蒼き山なみを越えて 第2章 昭和49年 川中島バス中廻り線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

長野市の市街地は、善光寺平の西の山ぎわに片寄っている。

創建が642年と伝えられる善光寺がその位置にあったので、門前町として発展した街並みも、自然とそうなったのであろう。

 

 

善光寺平、現在の長野盆地は、もともとフォッサマグナの低地で、千曲川が運んできた堆積物が覆って形成されたと言われている。

 

長野県と埼玉県、山梨県の境にある甲武信ヶ岳を水源とする千曲川は、名前の通りくねくねと蛇行して佐久盆地と上田盆地を開き、長野盆地の北では狭隘な峡谷を形成しつつ、信越国境を越えて、信濃川と名を変える。

県境に近い豊田村では、崖を意味する「チク」と、袋状の湿地を意味する「マ」が、川の名の由来とする伝承もあるという。

 

全長367kmに及ぶ日本一の長さを誇る川であるが、千曲川と呼ばれる部分が214kmで、信濃川の部分より長い。

県境で多少狭くなるものの、長野県内では河川敷の広い堂々たる大河の風格があるが、善光寺平では盆地の南から東寄りの隅を流れているので、市街地から離れている。

 

安曇野から筑摩山地を縫って流れてきた犀川が、川中島で三角州を成して千曲川に合流するので、市街地に住む僕にとっては、犀川を目にする機会の方が多かった。

 

 

長野市街を南北に貫く大きな街路は、3本ある。

 

善光寺と長野駅を結び、両側に商店が途切れることなく軒を並べる中央通りが、最大の目抜通りであるが、道幅は中途半端で、ほぼ片側1車線のような使われ方だった。

 

その東側に長野大通りが走っているが、昭和56年3月に地下化された長野電鉄線の跡地を利用しているので、僕が子供の頃には存在しなかった。

今でこそ、中央分離帯を備えた片側2車線の堂々たる道路であるが、たかだか複線の線路跡に、そのような広い道を建設できるはずもなく、大規模な拡張工事が行われたのであろう。

中央通りの東側は、アーケードを備えた権堂商店街をはじめ、何区画かが殷賑な繁華街を成しているものの、少し外れれば鄙びていて、拡張工事が容易な土地だったのだろう。
 

 

中央通りの500mほど西に、僕らが「県庁通り」と呼んでいた片側2車線の道路があり、長野県庁と県会議事堂、信濃毎日新聞社、議員会館、地方検察庁や法務局が入った合同庁舎などが並ぶ官庁街となっていて、中央通りとは異なる静かな通りだった。

 

県庁通りが長野市街の最西端で、すぐ西は、犀川の支流である裾花川に面し、その対岸には、北が戸隠連山、西は東山連山、南は筑摩山地に連なる旭山がそびえていた。

旭山は標高785mの弧峰で、両側の山が低いのでよく目立ち、市街地の何処からも見ることが出来た。

 

 

小学校低学年の遠足で、旭山に登ったことがある。

800m近い山と言っても、長野市街地の標高が400m近くあるので、実質は400メートルの高度差を登ったに過ぎず、長野市に東京タワーを建てたら旭山と似たような高さになるのだな、と子供心に思ったことがある。

頂上の展望台からは、善光寺平が一望のもとに開けたはずなのだが、よく覚えていない。

 

新緑や紅葉、そして雪景色など、旭山の山肌の色彩の変化で、僕は、季節の移ろいを感じ取っていたと言っても良い。

東京に出てから、山がいっさい見えない土地で、何から季節を知ればいいのかと、途方に暮れたものだった。

帰省で長野駅西口に降り立ち、正面のビル街の合間に顔を覗かせている旭山を目にすると、故郷に帰って来た、という実感が湧いた。

僕の父は、

 

「駅の正面に山が見えるなんて、何という田舎だ」

 

などと、ばっさり切り捨てていたのだが、僕は、それこそが長野市の良さだと思っていた。

 

 

県庁通りの北は、信州大学教育学部のキャンパスで行き止まりになっているが、南は、上田、軽井沢を通って東京方面へ延びる国道18号線と、1本の道路のように繋がっていた。

篠ノ井、川中島と長野盆地を貫いて来た国道18号線は、県庁前で東へ直角に折れ、新潟方面へ向かう。

 

この通りが、長野市街地を東西に貫く唯一の大きな道路と言ってもよく、県庁前から新田町、市役所へ至る部分は昭和通りと呼ばれていた。

中央通りと昭和通りが交差する新田町交差点には、県内資本の丸光百貨店やダイエー、銀行などが建ち並び、市街で最も交通量の多い場所だった。

 

その1kmほど南には、長野駅前と国道18号線の岡田町交差点を東西に結ぶ道路もあったが、道幅は広かったものの、市街地を貫いている訳ではない。

八十二銀行本店やバスターミナルが道沿いに建っていたので、「ターミナル通り」と呼ばれていた。

 

 

県庁から国道18号線を1kmほど南に下り、ターミナル通りとの岡田町交差点のすぐ先にある中御所交差点は、名古屋から木曽谷、安曇野を経由してきた国道19号線の終点だった。

千曲川に沿って郊外に国道18号線バイパスが建設されてからは、国道18号線の市街地部分が国道19号線の延長部分に指定されたが、僕の子供の頃は、県庁前の交差点を、東京や名古屋、新潟方面を行き来する長距離トラックや観光バスが、引っ切りなしに行き交っていたのである。

 

県庁通りを北に進めば、東西に市街地の北部を貫いている国道406号線に突き当たる。

東は群馬県高崎市から、草津温泉の南をかすめ、長野原、菅平、須坂を経て、善光寺の門前を横切り、裾花川の渓谷に沿って鬼無里、白馬に至る道路だが、長野市街地の部分は道幅が狭く、目抜き通りと言える体裁はなかった。

 

子供の頃、父の運転で国道406号線を通って白馬に抜けたことがあるが、市街地の部分はクランクのように曲がりくねり、その先は、裾花川が刻む深い渓谷を見下ろす隘路で、車のすれ違いもままならず、あまりの怖さに泣き出したことがある。

 

「何を泣くことがある」

 

と父に叱られたが、ハンドルを握る父も途方に暮れていたのではないだろうか。

それ以来、国道406号線は、怖い世界への入口として幼い僕の心に刻まれ、未だにこの道を走るとほろ苦い気分になる。

 

 

善光寺平の最も西寄りの街区、東西を県庁通りと裾花川に挟まれ、北は国道406号線から南は国道19号線までが、小・中学生時代の僕の行動範囲だった。

 

飯田出身の父が、医師になるべく金沢大学に進み、母と結婚して僕と弟が生まれ、僕が3歳の時に長野市に引っ越して家を借りたのは、昭和通りの数百メートル南、東西を中央通りと国道18号線に囲まれた区画で、当時、長野赤十字病院が門を構えていた北石堂町だった。

閑静な住宅街だったが、肉屋、八百屋、果物屋、餅屋、ケーキ屋、花屋、文房具店、理髪店、ミシン屋、洋品店、銭湯など、商店がひと通り揃っていて、コンビニエンスストアがない時代であっても、大型店に出掛けなくても、生活用品は全て、歩いて数分以内の近所で賄えた。

 

 

僕の遊び友達の大半は、町内に軒を並べる商店の子供だった。

 

「果物屋の○○ちゃん」

「床屋の□□ちゃん」

 

で通じたのである。

 

ところが、僕が入学したのは信州大学附属長野小学校で、信州大学教育学部の西隣りにあり、近所の友達は近くの山王小学校に通っているのに、どうして僕だけ県庁通りを1.5kmも歩いて通わねばならないのか、と少なからず不満を抱いていた。

僕が小学校に入る前後で、父が県庁の近くで開業し、母も日中は診療所を手伝っていたので、朝は北石堂町から登校したが、学校からは県庁前に帰り、診療が終わってから自宅に帰る日々だった。

 

僕が中学1年生の時に、診療所の建物を増築して住むようになるまで、北石堂町の借家で10年近くを過ごしたのである。

 

 

北石堂町と異なり、県庁の周辺は、官公庁があるにも関わらず、商店が全くなかった。

 

今でも、県庁前交差点には、ファミリーレストランやコンビニエンスストア、書店、ガソリンスタンドくらいしか見当たらない。

父の診療所の隣りに理髪店があったが、1度も利用したことはなく、平成になって土地を売り、何処かへ越してしまったと聞いた。

官庁街の周囲を住宅地が取り囲んでいたとは言え、おそらく、昼夜の人口が極端に変化する地区であったと思われるので、そのような街並みで事足りたのであろう。

 

公共交通機関が不便な地域でもあった。

長野駅まで歩いて20分程度だったが、路線バスが少ないのが、子供の頃から物足りなかった。

長野市の路線バスは、長野駅西口を起点として中央通りを北上し、そのまま権堂、善光寺の門前や、善光寺の裏手の住宅街に向かう路線と、新田町交差点で昭和通りを東に折れて、市役所や郊外に向かう路線が大半だった。

僕や両親は、路線バスを使う際に、中央通りまで歩いて乗車しなければならなかった。

 
 

思い出深いのは、長野駅から出る「権堂経由返目」の行先を掲げた路線バスである。

小学校の低学年時代に蓄膿症で悩まされていた僕は、父と同窓の耳鼻咽喉科に通うために、週に1~2回ほど、母に付き添われて昭和通りを新田町交差点まで歩き、交差点に面した「昭和通り」停留所から、返目行きのバスを利用したのである。

 

両親は「『そりめ』行きのバス」と呼んでいたのだが、初めて乗る時は、バスの標示に書かれた漢字が読めずに、まごまごした記憶がある。

僕が定期的に利用した最初の交通機関である。

 

僕は、父の診療所の最寄りの「県庁前」停留所から新田町の「昭和通り」停留所の間もバスに乗りたかったのだが、たかだか500m程度の距離であるから、母は許してくれなかった。

 

 

新田町交差点で西に折れて、昭和通りを県庁方面に来る路線バスが極端に少なく、利用したくても出来なかったのかもしれない。
1時間に1本程度、市街地と川中島、松代方面を結ぶ路線バスだけが、中央通りから昭和通り、県庁前、バスターミナルを周回してから、国道18号線を南へ向かっていた。
逆回りの設定はなく、県庁から新田町方面へ向かう場合には使えなかった。

 

いや、もう1本だけ、県庁前と新田町を行き来するバス路線があった。

長野駅から中央通りを走り、新田町で昭和通りを西に折れ、県庁前を経て、県庁通りを北へ向かう「中廻り」と呼ばれていた路線バスが、1時間に1本走っていた。
 
 
長野市街地の北にそびえているのは、大峰山と地附山である。
 
ともに善光寺の背後にあって、県庁通りの正面にも顔を覗かせている大峰山は、昭和37年に山頂に建設された鉄筋コンクリート製の天守閣が夜間にライトアップされて、遠目でも幻想的な雰囲気だった。
大峰城や旭山城、そして善光寺の東に隣接する城山公園に置かれていた横山城など、善光寺平に散在する城郭は、川中島の合戦に際して、武田氏と上杉氏が設置したと聞いている。
 
地附山は、昭和36年に善光寺の裏手の雲上殿から山頂まで「善光寺ロープウェイ」が建設され、山頂に遊園地、動物園、スキー場などを備えた観光施設が整備されていたが、戸隠へ直通する有料道路「戸隠バードライン」の開通により単なる通過点となり、一気に寂れたと聞いている。
東側の斜面に住宅団地が開かれていたが、昭和60年7月に、多数の犠牲者が出る大規模な地滑りを起こして、山の形が変わってしまった。
 
 
中央通りと県庁通りは、昭和通りと交差するあたりから、大峰山と地附山の山裾に向けて、かなりきつい登り勾配になる。
冬に雪が積もると、信号で停車した車がスタックして、登れなくなるくらいだった。
 
信州大学教育学部と、西隣りにある附属小学校・中学校は、山の斜面の中腹に位置しており、僕は、小・中学生だった9年近くを、その坂道を歩いて通ったのである。
小学校の裏は、新諏訪、西長野、桜枝町、立町といった、善光寺とともに歩んできた昔ながらの商店街だった。
古びた店舗や倉庫が雑然と並ぶ、ひっそりとした街並みを北へ突っ切ると、すぐに地附山の斜面だった。
西側は往生寺の住宅街とリンゴ畑、東側が善光寺の納骨堂と雲上殿、ロープウェイ駅になっているが、大半は赤松などの雑木林が覆う山肌だった。
 
その一角にある「歌が丘」と呼ばれる、童謡が刻まれた石碑が並ぶ史跡が、僕らの格好の遊び場で、小学校の先生が、
 
「今日は歌が丘に行くか」
 
と言うと、僕らは歓声を上げて教室を飛び出し、最初は先生に叱られながら整然と隊列を組んで大人しく歩いたものの、市街地が尽きると、競って斜面を駆け上がったものだった。
 
 
思い返せば、校外授業が多い小学校だった。
教育学部の附属校として、教科書に捕らわれない教育が研究されていたこともあるだろう。
 
歌が丘以上に頻繁に出掛けた先として、シシ沢川と中部電力里島水力発電所がある。
シシ沢川は、附属小学校と、西に隣り合わせの附属中学校の間に流れていた。
幅は数メートルしかないが、深さは3m以上はある深い溝のような川で、両側はコンクリートで固められていた。
「1級河川 シシ沢川」との標識が立てられており、このみすぼらしい川の何処が1級なのだ、と僕らは首を傾げたものだった。
すると、必ず友達の1人が、川の等級は幅ではなく長さで決められているのだ、と、したり顔で説明するのが常だった。
 

 

後に、附属小・中学校ともに郊外へ移転し、グラウンドだけが残っている敷地を訪ねたことがある。

人の手が入らなくなったシシ沢川は、両側に鬱蒼と草木が生い繁り、市街地を流れているとは思えないような荒れた様相になっていた。

 
授業の一環で、クラスの全員がシシ沢川の川底に降り、下流へ向けて歩いたことを思い出す。
小学校と中学校の敷地を過ぎ、国道406号線と交差する地点から100~200mほど、シシ沢川は、蓋をされた暗渠になる。
みんなで懐中電灯を照らしながら、トンネルの中の泥が溜まった川底を歩き、大冒険をしているような気分に浸った。
附属中学校の南にある加茂神社の南で、暗渠から抜け出し、残りは住宅街の側溝のようになった川を西へ進むと、シシ沢川は裾花川に流れ出た。

 

 

そこから裾花川に沿って住宅地を北へ進むと、旭山橋で対岸に渡れる場所に出る。
 
旭山橋と名付けられているけれども、旭山が頂上が見えないほど間近にそそりたっているだけで、登山口ではなかったと思う。
旭山橋の袂に里島発電所が建っていて、川の上流に立ち塞がる山々を見通せば、崖のような中腹を国道406号線が巻いているのが小さく見え、そこを通った時の恐ろしさが脳裏に蘇ったものだった。
 
 
里島発電所の前は、河原に降りられるようになっていて、岩ばかりがごろごろしていたけれども、水流が穏やかだったので、水着を持ってよく遊びに出掛けたものだった。
 
「サイレンが鳴ったら、上流の裾花ダムが放流する合図だから、すぐ川から出るように」
 
と、学校でも家でも言い聞かされていたが、1度も聞いたことはなかった。
 
僕が初めて釣りを経験したのも、この場所である。
校外授業で釣りをすることになり、両親にねだって釣竿を買って貰うほど意気込んでいたのだが、1匹も釣れなかったことしか覚えていない。
 
 
旭山橋に沿って、河中に古びたコンクリート製の橋脚が2本、流れに洗われていたが、それが、太平洋戦争前に長野と白馬を結ぶべく建設された善光寺白馬電鉄線の遺構と知ったのは、かなり後のことである。
川岸にも、橋台らしき構造物が残っていて、発電所の北側の畦道も、線路の路床のように見える。
 
善白鉄道は、長野駅の近くの南長野駅を出ると、すぐに裾花川の東岸に出て、里島発電所の先で裾花川を何回か渡りながら西へ向かったのだが、難工事と財源不足のために、途中までの開通に終わり、戦時中の資材供出のために廃線となった。
近所の遊び友達が通っていた山王小学校にも、不思議な築堤が残っていて、これは何だろう、と子供心に訝しく思っていたのだが、それも善白鉄道の路床と駅の跡だった。
 
 
このように、歩き回ると楽しい土地だったが、通学路は、それぞれの子供ごとに厳しく決められていて、その経路を外れることは許されていなかった。
集団登下校をしていた訳ではない。
北石堂の家の近くから通っている子供は、殆んどいなかった。
 
自宅から県庁前に出て、県会議事堂や合同庁舎に沿って県庁通りの坂を登り詰め、信州大学に突き当たったら国道406号線を左折して小学校へ、という通学路から逸れてはならないと教わっていた。
国道406号線の手前で左に曲がり、小学校へ斜めに短絡する未舗装の狭い抜け道があって、よく通ったけれども、それも厳密に言えば校則違反だったから、スリル満点だった。
 
合同庁舎や県庁の西側を通る砂利敷きの小道も、お気に入りの校則違反だった。
県庁通りよりも高台を通っていたので、眺めがよかったし、草っ原や墓地などもあり、身を屈めて藪をくぐり抜けるような場所もあって、変化に富んでいた。
 
附属小学校は、基本的に、徒歩通学しか許していなかった。
僕らのクラスでは、数キロ離れた善光寺の裏手の住宅地から通っていた女の子だけが、バス通学を許されていた。
その娘を、僕らは、羨望の眼差しで特別視したものだった。
 
バス通学とは、僕ら田舎の小学生にとって、ちょっぴり大人の匂いがする、雲の上のような贅沢な話だったのである。


僕が小学校3年生だった、ある日の夕方の話をしたい。
 
昭和49年ということになる。
時事問題に関心を持つような年齢ではなかったけれども、僕の耳に入ってくるニュースは少なくなかった。
当時の首相は田中角栄氏で、「日本列島改造論」をぶち上げて今太閤と呼ばれるほどの羽振りの良さだったが、前年の第4次中東紛争に端を発したオイルショックが高度経済成長を停滞させ、加えて「狂乱物価」と呼ばれるほどの物価高騰を来したことで、支持率が大きく下落していた。
加えて、この年の「文藝春秋」11月号に立花隆氏が掲載した「田中角栄研究」をきっかけに、金脈問題が取り沙汰されるようになり、参議院選挙で大敗した田中氏は、年内に退陣を余儀なくされる。
 
何時のことだったか、記憶は定かでないのだが、北石堂町の家の前を、首相時代の田中角栄氏が通ったことがある。
どうして、昭和通りやターミナル通りでなく、狭い路地に首相を通したのか、今となっては謎としか言いようがないのだが、朝から「ここを田中角栄が通るぞ」と両親が騒いでいて、僕も家の前で迎えた記憶があるので、学校が休みの日だったのだろう。
 
沿道には人だかりができ、警察が、交差点の信号を、首相が通る方向で青に固定したことを覚えている。
重要人物に対してならば、そのようなことが可能なのか、と驚きながらも、実際に車列が通過するまでは、かなり長い時間を待たされた。
晴天の日だったが、黒塗りの車の中は暗くて、首相の顔は見えなかった。
 
ロッキードL-1011型旅客機「トライスター」の導入に際して、田中氏が多額の賄賂を受け取った「ロッキード事件」が明るみに出たのは昭和51年であるが、政治家嫌いの父にしては珍しく、
 
「田中角栄は偉い奴だ。小学校しか出ていないのに、努力して首相まで上り詰めたんだからな」
 
と言っていた。
 
僕の家庭では、テレビのチャンネル権は父が握っていて、僕ら子供は、父が許可した番組しか観られなかった。
月曜日は「水戸黄門」、水曜日が「銭形平次」、金曜日が「太陽にほえろ」が定番で、中でも土曜日の「8時だヨ!全員集合」は、僕らはもちろん、父も気に入っていたようで、
 
「ドリフターズは馬鹿なことばかりやってるけれども、自分で稼ぐだけ偉い」
 
と、口癖のように言っていた。
その言葉の対比には、父が批判的な皇室制度があった。
学徒動員で出征して身体を傷めた父は、敗戦後も地位に留まり続けた昭和天皇が、戦争責任をとっていない、と非難し続けていた。
幼少時は、事あるごとに父に反発していた僕が、最も同意できなかったのが、その史観であった。
ドリフターズの荒井注が脱退し、志村けんが加わったのが、昭和49年である。
 
後に僕が熱烈なファンになるアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の1作目の放映が始まったのが、この年の10月であるが、もちろん観せて貰えるはずもなかった。
「宇宙戦艦ヤマト」は、同じ年の4月から放映されていた裏番組の「アルプスの少女ハイジ」に視聴率で惨敗し、放映期間を短縮されて終了する。
僕が「宇宙戦艦ヤマト」を明確に意識し始めるのは中学生になってからのことだったが、幾つかの場面に見覚えがあったので、何かの拍子に目に入ったことがあったのかもしれない。
 
この年に放映された「がんばれ!ロボコン」や「てんとう虫の歌」なども、記憶に残っている場面が少なからずあるので、父が帰宅するまで、こっそりテレビをつけられる時間があったのかもしれない。
 

そのようなある日のこと、授業から解放された僕は、いつもならば校庭で一緒に遊んでいく友達の目を避けるように、そそくさと校門を出て、いつもと違う方向に歩き出した。
規則通りの下校路ならば、国道406号線を東に行かなければならないのだが、小学校の南へ伸びている妻科通りを、後ろめたい気分に駆られながら、小走りで歩いたのである。
 
古いスナックや商店が並ぶ狭い道路を、数百メートルほど南へ行くと、かなり急な下り坂がある。
左には、大きな樹木が生い繁る妻科神社の境内が広がっている。
 
急坂を下り切って、交差点を左へ曲がると、「妻科神社前」停留所の錆だらけのポールが立っていた。
家々の間から顔を覗かせている旭山が、一段と近くに見えた。
 
数日前に下見をして、ポールの時刻表を調べておいたので、それほど待つこともなく、「中廻り」と表示を掲げた濃い緑色の川中島バスがやってきた。
僅かな待ち時間でも、知った顔に出会わないかと身を縮める思いで過ごしたので、バスが現れた時にはホッとした。
 

「中廻り」線のバスは、車体中央部に乗降扉が設けられている年代物の車両だった。
おそらく、トヨタ製かいすゞ製のどちらかである。
当時の川中島自動車はトヨタ製のバスが多く、同社で初めてワンマン運転用に改造された車両もトヨタ製であったという。
 
車室の床は、踏めばギシギシと鳴る木張りだった。
扉の脇には、制服姿の女性の車掌さんが、肩かけ鞄をぶら下げて立っていた。
現在の我が国ではほぼ絶滅した、ツーマン路線だったのである。
 
ランドセルを背負っているので、不振に思われないかと緊張したけれど、車掌さんは素知らぬ顔だった。
僕は、生まれて初めて、1人で路線バスに乗りこんだのである。
 
 
「中廻り」線は、長野駅を出ると中央通り、昭和通りを経て、県庁前から県庁通りを北上して合同庁舎の南の路地を西へ曲がり、妻科神社の交差点で妻科通りを北へ折れ、附属小学校の前で国道406号線を西へ向かう。
四角形を描くように、長野商業高校、新諏訪、桜枝町と、信州大学教育学部と附属小・中学校のある区画を時計回りに周回して、再び県庁通りの坂道を県庁前へ南下していく。
凸の字を逆さにしたような環状運行をしていたのだ。
 
小学生の僕が最も頻繁に目にした、身近な路線バスが、この「中廻り」だった。
いつしか、乗ってみたい、と熱烈に思うようになっていた。
毎日、いつ乗ろうかと考えては、何となく怖いなあ、と逡巡しながらも、とうとうその日に決行したのである。

「中廻り」線は、時計回りの一方向しか運行されていない。
バスは、「妻科神社前」バス停から、僕が歩いてきたばかりの道を戻っていく。


「左、オーライです」
 
と、女性車掌が独特の声を掛けて神社の角を曲がると、運転手がクラッチを深く踏み込み、杖のように長いギアを切り替えて、古びたバスは、エンジンをブルブルと震わせながら、仰け反るように急坂を登り始める。
この坂をバスで登ってみたかったから、僕は妻科神社まで歩いたのだが、いくらオンボロバスでも、歩くよりは呆気なく登り詰めてしまう。
 
次は「衛生専門学校前」バス停であるが、何処にそのような学校があるのか、今でも判然としない。
沿道にある友達の家の方が、気になったりする。


西長野の交差点で国道406号線へ左折すると、間もなく「附属小学校前」バス停である。
道路に沿う校庭で、友達が遊んでいるのが見えて、僕は首をすくめた。
 
敷地があっけらかんと広く、妻科神社より明るい感じがする「加茂神社前」は、附属中学校の体育館の真ん前だった。
加茂神社を挟んだ南側の路地を、シシ沢川が流れている。
シシ沢川の暗渠にも劣らない大冒険をしているのだ、と心が昂ったことを覚えている。
 

「長商入口」を過ぎると、道はいよいよ細くなり、雑然と建て込む街並みを縫って、鉤状に何度も曲がるような線形になる。
対向車が来れば、曲がり角を大回りしなければならないバスは、停車して待っていなければならない。
どうして、このようにジグザグの道を造ったのか、と思う。

「新諏訪」停留所の交差点をまっすぐ西へ進めば、僕が怖い思いをした鬼無里と白馬に向かうことになる。
当時、「戸隠バードライン」ではなく県道経由の戸隠行きや、鬼無里行きの路線バスが、善光寺門前からこの狭い道路を運行していたが、恐ろしくて乗りたいとは思わなかった。
長野から白馬まで国道406号線を走り通す路線バスはなく、国道19号線を使う高府経由大町行きのバスが、途中の「青具」停留所で白馬行きに接続していた。
 
 
「中廻り」線のバスは、国道406号線を離れて直角に右折し、更に狭い隘路へ巨体を潜り入ませていく。
小ぢんまりとした商店やスーパーの軒先をかすめるように、「中廻り」線のバスは、「赤地蔵」「西長野」「山屋前」と進んでいく。
この通りを、僕らは「桜枝町の通り」と呼んでいて、附属小・中学校の裏側にあたる。
「山屋」とは、いったい何だったのだろうか、と首を傾げていたが、ブログを読んでいただいた方から、コメントで蕎麦屋の名とお聞きした。
バス停の名に採り上げられる蕎麦屋、いつかは賞味してみたいものである。
 
20年以上経ってから、自分で車を運転して「中廻り」線の経路をたどってみたけれども、乗用車でさえ、すれ違いに気を使った。
 
こんなに狭かったのか?──
 
と、呆気にとられた。
桜枝町の通りばかりではなく、妻科神社の近辺も含めて、「中廻り」線が走った道路は、何処もかしこも、バスが運行されていたことが信じられないくらいに狭隘だった。

 
ところが、遠い記憶を探っても、バスがあちこちでよく曲がっていたな、という覚えはあっても、途徹もなく狭い道路を通ったという印象は薄い。
僕が10歳にも満たない幼さだったから、狭さを感じなかったのだろうか。
 
普段歩き慣れた街路が、バスの高い視点から、全く別の佇まいに見えることの方が新鮮だった。
僕は、ずっと窓にかじりついていた。
今でも、時々夢に見るほど心に刻み込まれている懐かしい街並みを、最初に見せてくれたのが、「中廻り」線のバスだった。


桜枝町の交差点を右折し、地附山の南側斜面を下る急坂の途中にあるのが、「桜枝町」停留所である。
この交差点を曲がらず東へ進めば、善光寺に突き当たる。
坂を後ろに登って行けば、歌が丘の東に位置する、当時は女子高だった長野西高校がある。
 
バスは、ギアを落としてエンジンブレーキを効かせながら、坂をまっすぐに下り、信州大学教育学部の敷地を回り込むように、国道406号線へと右折する。
このあたりは、平成10年の長野冬季五輪を境に、見違えるように道路が拡張され、新しい東西の目抜通りになったので、今では街並みが大きく変わってしまった。
当時のまま残っているのは、唯一、急峻な地形だけである。
 
再び県庁通りに出て、広い道路で視界が開けた時には、何となく肩の力が抜けた。
合同庁舎を右手に、交通会館を左手に見ながら、通学路である「合同庁舎前」「議員公舎前」の停留所を過ぎれば、いつも歩いている道路を、このように安楽に通り過ぎて良いのか、と再び後ろめたくなった。
 
「県庁前」停留所が、僕の初めての路線バス1人旅のゴールだった。
距離にして3~4㎞、時間にして20分くらいではなかったか。
幼かった僕には、何倍にも感じられた旅だった。
「中廻り」線は、そこから「昭和通り」、「かるかやさん前」、「千石入口」と、中央通りの繁華街を抜けて、長野駅へ向かう。

 

 
僕にとって最大の難関は、バスを降りる時だった。
路線バスで、どのように運賃を払えばいいのか、乗る前からの大きな悩みだった。
 
何よりも、金額が分からない。
母と一緒に、ワンマン運転だった「返目」行きの路線バスに乗っても、どのような仕組みで運賃を払っているのか、僕は今1つ理解していなかった。
 
「車掌さんが乗っているんだから、車掌さんに聞けばいいんだ」
 
当たり前のことを思いつくまでに、かなりの時間がかかった。
もしかすると、「返目」線に乗った時、母が運転手に運賃を尋ねたのかもしれない。
 
「県庁前」で「中廻り」線を降りる時には、内心もの凄くドキドキしたけれども、平然とした声音を装い、
 
「お幾らですか?」
 
と、おもむろに財布からお金を取り出して、車掌に渡した。
今、思い出しても、マセたガキだったな、と苦笑いしたくなる。
運賃は全く覚えていないけれど、40円だった気がしてならない。
 
バスの乗降口から地面に飛び降りると、大人に近づいたような、清々しい気分だったことが、今でもありありと思い出される。
 

十数年後には、全国を長距離バスで闊歩するようになった僕にも、そんな可愛げな時期があった、という話である。
 
僕が附属中学校に入学する頃、「中廻り」線は、「返目」線と同じ小型車両によるワンマン運行に変わった。
そして、僕が中学3年生の12月に附属中学校は郊外の長野電鉄線朝陽駅の近くに移転し、「中廻り」線を目にする機会はめっきりと少なくなった。
 
「中廻り」線が、平成3年に廃止されていたことは、東京から帰省した際に知った。
  
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