早朝7:40にホテルを出発しました。
奈良公園のシカ~
東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を追修するために、
神亀5年(728)に建てられた山房(後の金鍾山寺)に源を
発し、天平13年(741)に国分寺・国分尼寺(金光明寺・
法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が
昇格してなった大和国国分寺(金光明寺)を前身とする。
天平15年(743)に盧舎那大仏造顕(造立)の詔が発せられ、
都が紫香楽(滋賀県甲賀市信楽町)から平城に還ると、大和
国金光明寺で盧舎那大仏の造像工事が始まり、天平21年
(749)仏身が鋳造。同時に大仏殿の建立も進んで、天平勝宝
4年(752)に盛大な開眼供養会が営まれた。その後、西塔や
東塔、講堂や三面僧房などが造東大寺司の手によって造営され、
東大寺としての七堂伽藍順次整った。
ところが永禄10年(1567)に至って三好・松永の乱が起こり、
二月堂や法華堂、南大門や転害門、正倉院や鐘楼などわずかな
建物を残して灰燼に帰した。
ようやく江戸時代に入って公慶上人が諸国勧進と諸大名の協力を
幕府に懇願して復興に取りかかり、その結果、大仏さまの開眼
供養が元禄5年(1692)に、さらに大仏殿の落慶供養が宝永6年
(1709)に行なわれた。以後、伽藍の整備は歴代の大勧進職に
よって続行された。
南大門
高さ25.4m
再建は進み、1192年には大仏殿が完成。
1203年には仁王像がたち、現在の南大門となりました。
2&5&4=11
1&1&9&2&1&2&3=13&6=19
1&1&1&9=12(6 6)
金剛力士像
阿形(あぎょう)像高 8.4m
吽形(うんぎょう)像高 8.4m
金剛力士像の謎①一般的な仁王像と左右が逆
金剛力士像の謎②門に入って、金剛力士像にお会いすることができます。
8&4&8&4=12&12=24・・・2&4=6(3 3)(11×3)
6&9=15
1&8&5&1&6=14&7=21
24&15&21=60
「あ~うん」・・・48文字・・・4&8=12(6 6)
二月堂への近道~
大仏殿 鏡池
花まつり千僧法要記念宝塔
宝塔
鐘楼
重さ26.3tもある梵鐘(国宝)は東大寺創建当初のもので、鐘声
の振幅は非常に長く、「奈良太郎」と愛称され、日本三名鐘の
ひとつに数えられている。
二月堂へ向かう道
東大寺二月堂の階段は全部で五十二段
2月28日から本行に入り、約2週間にわたって続けられます。
日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう)の毎日
6回、荒行を修めることから六時の行法と呼ばれます。
3月12日の深夜、二月堂下の若狭井(閼伽井屋)から水を
汲み出し、ご本尊に供える行事がお水取りなのです。
3月12日から14日の後夜、約40kgもあると言われる
松明を打ち振って練行衆が二月堂堂内を走り回る姿はニュース
映像などでもよく知られるところです。達陀(だったん)と
呼ばれる行法ですが、その派手さから東大寺きっての呼び物
にもなっています。
2&2&8&2&6=14&8=22(11×2)
3&1&2&1&4&4=11&4=15
達(11)陀(7)=18
15&18=33(11×3)
五十二=17・・・1&7=8
松(8)明(8)=16(8 8)
火(4)と水(4)の行事なのですよね~~
3/12・・・3&1&2=6(3 3)(11×3)
「閼伽井屋(あかいや)」
「修二会」のうちクライマックスにあたる3月13日の
午前2時頃に閼伽井屋の建物の内部にある「若狭井」
と呼ばれる井戸から神聖な水を汲み上げ、仏前にその
水をお供えするという儀式のことを、「お水取り」と
呼んでいます。
現在でも3月2日に福井県にある神宮寺と言うお寺の境内で
「お水送り」の儀式が行われ、10日ほどかけてこの
「若狭井」に神聖な水が到着し、そのお水を「お水取り」
の儀式ですくい上げるという伝統が連綿と続けられているのです。
大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜が飛び立ちました。
さらにそこから霊水が湧き出したというではありませんか。
実忠和尚はこれをお供えの水とし、その逸話に彩られた井戸
が今も二月堂の下手に静かに佇んでいます。
「お水(4)取(8)り」=17
閼(16)伽(7)井(4)屋(9)=23&13=36
若(8)狭(9)井(4)=21
17&36&21=74・・・7&4=11
着きました。沢山歩きましたよ~~
階段のデザイン、気づきませんでした😓
良弁(ろうべん)僧正の高弟実忠(じっちゅう)の草創と
伝えるが、寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火、
焼失し、現在の建物はその2年後に再建された。
1&6&6&7&2=20&2=22(11×2)
3月12日の深夜に行われる「クライマックス」の儀式が
本当の意味での「お水取り」です。修二会は、1年間に
すべての人が犯した過ちを、その人に代わって本尊の
十一面観音にざんげする儀式で、奈良時代から1回も
途切れずに続いています。
3&1&2=6(3 3)(11×3)
手水舎
二月堂からの眺め
下のお堂から松明を持ってきて
達陀(だったん)のスタート地点
三角のお堂が大仏殿
こちらが終点
ちょうど三月堂に行く僧侶を見ました~~
11人
お姿の特徴は目が3つ、腕が8本の三目八臂(さんもくはっぴ)。
像高362㎝ (国宝)
三&八=11
3&6&2=11
絵馬 椿と灯篭
絵馬
御朱印をいただきました~~
西国三十三書番外札所
「ありがたやふしぎは一か二月堂
わかさの水をむかへたもふぞ」
奈良時代のお堂は寛文七年(一六六七)二月に焼失し、
寛文九年(一六六九)に再建されたのが現在の二月堂で
あり、平成十七年に国宝に指定された。
本尊は十一面観音菩薩で、古来から秘仏とされている。
南無観(なむかん)
二月堂お水取り行法中、参籠する練行衆たちは十一面観
自在菩薩の宝号を一心に唱えて礼拝懺悔を繰り返します。
南無観の観とは観音菩薩のこと。南無とは一生懸命信じること。
南無観自在菩薩、南無観自在、南無観と次第に短く唱え続け、
親しみと敬いの心を込める呼び名です。
南無観と唱えて観音様のお姿を思い起こしましょう。
東大寺 二月堂
南無観
前から気になっていたのですが、東西南北のうち{南}は
方位的にどうなんでしょうか
東(8)西(6)南(9)北(5)=28(14 14)・・・(5 5)(11×5)
南が、私たちのいる釈迦如来(しゃかにょらい)担当の「娑婆(しゃば)
世界」なのです。「娑婆」はもともと古代サンスクリット語の「サーバ」
を音訳したもので、俗には浮世のことを指しますね。
お寺の伽藍配置(がらんはいち)や仏像の配置でも、東が薬師如来、
真ん中が釈迦如来、そして西側に阿弥陀如来が安置されていますね。
そして「シャバの空気はうめぇ!」のです。
朱(6)雀(11)=17
釈(11)迦(8)如(6)来(7)=19&13=32
娑(10)婆(11)=21
17&32&21=70
浮(9)世(5)=14
70&14=84・・・8&4=12(6 6)
しかし二月堂の十一面観音に関していえば、
仏像のうしろにある光背の断片が残っているので、本体は無く
なったのでは?と言われているようです。まあ本当の事は謎
ですがね~ 😎
観音様がご本尊になっているお寺はこの「懸造り」と言われる
造りが多いのですが、これは、観音様が崖にお出ましになる
からだそうです。
お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在
の建物だそうです。
下から見た二月堂
奈良時代からツバキだったのかわかっておらず、筋の通った
理由付けはしにくい。ただ、ヤブツバキは日本原産で、万葉集
にもツバキの歌がある。油を取る植物でもあり、なじみ深い花
だった。正倉院宝物に「椿杖(つばきのつえ)」があるが、
破邪の力があるとされる。お水取りに使うサカキもシキミも
ツバキも常緑でつやつやしている。そういう木を尊いと思った
んでしょう。
十(2)一(1)面(9)観(7)音(9)菩(11)薩(16)=55(11×5)
糊(15)こぼし&椿(13)=24&13=37
55&37=92・・・9&2=11
3&4=7
4&8&5&7&5&8&8=29&16=45
1&5=6
7&45&6=58・・・5&8=12(6 6)
法隆寺・・・聖徳太子と推古天皇によって、607年に創建
金峯山寺・・・飛鳥時代に修験道の開祖である役行者によって開かれた。
長谷寺・・・真言宗豊山派の総本山。その起源は686年
飛鳥寺・・・蘇我馬子の発願により、6世紀末~7世紀始めに建立
薬師寺・・・平城遷都に伴い、718年に現在地に移築
元興寺・・・蘇我馬子が建立飛鳥寺(法興寺)がその前身平城遷都新築移転
東大寺・・・728年、聖武天皇の発願により創建された寺。
室生寺・・・創建は奈良時代末
唐招提寺・・・鑑真和上が、戒律を学ぶための私院として759年に創建。
春日大社・・・平城京遷都から半世紀(768年)
大神神社・・・拝殿(重要文化財)1664年に徳川家綱によって再建
橿原神宮・・・1890年にこの地に創建
平城宮跡歴史公園・・・710年から784年までの平城宮の宮跡
2018年に5つの複合施設「朱雀門ひろば」「平城宮跡歴史公園」として公開