昭和57年3月26日、時刻は午後9時頃だったと思う。
夜も更けてきたというのに、長野駅東口は、大層な熱気と賑わいを呈していた。
当時の東口は、現在のように整備されていた訳ではなく、小ぢんまりとした駅前広場と古びた住宅地、僅かばかりの商店があるだけの鄙びた佇まいで、賑やかな西口に比べれば、まさに裏口と言う言葉がぴったりだった。
この夜ばかりは、数多くの人々が駅前の歩道にひしめき、ぎっしりと並んで駐車している大型バスの隊列で埋め尽くされている。
当時、高校1年生だった僕は、友人たちと乗車を待ちながら、ふと、高校でも同じ光景なのかな、と思った。
この日に開幕した第54回選抜高等学校野球大会、いわゆる春の甲子園大会に、北信越の代表校として、我が母校である長野県長野高校の野球部が出場することになり、大会2日目の3月27日に初戦が行われる予定であった。
応援団のためにチャーターされた貸切バスは60台にのぼり、加えて、国鉄が特別列車を仕立てていた。
総勢6000人の大応援団が、その夜、甲子園に向けて出発しようとしていたのである。
僕らは長野駅東口に集合するように指示されていたが、長野高校に集まって出発するグループもいたようである。
昭和初期に建築されたという古い校舎の窓に煌々と明かりが灯り、表通りに並ぶ何台もの大型バスの姿が脳裏に浮かぶようだった。
長野高校の横の通りは、長野電鉄線の長野駅から本郷駅までを地下化し、その跡地を拡張して造られた長野大通りの延長のようになっているが、名前はつけられていないものの、長野大通りが出来る前からある。
善光寺の東に隣接するNHKや信濃美術館、城山動物園がある城山の縁に面し、地付山に続く斜面を登り詰める、だらだらとした1kmほどの坂道だが、往復4車線が設けられて、道幅に余裕がある。
自転車で通学する僕は、密かにこの名無しの坂を「心臓破りの坂」と名付け、自転車のギアを落とさず、少しでも速く登ろうと全力でペダルを漕いだものだった。
市街地から長野高校に向かう路線バスは、長野駅から中央通り、昭和通りを経て、長野大通りの東を南北に走る緑町通りから「心臓破りの坂」を登り、SBC通りに出てから若槻団地や運動公園、国鉄三才駅に向かう長野電鉄バスと、中央通りから善光寺を経由して県道37号長野信濃線で長野高校を通り、宇木や若槻団地に向かう川中島自動車があった。
当時、県庁の近くに住んでいた僕は、高校に入学した直後は、昭和通りを新田町の交差点まで500mほど歩き、交差点の脇に置かれた「昭和通り」停留所からバスに乗って通学した。
長野電鉄バスの方が本数が多く、定期券を購入したのも同社の路線だったが、長野大通りが完成してからも、昔ながらの狭隘な緑町通りを使い続けるのはなぜだろう、と首を捻ったものだった。
気をつけなければならないのは、「昭和通り」から同じ若槻団地や運動公園へ向かうバスでも、「市役所経由」の系統に乗ってしまうと、通学路より遥かに東寄りの経路に入って、飛んでもない土地に連れて行かれてしまうので、必ず行先表示に「SBC経由」と書かれたバスに乗らなければならなかった。
1度だけ、ボーッとして「市役所経由」のバスに乗り込んでしまい、気づいた時にはどうしようもなく、終点の近くで「SBC経由」の長野駅行きに乗り換えたことがある。
僕は、始業の1時間ほど前に登校し、部室でまったりとするのが常だったので、遅刻はしないで済んだ。
たまに川中島自動車の宇木行きを利用して気分転換を図ることもあり、
「このバスは、善光寺大門経由、宇木行きでございます」
という録音テープのアナウンスが、「善光寺大門経由ウキウキ」に聞こえて、1人で笑いを噛み殺したものだった。
ただ、バスに乗るまでの徒歩がもどかしく、毎朝汗だくになって「心臓破りの坂」を登ることになっても、自転車通学の方がずっと自由が利いたので、いつしか僕は自転車通学に切り替えていた。
高校からの帰り道は、善光寺を回って、大門にある大きな書店で立ち読みをするのが楽しみになった。
当時、長野市街には大きな書店が幾つもあり、善光寺大門にある「西沢書店」、新田町の交差点にあるダイエーの店内にある「萩原書店」、そして長野駅前の東急百貨店に隣接する「平安堂書店」が僕のお気に入りだった。
この頃から小松左京、筒井康隆、星新一、豊田有恒、光瀬龍、田中光二といったSF作家をはじめ、北杜夫、新田次郎、江戸川乱歩、そしてコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズ、更には探偵ファイロ・ヴァンスが活躍するS・S・ヴァン・ダインに凝り始め、廉価な文庫本に限っていたものの、小遣いをはたいて買い求めたものだった。
S・S・ヴァン・ダインとは渋い作家に嵌ったものだと思うが、なぜか自宅に第6作の「ケンネル殺人事件」と第10作の「誘拐殺人事件」が置いてあり、その結末に大きな衝撃を受けたのと、登場人物に魅力を感じて、全巻を揃えたのである。
両親が購入を許してくれなかった漫画をこっそりと買い始めたのも、高校生の頃で、当時「エリア88」を連載していた新谷かおる、「みゆき」で人気が爆発したあだち充、「初恋スキャンダル」の尾瀬あきらといった漫画家の単行本を買い求めては、本棚ではなく、机の引き出しにしまったものだった。
前年の昭和56年の秋、北信越地区大会予選の我が母校の戦歴は、次の通りだった。
1回戦:金沢高校に7対6で辛勝。
この頃まで、僕たち在校生は、殆んど関心を持っていなかった。
2回戦:伊那北高校に9対2の7回コールド勝ち。
やるじゃないか、と、初めて母校の野球部の闘いぶりに注目した。
3回戦が決勝で、石川県星稜高校が相手だった。
古くは中日の小松辰雄投手、後には巨人の松井秀喜選手など、プロ野球選手を輩出している甲子園常連の名門校である。
在校生のほぼ全員が、運動公園にある長野県営球場まで応援に出掛けた。
負けて当たり前、当たって砕けろだな、と思っていたら、なんと、延長13回まで粘りに粘って、4対5の惜敗で終わったのである。
強豪相手に1歩も引かず、素晴らしい闘いぶりだった。
試合中は、応援する僕らも大いに盛り上がった。
我が母校の熱烈な応援の勢いもあって、アウェーの星陵高校は、少しばかりハンディがあったのかもしれない。
だから、と言う訳ではないが、敗れた悔しさは、あまり感じなかったような記憶がある。
それで終わりかと思っていた。
ところが、思いがけない推移になった。
その年の選抜から、それまで1校だった北信越の出場枠が、2校に増えたのである。
我が母校も、甲子園に出場できるかもしれない──
という噂が飛び交い始めた。
選抜結果は、北信越大会を機動力野球で制した星稜高校が、文句なしで当選した。
2校目の候補に浮かび上がったのが、地区予選準優勝の長野高校と、準決勝で敗れた高岡第一高校だった。
『硬球を握ったのが高校に入ってからの選手が大半を占めるなどの、チームカラーで好印象を与えた長野が、準優勝の実績も加味されて2校目で当選(当時の新聞より)』
という結果になったのである。
授業中に、そのニュースが校内に流れた時は、誰もが飛び上がって狂喜し、しばらく授業が中断した。
進学校だから縁がない、と考えていた甲子園の高校野球大会に、母校が初出場する。
僕らも、現役の在校生として、甲子園に応援に行けるのである。
一生に1度あるかないかと言う幸運、と言っても良いのではないだろうか。
日を追うごとに、甲子園出場に対する熱気は燃え上がっていった。
故郷や全国で活躍している同窓生からの募金額は、膨大だったと聞く。
「医師会から寄付金の割り当てが来たぞ」
と、飯田出身で長野高校とは関係のない父までもが、満更でもなさそうだった。
放課後の応援練習が佳境に入った頃に、1つの問題が持ち上がった。
我が母校の応援団員は、羽織、袴に高下駄という装いが定番だった。
蛮カラとも言える古風な容姿が、高校野球連盟から、甲子園に相応しくない、と注意を受けたのである。
長野県中から、というのは大袈裟かもしれないが、地元紙の信濃毎日新聞や、民放の番組がこぞって批判的に取り上げる問題となり、まさに郷土が一丸となって、抗議の嵐を巻き起こしたように感じられた。
「この服装は、長野高校80年の伝統に則ったものである。高野連ごときが、その伝統と価値観を踏みにじるのか」
カメラ小僧が群がるチアガールより、よっぽど健全ではないか。
結局は高野連が折れて、そのままの服装で応援してよろしい、とのお達しが出たようである。
長野高校には、入学直後の1週間、1年生全員が、放課後に先輩の応援団員にしごかれながら応援練習をするという奇妙な風習があった。
応援歌が、校歌をはじめ、「南下軍」「暁鐘の歌」などと軍歌調の歌ばかりで、確かに高野連好みではなかったかもしれない。
僕の脳裏には、母校の歌、と言えば、校歌とともに「南下軍」が思い浮かぶほど、強烈な体験だった。
「次、南下ぐーん!」
「たーだに血を盛る瓶なーらばー」
「声が小さい!やり直し!」
「たーだに血を盛る瓶なーらばー」
「やめろ!何だ、その軟弱な声は!お前ら、それでも長高生か!もっと真面目にやってくれー!」
「南下軍」は軍歌ではなく、金沢の旧制第四高等学校の寮歌で、同校が京都の旧制第三高校に部活で遠征する際に歌われものである。
長野高校は、松本深志高校と部活で定期的に遠征試合をすることが多く、その応援歌として使われるようになったと聞いている。
ただに血を盛る瓶ならば
高打つ心臓の陣太鼓
不滅の真理先頭に
五尺の男児要無きも
魂の響きを伝えつつ
進めと鳴るを如何にせん
嵐狂えば雪降れば
血は逆巻きて溢れきて
健児脾肉を嘆ぜしが
いよいよ燃え立つ息の火に
陣鼓響きて北海の
遂に南下の時至る
どうしてここまで罵倒されなければならないのか、と理不尽に思いながらも、何とか1週間を耐え抜き、最終日にどやどやと教室に入ってきた応援団員を、首をすくめて迎えると、打って変わって穏やかな表情をしていたので、おや、と愁眉を開いた。
よく頑張った、これでお前らも長高生の仲間入りだ、と笑顔でねぎらわれ、この先輩方、笑えるんだ、と驚きながらも、不意に得体の知れない感動が込み上げて来て、みんなで涙を流しながら肩を組んで校歌を歌ったことは、今でも忘れられない。
若い頃は、たとえ強制であっても、訳も分からず熱中することがあって良いと僕は思っている。
ただし、現在の価値観にはそぐわない行事かもしれず、今の高校生は耐えられるのだろうか、それどころか問題視されずに続いているのかどうかを、密かに心配していた。
ところが、新入生の応援練習は、松本深志高校をはじめ、県の内外を問わず一般的に行われているようで、長野高校でも、期間を3日間に短縮しながら継続しているようである。
その後の高校生活は、厳格だった中学校に比べれば自由奔放だった。
制服はなく、校舎が木造瓦葺で古かったこともあって、殆んどの生徒が、下履きのまま上がり込んでいた。
トイレも水洗ではなかった。
生徒の自主性を重んじる校風だったが、若干、僕らは自由を履き違えていたのかもしれない。
昭和56年秋の高校野球北信越予選大会から、同57年3月の選抜大会本番までの半年間では、藤田元司監督率いる巨人が4年ぶりにセントラル・リーグを制し、日本シリーズでも日本ハムを破ってV9時代以来の日本一に輝いたので、僕は非常に気を良くしていた。
大平正芳首相が昭和55年の解散総選挙中に急逝し、鈴木善幸氏が後を継いだが、ロッキード事件の裁判で政界が騒然とする一方で、中国残留日本人孤児が初めて来日し、戦前・戦時中に満蒙開拓団を多数派遣した長野県では、戦後36年にして、改めて戦争の傷痕を突きつけられた年になった。
昭和57年2月8日には、杜撰な耐火設備が理由で33人もの犠牲者を出したホテルニュージャパン火災、翌9日に精神疾患を患った機長による日本航空350便墜落事故が続け様に発生して、遣り切れない思いになった。
そのような世相とはあまり関係なく、ぬるま湯に浸っているかのように過ごしていた高校生活が、甲子園出場決定で、ビシッと1本の筋が入ったような気分になったのは確かである。
義務教育を終え、高校生になった通過儀礼だった4月の応援練習に比べれば、甲子園を前にした練習にも、一段と気合いが入った。
試合の前日、僕らのクラスがあてがわれたのは、長野電鉄バスだった。
遂に南下の時に至ったのである。
バスのゴロゴロというアイドリング音は、まさに陣太鼓のように空気を震わせている。
長野市に本社を置くバス事業者、川中島自動車と長野電鉄の貸切車がフル稼働だったのではないか。
タクシー会社である長野観光のバスなども、混ざっていたようである。
少し遅れて、国鉄の特別列車も、長野駅を発車している。
僕の同級生の1人は、集合時刻を間違えて、バスに乗り遅れた。
せっかくの甲子園なのに勿体ない、とみんなで話していたのだが、彼は、翌朝になると、何食わぬ顔で甲子園に姿を現したではないか。
「貸切列車に乗ってきたんだよ。長野駅はすげえ混雑だったけど、全然改札してなくって、乗り放題みたいな感じだったぜ」
隊列を組んだ総勢60台のバスは、国道19号線を一路南下していく。
僕にとって、初めての夜行バス旅である。
まだ、長野市に高速道路が通じていなかった時代だった。
善光寺平と安曇野を隔てる険しい筑摩山地を、犀川沿いに越えていく国道19号線は、父の運転で通い慣れていたけれども、うねうねと曲がりくねって、現在と比べれば大変な難路だった。
最後列の席に座っていた僕は、馴染みの道だからとなめきって、隣席の友達とトランプに興じてしまい、気づけば、したたかに車酔いしていた。
長野から2時間あまりで到着した「ドライブイン松本」で、僕はトイレに駆け込んで嘔吐した。
ようやくスッキリして、気分も明るくなり、何かといたわってくれた友達に、缶ジュースを奢った記憶がある。
「ドライブイン松本」は、国道19号線で松本市街に入る手前にある大きなドライブインで、飯田の父の実家の行き帰りに、家族で必ず立ち寄ったものだった。
当時のドライブインにはトラック運転手御用達のような近づき難い雰囲気があったが、「ドライブイン松本」は家族連れも多く、寄るのが楽しみだった。
平成5年に長野自動車道が開通し、国道19号線を長距離客が通らないようになってから、利用客が減少し、いつの間にか閉鎖された。
幼い頃、自家用車で遠くに出掛けると、必ずと言っていいほど酔ったものだったが、バスで酔ったのは初めてだったので、少なからず気落ちした。
ただ、乗用車でも、1度胃の中を空にしてしまえば二度と気持ち悪くなることはなかった。
すっかり気分が良くなった僕を乗せて、松本市内を通り抜けたバスは、塩尻から木曾谷へ向かった。
塩尻から国道153号線に入って伊那まで行けば、中央自動車道の伊北ICに行けるのに、と首を傾げたが、バスは木曽川に沿って深夜の国道19号線をひた走り、岐阜県の中津川ICから中央道に入った。
塩尻から先の国道19号線は、カーブや信号が少なく、「木曽高速」の異名を持つほど速度を上げる車が多かったので、中央道と所要時間に大差がなかったのかもしれない。
狭い車内でもよく眠ったのだろう、木曽谷に入ったあたりから到着までの車中は、殆んど覚えていない。
夜中にふと目を覚まし、窓のカーテンをそっとめくると、バスは猛烈な勢いで疾走していて、あやふやな輪郭の沿道の木立ちや建物が、後方に飛び去っていく。
名神高速に入ったのだな、と思った。
驚いたのは、追い越し車線の車の走り方で、ろくに車間距離も開けずに、レースのような団子状態で次々とバスを追い抜いていく。
何と恐ろしい道路なのか、と仰天した。
次に気づいた時には、バスは阪神甲子園球場の駐車場に停まっていた。
夢心地でバスを降りると、ギラギラと照りつける朝の日差しが、とても眩しかったのを覚えている。
まだ3月なのに、その暑さは、北の山国から出てきた者にとっては驚きだった。
関西に出掛けたことがあると言っても、修学旅行や家族旅行で訪れたのは京都や奈良であったので、大阪を越えて兵庫県まで足を伸ばしたのは初めてだった。
遠くまで来たことが、無性に嬉しかった。
青空を背景にふり仰いだ、蔦だらけの甲子園の外壁の鮮やかさは、今でも忘れらない。
テレビや新聞で見た光景が、目の前にあることが、まだ夢の続きのようだった。
僕らがぞろぞろとスタンドの入口へ歩いていると、
「めざせ100勝!中京高校」
と横断幕を掲げたバスの隊列が現れた。
甲子園出場24回という強豪、中京高校が、この選抜大会で甲子園春夏通算100勝を目前にしていることは知っていたので、眩しい思いで見つめた。
本当に、甲子園へやってきたのだな──
という実感が、ふつふつと湧いてきた。
中京高校は、3月31日の2回戦で大成高校を破り、100勝を達成している。
我が母校の出番は、午前8時にプレイボールの第1試合だった。
こちらは先攻で、応援団は3塁側スタンドに陣取った。
初めて見回す甲子園球場は、思いの外、小さく感じられた。
こんなものなのか?──
ところが、反対側のスタンドや、グラウンドで整備をしている人間の豆粒のような小ささに、球場が小さく感じるのは、全ての構造物が大きいための目の錯覚であることに気づいた。
僕たち応援団には「N」のマークが入った野球帽が、赤と青の2種類配られた。
僕は赤である。
大きく「N」字型に色分けした人文字を作ろう、という目論見だった。
ちょうど、PL学園の派手な人文字が評判になっていた頃である。
家に帰ってから、テレビ観戦していた両親に聞いたが、
「へえ、そんなことしてたんだ──スタンドは時々テレビに映ってたけど、何がなんだか分からなかったよ」
と笑われたので、残念ながら、その程度の出来映えだったのだろう。
初戦の相手は、東京代表の二松学舎学園大学付属高校だった。
夏目漱石の出身校と聞いたが、馴染みのない名前である。
試合開始の直後、序盤は淡々とした投手戦で進んだ。
我らが長野高校のエース、金沢先輩は、小柄な身体で、学校で会うと華奢に見えたが、サイドスローの緩急織り交ぜた投球で、走者は出すものの、相手に点を与えなかった。
二松学舎の投手も好投で、我が母校も決め手に欠けるもどかしい試合運びが続いた。
そして、魔の4回裏を迎えた。
暴投とエラーがらみで、あれよあれよと3点を奪われてしまったのである。
6000人の応援団が呆然とする、一瞬の3失点だった。
どのような流れで点を取られたのか、未だに、全く思い出せない。
しかし、金沢先輩は、よく気分を一新して持ち直し、後続を0点に抑えた。
後半、味方打線に3塁打が出た時には、俄然、盛り上がった。
みんなでスクラムを組み、声を枯らして応援歌を歌い、祈るような思いで声援を送った。
結局は、完封負けであった。
長 野:0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
二松学舎:0 0 0 3 0 0 0 0 x 3
長野──31打数・6安打・0打点・二塁打0・三塁打1・本塁打0・三振6・四死球2・犠打1・残塁7・失策2・併殺0・暴投1・ボーク0・捕逸0・打撃妨害0
二松学舎──25打数・6安打・2打点・二塁打2・三塁打0・本塁打0・三振2・四死球4・犠打5・残塁7・失策0・併殺0・暴投0・ボーク0・捕逸0・打撃妨害0
張りつめた投手戦を窺わせる数字である。
金沢先輩は、本当に好投だったと思う。
バックもよく守り、そして粘り強く攻撃した。
打数や安打数では負けていないのである。
試合終了後、スタンド前で頭を下げる選手に向かって、
「よくやったぞ!」
「頑張ったな!」
「素晴らしい試合をありがとう!」
と、感謝と激励の言葉を投げかけながら、応援団全員で歌った校歌のことは、一生忘れないだろう。
奈良街道を南下して宇治平等院などを見学するなど、いきなり修学旅行のような展開になった。
古寺巡りは好きだったし、平等院を訪れるのは初めてだったので、驚いたものの嬉しかった。
あたりを黄昏が覆う頃合いに、バスは、伏見桃山城キャッスルランドに横づけされた。
平成15年に閉鎖されてしまったが、豊臣秀吉晩年の城跡に建てられた遊園地である。
大食堂で夕飯を食べてから、すっかり日が落ちて貸切状態となった遊園地で、どのアトラクションに乗っても良い、と遊び放題が宣言された。
応援資金が余ったのだろうか。
印象的だったのは、絶叫マシーンである。
ローラーコースターのように連結された車両に乗り、がっちりと固定器具を装着するが、僕の記憶では、その動きはまるで、バイキングだった。
「スーパー・ループス」と名付けられていたらしいが、縦に円形を成すレールを、少しずつ振幅を増やしながら行ったり来たりを繰り返した挙句、仕舞いには、真っ逆さまで停止したのである。
悲鳴が上がる中、誰かのポケットから、バラバラッと何かが地上に落ちて行った。
その頃の信州には、絶叫マシーンなどはなかったから、新鮮な経験だった。
帰りのバスの記憶は、殆んど残っていない。
疲れて、よく眠ったのであろう。
翌朝、長野駅に到着して、僕らの熱い春の祭典は終わった。
長野高校が闘った二松学舎大付属高校の、その後の戦績は、以下の通りである。
2回戦:4対3で 鹿児島商工に勝利。
準々決勝:8対3で郡山高校に勝利。
準決勝:3対1で中京高校に勝利。
4月5日に行なわれた決勝戦で、PL学園に15対2と大敗したものの、見事、準優勝に輝いたのである。
我が母校は、甲子園準優勝校と闘ったことになる。
しかも、PL学園を除けば、金沢先輩が最少失点である。
ちなみに、長野高校は、昭和60年の第57回選抜高校野球大会にも、松商学園とともに北信越代表校に選ばれたが、卒業していた僕は応援に行かなかった。
結果は、明野高校に2対4で1回戦敗退だった。
3年前と異なり、得点を上げたことは立派であり、点が入った時に応援席で盛り上がりたかったな、と多少残念に思った。
今でも、何かの拍子に、
「ああ、青春は君に輝く」
と、甲子園の入場行進曲が、口をついて出ることがある。
素晴らしい青春のひとときを過ごせた幸運に感謝する気持ちは、今でも変わりはない。
同時に、太陽に燦々と照らされた広い球場と、白いユニフォーム姿の選手たち、そしてスタンドを埋め尽くした応援団が、脳裏に鮮やかに甦る。
生まれて初めて、バスで一夜を過ごした記憶とともに。
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