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『ソ連史』

2022-08-01 22:58:35 | 読書。
読書。
『ソ連史』 松戸清裕
を読んだ。

1922年・ソビエト連邦結成のその前夜から1991年の消滅まで。

労働者階級、つまり被搾取人民の解放のために革命は起こり、世界初の社会主義国家連邦が生まれました。それがソビエト連邦です。マルクス・レーニン主義のもと、資本主義を超えるものとしての社会主義からはじまって、貧困のない共産主義まで到達させようとするのがこの連邦の目的でした。しかしながら、ソ連結成まもなくから、食糧確保のためにまもなく農民の搾取がはじまるのです。目的のために手段を正当化するのが、権力(ちから)の強い側のやり方。こういった政治の強引なやり方は今も昔もよく行われることで、社会主義でも民主主義でもその主義にかかわらず、警察や軍隊までをもときの政体がそのしもべとして使うことは珍しくないと思います。露骨さの度合いの違いがあるだけで、どの国でもそういったことはあるのではないでしょうか。

話はソ連に戻りますが、マルクス・レーニン主義は、人民の自発性を重視し奨励する主義なのですけれども、それ自体は間違っていないのではないか。人民の意識の変化が大切だと考えるのは、僕だってそうです。権力がへたに人民の意識を洗脳していくわけじゃなくて、人民が自律的に自分の知的好奇心にしたがって自己の意識を育んでいく。そういうありかたが、よりよい社会を下からつくっていくことになっていきます。

でも、ソ連ではまずスターリンという独裁者が台頭してきます。スターリンの下、学問や芸術が政治に従属させられ中央集権化が強められていく。このことから現代社会への教訓とするのるのは、政治が最上位でゆるぎないという至上主義って、僕は社会の偏りが過ぎるのではないか、ということだと僕は考えます。学問や芸術は独立した分野として尊重されながら在ることが望ましい気がするんです。政治視点の一面的な価値観で考えるべきではないのではないか。

ただ第二次世界大戦において、スターリンはヒトラーのナチスドイツと正面から戦って、退けたのでした。これはとても大きなポイントです。いわゆる独ソ戦。国内深くまで攻め込まれ、苦しみながらも最後にはナチスドイツを撃退した。まず、ドイツと正面切って戦っていたのはソ連だけだったのでした。それが、ドイツ敗北に終わった戦後の世界での戦勝国・ソ連の発言権を強めることに繋がります。ソ連という社会主義国への世界からの見え方が輝いたものへと変わってくる。

第二次世界大戦での死者数は、ソ連がもっとも多いそうです。全体で5000万人とも言われる死者のうち、ソ連の死者は2600万人とも2700万人とも言われるそう。それが、ソ連の指導者たちに恐怖や不安を植え付けることになります。独ソ戦の経験によって、「完全にやっつけないとこっちがやられかねない!」と過去の経験からそれが「ありうる」と判断し、危惧する(これ、実は原理主義にもつながる話だと思うのです。「原理主義」って「理想主義かつ完璧主義のこと」ということです)。スターリンによる大粛清(百万人以上もの人たちが殺された大テロル)や独ソ戦後のソ連の対外的にも対内的にも厳しいやりかた、それらはどうやら、西側諸国への不信と恐怖からきている。

そんなスターリンは死後、フルシチョフらによって批判され、ソ連には揺り戻しがやってきます。人民は、ずっと引き締められてきましたから、弛めてくれる政策を望んだ。それをフルシチョフは読み取っていて、ゆるめていきます。そんな1950年代から1960年代までは、まだ貧しさがありながらも社会主義の行く先への民衆の期待感は強かったようです。でも、思うように発展しない経済状況があり、しばしの安定から停滞の時期を経て、人々の期待感は失望へと変わり、労働意欲の低下、規律や秩序の乱れにつながっていきます。

迎えた80年代。本書終盤にあたります。ソ連解体前、ゴルバチョフの時代の彼のやり方はとてもシンプルでピュアな感じがしました。(こういう古いやり方を刷新する感じが「新しくて正しい」とするテーゼとして、当時成長期だった僕の内部にそっと根を張って今にいたるような気がします。そういう時代の空気を十分すぎるほどに吸って育ったのではないかと)

ゴルバチョフのやりかたは、どろどろした政治はもうやめよう、というようなやり方のように感じるのです。政治力の使い方も、いわゆる政治力然としたものとは違うような感覚。強権的な支配、利己性などを志向していないかのよう。志向性がいわゆる政治家のそれと違うから、あれだけの思い切った舵取りを試みられたのでしょう。ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(マスコミの存在を重くみる、情報公開の政策)、世界平和の新思考外交がゴルバチョフ時代の特徴です。

ゴルバチョフは権力をクリーンでクリアに使おうとしたようにさえ本書からは見受けられます。そのスタンスは、甘いといえば甘く、拙いといえば拙く、若いといえば若いのではないか。だけれど、そのドラスティックさに、油っこさを(あまり)感じません。ちょっと話が飛んだようになりますけども、ゴルバチョフ氏は既成の宗教の枠外にあるような神の存在を考えていた人なんじゃないかと思うんです。そういう人のやり方だからこそのような気がします。

さて、あとは読みながら感じたことを列記して終わります。

・まずソ連がそうだったけれども、社会主義国家や共産主義国家を称する国々は、人民の幸福のために国を発展させていくとの目標がたんなる張りぼての看板にすぎず、実際は軍事国家に転じていきがちではないだろうか。

・ロシアは伝統的に強いリーダーを求めるそうです。強権的なリーダーを好む国民性。また、政府や機関誌などにも投書をよくする国民性で、そこに批判や意見や陳情などが多く寄せられていて、政治に役立てたり、訴えを受け入れて願いをかなえたりするシステムが成立しているそうです。これはソ連に限らず、日本でもあることです。

・本書を読むと、社会主義の実験場・パイオニアとしてのソ連の格闘の盛衰をざっくり知ることができました。そのうえで思うのが、北欧の社会民主主義の国々は、おそらくソ連の失敗を細かく分析してよく勉強したうえで政治をしているのだろうなあということでした。具体的にどうこうとはちょっと言えない程度のふんわりした感想ではあるのですが、これまで読んできた本や記事などの記憶からそう感じるのでした。

以上、ソ連を知ることは、ロシアの背景を知ることにもつながります。また、他山の石として日本を振り返って客観的に考えたり、他国と比べてみたりなどするためのひとつのものさしを手に入れることにもなります。実際、こうやって苦労したりがんばったりしてたんだなあ、と想像しながら読むとおもしろかったです。学生時代、決められた時間に決められた進み方で決められた歴史の部分を他律的に勉強させられ、覚えることを強要されて歴史はもういいや、となりましたが、こうやって好んで一冊読んでみると、味わいがあって歴史も悪くない、という気持ちになりました。


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