が、みな自分より年下であることに気づき愕然(がくぜん)とした。いつの間にか自分がそんな年になっていた。頭が禿げ、腹が膨らみ、文字がかすんで見えにくい。気づくと、親がひどく年老いている。そんな現実に驚く。年寄りになるのは、水平線のはるか彼方の未来のことだと思っていた。それが目の前に迫っている。いや、すでに片足を突っ込んでいる。

 三年ほど前、床屋でのこと。散髪中はメガネをはずしているので、周りの様子がぼんやりとしか見えない。私は強い近視である。だから、どのようになさいますかという店員の問いに、

「バリカンで刈り上げて、上もほどほどに短く」

 と言った後は目をつぶり、ほどなく訪れる緩やかなまどろみの中で過ごす。床屋のオヤジや若造と当たり障りのない世間話をするのが苦手で、目をつぶるのは「拒絶」の意思表示でもある。

 そんなあるとき、ふと目を開けると鏡の向こうに男の後頭部がぼんやりと見えた。ユダヤ人の帽子のようにというか、河童のごとくに丸く禿げている。ほかに三つある床屋の座席には、いずれも年配の男性が座っていた。ずいぶん気の毒なことになっているなと思い、再び目を閉じた。

 しばらくして床屋のオヤジが私のもとを離れた。それまで固定されていた頭をくつろがすのに首を左右にひねったら、それまでオヤジの陰になっていたユダヤ人の帽子が再び姿を現し、同じように動いた。あれッ、と思って頭を大きく動かすと、相手も同じ動きをする。それは後方の鏡に映る私の頭だった。オレだったのか、とひどく驚き、息を呑んだ。自分の後頭部など日常では見る機会がない。いつの間にか無残なことになっていた。

 そんな私の老化にトドメを刺すような出来事が、昨年の秋にあった。

 一昨年(二〇一一)の三月に私は転勤で東京を離れ、この二月までの二年間を室蘭で過ごした。室蘭では週に一度のペースでマンション近くの銭湯へかよっていた。私がいく時間帯には、いつも八十代半ばと思しき婆さんが番台に座っている。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」しかしゃべらない婆さんである。いつものように銭湯の回数券を婆さんに渡して、足早に男湯の暖簾(のれん)をくぐろうとしたとき、

「ちょっと、ダンナさん、ダンナさん」

 婆さんが手を振って私を呼び止めた。(ダンナさん?……)と思いながら振り返ると、

「トシ、いくつ?」

 唐突に年齢を訊かれた。(どうしたババア、何でオレの年が気になった)と思いつつ、五十二だよと答えると、

「あっらぁ、若いのねぇ……」

 と口に手を当てて肩をすぼめ、恥ずかしそうな仕草をした。それだけだった。

 湯船に浸かりながら、どうして婆さんがオレの年を尋ねてきたのか考えた。それまで一切会話を交わしたことのない婆さんである。ずっと私の年齢が気になっていたのだろうか。だが、どうも腑(ふ)に落ちない。改めて婆さんに尋ねるほどのことでもない。答えが見つからないまま、もやもやとした気分で銭湯を出た。

 外へ出てふと振り返ると、入り口の脇に貼紙があった。入るときに見落としていたものである。そこには、「本日、六十五歳以上の方、入浴無料」と書かれていた。敬老の日だった。どおりで、見慣れない爺さんが結構いるなと思った。それにしても婆さん、六十五歳はないだろう。ひどすぎないかと思いつつ、手放しで笑えない後味の悪さが残った。

 日本人の平均寿命は、男が七十九歳で女は八十六歳である。毎朝何気なく目にしている新聞の死亡欄には、九十代の死亡者が多いのに驚く。意外といるなと感じるのは、四十代後半から五十代半ばあたりの死者だ。早く亡くなる年齢の第一陣だと思う。五十一歳で死んだ父も、その中の一人だ。それを超してからがいたずらに長い。

 人間の血気盛んな時期は、ほんの僅(わず)かな期間に過ぎない。圧倒的に長いその後の時間を「老い」の中で過ごす。人生とはそういうものなのだ。五十歳を超して初めてそんなことに気づく。まさか自分が五十歳になるとは、夢にも思ってはいなかった。

 ときどき「もっと気楽に、チャランポランに生きた方が楽だぞ」と自分自身に言い聞かせる。だが、どうしようもない。そんな面倒くさい自分との折り合いのつけ方を模索している。

 

  2013年4月 初出 近藤 健(こんけんどう)

 

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