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鎌倉殿の13人 (3)「挙兵は慎重に」

(2022日)


治承3年(1179) 11月、後白河法皇が平清盛に幽閉される。
翌治承4年2月、高倉天皇が3歳の皇太子に譲位。清盛の孫安徳天皇だった。


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4月27日、叔父の源行家が訪ねてきた。
後白河法皇の息子の以仁王による令旨を持参してきた。
源氏に起てとのことだった。
源頼政が以仁王を動かしたようだ。平家に信頼される源氏の代表的存在だったが、
ここに至り反旗を翻すことにした。
が、頼朝は北条時政に人物を聞き、様子を見ることにした。


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三善康信が中央の状況を届けてくれていた。


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計画の露見が早く、準備の整わぬ間に以仁王は挙兵された。


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清盛は討伐軍を差し向けたが大将の頼政が寝返り反清盛は勢いを増した。
が、源頼政は宇治平等院で討死。
以仁王も南都へ向かう中、討たれることとなった。



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源頼政に変わって伊豆国主が平時忠、目代が山木兼隆となった。
時政と義時は国衙へ挨拶に行った。
が不在で代わりに伊豆権守の堤信遠がでてきた。
飢饉の中での貴重な野菜だったが、堤には関係なかった。


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八重は江間次郎を夫と認めていなかった。


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三浦義澄が京から戻ってきた。
後白河法皇の頼朝への密旨を預かっていた。


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(山木兼隆 堤信遠)

義時と三浦義村が国衙へ向かう。
父の代わりに野菜を持って挨拶に行ったのでしょう。


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文覚という怪しい僧が頼朝の父義朝の頭蓋骨といって売ろうとしていた。
頼朝は相手にしなかった。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



宗時が決起を促すが、頼朝は慎重だった。
が、義時が勝てると口にした。根拠は国衙で調べた木簡だった。
木簡で人口を推測、近隣の味方になってくれそうな勢力を合わせて3000、
当面の敵は大庭と伊東で2000と観た。
そこへ、後白河法皇の密旨で大義名分を得、
頼朝は名もなき頭蓋骨に誓った。






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