蒼き山なみを越えて 第56章 平成18年 高速バス長野-甲府線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成18年の真夏に、珍しい旅をした。


埼玉県のさいたま新都心から仙台へ向かう昼行高速バス、仙台から前橋・高崎へ向かう夜行高速バス、前橋から新潟へ向かう昼行高速バス、新潟から高田へ向かう昼行高速バス、そして長野から甲府へ向かう昼行高速バスと、5本の高速バスを組み合わせたバス三昧の旅である。

何が珍しいのかと言えば、さいたまから仙台、前橋を経て新潟まで、3本の高速バスが、群馬県に本社を置く日本中央バスの路線だったのである。



8月中旬の週末、新しく拓かれた新開地に相応しく真新しい建物は全て立派であるけれども、人影が少なくて、どこか無機質な雰囲気が漂っている、さいたま新都心駅に降り立った。
既に日は西に傾きかけて、駅と直結したバスターミナルは、長く伸びた影に覆われて薄暗かった。

乗り場に現れた日本中央バスは、白地に金色のラインを身にまとっていて、側面に「東京・さいたま・群馬↔大阪・京都・名古屋・金沢・仙台・羽田・富山・新潟・奈良」と、同社が結んでいる都市名がずらりと羅列されている。
荒川の対岸の東京・板橋車庫を起終点にして、蕨錦町、武蔵浦和駅を経て、さいたま新都心駅に現れた仙台行きのバスは、「ミリオンライナー」号と名付けられていた。 



平成17年3月に、日本中央バスが、市ヶ谷・新宿・池袋・さいたま新都心から仙台へ向かう夜行便を開業した時は、驚いたものだった。
本社がある群馬県と全く関係がない土地を結ぶ路線だったからである。

どうやら、板橋に車庫のあるバス会社を買収したらしく、同じ年の8月に昼行便の「ミリオンライナー」号が登場している。
それに先立つ平成16年に、さいたま新都心駅・高島平駅前・板橋NTT前・新宿ヒルトン東京・赤坂プリンスホテル・ホテルグランドヒル市ヶ谷から、金山総合駅・名古屋駅・京都駅・大阪OCATに至る首都圏と中京・関西を結ぶ夜行路線と、ヒルトン東京・赤坂プリンスホテル・ホテルグランドヒル市ヶ谷・さいたま新都心から富山駅と金沢駅に向かう夜行路線にも手を染めていた。



この頃の日本中央バスの路線展開で思い浮かべるのは、Jリーグのサッカーチームであるヴェルディのことである。

昭和44年に読売サッカークラブとして発足した伝統があり、平成4年のJリーグ開幕に備えて、読売グループ3社の出資で読売日本サッカークラブが設立された。
ただ、東京都にJリーグの規格に合ったスタジアムがなく、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地としたのである。
Jリーグ発足前後には、読売ヴェルディと言う呼称が用いられていたらしいが、Jリーグでは、チーム名から企業名を排して、ホームタウンの自治体名を使用する方針を定めていたため、程なく、ヴェルディ川崎を名乗るようになった。


平成5年に、米軍調布基地跡地に「武蔵野の森スタジアム(現・味の素スタジアム)」を建設する計画が持ち上がると、ヴェルディは同地への移転を発表し、調布市も積極的に誘致に乗り出した。
しかし、スタジアム完成までの本拠地が不透明で、なおかつJリーグ開幕初年度に移転を発表したため、地域密着理念の全面否定と受け取ったJリーグは拒絶の姿勢を示した。
川崎市も、等々力陸上競技場の大規模改修に着手した時点での移転通告であったため大いに反発し、調布市も誘致の前提として円満解決を提示、ヴェルディはJリーグ実行委員会からの白紙撤回勧告を了承したのである。

平成11年10月、ヴェルディは、再度東京への移転構想を発表する。
「味の素スタジアム」が平成13年に開業することが決定し、川崎フロンターレがJ1に昇格したことで、川崎市も移転を容認した。
平成13年に川崎から東京へホームタウンを移し、東京ヴェルディを名乗ったわけである。


一時はJリーグのチェアマンと読売新聞の社主が論争するような事態に発生し、要するに、ヴェルディは東京の名を名乗りたいのだなと、僕は少しばかり覚めた目で推移を見守っていた。 

プロ野球で巨人ファンの僕が、ヴェルディのファンにならなかったのも、このような推移が一因かもしれない。



日本中央バスも、東京の会社になりたかったのかも知れない。

ところが、さいたま・東京-名古屋・京都・大阪線は、わずか1年後の平成17年9月に運行を休止し、東京・さいたま-富山・金沢線も、平成25年に起終点を秋葉原駅に延伸し、グランドプリンスホテル赤坂とホテルグランドヒル市ヶ谷停留所を廃止、川越・藤岡・高崎・前橋といった埼玉・群馬県内に停車する運行経路に改められた。

都内停留所がグランドプリンスホテル赤坂やホテルグランドヒル市ヶ谷、ヒルトン東京といったホテルばかりで、ターミナルではなかったことも一因だったのかも知れない。

後に、僕が秋葉原から金沢行きに乗車した時も、秋葉原からは2人、新宿のヒルトン東京では1人も乗車しなかったのと対照的に、埼玉県と群馬県内停留所の乗車で、ほぼ満席になったのである。


東京・さいたまと仙台を結ぶ路線も、知名度が得られなかったのか、夜行便が平成20年9月に、昼行便「ミリオンライナー」号が平成23年11月にそれぞれ運休し、日本中央バスから、本社のある群馬県に無縁の高速バス路線は全て消えた。
バスの側面には「東京・さいたま・群馬」の順で書かれているが、日本中央バスは地元の群馬で踏ん張れ、ということなのだろうと、僕は解釈している。 



定刻18時にさいたま新都心駅を出発した「ミリオンライナー」号は、黄昏の市街地を抜けて、岩槻ICから東北道に入った。
見渡す限りに広がる関東平野を赤く染めて、夕陽が西に沈もうとしている。


地平線の彼方から少しずつ擦り寄ってくる山々を愛でながら、深まっていくみちのくの情緒に浸ることが、東北へのバス旅の神髄であるが、夕刻の最終便ではそれも叶わない。
旅の鳥羽口にも関わらず、暗転した車窓を見つめていると、心まで鬱々と沈み込んでいくようである。
漆黒の闇に塗り潰された窓に映る自分の顔を見つめながら、僕はいったい何をしているのだろうと思う。



広瀬川流れる岸辺
想い出はかえらず
早瀬踊る光に
揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ流れの岸
瀬音ゆかしき杜の都
あの人はもういない

「青葉城恋唄」は、歌詞と旋律の優しさ、美しさから、僕が大好きな曲である。
このように素敵な歌に、郷土が歌いこまれている仙台の人々が羨ましいと思う。

「ミリオンライナー」号の仙台到着は22時30分である。
そんな夜更けに、杜の都の情緒に浸れるはずなどないではないか、と若干冷めた気分でバスを降り立った。 



思いがけないことに、仙台は七夕祭りの真っ最中で、駅の近くのアーケード街には、色とりどりの七夕飾りが艶やかに揺れていた。

仙台の七夕祭りは、江戸時代の初期に、伊達政宗が文化向上の目的で奨励したことで、盛んになったとされている。
明治6年の新暦採用で廃れかけたものの、昭和2年に商店街の有志によって大規模に七夕飾りが復活し、大勢の見物客で賑わったという。
戦争中は縮小されたが、昭和21年、空襲で焼け野原となった街に52本の竹飾りが立ち、仙台七夕は力強く復活した。
今ではおよそ3000にも及ぶ七夕飾りが街を彩り、「東北三大祭り」の1つに挙げられている。

10mを超える竹から7種類の飾りがぶら下がっている様を見上げながら、浴衣姿の女性が目立つ華やかな街路を散策するのは、楽しかった。

学問や書の上達を願う「短冊」。
病や災いの身代わり、または裁縫の上達を願う「紙衣」。
長寿を願う「折鶴」。
富貴と貯蓄、商売繁盛を願う「巾着」。
豊漁を願う「投網」。
飾りつけを作る時に出る裁ち屑・紙屑を入れ、清潔と倹約を願う「くずかご」。
織姫の織り糸を象徴する「吹流し」。
昨今は、くす玉がついた吹き流しが主流だという。

次のバスが発車するまでの束の間の滞在で、歩くだけで汗が滲む蒸し暑さに閉口したけれども、灯火に煌めきながら夜風に揺れる七夕飾りが幻想的な、杜の都の真夏の週末だった。

七夕の飾りは揺れて
想い出はかえらず
夜空輝く星に
願いをこめた君の囁き
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ七夕祭り
葉ずれさやけき杜の都
あの人はもういない


「青葉城恋唄」の一節を思い浮かべながら、出かけて来て良かった、と心から思う。 



たった30分足らずの滞在で、僕が杜の都を後にしたのは、23時ちょうどに発車する「仙台ライナー」号である。
平成16年1月に開業したばかりの新路線で、乗り場に横着けされたバスの外観は「ミリオンライナー」号と変わらないが、車内は横3列独立シートの夜行仕様で、ゆったりとした座席に深々と身を沈めれば、自然と気持ちが安らいでくる。

日本中央バスの夜行便は、あらかじめ乗車券を購入していても、前もって座席が知らされている訳ではない。
改札時に運転手さんから番号を告げられて、初めて一夜を過ごす座席が判明する方式だから、乗車するまでは、どの席が当てがわれるのかが心配になる。
運良く、指定されたのは窓際席だったので、大いに安堵した。



仙台駅前を定刻に発車したバスは、東北道を南下し、佐野ICで一般道に降りてしまう。

午前3時30分着の佐野新都市バスターミナルを筆頭に、館林、邑楽、大泉、太田、桐生、伊勢崎、前橋、高崎、そして終点の藤岡と、国道50号線に沿った北関東の街々に10~30分おきに停車していく。
夜間にしては煩わしいような道中である。


佐野や館林で降りる乗客にしてみれば、夜行というよりも、終電代わりの深夜急行バスのような使い勝手ではないだろうか。



僕はぐっすりと眠ってしまい、1度も目を覚まさなかった。
夢を見ていたような気もするのだが、はっきりと覚えている訳ではない。
停留所に停まれば、熟睡していても、座席をすり抜けていく降車客の気配で目が覚めることが少なくないのだが、その夜は、途中で降りる人がいなかったのかもしれない。

早朝6時過ぎに前橋バスセンターに降り立つと、何となく夢の続きを見ているかのような、現実感が喪失した気分だった。



バスセンターを名乗るからには、周辺に何らかの飲食店などが集まっている市街地を想像していたのだが、だだっ広い田園地帯の真ん中にポツリと立つ、郊外の車庫に過ぎなかった。
次に乗るバスの発車時刻まで2時間もある。

途方に暮れながら周辺を散策してみたが、眠そうな店員が手持ち無沙汰にしているコンビニエンスストアが、隣りに1軒建っているだけだった。
大阪からの「シルクライナー」号が到着したり、池袋行きの「関越高速バス」が発車していったり、車庫としては早起きなのだが、乗降客は1人もなく、運転手が、こんなところで何をしておるのか、といった訝しげな表情で僕を眺めていく。



新潟行き高速バスの始発地だから降りたのだけれど、「仙台ライナー」号を高崎駅まで乗り続けていれば、喫茶店でモーニングくらいにはありつけただろうと、単なる車庫にバスセンターなどと大仰な名称をつけた日本中央バスが恨めしい。

青々とした田園に、朝の日光がぎらぎらと照りつけている。
生い繁る稲を揺らして、気持ちのいい風が吹き渡っていく。
この日も暑くなりそうだった。


退屈極まりない2時間足らずを過ごし、ようやく、7時50分発の新潟行き高速バスが姿を現したときには、嬉しかった。


平成17年に開業したばかりの、日本中央バスで最も新しい路線である。
前橋バスセンターから乗車したのは僕だけだったが、8時15分発の高崎バスセンターと8時20分発の高崎駅から、数人の若い女性客が、賑やかにお喋りをしながら乗ってきたので、こちらまで華やいだ気分になった。 



このバスは前橋市街には寄らず、真っ直ぐ高崎に向かうから、前橋から利用しようとする人には、使い勝手が悪そうである。


当初は新潟交通との共同運行であったが、平成25年に同社が共同運行から手を引き、単独運行となっている。
日本中央バスの路線は単独運行ばかりで、平成11年に開業した「関越高速バス」池袋-高崎・前橋線から共同運行の西武バスが撤退し、当初は宮城交通が「SGライナー」号の愛称で参入していた「仙台ライナー」号も、平成17年に運行を取りやめている。



渋川ICを過ぎると、バスは上越国境に向けての長い登り坂に差し掛かる。

渋川市は、HPに日本の中央であると謳っているので、日本中央バスの大仰な会社名のルーツと言うべきか。


市内にある白井城は、関東管領上杉氏と関東公方足利氏が争った享徳の乱以来、上野国の中心となった。
足利氏は上杉氏に敗れて茨城県の古河に入り、古河公方を名乗ることになる。
鎌倉時代末期から南北朝、室町時代に至る時代は、各地で群雄割拠、戦乱が相次いで複雑であり、日本史が好きだった僕も、断片的な知識しか持ち合わせていない。
足利市をはじめ、群馬県にはこの時代の名所旧跡が少なくない。
古河公方と言えば、教科書に僅かながら触れられていた記憶があり、ああ、そういう経緯だったのかと確認することも、旅の醍醐味である。


それにしても、あれだけ勉強に悩んだ室町時代の坂東の歴史が、旅の途上ならば、すんなりと頭に入って来るのはどうしたことであろうか。



関越道は切り通しの部分も多く、実際には傾斜地をうまく利用して高度を稼いでいるのだろうが、時折り渡る橋梁からは、蛇行する利根川に沿った田畑や集落が目もくらむような下方に遠ざかっているので、途轍もなく巨大な高架橋で三国山脈に登っていくような錯覚を覚えてしまう。
万が一、側壁を破って転落すれば、いったい何メートルを落下することになるのかと想像するだけで、背筋が寒くなる。
もちろん、バスの走りっぷりにそのような気配はなく、運転手さんのハンドルさばきは見事に安定している。



正面に、上越の国界に立ちはだかる三国山脈の峰々が顔を覗かせた。
平均2000m内外でそびえる三国山脈は、冬ともなれば、日本海から吹きつける湿った空気を屛風のように遮り、山を越える風から雪をことごとく落として越後の国を有数の大豪雪地帯とし、上州には空っ風となって吹き下ろす。
今では関越トンネルで簡単に通り抜けられるけれども、山1つを隔てただけで生じる顕著な気象の差は、不思議としか言いようがない。

関東平野の区間を冗長に感じる池袋発の関越高速バスと違って、前橋発のバスでは、いつも楽しみにしている関越国境まで、呆気なく達してしまったように感じる。
車窓のメリハリを楽しむためには、平凡な区間も大切なのだと思う。

このバスの新潟万代シティバスセンター到着は、前橋バスセンターからちょうど4時間後の11時52分の予定である。
仙台から群馬を経て新潟に至る、珍しい本州横断ルートの体験も、関越トンネルを過ぎ、越後川口で信濃川の流域に入れば、残すところ2時間あまりだった。


新潟駅前で、冷房の効いたバスを降りると、溜め息が出るほどの熱気が僕を包み込んだ。

ここで、日本中央バスの旅は終わりである。


僕は、越後交通の高田駅行き高速バスに乗り継ぎ、信越本線の普通列車で長野駅に降り立った。

かつて上越と長野を結ぶ高速バスが運行されていたが、平成9年10月から翌年の9月までの僅か1年間と短命に終わり、もう乗ることが出来ないのは残念である。


電車の硬いシートに揺られながら朦朧と眺めた、濃緑色に彩られた信越国境や北信濃の車窓は、頭が痺れるほどの鮮やかさだった。



実家に寄る暇もなく、長野駅前の停留所で、善光寺大門が始発の甲府行きの高速バスを待った。


駅前の交差点を、新潟交通の高速バスが曲がって行くのを見掛けて、新潟-長野線を使う手があったか、と舌打ちしたが、後の祭である。

時刻表をめくれば適切な時刻の便がなく、長野駅前を16時に発つ新潟行きだったのだろう。

長野も、仙台や前橋、新潟と同じく、容赦のない猛暑だった。



定刻通りの16時35分に長野駅前を後にした山梨交通のバスは、犀川に架かる丹波島橋を渡り、松代へ向かう県道35号長野真田線に折れて、上信越自動車道長野ICまでの道筋も、すっかり馴染みになった。


北国街道における犀川の渡しの流れを汲む丹波島橋は、その先で合流する千曲川によって南北に分断されている善光寺平を紡ぎ、僕が子供の頃は、既に市内交通の重要な役割を担っていた。

室町時代後期には、現在より600mほど上流に丹波島の渡しがあったという記録が残されている。

江戸時代初期の北国街道の整備に伴い、丹波島宿が設けられ、丹波島が主要な渡船となったが、急流であるために両岸から渡された綱に沿って舟を漕いだらしい。




明治6年に、46艘の舟をぎっしりと横並びにした舟橋が架けられたのが、初代の丹波島橋で、僕もその絵を目にしたことがある。

明治23年に2代目となる木橋が架けられ、昭和7年に、昭和恐慌に伴う失業対策として長さ540m、幅員12mという鋼鉄製のトラス橋になった。


昭和61年に4代目となる現在の桁橋が完成し、当初は暫定2車線であったものの、4車線に拡張されたのが平成5年、ちょうど長野自動車道が全通し、上信越道と繋がって長野ICが出来た年であった。

長野冬季五輪を前に、故郷が激しく変化していた時期である。



子供の頃から何度も渡ったのは3代目の橋であるが、往復2車線だったので、いつも渋滞していた記憶がある。

幼少時は、左右に河川敷が広い犀川の流れを見渡す丹波島橋は、紛れもなく車窓の楽しみの筆頭で、渋滞でゆっくり渡るのがちょうど良く、武骨に組み合わされた鉄骨のトラスと合わせて、脳裏にありありと刻まれている。


最新の工法ですっきりとした現在の丹波島橋の外観に、物足りなさを感じてしまうのは困ったことであるが、見通しは良くなった。



県道35号線は長野市街と松代を結ぶ幹線であるが、かつては家々の軒先をかすめる狭隘な道路だった。

長野ICが完成すると、千曲川を渡る松代大橋の新築をはじめとする拡張工事が進められているものの、所々で2車線に窄まる箇所が残り、道路を造るのは大ごとなのだな、と改めて思う。

青木島から長野ICまでが完全な4車線になるのは、平成22年まで待たなければならない。


平成18年4月に開業したばかりの高速バス長野-甲府線が走るのは、長野自動車道と中央自動車道であるから、幾多の高速バスで通い慣れている。

何度走っても、信州や甲州の自然豊かな車窓は飽きが来ないけれども、心が逸るほどの新路線と言えないのは、やむを得ない。

思ってもみなかった区間に高速バスが走り始めたな、と思うばかりである。



隣りの県を行き来する流動とは、多いのか少ないのか。

四国や九州では、大抵の県で隣県へ向かう高速バスが運行されているが、他の地方では、必ずしも県境を越える往来が盛んとは言い切れない。


長野県を例にしても、長野を発着する長野新幹線が高崎に、松本発着の中央東線の特急列車が甲府に停車するが、利用者の大半は東京へ向かうのだろう。

新潟県や愛知県に高速バスが運行されているけれども、群馬、埼玉、静岡、岐阜、富山に行く路線はない。

日本中央バスが前橋から新潟への高速バスを開業した時に、長野へも路線を作らないかな、と夢想したが、実現しなかった。


それだけに、長野と甲府を結ぶ高速バスの成否を、僕は注目していたのだが、残念なことに、この日の乗客数は10人程度に過ぎなかった。



松代大橋の手前で、県道に沿って左に広がる緑地が、川中島古戦場である。

長野と甲府を結ぶ高速バスから古戦場を眺めれば、両市の歴史上の繋がりに思いが及ぶけれども、わざわざ停留所を設けているにも関わらず、誰も乗って来なかった。


戦国時代に、甲斐の武田信虎は、駿河の今川氏、信濃の諏訪氏と和睦を図った上で、信濃の佐久郡と小県郡への侵攻を意図していた。

武田信虎から信玄に当主が交代し、諏訪氏との同盟関係が手切れとなる一方で、関東管領の上杉憲政が佐久郡に出兵し、同盟関係にあった武田氏や、埴科郡や小県郡を拠点とする村上氏に通告することなく、諏訪氏が佐久郡を割譲したため、武田側が盟約違反として諏訪郡を制圧し、信濃侵攻を本格化させたのである。


村上氏と、松本を拠点とする小笠原氏が抵抗したものの、1550年に、武田氏は小笠原氏を駆逐して中信地方を制圧し、村上氏は本拠地である坂城の葛尾城に孤立、武田氏の勢力は善光寺以北を除く信濃国のほぼ全域に広がった。

村上氏と協力関係にあった善光寺平より北の国人衆は、越後の上杉謙信に助けを求め、謙信も北信濃に本格的に軍事介入することになる。



こうして歴史を俯瞰すると、北陸と関東の上杉、甲斐の武田、駿河の今川、尾張の織田といった強豪に囲まれた信州は、あたかも草刈り場であり、例えるならば、ロシアの南下に危機感を抱いた明治期の日本が防衛線とした朝鮮半島や中国と似ていないだろうか。

武田、上杉の両氏にとって、信州は祖国防衛の前進基地であり、川中島は、日露戦争における二百三高地のような位置付けと言えるのかもしれない。


善光寺平は、善光寺をはじめ戸隠神社や飯綱神社などの聖地が存在して、有力な経済圏を形成し、犀川と千曲川が合流する川中島における米の収穫高は、当時の越後全土を上回っていたと言う。


信玄によって葛尾城から追い落とされ、越後に逃れた村上氏が謙信に助けを求めたことで、1553年に第一次川中島合戦が勃発する。

善光寺平への本格的な侵攻を意図した武田勢が、盆地の西の旭山城に籠り、上杉勢が裾花川を隔てた葛山城で対峙して、両軍の本陣が犀川を挟んで睨み合った1555年の第二次合戦、上杉方が善光寺の隣りに築いた横山城や北の大峰城、葛山城を拠点として坂城まで侵攻したものの、武田方が決戦を避けた1557年の第三次合戦までは、善光寺平で両軍が小競り合いを繰り返しながら押し相撲をしているかのような観がある。



本格的な衝突になったのは、1561年の第四次合戦である。


上杉軍は善光寺平南方の妻女山に陣取り、武田軍は松代の海津城に入る。

武田軍は、別動隊を組織して妻女山の背後を衝いて上杉軍を八幡原に追い、「鶴翼の陣」で待ち受ける本隊と挟み撃ちにする「啄木鳥戦法」を立案したが、その意図を察知した謙信は、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しで千曲川の北岸に出る。


午前8時頃に川中島を包んでいた霧が晴れた時、武田軍は、上杉軍と至近距離で対峙していることに驚愕した。

いきなり始まった乱戦の最中に、有名な信玄と謙信の一騎打ちが起きる。


『然ば、萌黄の胴肩衣きたる武者、白手巾にてつふりをつゝみ、月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜き持て、信玄公の床机の上に御座候所へ、一文字に乗よせ、きつさきはづしに、三刀伐り奉る。信玄公たって軍配団扇にてうけなさる。後見れば、うちわに八刀傷あり』


と「甲陽軍鑑」に記され、菊池寛の「川中島合戦」では、


『信玄は黒糸縅しの鎧の上に緋の法衣をはおり、明珍信家の名作諏訪法性の兜をかむり、後刻の勝利を期待して味方の諸勢をはげましていた。

時に年41歳。

この日、越の主将上杉輝虎は紺糸縅の鎧に、萌黄緞子の胴肩衣をつけ、金の星兜の上を立烏帽子白妙の練絹を以て行人包になし、二尺四寸五分順慶長光の太刀を抜き放ち、放生月毛と名づくる名馬に跨り、摩利支天の再来を思わせる恰好をしていた。

今や、信玄の周辺人なく好機逸すべからずとみてとった謙信は馬廻りの剛兵十二騎をしたがえて義信の隊を突破し信玄めがけて殺到して来た。

禅定のいたすところか、その徹底した猛撃は正に鬼神の如くである。

これをみた信玄の近侍の者二十人は槍襖を作って突撃隊を阻止したが、その間を馳け通って、スワと云う間もなく信玄に近寄った謙信は、長光の太刀をふりかぶって、信玄めがけて打ちおろした。

謙信時に32歳。

琵琶の文句通り、信玄は刀をとる暇もない。

手にもった軍配団扇で発止と受けとめたが、つづく二の太刀は信玄の腕を傷つけ、石火の如き三の太刀はその肩を傷けた。

この時あわてて馳けつけた原大隅守虎義は傍にあった信玄の青貝の長槍をとって、相手の騎馬武者を突いたがはずれ、その槍は馬の三頭をしたたか突いたので、馬はおどろいてかけ出したので、信玄は虎口を逃れた』


と描かれ、頼山陽は「題不識庵撃機山図」で、


鞭聲粛粛夜過河

暁見千兵擁大牙

遺恨十年磨一剣

流星光底逸長蛇


と、やや謙信寄りの視点であるが、有名な詩を詠んでいる。



この戦いは、妻女山へ向かっていた武田の別動隊が駆けつけて互角に終わったのだが、武田勢は優秀な家臣を多く失い、圧倒的な軍事力を有しながらも、全国を制覇する時期を失したと聞いたことがある。

1564年の第五次合戦で、両軍は2ヶ月間睨み合うも、大きな戦闘は起きなかった。

8年後の1572年に、信玄は京を目指して進撃を開始し、三方ヶ原で徳川軍を撃破したものの、信玄の死によって撤退を余儀なくされている。


現在、善光寺の東隣りの横山城址が城山公園と呼ばれて市民の憩いの場となり、大峰山や旭山といった城跡にも小学校の遠足で訪れたので、川中島合戦は、僕にとって身近な土地がたくさん登場する。

川中島古戦場には、海音寺潮五郎原作の「天と地と」が昭和44年にNHK大河ドラマになったのを記念に建立された、馬上から斬りつける白頭巾の謙信と、軍配団扇で受ける床几の信玄を模したブロンズ像がある。

バスの窓から目を凝らせば、木々の間に垣間見える時もあるのだが、真夏のこの日は葉がぎっしりと生い繫っていて見えなかった。


古戦場では木々や家々に視界を遮られて、善光寺平を囲む山なみしか見えないが、その先の松代大橋を渡れば、千曲川の悠然たる流れと、広大な八幡原、南の妻女山や海津城址が見渡せて、第四次川中島合戦における両軍の動きを立体的に追想できる。

平成の世に高速バスから眺めると、この地が、我が国の歴史の転換点になったことが不思議に思えるほど、穏やかな山河であった。



バスが長野ICから上信越道に入り、更埴JCTで長野道に直進して、筑摩の山越えに差し掛かれば、武田の軍勢も、並行する善光寺街道を進んで来たのか、と思ったりする。

姨捨から善光寺平を見下ろせば、武田軍の人々も同じ景色を見たのだろうか、と空想が膨らむが、実際は、今のJR小海線に沿って、甲斐から佐久平や塩田平に出る道筋で行き来することが多かったようである。

高速バス長野-甲府線で信玄を偲ぶならば、筑摩山地を抜けて安曇野を通り過ぎ、塩尻峠を越えて、諏訪湖沿岸に出なければならない。


梓川SAの休憩で身体を伸ばすと、頬を撫でる風は、この旅で最も爽やかに感じられた。

バスの横で一服している若い運転手に、


「いつもこんなに空いてるんですか?」


と心ない問いを発してしまい、しまった、と臍を噛んだが、


「そうなんです」


と、運転手の返事も元気がない。



この日の諏訪湖は、対岸が霞んでいて、いつもより広い大海のように見えた。


諏訪は、武田信玄が信州侵攻に本腰を入れた最初の地である。

岡谷JCTで中央自動車道上り線に入った先の、諏訪南ICから南に分岐する国道152号線は、死の直前に京を目指した信玄が南下した杖突峠や青崩れ峠に通じている。


甲府盆地も豊かな土地なのだろうが、諏訪、安曇、佐久、塩田、善光寺の肥沃な平を、甲斐の人々はどのような思いで眺めたのであろうか。

僕は、故郷の長野市が善光寺の門前町として発展し、名を轟かせた戦国武将が信州にいないだけに、どうしても、地元で活躍した武将として思い浮かぶのが、武田信玄になる。

上杉謙信の方が清廉かつ律儀のように描かれがちであるが、その分、武田信玄を人間的な親近感を感じる。



川中島古戦場に両雄の像が建てられたきっかけが、NHK大河ドラマ「天と地と」であったように、歴史上の人物の評価を大きく左右するのが映画やテレビの歴史物であるのは確かだろう。


「天と地と」は海音寺潮五郎原作で、謙信を主人公に据えた物語であるが、信玄を演じたのは高橋幸治であった。

僕にとって大河ドラマの高橋幸治と言えば、「太閤記」や「黄金の日々」における織田信長役の印象が強いので、どのような信玄だったのだろう、と思う。

「天と地と」は、平成2年に角川映画として公開され、信玄を演じたのは津川雅彦であった。



高速バス長野-甲府線の開業の翌年である平成19年には、井上靖原作の「風林火山」がNHK大河ドラマとして放映され、武田信玄を歌舞伎役者の市川亀治郎が演じている。

この時は、長野でも甲府でも、大河ドラマ効果による観光客誘致に熱心になり、信玄の本拠地と、生涯で最大の合戦の地を結ぶ高速バスも、それを見据えて開業したのかもしれない。


大河ドラマ「天と地と」が放送されていた昭和44年には、三船敏郎が山本勘助を演じる映画「風林火山」が公開され、信玄を中村錦之助が扮した。

同年にはテレビドラマも放映され、信玄を緒形拳が演じるなど、まさに信玄一色の年であった。

「風林火山」は、その後もしばしばテレビドラマとなり、平成4年には舘ひろしが、平成18年には松岡昌宏が、それぞれ信玄役で出演している。



それ以外の戦国時代を舞台にしたNHK大河ドラマでも、たびたび信玄が登場してきた。

昭和40年「太閤記」では早川雪洲。

昭和48年「国盗り物語」では大友柳太朗。

昭和53年「黄金の日々」では観世栄夫が声のみの出演。

昭和58年「徳川家康」では佐藤慶。

平成28年「真田丸」では林邦史朗。

平成29年「おんな城主 信虎」では松平健。

令和2年「麒麟がくる」では石橋凌。


その時代における重鎮の俳優が配されているのは、信玄の圧倒的な存在感ゆえであろう。



NHK大河ドラマで信玄が主役となったのは、昭和63年に放映された新田次郎原作の「武田信玄」で、中井貴一が演じている。

それまで「山河燃ゆ」「春の波濤」「いのち」と近代路線を歩んできたNHK大河ドラマは、前年の「独眼竜政宗」から再び戦国時代を取り上げるようになっていた。


端正な容貌の中井貴一が信玄を張るとは、少しばかり違和感があったが、最初は松平健や役所広司が主役の候補に挙がり、中井貴一は謙信役を打診されたと言う。

松平健が後に「おんな城主 信虎」で、役所広司が平成3年のテレビ大型時代劇「武田信玄」でそれぞれ信玄を務めたのも、何かの縁であろうか。

中井貴一も最初は戸惑ったらしいが、長丁場の大河ドラマで見事に信玄を演じ切った。

視聴率も高く、「今宵はここまでに致しとうござりまする」という締めの語りが流行語になった。



進むにつれて様々に山容を変える八ヶ岳が、夕闇の中に溶けるように消えていくのを眺めながら、甲信国境の長い坂を駆け下ると、甲府盆地である。

長野から2時間半近くが過ぎていて、やっぱり甲府は遠いな、と思う。


謙信の居城だった春日山城は、昼過ぎに通った高田駅の北隣りの春日山駅に近く、上信越道と北陸道が交差する上越JCTの北に位置する。

僕が8年前に乗車した高速バス長野-上越線は、高田駅と直江津駅の停車の合間に春日山城址の近くを通ったはずだが、甲府ほど遠く感じなかった記憶があるので、甲府から川中島に来なければならない武田勢にはハンディだったに違いない。

武田の人々を高速バスに乗せてあげたかったな、と突拍子もない空想が頭を横切る。


高速バス長野-甲府線が、長野-上越線と同様に短命で、開業1年半後の平成19年10月限りで廃止されてしまったのも、何かの因縁であろうか。



甲府南ICで中央道を降りたバスが、甲府駅前に到着する頃に、辺りはすっかり暮れなずんでいた。


20年以上も前に、富士吉田にある大学の教養学部で過ごした1年間は、長野の実家との行き来に苦労したものだった。

富士急行線で大月駅に出て、特急「あずさ」で松本駅、篠ノ井線の普通電車か特急「しなの」に乗り継いで長野駅、という経路を使ったが、同郷の友人から、富士吉田と甲府を結ぶ路線バスが便利だよ、と教えられた。

乗り換えは減ったけれど、甲府駅から乗っても特急の運賃や料金が大して安くなる訳でもなく、普通列車を試してみても、甲府駅から松本駅まで2時間半を費やしたので、幾ら乗り物好きでも音を上げた。


あの頃に、長野と甲府を結ぶ高速バスが運行されていれば、僕は常連客になったに違いない。



甲府と長野の縁と言えば、甲府駅の東にある甲斐善光寺を忘れてはならない。


第二次川中島合戦で、善光寺の別当は旭山城に籠城して上杉方と戦い、謙信は善光寺に陣を張る。

合戦が終わると、謙信は善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を越後へ持ち帰り、直江津に如来堂を建設したので、信濃からの移住者が増えたと言われているが、この如来は本尊ではなく、旭山城に籠城した別当が避難させていたという説もある。

信玄が葛山城を落として一帯を勢力下に置くと、別当に命じて善光寺如来像や寺宝を甲府へ移転させ、別当も甲府へ転居した。

信玄が善光寺如来を持ち帰ったと聞いた甲斐の領民は、狂喜したと伝えられている。


甲斐善光寺の創建は、信濃の善光寺の住職が本願主になり、1565年に本堂が完成、入仏供養が行われた。

1582年の織田・徳川連合軍の征伐で武田氏が滅亡すると、信長の長男の織田信忠が善光寺如来を岐阜城下に移し、同年の本能寺の変に伴って信長の次男である信雄が尾張国清州城下へ、1583年に徳川家康により三河国吉田、遠江国浜松を経て、甲斐善光寺へ戻された。


1596年の慶長伏見地震により京都の方広寺大仏が損壊すると、1597年に豊臣秀吉の要請で善光寺如来が京へ運ばれて、方広寺大仏殿に安置された。

秀吉が病を患うと、善光寺如来の祟りではないかとする風説が流れたため、1598年に信濃の善光寺へ戻されたが、秀吉はその直後に死去している。

善光寺如来も、波瀾万丈の流転をしたものだと思う。


織田信長の比叡山焼き討ちで甲斐に逃れてきた天台座主の覚恕法親王に、比叡山を甲斐に移したらどうか、と信玄が提案したという逸話を耳にしたことがある。

信心深く保守的で、都のものを郷土に欲しがる田舎親父のような無邪気さも、信玄の憎めない一面のような気がしてならない。



僕は大学時代に甲斐善光寺を訪れたことがあり、久しぶりに足を運びたかったが、もう午後7時半も近い頃合いである。

教養学部時代を偲びながら富士吉田行きの路線バスに乗るという案も捨てがたいけれど、到着は「中央高速バス」新宿-富士五湖線の上り最終便が出た後になる。

鉄道で富士吉田から東京へ向かう場合の煩わしさは、学生時代に骨身に滲みている。

別の乗り場で「中央高速バス」新宿-甲府線が発車を待っているので、このまま乗り継ぐ手もあるけれど、何もかもが億劫だった。

さすがに疲れていたのであろう。


僕は駅舎に向き直ると、重い足を引き摺って、新宿行きの特急「かいじ」に乗り込んだ。

さいたまから仙台、前橋、新潟、長野、そして甲府と回ってきた遠大なバス旅は、尻切れトンボのような幕切れを迎えたのだが、この時の僕の心境は、次の一文に尽きる。


「今宵はここまでに致しとうござりまする」──


 

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