上野発の夜行列車への郷愁 第5章 ~寝台特急「北斗星」青函トンネルをくぐり一本列島の祭典に酔う~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和63年5月の週末、薄暗い上野駅13番線を19時03分に発車した札幌行き寝台特急列車「北斗星」5号は、車体を震わせて転轍機を幾つも越えながら、広い構内を抜け出し、通勤電車や近郊電車が行き交う複数の線路の1線に進路を定めると、颯爽と走り始めた。

 

 

右手には下町のマンションや雑居ビルの明かりが散りばめられて雑然としているが、左手は上野公園や谷中の墓地が並ぶ台地の縁が続き、暗い車窓である。

 

尾久操車場の西側を通る新幹線や山手線、京浜東北線と離れて東側を回り、尾久駅を過ぎた飛鳥山の麓で再び合流するあたりで、列車は小気味いいほどの速度を出していた。

加速するたびに、ととっ、ととっ、と微妙な衝撃が前方から伝わって来て、滑らかに速度を加えていく電車に比べれば、如何にも機関車に牽引される客車列車らしく朴訥な乗り心地であるが、それもまた長旅の門出に相応しい。

 

ネオンが眩しい赤羽駅前の殷賑なビル街を過ぎ、轟々と線路を鳴らして荒川の鉄橋を渡れば、東京としばしの別れである。

 

 

『皆様、大変お待たせを致しました。この列車は、札幌行きの寝台特急『北斗星』5号です。ただいま、定刻に上野駅を発車しています』

 

客車列車の車内放送でお馴染みの「ハイケンスのセレナーデ」の旋律が車内に鳴り渡り、車掌の案内放送が始まった。

 

「札幌行き」──

 

前々から承知していたこととは言え、上野駅を発車する列車の車内でこの言葉を聞く日が来ようとは、格別の味わいがある。

 

昭和63年3月に、長さが5万3850mと世界一を誇る青函トンネルが開通し、北海道と本州が鉄路で地続きになった。

同時に、東京と札幌を直通する寝台特急「北斗星」が、1日3往復で運転を開始したのである。

 

 

青函トンネルなどいつ出来るか分からないし、遠い土地のことと、つい数年前までは関心がなかった。

ところが、昭和62年の夏以降、何回か鉄道と青函連絡船を使って北海道へ出掛けるようになってから、俄然興味が湧いて来た。

様々な報道や書籍が取り上げるようになったという理由もあるだろう。

函館駅で、「海峡試運転」と表示を掲げた列車を見掛ける機会もあり、いよいよか、と気持ちが昂ぶったものだった。

 

紀行作家の宮脇俊三氏も、青函トンネルの開通を心待ちにしていたことが、幾つかの著作で窺える。

建設途上の青函トンネルを、工事用のトロッコで通り抜けた体験を著した「線路のない時刻表」の1篇を、羨ましいことだ、と垂涎の思いで読んだものだったが、この本は、国鉄の財政難により建設が滞ったローカル線を巡る紀行集で、完成が確実視されている青函トンネルの章は異質に思えたものだった。

ところが、読み進めるうちに、舞台裏での青函トンネルをめぐる情勢は、決して生易しいものではなかったことを知った。

 

昭和39年に建設が開始されて以降、鉄道連絡船による青函輸送は減少の一途をたどっていたのである。

 

『巨費を投じて青函トンネルを掘り進めば進むほど、運ぶべき客と貨物は減る一方、という悲劇(「線路のない時刻表」)』

『「青函トンネルは無用の長物」との見方が台頭してきた。世界の土木工事史上に冠たる大海底トンネルであり、諸外国からの見学者は絶えないのだが、何のために掘っているのかわからなくなってきたのである(同上)』

『これ以上の国費の無駄遣いはやめるべきだ、即刻工事を中止し、トンネルに蓋をして廃棄せよ、との極論もあらわれた(同上)』

 

と、宮脇氏は振り返っている。

 

運輸大臣の諮問機関として「青函トンネル問題懇談会」が設けられる事態にまで至ったが、

 

『工事を中止してトンネルを放棄するのは、既に投じられた建設費の処理のみならず、同トンネルの持つ意義、国民特に北海道民の願望、その建設の国際的評価などから考えて採るべきではなく、国民の同意も得られない。予定通り完成させ、積極的に活用すべきである』

 

と言う内容の答申が昭和59年に提出され、その4年後に無事開通を迎えたのである。

 


 

新幹線を通す構想で建設された青函トンネルであったが、開通当時の東北新幹線は盛岡止まりであった。

トンネルを利用するのは貨物列車と、新幹線に接続して盛岡から函館まで直通する特急「はつかり」、青森-函館間で運転される快速列車「海峡」、青森と札幌を結ぶ夜行急行「はなます」、大阪から函館まで運転区間が延伸された寝台特急「日本海」、そして東京と札幌を直通する寝台特急「北斗星」だけであった。

翌年には臨時運転の寝台特急「エルム」が「北斗星」と同じ区間を走り始め、平成元年に大阪と札幌を結ぶ寝台特急「トワイライト・エクスプレス」、平成11年には更に豪華編成となった上野-札幌間の寝台特急「カシオペア」が加わるが、それはまた後の話である。

 

僕らの国の国力では、昭和57年に盛岡まで通じていた東北新幹線を、6年の猶予がありながら青函トンネルまで伸ばすことが出来ないのか、と僕は嘆いたものだったが、建設技術の問題ではなく、費用対効果が見込めなかったという事情なのだろうし、それでも東京と札幌を結ぶ列車が誕生したことは、御同慶の至りである。

 

上野駅で『北斗星3号 19:03 札幌』とホームの頭上に掲げられた行先表示板を見上げた時には、胸が熱くなった。

 

 

『青函トンネルの開業を機に登場した上野-札幌間の直通寝台特急「北斗星」とその最上等の寝室「ロイヤル個室」についてはマスコミでもいろいろ紹介されたので、「日本にも欧米なみの豪華な列車ができたらしいな」「ロイヤル個室に乗ってみたいわ」と思った人も多いだろう。

前置きが長くなりそうだが、「北斗星」について説明しておきたい。

青函トンネルが開通すれば上野-札幌間に直通寝台特急が走るのは当然で、東日本会社と北海道会社とがそれぞれの専用列車を編成し、1日2往復ずつ運転することになった。

当初は、東京-博多間の「あさかぜ」程度の設備の寝台列車を考えていたらしい。

2段式B寝台を主体にし、狭い個室のA寝台と食堂車各1両という程度の編成予定だったという。

ところが、北海道会社が、

 

「思いきってデラックスな列車にしたい」

 

と言い出した。

東日本会社も、よしきた、と応じた。

それで、デラックス化について両社で打合せをはじめ、ホテル並みのロイヤル個室、食堂車のグレード・アップ、ロビーカーの連結などで同意したが、細部については「両社で勝手にやりましょう」ということになった。

そのため、同じ「北斗星」でも両社の編成や設備には若干の違いがある(「車窓はテレビより面白い」所収「『北斗星』のロイヤル個室」)』

 

と、宮脇氏は我が国の鉄道史上稀に見る豪華列車として誕生した「北斗星」を大いに持ち上げている。

 

バブル経済の真っ最中という時代背景ばかりでなく、航空機に長距離客を奪われつつあった寝台列車の生き残り策として、車内設備の向上は以前から提案されていたことであった。

定期運転の夜行列車がほぼ消滅した令和の時代では、JR各社が「ななつ星 in 九州」「TRAIN SUITE 四季島」「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」などといった周遊目的の豪華クルーズトレインを目玉商品として売り出している。

そのような方向性になってしまうのか、と僕は手が届きにくくなった寝台列車の生き残り策に忸怩たる思いを抱いてしまうのだが、「北斗星」にその萌芽を見ることが出来ると言っても良いのかもしれない。

 

 

『列車は10両で運転しております。1番前の車が10号車、9号車、8号車と続きまして、1番後ろが1号車です。1番後ろの車、1号車は禁煙車です。終点の札幌までお煙草は御遠慮下さい。3号車が2人用のB個室寝台「デュエット」、4号車に個室「ロイヤル」とお1人様用B個室「ソロ」がございます。後ろ寄り1号車、2号車、前寄り7号車から10号車が2段式B寝台でございます。お手持ちの切符を御確認の上、お間違いのないようお願いします。中程の5号車はロビーカー、食堂車は6号車でございます。なお、食堂車の営業は、後程、係からご案内がございますので、それまでお待ち下さい。この列車には5号車にシャワー室がございます。御利用のお客様は、食堂車で300円のシャワーカードを御購入下さい』

 

長々と続く案内放送に耳を傾けている僕が腰を下ろしているのは、JR東日本の担当編成でもJR北海道編成でも、おそらく代わり映えのしない開放型2段式B寝台である。

豪華列車と言っても、唯一の東京-札幌直通列車である「北斗星」を、経済的に余裕のある客層ばかりに限定する訳にはいかなかったであろうし、10両編成のうち6両は通常のB寝台車両であった。

 

 

僕が懐中に忍ばせているのは、東京都区内と函館を往復する「グリーンきっぷ」である。

僕がこれまで多用した「道南ワイド周遊券」に5000円程度を加えたこの切符を購入すれば、東京から函館までの往復でB寝台またはグリーン席を利用することが出来る。

 

僕が初めて寝台特急列車に乗車したのは昭和59年のことで、東京と博多を結ぶ「あさかぜ」であったが、小遣いをはたいてA個室寝台を奮発したものの、大学生活を始めたばかりだった当時、終点まで行くことに気が引けた僕は、途中の広島で下車している。

その1ヶ月後に出掛けた東北旅行でも、往路に乗り込んだ583系寝台特急用電車の青森行き「はくつる」を、寝台車ではなくグリーン車にして、途中の盛岡で乗り捨てたのである。

 

「北斗星」の初体験でも、焦がれるほど札幌に行きたかったけれども、卒業を間近にした学生時代の終盤で、親の脛を齧っている身であるから、割引切符のある函館止まりの往復に止めた。

親にしてみれば、「グリーンきっぷ」という商品名だけで、何たる浪費かとお目玉を食らいそうであるけれど。

 

 

全国版時刻表の昭和63年3月号のトピックスは言うまでもなく青函トンネルの開通で、JTBの時刻表は、「青函隧道」と大書されたトンネルから顔を出した試運転列車が表紙を飾っている。

 

巻頭の寝台特急のページを開けば、3往復の列車で少しずつ停車駅が異なるものの、「北斗星」の欄に上野から札幌までの停車駅がずらりと並んでいるのは壮観だった。

しかも列車名の欄に『北斗星○号 「Aロ」「A2」「B1」「B」』と4種類もの車両種別が併記され、「B電3」とグリーン車のマークだけと実にシンプルだった「東北特急」とは一線を画している。

眺めているだけで、新しい時代が始まったのだ、と心が躍った。

 

 

一方、同じ欄に併記されている「東北特急」は寥々たる有り様になっていて、当時の上野駅を発車する夜行列車は以下のようになっていた。

 

16時50分発札幌行き特急「北斗星」1号

17時54分発札幌行き特急「北斗星」3号(臨時)

19時03分発札幌行き特急「北斗星」5号

20時50分発奥羽本線経由青森行き特急「あけぼの」1号

21時30分発常磐線経由青森行き特急「ゆうづる」1号

21時44分発東北本線経由青森行き急行「八甲田」

22時20分発東北本線経由青森行き特急「はくつる」

22時24分発奥羽本線経由青森行き特急「あけぼの」3号

22時30分発奥羽本線経由青森行き急行「津軽」

23時03分発常磐線経由青森行き特急「ゆうづる」3号

23時03分発上越・羽越本線経由秋田行き特急「出羽」

 

「北斗星」が登場したのだから当たり前と言えば当たり前だが、本数を減らされた「はくつる」と「ゆうづる」は、長年担ってきた北海道連絡の任を完全に解かれたのだな、と思う。

 

 

『それでは、この先、停車駅の到着時刻を御案内致します。次の大宮には19時25分、宇都宮20時25分、郡山21時53分、福島22時20分、仙台には23時32分、仙台から先は深夜運転になりますので、明朝の函館までお降りになることは出来ません。函館には明日の朝6時38分の到着です。長万部に8時15分、洞爺8時17分、東室蘭9時15分、登別9時32分、苫小牧10時02分、千歳空港10時22分、終点の札幌には10時57分、札幌は10時57分に着きます』

 

「北斗星」の車内放送は延々と続く。

上野から札幌まで1175.5km、途中14の駅に停車して所要16時間6分もの長旅なのだから、その行程の案内に10分や20分は費やしてもやむを得ない。

 

それでも、この「北斗星」5号は停車駅を絞っている方で、上野を早く出る1号は、八戸までの岩手県内にちょいちょいと停車し、北海道に入っても森、八雲、伊達紋別に停まるので、札幌までの停車駅は22にものぼる。

次の大宮までに案内放送が終わるのだろうか、と少しばかり心配になったが、初めて寝台特急「はくつる」に乗車した時は、途中停車駅が7駅しかなく、20近くの駅に停まる「九州特急」と比較して呆気なく感じたことを思い出した。

上野発の夜行列車も遠くまで行くようになったのだなあ、と感慨が新たになる。

 

それにも増して、東京を発つ列車の中で「長万部」や「洞爺」などという地名を聞くことが出来るとは、どこか不思議な感覚だった。

 

 

『皆様に2、3お願いを致します。寝台でのお煙草は固くお断りしております。お煙草をお吸いの方は、通路に灰皿がございますので、そちらでお吸いいただきますよう御協力お願い致します。1番後ろの車、1号車は禁煙車両となっております。終点の札幌まで、車内でのお煙草は御遠慮下さい。また、盗難事故が大変多く発生致しております。お休みの際には、必ず、現金など貴重品は身体につけていただきます。食堂車やロビーカーの御利用など、長い時間お席を離れた時の盗難が大変多くなっていますので、お席を離れる時には、お荷物、貴重品、特に現金には充分御注意を願います。また、洗面所、お手洗いを御使用になられます際に、眼鏡、指輪、腕時計などの置き忘れが多くなっております。どうかお気をつけ下さい。なお、各車の出入口には屑物入れが用意してございます。お弁当の空き箱、お飲み物の空き缶、空き瓶など、お席をお立ちになりますついでで結構でございます、屑物入れを御利用いただき、綺麗な車内で楽しい御旅行が出来ますよう御協力をお願いを致します』

 

この案内までは、「東北特急」と何ら変わりのない、夜行列車特有の決まり事である。

そう言えば、青森行きの「はくつる」では、青函連絡船の案内と乗船名簿を配布する旨が付け加えられたっけ、と懐かしく思い出していると、車掌の放送は次のような思わぬ案内で締め括られた。

 

『御参考までに、青函トンネルに入る時間を御案内致します。トンネルに入る入口の時刻は5時08分頃を予定しております。竜飛海底駅は5時16分頃、トンネルの真ん中あたりが5時24分頃です。吉岡海底駅は5時35分、トンネルの出口は5時48分頃に通過する予定になっております。乗務員は、青森車掌区の○○と□□が乗務致しておりますが、途中、青森で交替になりますので、それまでよろしくお付き合いをお願い致します。札幌行き寝台特急「北斗星」5号です。次は大宮に停まります』

 

青函トンネルの通過時刻が案内されるとは意外だったが、嬉しくもある。

その時間に起きていたいという希望が、乗客から少なからず寄せられているのかもしれない。

それにしても、青函トンネルを通り抜けるのに、40分も掛かるのか、と驚いた。

 

JR各社も、青函トンネルの開業を、翌月に開通した四国と本州を結ぶ備讃瀬戸大橋と合わせて「レールが結ぶ、一本列島」と銘打って盛んに宣伝していたので、「北斗星」の車内で誇らしげに主張しない方が不思議であろう。

車内にいる乗客の様子にも、北海道へ向かう高揚感ばかりでなく、地続きになった日本列島の鉄路を祝福するお祭りのような華やかさを感じる。

 

昭和63年の春のことを思い浮かべると、我が国の鉄道は、史上類を見ない祭典の中にあったのだな、と懐かしさが込み上げてくる。

 

 

「北斗星」の車内放送はこれだけでは終わらず、浦和駅を通過するあたりで、若い男性の声が流れ始めた。

 

『皆様、毎度御利用ありがとうございます。食堂車「グランシャリオ」から御案内申し上げます。これよりディナータイムを御予約のお客様のお席とさせていただきます。第1回目は19時30分より、第2回目は20時30分の御案内となります。御予約のお客様は、お手元の食事予約券をお確かめの上、お越しをお待ち申し上げております。「グランシャリオ」は、列車の中程6号車でございます。なお、ディナータイム終了後、パブタイムと致しまして、世界各国のウイスキー、ビール、ワイン、ブランディー、北海道・東北の銘酒、鮭・貝柱・烏賊など、美味しさいっぱいのパブメニューを用意致しております。後程パブタイムになりましたら、改めて御案内申し上げます。また、皆様のお席の方には、お弁当とお茶の販売にお伺い致しております。お食事の御準備のないお客様は、合わせてご利用下さい。お席にお配りをしておりますパンフレット「グランシャリオの御案内」にシャワールーム、5号車ロビーカー、シャワールーム、自動販売機などの御案内をさせていただいておりますので、併せて御覧下さい』

 

かつては、所要9時間程度で深夜帯を運転する「東北特急」にも食堂車が連結されていた時代があったが、さすがに利用客が少なかったのであろう、昭和43年に営業を取り止めている。

 

 
それにしても、食堂車も変わったものだ、と思う。
 

僕は、寝台特急「あさかぜ」と東海道・山陽新幹線、そして上野と金沢を結んでいた特急「白山」の食堂車しか利用したことがなかったが、メニューもウェイトレスの服装も室内の調度も、どこか下町の大衆食堂のようで、それでいて値段だけは張る、という感触を抱いていた。

食事の味よりも、移り行く車窓を楽しみながら食事が出来ることに惹かれて、食堂車に足を運ぶのは決して嫌いではなかった。

 

「北斗星」は、それまでの高かろう不味かろう、という我が国の列車食堂の評判を完全に覆し、高級ホテルのレストランに引けを取らないインテリアを備え、完全予約制のフレンチディナーフルコースを供することで大きな反響を呼び、「ロイヤル個室」とともに「北斗星」の名を世間に轟かせたのである。

 

当時の予約制のディナータイムのメニューは、以下の通りである。

 

『Aコースディナー「肉のフランス料理コース」7000円』

前菜:海の幸マリネー海峡風

清羹汁:コンソメプランタニエール

パンまたはライス

海老・舌平目巻きアレキサンドラ風

フィレビーフステーキ茸添え

温野菜:シャトーポテト、ブロッコリー、キャロットグラッセ

サラダ:アスパラ、トマト、生野菜

黒スグリのシャーベット・キウイフルーツ

珈琲または紅茶

 

『Bコースディナー「魚のフランス料理コース」5000円』

前菜:エスカルゴブルゴーニュ風

清羹汁:コンソメプランタニエール

パンまたはライス

帆立貝柱のデュセフ風グラタン

北海鮭のステーキ

温野菜:ブロッコリー、キャロットグラッセ

サラダ:アスパラ、トマト、生野菜

黒スグリのシャーベット・キウイフルーツ

珈琲または紅茶

 

『Cコースディナー「スペシャルシチューコース」3000円』

清羹汁:コンソメプランタニエール

パンまたはライス

ビーフシチュー美食家風

サラダ:季節の生野菜

珈琲または紅茶

 

『Dコースディナー「海峡御膳」3000円』

蛤のお吸い物

鯛のお刺身

煮物

真魚鰹の西京焼き物

烏賊ケンチン詰め物・蒸し物

鱚の酢の物

果物

香の物

御飯

 

僕は、市内のレストランに入ってメニューを見ても、果たしてどのような料理が出てくるのか、さっぱり想像が出来ない無粋な人間である。

「グランシャリオ」のメニューで唯一明確に理解可能だったのは値段だけで、こいつは身分不相応だ、と端から諦めていた。

 

ただし、午後9時過ぎからと案内されているパブタイムになったら食堂車を覗いてみよう、という魂胆だけは持ち合わせていたので、発車前に、敢えて駅弁は購入しなかった。

若干の懸念は、パブタイムでどのような料理が供されるのか、如何ほどの値段であるのか、という点であるけれども、それは後の楽しみである。

 

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食堂車がしばらくお預けになっても、北海道へ向かう寝台特急に乗っている、という事実だけで、僕は旅に酔うことが出来る。

 

評判の豪華な個室でなく、最安値の開放型B寝台でも、窓外を過ぎ行く東北路の夜景が変わるはずもない。

車窓は黒々と塗り潰されて、ぽつり、ぽつりと点在する灯だけが浮かんでいる。

北関東から東北にかけての闇の深さも、数年前に初めて東北旅行に出掛けた時に、往路の寝台特急「はくつる」で感じた寂寥感を伴う旅情も、全く同じであった。

時折、ピョー、と甲高く物哀しいEF81型機関車の汽笛が、かすかに空気を震わせる。

窓をほんのりと照らし出して、小駅のホームが光陰を描きながら過ぎていくのを目にすれば、のんびりとしているようで、案外速度が出ていることが分かる。

 

「北斗星」に投入されている24系寝台客車を利用するのは、数ヶ月前に乗車した寝台特急「あけぼの」以来のことで、上段が高さ95cm・長さ195cm・幅70cm、下段が高さ111cm・長さ195cm・幅70cmという寝台のゆとりは何の申し分もない。

 

 

大宮で乗り込んできて、向かいの寝台に腰掛けたおじさんは、駅弁とビールを掻き込むなり、競艇新聞を広げて一心不乱に読み始めた。

車窓に目を向けることもなく、赤ペンを手にして、新聞に印をつけるのに余念がない。

僕は賭け事はしない人種であるけれども、当時は品川区大井町に住んでいたので、大井競馬場や平和島競艇場に向かうバスの利用客が駅前にずらりと列を作り、売り子が売る新聞を手に取る姿には慣れている。

 

宇都宮を過ぎた頃合いであったか、おじさんはふと目を上げて、

 

「兄ちゃんは競艇、やるんか?」

 

と聞いてきた。

嗜みません、と答えたつもりだったが、聞き間違えたのか、なぜか脈ありと読んだのか、

 

「ええか、兄ちゃん、いい事を教えたる」

 

と、赤ペンだらけの紙面を僕に向けながら、競艇制覇術の講義を始めたのである。

競艇の勝ち負けはボートのエンジンの馬力で決まるので、その情報を紙面のどこから読み取るのか、といった内容であったように記憶している。

 

そんな単純ならば誰でも当ててしまうではないか、という素朴な疑問よりも、どうしてこの人は競艇で儲ける秘策を行きずりの僕に教えてくれるのだろう、ライバルが増えるだけではないか、と不思議に思った。

買いが殺到すれば倍率が低下して支払金も減少する、というカラクリくらいは理解しているつもりだが、自慢よりも、僕に競艇を勝たせたがっているとしか見えないおじさんは、実は好人物なのかもしれない。

 

そのお喋りが苦痛だった記憶はなく、午後10時近くに停車する郡山のあたりまですっかり話し込んだから、競艇以外の話もしたのだろうと思う。

食堂車「グランシャリオ」がパブタイムになりました、という放送が聞こえたあたりでは、まだ話の佳境だった。

 

郡山の駅を発車した直後に、「ハイケンスのセレナーデ」が鳴り、

 

『夜も更けて参りました。皆様のお休みの妨げになりませんよう、放送による御案内は明朝6時30分頃、函館到着の10分前までお休みをさせていただきます』

 

という放送を耳にした時には、このような時間になっていたのか、といささか慌てた。

ちょっと食堂車に行ってきます、と僕が席を立つのを見て、俺もそろそろ寝るか、とおじさんも欠伸をしながら寝台に潜り込んでいった。

 

 

 食堂車はそれほど混雑していなかったものの、

 

「いらっしゃいませ。お1人様でしょうか」

 

と蝶ネクタイ姿のウェイターが一礼する丁重な出迎えに、まずは面食らってしまった。

明るすぎず暗すぎず、程よい照明が影を引く心地よいダイニングホールの1席に案内されれば、正装をしてくるべきだったのではないか、と不安になるほどの高級感である。

 

「パブタイムは午後11時までとなっております」

 

との言葉を聞き流しながら、おもむろにメニューを開いてみた。

 

牛フィレ肉のソテー(赤ワインソース)エシャレットのコンフィ添えセット3000円

真鯛とアスパラのクリームスープセット1600円

北海鮭のグリール石狩風/生野菜添え1200円

帆立貝のグラタン/メルバトースト添え1000円

貝柱のバター焼・生野菜添え1200円

烏賊の北斗焼/アスパラ又はブロッコリー添え1000円

ビーフシチューセット2500円

イタリアンハンバーグセット2000円

ビーフカレー1200円

北海の幸クリームパスタ1200円

エスカルゴブルゴーニュ風/メルバトースト添え1200円

“北斗星風”海の幸のサラダ仕立て1500円

海の幸のサラダ1000円

スモークサーモン1000円

手作りミックスピザ1000円

和牛たたき1000円

牛タンスモーク800円

パルマ産生ハムピクルス添え800円

北海道のソーセージ盛り合わせ800円

北海道のチーズ各種盛合わせ/クラッカー添え800円

チーズ盛合わせ600円

ミックスナッツ500円

クリームチーズの雲丹クレープ巻き500円

あずきのアイスクリームフルーツ添え400円

ココナッツミルク400円

アサヒスーパードライ(小瓶)500円

キリン一番搾り(小瓶)500円

カクテル・ファジーネーブル500円

カクテル・ファジーグレープフルーツ500円

ウィスキー・シーバスリーガル(ミニチュアボトル)1000円

ウィスキー・ブレンドオブニッカ(ミニチュアボトル)1000円

日本酒・男山(1合)500円

日本酒・純米大吟醸大人の休日(720ml)4000円

コーヒー400円

紅茶(レモン、ミルク)400円

オレンジジュース350円

トマトジュース350円

コカ・コーラ350円

ウーロン茶350円

ミネラルウォーター200円

 

と、実に錚々たる料理が並んでいて、カレーライスあたりが僕には相応かな、と萎縮しながらも、別に備えられているワインリストまで見てしまうと、そのような安物で済ませて良い場所なのか、と気後れがする。

 

北海道シュベートブルグンダー(赤)フルボトル5000円

北海道ヴァイスブルグンダー(白)フルボトル5000円

おたるワイン・フヴァイゲルトレーベ(赤)1500円

おたるワインフリーラン(白)1500円

十勝ワイントカップ(赤、白)1600円

コドーニュクラシコ・セコ1600円

ノニーカシオペアワイン(赤、白)2000円

 

 

宮脇俊三氏の処女作で、氏が国鉄全線完乗を達成した「時刻表2万キロ」には、旅行に持参する金額についての一考が記されている興味深い章がある。

 

『旅行に出かけるとき、どの程度の金を携えるべきかは難問である。

旅行では予期しない出費の待ち構えていることが多く、これから行こうとしている北海道での私の経験だけを振り返ってもいろいろある。

帰りの青函連絡船が台風の余波で決行し、函館で1泊を余儀なくされたことが筆頭だが、交通機関が順調でも、前回のように札幌中のホテル、旅館が満員で2時間もタクシーで探し回った挙げ句2人分の料金をとられる旅荘に泊まることもある。

歯医者へ行ったこともあるし、靴がぽっかり口を開けたこともある。

旅行には履き慣れた靴で出かけるのが定石であるだけにそういったことも起こりやすい。

稚内の靴屋であり合わせの気に入らない靴を購入し、長い旅路を共にしてきた愛靴と別れたときは、場所が最果ての町であっただけに、惜別の情と余計な出費が相まって胸が痛んだ。

このような旅先での予期せぬ出費に備えるためには、当然幾許かの予備費を用意しておかねばならないが、問題の難しさはそれではなく、余分に持って行くと持って行っただけ費消しかねないという点である。

これは旅行とは直接関係のない、個々人の性癖の問題であるけれど、旅先では旅行者の制禦力が弱まるのにひきかえ、それを迎え撃つ側はしたたかな連中だから、普段は相当な締まり屋でも結構無駄遣いをさせられてしまう。

かといって、懐が淋しくては、せっかくの旅行気分まで淋しくなる。

そのへんのところが難しい。

私は土地の名物など買わず、たいてい手ぶらで帰ってくるから買物による出費はほとんどないが、統計的に見ると、やはり余分に持って行くほど余分に使ってしまう傾向は否めない。

予定どおり何本かの未乗線区を乗り終えて1人で祝杯をあげているうちに気が大きくなり、旭川の二条通りのバアなどに入って後悔したこともある。

余分な金など持っていなければこんなことは起こり得ない。

ズボンのポケットなどに1万円札を2、3枚縫い込めて非常に備える法もあり、やってみたこともあるが、掏摸に対しては効果があっても自分自身に対してはほとんど効き目がなかった』

 

とあれこれ分析しながら、事前に乗車券と指定券を手配した宮脇氏は、3万円を懐に入れて北海道と北東北の未乗線区を片づけるべく旅立ったのである。

北海道では1泊の宿泊費と飲み代以外に大した支出はなかったようであるが、東北では降車駅を2度も寝過ごしてしまい、タクシーで列車を追い掛けるという事態が勃発、旅を終えた時には懐に1000円札が1~2枚という有り様だったように見受けられるから、目論見が外れたと言うべきか、お見事、と言うべきか。

 

僕が「時刻表2万キロ」を初めて読了したのは大学生の頃であり、深く感銘を受けたのだが、貧乏旅行が性についていたので、この章だけは、3万円も用意できるとは羨ましい御身分、と共感には至らなかった。

 

 

それでいて、「グランシャリオ」ですっかり雰囲気に呑まれてしまい、せっかく「北斗星」に乗っているのにケチケチしてどうする、と明らかに制禦力が弱まっていた僕は、あろうことか、牛フィレのソテーにワインなんぞを注文してしまったのである。

如何ほどを財布に入れていたのか忘却の彼方であるが、3万円には程遠い金額であることは間違いなく、「北斗星」のお祭り気分に伝染した、としか言い訳のしようがない。

宮脇氏の言葉を借りれば、それだけ「グランシャリオ」がしたたかであった、と言うことだろう。

 

午前6時台に到着する函館で降りるのだから、食堂車で朝食という出費を心配する必要はない。

東京と函館を往復する「グリーンきっぷ」を手に入れているのだから、東京へ戻るまでに、これ以上大きな支出が嵩むことはない、という目算もあった。

 

 

想定外の出費に心が痛まないでもなかったが、それよりも酔いの心地良さが上回り、ふわふわと自分の寝台に戻って眠りに落ちた僕は、ゴトリ、と列車が停車するかすかな衝撃で目を覚ました。

寝台の中で身を起こしてカーテンをめくれば、青森駅である。

 

青函トンネルが完成するまでは、この駅が絶対的な終着駅であった。

嫌でも列車を降ろされて、青函連絡船の桟橋への通路を小走りに急いだのは、つい数ヶ月前のことである。

津軽海峡の船旅は確かに情緒があったけれども、ベッドに横になったまま青森から北へ進むことが出来るとは、何という贅沢であろうか。

 

深夜の車内は寂として静まり返っている。

向かいのベッドも、こそりと音もしない。

しばらくひっそりと停車していた「北斗星」は、やがて、静かに反対方向へ走り始めた。

青森駅は、全ての線路が港に向けて扇形に集中する構造なので、東北本線から津軽線へ乗り入れるには、向きが逆になる。

煌々と照明に照らされて、幾つもの線路が分岐していく構内を抜け出しても、列車の速度は大して上がらない。

津軽線は旧態依然としたローカル線の規格のままで、さすがの「北斗星」も、高速道路から一般道に降りた車のように、遅々とした歩みを余儀なくされる。

青函トンネルまで起きていたいな、と思いながらも、のんびりした走りっぷりは、どうしても眠気を誘う。

 

うつらうつらと過ごしながら中小国駅を過ぎると、乗り心地が再び一変した。

ぴたりと揺れが治まり、列車の速度がぐいぐいと上がって、コーッ、とスラブ軌道特有の物哀しい走行音が響き始める。

新幹線規格で新設された津軽海峡線に入ったのだ。

青森から40kmほど離れた本州側の最後の駅である津軽今別を過ぎると、長さ1337mの大川平トンネル、160mの第1今別トンネル、690mの第2今別トンネル、440mの第1浜名トンネル、280mの第2浜名トンネル、170mの第3浜名トンネル、140mの第4浜名トンネルと、7つのトンネルを続け様にくぐる。

津軽半島とは山なのだな、と思いながらも、いつ青函トンネルに入るのか、気が気でない。

 

 

心配するほどのこともなく、本命の青函トンネルに進入する時は、それまでの短いトンネルとは異なる重厚な風格が感じられた。

 

口径の広いトンネルの入口部が後方へ過ぎ去ると同時に、さっと窓が曇る。

一定間隔で横に流れる照明が、水滴に滲んでいる。

海底へ続く湿気の多い空気の中に入ったことが感じられる瞬間だった。

青函トンネルの内部は寒暖の差が少なく、レールの伸縮が見られないため、継ぎ目のない1本の超ロングレールで結ばれている。

甲高く途切れのない走行音を闇に反射させながら、緩やかな下り坂を高速で走り込む寝台特急列車は揺らぎもしない。

北前船の伝統を引き継いで、1日50本が行き来するという貨物列車が汽笛を交わしながらすれ違うと、黒々としたコンテナのシルエットが長いこと車窓を塞ぐ。

 

果てしなく続く巨大な円筒型の構造物に眼を凝らしているうちに、底なしの沼に足元から吸い込まれていくような錯覚に襲われた。

途轍もないものを作り上げたものだと思う。

青函連絡船が歌い上げていた旅情には及びもしないけれど、僕らの国の底力を誇らしく思う北への道筋だった。

 

世紀の長大トンネルをくぐっているという感動も、頭の中に幕を張るような睡魔には勝てない。

トンネルの中の40分間、懸命に瞼をこじ開けていた僕は、トンネル内に反響していた列車の走行音がふっと途切れ、窓外を黒々とした木々の影が透けて見えると同時に、力尽きてカーテンを閉めた。

 

 

遠くで「ハイケンスのセレナーデ」が鳴っているな、と思いながら、うっすらと目を開けると、朝一番の放送が聞こえてきた。

 

『皆様、長らくの御乗車お疲れ様です。5月15日日曜日、時刻は6時25分を過ぎております。列車は定時で運転しております。あと10分程で函館に到着です。8番線の到着で、お出口は左側です。お降りの方はお忘れ物、落し物をなさいませんようお支度をお願いします。函館の次は、長万部に停まります。函館駅では機関車の交換を致しますので、およそ6分停車します。函館からの接続列車を御案内致します。函館本線下り普通列車の大沼公園行きは、2番線より7時18分、そのあと森、八雲に停車します特急「北斗」3号は、7番線より8時20分の連絡です。江差線で五稜郭、上磯、木古内方面へお戻りの方、5番線より普通列車江差行きが7時ちょうどの連絡です。御乗車ありがとうございました。間もなく函館に着きます。8番線、お出口は左側です』

 

隙間から外の明るさが漏れているカーテンを開け放つと、眩しい朝の陽がベッドの闇を瞬時に追い払った。

窓の外には、陽光が煌めく一面の海原が広がっている。

江差線は津軽海峡の海際を走る区間が多く、僕が目覚めた時には、茂辺地駅と上磯駅の間を走っていたのだろう。

函館湾の向こうに、函館山がぽっかりと浮かんでいる。

最初は、下北半島でも見えているのかと勘違いしたけれど、よく目を凝らせば、その左側に函館の市街が砂州のように続いている。

 

向かいのカーテンが少しだけ開き、

 

「どこ?函館?兄ちゃん、降りるんか、元気でな」

 

と、おじさんは眠そうな顔を覗かせただけで、再びカーテンを閉じた。

 

急いで降り支度をすべきにも関わらず、僕は、海峡の景観をぼんやりと眺め続けた。

連絡船や航空機に乗らなくても、自分は今、北海道にいるのだぞ、と言い聞かせなければならないほど、現実離れした感覚だった。

 

 

函館駅特有の湾曲したホームで、牽引機をDD51型ディーゼル機関車に付け換える作業を眺め、札幌に向かう「北斗星」を見送った時には、このまま乗り続れば良かった、と言う悔恨が込み上げてきた。

 

僕は、その日のうちに東京へ戻らなければならない。

仮に「北斗星」に乗り続けて、10時57分に札幌へ着いても、その日のうちに東京ヘ戻る方法は、

 

札幌11時37分発 特急「北斗」8号 函館15時21分着

函館15時29分発 特急「はつかり」26号 盛岡19時52分着

盛岡20時00分発 東北新幹線「やまびこ」4号 上野22時32分着

 

という乗り継ぎしかなく、札幌ラーメンを賞味する暇すらない。

 

 

札幌でもっとゆっくりしたくても、この後に発車する列車では、青森から先の接続が、全て一夜を跨ぐ夜行列車になる。
 

青函連絡船の時代は、札幌からその日のうちに東京へ着くために、午前9時半頃の列車に乗らねばならなかった。

そのことを考えれば、青函トンネルが開通して2時間が短縮されたのは、まさに時代の進歩と言うべきかもしれないけれど、そんなものか、と拍子抜けしたのも事実である。

 

 

僕は、朝市を覗いたりしながらのんびりと午前を過ごし、函館11時53分発の津軽海峡線の快速「海峡」8号で折り返した。

函館駅で「ゾーン539」切符を購入して、13時20分に到着する竜飛海底駅を見学したのである。

 

青函トンネルには、 列車火災などの非常時に列車を停止させ、消火作業や乗客を避難させる目的で、青森県側の竜飛海底駅と北海道側の吉岡海底駅の2つの海底駅が設けられている。

津軽海峡線の営業運転開始当初から、「海峡」を停車させて、この巨大なトンネル駅を見学するツアーが組まれていた。

「ゾーン539」という名称は、トンネルの長さ53.9kmから付けられたと聞く。

 

快速「海峡」の車内では、早朝に青函トンネルを通過した寝台特急「北斗星」と異なり、

 

『皆様、次のトンネルが青函トンネルです』

 

という車掌の案内が流れ、出入口の上部の壁にトンネルの断面図と列車の現在位置が表示される電光掲示板が設けられていた。

「ゾーン539」切符を持つ見学客は、指定された客車に集められ、竜飛海底駅では、その車両の扉だけが開かれた。

 

 

僕らが乗って来た「海峡」が青森へ走り去る音が、尾灯が消えてもなお、いつまでもトンネル内に響きわたっていた。

その余韻が消えないうちに、今度は、同じ方向からの轟音が俄かに大きくなり、下りの「海峡」7号が車内の照明をきらきらと輝かせながら、反対の線路を通過していく。

 

列車と比較すると、トンネルの口径の大きさが一層際立って見える。

本坑だけでも圧倒されるのに、それに先んじて作業抗や先進導坑が掘削されたと知った時には驚いた。

1本でも大仕事なのに、長大なトンネルを複数も掘ったのかと気が遠くなりそうであるけれど、完成後も、災害時に地上への避難通路として使われることになっていて、見学も先進導坑が主体であった。

壁のコンクリートを薄く伝う海水に手を当てて、そのひんやりとした感触を感じながら、どえらいモノを造り上げたものだ、という驚嘆ばかりが込み上げてくる1時間であった。

 

地上の竜飛岬を映し出すライブカメラが設置され、画質があまり明瞭でなかったけれども、うら寂しい景観であることは伝わってくる。

モニターに映る岬の先の海の底を、たった今くぐり抜けて来たことが、とても不思議に感じられた。

 

ごらんあれが竜飛岬 北の外れと 見知らぬ人が指をさす

 

本州の最果てを、青函連絡船の船上ではなく、地中からモニター越しに眺めるようになったことも、時代の変遷なのだろう。

 

 

竜飛海底駅を14時27分に発車する「海峡」10号に乗り、15時29分に着いた青森では、郊外にある幸畑の陸軍墓地に立ち寄った。

 

小学6年生の春に、担任の先生が教材として取り上げたのが、新田次郎氏の小説であった。

折しも、同氏の「八甲田山死の彷徨」を原作にした映画「八甲田山」が公開された年だったので、授業の一環として、クラス全員で映画館に出掛けて鑑賞したのである。

 

映画「八甲田山」は、帝国陸軍青森歩兵第5聯隊が、明治35年に厳冬期の八甲田山を縦走する雪中行軍を試み、199名もの凍死者を出した事件を題材にしている。

そのラストシーンは、雪中行軍を生き残った兵士が現代の八甲田山を再訪する場面だったが、その訪問先に、雪中行軍の犠牲者が眠る幸畑の陸軍墓地も含まれていた。

小説の後書きにも、新田氏が幸畑を訪れる描写がある。

 

1度は訪れてみたい場所だったので、実に10年ぶりの念願を叶えたことになる。

 

 

小説や映画では、日露戦争に備えた寒地装備を研究する必要性から八甲田山雪中行軍が計画されたという設定であったが、同時に、ロシア艦隊が津軽海峡や陸奥湾を封鎖し、海岸沿いの交通が機能しなくなる危険性も、八甲田山系を踏破する意義として挙げられていた。

 

建設中の青函トンネルを訪れた宮脇俊三氏は、「線路のない時刻表」で、年間3万人にも及ぶ見学者について言及した上で、

 

『見学禁止といえば、ソ連の人にも見せていないそうだ。

青函トンネルの効用について論じられるなかには「国防」の要素が入っている』

 

と記している。

 

僕は、大学時代のバイト先で一緒になった元自衛隊員の男性から、北海道で勤務経験があると聞いて、

 

「うわあ、最前線じゃないですか」

 

と、何気なく口にした時のことが忘れらない。

一瞬、僕を凝視して絶句した男性は、

 

「そうだな、あそこは、まさに最前線だったな」

 

と、遠くを見つめるような眼差しになったものだった。

 

常に、北の脅威に備えなければならないのは、我が国の近代の宿命と言えるだろう。

自衛隊の車輌を貨車に積載し、青函トンネルを使って輸送する訓練が実施されたことがあると聞けば、青函トンネルもまた、明治期の八甲田山雪中行軍と共通の命題を担っていることになる。

 

 

暮れなずむ八甲田山系を遠くに望む青森駅に戻って、17時42分発の特急「はつかり」26号を捕まえ、盛岡で東北新幹線「やまびこ」4号に乗り継げば、上野まで僅か2時間半、青森からでも4時間50分という目まぐるしさである。

2つの列車のグリーン車の乗り心地は上々で、束の間の贅沢気分を味わえた。

加えて、「一本列島」の祭典に参加した興奮の余韻が、いつまでも醒めやらない。

 

時の流れを、無情と感じることがある。

開業直後のブームが過ぎ去ると、青函トンネルを通過する旅客数は年々減少し、平成14年には快速「海峡」が廃止され、特急・急行列車のみが利用するようになった。

平成28年に函館まで新幹線が開通するのを待たずして、その前年に寝台特急「北斗星」は廃止された。

北海道新幹線の開業後もなお、青函トンネルは膨大な赤字を産み続けてJR北海道の経営を圧迫することや、備讃瀬戸大橋が、平成10年に完成した明石海峡大橋に本州と四国を結ぶ主役の座を明け渡すことになろうとは、この旅の当時、僕は夢にも思っていなかった。

 

「北斗星」5号を札幌まで乗り通し、そのまま折り返しても、帰路は同じく「はつかり」26号と「やまびこ」4号であったことに気づいたのは、その車中だった。

函館や青函トンネル、青森でのひとときは貴重な思い出であるけれども、寝台特急「北斗星」を函館で降りずに、札幌まで春の祭典をとことん堪能したかったな、という仄かな後悔が、いつまでも僕の心から消えなかった。

 

 

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