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鎌倉殿の13人 (46)「将軍になった女」

(2022日)


建保7年(1219)1月27日、実朝が公暁により他界。将軍位が空白となる。
義時ら中枢は、あくまで親王をお迎えする建前を堅持していた。


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が、実衣は時元の可能性を探っていた。
朝廷より征夷大将軍に任命する宣旨が必要とのことだった。

三浦義村に相談すると、鎌倉殿が時元に決まったと欺けばいいとのことで、
実衣は義村に執権を約束し手はずを任せた。


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が、義村は義時に通じており、翌2月11日の挙兵に失敗。自害する。
実衣は詮議で認め、兄義時は死罪とした。


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1か月経ち朝廷より2人の親王のどちらにするか吟味するとの知らせがあった。
頼仁親王だったはずが後退しており先に断らせようとの上皇の意図だった。


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施餓鬼という儀式での供え物を分け与えた。
政子は直接、民の声を聞こうとする。


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二階堂グループは当然に政村を推す。


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上皇は弔問のついでに摂津の地頭人事に介入してきた。
しかも義時の地であることを知ってのあからさまな挑発だった。
激怒した義時は断固として突っぱねることにする。


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3月15日、時房上洛。1000人の兵を背景とした威嚇であったが、
蹴鞠にて決めることにする。藤原兼子により強制終了。
上皇は、親王ではなく替わりの者を出すと本音を言ってくれた。


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慈円が鎌倉へ下向。
源氏と摂関家の血を引く2歳の三寅を迎えることとなった。
慈円の縁者でもあった。


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藤原秀康は1月で鎌倉を落とせると豪語。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



三寅が鎌倉に到着。
政所始の儀式にて、三寅と尼将軍政子のお披露目となった。






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