だけど不思議なもので、出来るときにはトントン拍子に進んでいく。
出来ないときには、いくら知恵を絞ろうが、手を変え品を変えあれやこれやと組み立てても、まったく以って出来上がらない
骨組みだが、今回は2日間で出来上がった。
一つにはバタ・デ・コーラが久しぶりであるという新鮮さ、もう一つにはフラメンコのナンバーではない「作品」という創作、その両方が好きなためであると思う。
椅子やアバニコを使い、そしてスペイン人が思い付かないもの、出来ないものを振付の根底に置いて進めていたら、スムーズに進み出来上がった。
僕は振付けに、2種類の方法を取る。
1つは、音楽リズム(コンパス)に則して振付を考える。
もう1つは音楽とは全く関係なく、動きそのもので流れを組み立ていく。
【舞踊】という、音楽無しでは存在し得ないものを、音楽無視で踊りを作るというのも如何なものかと思われますが、【身体表現】と考える時、これは人間が言葉という伝達手段を持つ以前からあったもので、現に舞踊の動きというものは日常生活の動きをより崇高にした、またはその国の文化的背景を元に生み出され、それを美という神聖な型式に表現されているものである。
もう亡くなってしまったが、僕が好きなシンガーソングライターの方の曲の作り方がとても変わっていて、ある記事を読んでそれを知った。
先ずは音楽(メロディー)を作る。
そしてそれが完全に出来上がったあとに歌詞を考えるそうだが、歌詞を当てはめるのに何年か掛かる時もあったそうだ。
これを知った時、最初は『へぇ〜』だったが、自分の振付け方をよくよく考えてみると、いつも同じの一方通行、つまり音楽(Palo/フラメンコの曲種)とコンパスやリズムから考え始めるばかりで、面白くないな。。。と
どちらを取るかである。
コンパスの中に生きるリズム音楽を優先するか、身体表現を、身体の内から来る言葉を優先するか。
もちろんどちらも出来てフラメンコ舞踊になると思うのですが、はばかりながら申し上げますと、僕はフラメンコに対して敬意を持っていて、それをアートを尊重し何が正しいのかを追求し勉強しておりますが、【フラメンコダンサー】であるとは恥ずかしくて言い切れないところがあります。
而して【ダンサー】という言い方も、20歳から始めた遅すぎるスタートに、これまた恥ずかしさを覚えます。
【身体表現者】、これなら動きと音を追求する者としても良いかなと思いますが、何れにしてもまだまだのレベルである。
振付をLimpiar (整理整頓)するとき、全く違う曲を掛けて動く練習をしたりします。
その時好きな全く違う曲で、その音楽性を感じながら持っている振付を踊る。
「それなら、最初からその曲で振付れば?」と言われそうですが、日本舞踊の当て振りではないのですが、振付けたその曲だけで動いて練習すると、どうしても音に『当て嵌めよう、当て嵌めよう』となってしまい、身体表現としての感覚が研ぎ澄まされていかないような気がして、つまり面白くない表現になってしまうような気がしてしょうがないのです。
今はモーツァルトのこの曲で、シギリージャ等も練習します。
こうして、違う曲で練習していると『あ、この動きには、こういう展開のさせかたがあるんだ!?』と気付くところがあり、そしてそれを原曲に戻して整えていきます。
あまり参考にならないお話しでしたね
失礼しました
ではまた!