光GENJIとの気まずい時間 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

「東京にいると、芸能人を見かける機会って、多いんじゃない?」

 そんなことをよく言われた。内心、そうでもないんだがなと思いながらも、曖昧に答えていた。確かに、「テレビで見る人」を街中で見かけることはある。「あ、あの人だ」と思うのも一瞬のことで、あっという間に人波に紛れてしまう。だが、そんな遭遇にもいくつかの例外があった。

 以前に、元アイドル男性のDNA鑑定騒動が世間を賑わせたことがあった。前妻との子の鑑定結果が、父子確率〇パーセントだったという。男性が涙を流しながらインタビューを受けるシーンが、ウンザリするほどテレビに映し出されていた。二〇一七年のことである。興味がないので真剣に観ていたわけではないが、その男性の顔が気になった。どこかで見たような気がしたからだ。

 しばらく後になって、その男性は元光GENJIのメンバーの一人であることがわかった。彼の若いころの顔がネットに出てきて、喉のつかえが取れたのである。私は光GENJIについては何の知識もない。ガヤガヤ歌っているな、くらいにしか思っていなかった。ただ、この男性の日本人離れした顔は、印象に残っていた。私は彼に、一度だけ会ったことがある。新幹線で相席になったのだ。

 

 独身のころ、私は半年に一度くらいの割合で、東京と京都の間を行き来していた。一九八八年のある日、私は京都からの帰りの新幹線に乗っていた。何月だったかは覚えていないが、寒くもなく暑くもない季節だった。

 東海道新幹線ひかり号の京都から東京までの停車駅は、京都、名古屋、新横浜そして終点東京で、約二時間四〇分の所要時間である。その日は、自由席が満席だったので、指定席に座っていた。日曜日の午後八時過ぎの列車だったので、新幹線としては最終電車に近いものだった。指定席の車両はガラガラで、私は三人掛けの椅子を回転させて六席にし、前の席に足を投げ出してのんびりと本を読んでいた。もうこんな時間なので、名古屋から乗ってくる人はいないだろうと高をくくっていたのだ。

 列車が名古屋に到着したときのことだった。駅のホームが黒だかりの人でざわついていた。何事かと思っていると、私の車両の扉が開いたとたん、若い男女がドッとなだれ込んできた。私の席は扉からわずかに三、四列目だった。一体何が起こっているのか、まったく把握できない。すると、スーツ姿の若い男が、

「一般のお客様がいらっしゃいます。入ってこないでください」

「お客様のご迷惑になります。戻って!」

 両手を広げ、ギャーギャー騒ぐ女の子たちを必死に押し戻そうとしている。キャーという女性の声と怒声が入り乱れ、列車内がアリの巣を蹴散らしたように騒然となっていた。どれがマネージャーで、どれが有名人なのか私にはさっぱりわからない。そうこうしているうちに、列車が動き出してしまった。この女の子たちは、自動的に東京までいってしまう。明日は月曜日、折り返す新幹線などない時間帯である。押し戻された女の子たちがデッキに溢(あふ)れ返っていた。

 静けさを取り戻した車内には、十人近い若い男性がいた。マネージャーが若者に座る席を指示している。私が独り占めしていた六人席には、五人の若者が座った。席を回転していたので、元に戻しますといって私は立ち上がった。すると、もしよければこのままでいいという。さらに隣の二人掛けの席も回転させ、私の並びの合計十席が向かい合わせの席となった。部外者は私一である。何とも気まずい。目の前のこいつらは、いったい何者だ? 子供のような少年もいる。

 端正な顔立ちからアイドルグループなのだろうということは想像できたが、見覚えのある顔がいない。そんな中、斜め左の若者が日本人離れした顔であるのに気がついた。もしかしたらこの若者たちは、ローラースケートを履いて滑りながら歌うあのグループではないか、そんなことが頭をかすめた。もちろん、グループ名などわからない。

 東京駅まで一緒かと思っていたら、列車が新横浜に到着するやいなや、彼らは蜘蛛(クモ)の子を散らすような勢いで、降りてしまった。混乱する新横浜駅のホームを尻目に、新幹線は再び動き出した。私は名古屋から新横浜までの一時間半近く、彼らと気まずい時間を過ごしていたのである。本に目を落としてはいたが、その内容はちっとも頭に入ってこなかった。彼らもまた私がいた手前、気軽な話ができなかったはずだ。彼らが何を話していたかは、まったく覚えていない。

 終点の東京駅に着くと、ホームは若い女性でごった返していた。彼女らは、新幹線の窓を覗きながら、ホームを右に左にせわしなく走り回っている。誰かが、

「やられた! シンヨコで降りてる」

 と叫んだ。

「シンヨコだ!」

 あちらこちらから、そういう声が上がった。彼らは東京駅で待ち受けているであろう彼女たちを想定し、一つ手前の新横浜駅で下車し、そこからタクシーで都内まで向かったのだ。

 携帯電話もない時代、彼女らはどうやって情報を共有し、連絡を取り合っていたのだろう。「追っかけ」の執念の凄まじさを見せつけられた思いがした。ある意味、怖かった。

 

 あれから三十年の歳月が流れ、涙する彼の面影に、当時のことを思い出したのである。

 今回、彼らのことをネットで調べてみると、次のように記されていた。

「光GENJIは、一九八七年六月に七人のメンバーでジャニーズ事務所からデビューしたアイドルグループである。八八年には『パラダイス銀河』で日本レコード大賞を受賞。同年のオリコン年間シングル売上の第一位から三位までを独占し、七八年のピンクレディー以来の快挙を達成。『最後のスーパーアイドル』と称された」

 私が彼らと遭遇したのが八八年だから、まさに彼らの絶頂期だったことになる。彼らの後ろで踊っていたのが、後のSMAPだということを知った。しかも長い年月の中で、私は彼らのことをベイ・シティ・ローラーズだと思っていた。ローラースケートに乗っていたから、ローラーズだ、と。重症である。

 当時、私は二十八歳だった。彼らは一九六八年から七三年生まれだというから、二十歳から十五歳だったことになる。あれだけの女の子に四六時中追い回されていたら、私なら発狂するだろう。光GENJIじゃなくてよかったと、つくづく思った。

 ちなみに、現在すっかりハゲ上ってしまった私は、気の置けない友人たちから光GENJIならぬ「光ケンG」と呼ばれている。

 

  2019年9月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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