『脇本城跡(男鹿市)』からの続きです。
男山・屋敷跡。
本当に広大でどういう順路で進めばいいか悩みますね。
とりあえず内館標柱へ。
空堀。
内館跡標柱。
『ここは内館と呼ばれており、館跡内には大土塁・井戸跡・館神堂跡などがある。』・『下方の道路は、脇本城下から船川・北浦方面へ通ずる大道で、「天下道」と呼ばれている。』
案内板「脇本城の主要地区(主郭部)」…『土塁を挟んで広がる曲輪は、城主が住む館と、儀式を行う場所(主殿・会所)があったところと想定されています。上の図はイメージをつかむために京の武家屋敷を模して描いた復元想像図です。曲輪の間には高さ6m、脇本城最大の土塁があります。切り出して造られた土塁は、主郭を囲む区画として威厳を感じさせるものです。海に近く風の強い脇本城では風よけの役割もあったようです。両側に広がる曲輪は土塁を削った土を利用して盛土をし、広く整地されています。』
復元想像図。
整地層から掘り込まれた柱穴。
斜面に盛土をし、曲輪を広くしている。
土塁・井戸跡…『この標識の正面に土の壁のようにそびええる土塁は高さ6m、脇本城最大規模です。土を削って造りだし、上からは塀跡が見つかっています。またこの場所から左に見える大きなくぼみは井戸跡です。脇本城には落城の際、城主が金の茶釜をどこかの井戸に投げ入れたという伝説が残ってます。』
大土塁。
館神堂。
大土塁上。
大土塁上から見た内館(城主の館跡)です。
井戸跡。
井戸跡…『盛土に囲まれた井戸跡です。雨の後には何日も水が抜けずにたまっています。生活用水として、また籠城への備えとして水の確保は大切でした。そのため、城内にはこのようなくぼみがたくさん残っています。』
景色が素晴らしいです。
殿様気分。
城下町。
城下町…『内館地区東端のこの場所は日本海、秋田市と太平山、大潟村、遠くに森吉山を見渡すことができ、眼下にはかつての城下町であった脇本本郷の集落が広がっています。集落内の東西700mの道路の両側には間口が狭く奥行きが長い短冊形の地割が整然と並んでいます。廃城となってから200年余りたった江戸時代後期、紀行家菅江真澄が描く風景には、集落の奥に砂丘をはさんで、日本海と今は干拓された八郎潟が美しく描かれています。』
現在地。
菅江真澄『男鹿の秋風』より。
城下町(脇本本郷)の地割・秋田郡脇本村字脇本地引絵図(明治10年頃をトレースの上作成)。
内館標柱の所まで戻ってきました。
標柱からの景色。
広すぎてどちらに向かうか悩めます。
井戸跡。
金の茶釜伝説。
天下道・馬乗り場方面。
こちらも景色がいいですね。
古道・見学路。
馬乗り場方面は遠そうだったのでパス。
500m(徒歩15分)とありました。
天下道を引き返して南へ。
眺望。西側(船川方面)です。戦国の世の当時とまったく変わらない絶景です。
現在地。トンボは気になさらず。西側土塁上にいます。
土塁上から望む日本海。
現在地。
竪堀近くも景色がいいです。
この眺めの良さから脇本城は海上交通の要所としての役割ももっていました。
西側土塁…『脇本城の西側いは南北約250mの土塁が築かれています。土塁上では柱穴を伴う幅40-50cmの2条の溝跡が見つかり、塀跡と想定されています。土塁上からは日本海と船川港、正面には男鹿半島の信仰の山である真山、本山が一望でき絶景です。脇本城が日本海交通の要所であったことがうかがわれます。』
土塁の上に築かれた板塀のイメージ。旗指物が並んでいます。
土塁の上から検出された塀跡。
脇本城跡(館跡群跡)標柱より…『この付近一帯には数多くの館跡があり、脇本城主である安東愛李の家臣屋敷があったところと考えられている。』・『ここからは、真山・寒風山・茶臼館・船川港などが一望に見渡すことができる。』
寒風山方面。
ズーム。
回転展望台までは車で行けるようです。
男山。
脇本城跡は素人でも楽しめる立派な城跡であり、
城跡に興味が無くてもとっても景色のいい気持ちのいい場所でした。
以上、脇本城跡でした。
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