マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

慕い求めます。

2024年04月19日 | キリスト教

私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。・・・ 。    

                イザヤ 26章 9節

 


 うれいも おそれも きえさるなり いのちを あとう きよきみ名に

 いかなる けがれも きよめつくさん ちしおの ちからの あるかぎりは

                              聖歌 90 ああ言葉の限り  より

 

あなたは誰をまた何を待ち望むのでしょう。

この世の当てにならない、またはかなく消えゆくものに人生の全てを費やしてはなりません。

真実にあなたを愛するお方がおられます。

このかた即ちキリスト・イエスを知っていただきたいのです。

     
私たちは自分の罪を御霊に示されることを、始めは嫌がります。けれども成長するにしたがって、

神様をもっと知りたいと願うにつれて、自ら自分の内に罪がないかを調べて、告白したいと願います。

これが義に飢え渇くことであり、自ら自分を裁くことです。


1 コリント11:31
「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」


1 テサロニケ  5:23
 ・・・ 主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。     

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待っておられる

2024年04月12日 | キリスト教

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

                               詩編 130 篇 1 節


ほとんどの人は自分の力ではどうにも出来ない罪と死の深い淵に落ち込みながら、

まず第一段階に、その事実を否定するそうです。「 やめる気になればいつでもやめられる 」 

     と深い淵にはまり込んでいることを認めないそうです。

 

第二の段階は、そこからの脱出の方法を探究するそうです。

始めは理性的に、自分の知恵と力によって脱出の道を捜しますが、次第に焦り、もがく様になるそうです。

 

そして第三の段階は、もう駄目だと絶望して立ち上がろうとしないのだそうです。

 

人が真実、神を呼び求める時、人はその淵から立ち上がり、抜け出る。

人は神から離れ神をないがしろにした時から、底なしの深い淵に捕らえられていくのです。

しかし、自分の力ではどうにもならないと、知らされて、その深みから、神を呼ぶとき、救い出されるのです。

あなたは今、何段階の状態でしょうか。

主はあなたに速く気付いて欲しいと思っておられます。

この第三段階は、つらくて、苦しんですが、でも、ここが主に出会う所となります。

主はあなたより先回りして、その最悪の底で傷ついた諸手を広げておられます。

私たちにとって、最悪の事態が、最良の時となりうるのです。それは、主イエスを信頼するときにです。  
   
ローマ 2:4 
「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

 

主が罪を赦し、その心を新しくしてくださるからこそ、主を恐れ、愛することができます。

それはイエスの足を涙で濡らし、油で塗ったあの不道徳の女のしたことであります。

多く愛したのは、多く愛されたから、罪赦されたからです。

いまも主なる神はあなたを赦し招き入れようとしてあなたを待っておられます。

 

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一つに

2024年04月05日 | キリスト教

 

ひとつのみ歌に声合わせなば  ひとつの敵にもついに勝をえん  

             御国にのぼりて御神に会おう日  一つの喜び我ら受くべし

                                  聖歌 297より 


一致を保つことができるようになるのは、一重に「「自己中心」とは反対の「へりくだり」です。

自分のことではなく、キリストのことを思うことです。

私たちが、イエス・キリストのご性質やみわざを中心にして集まっているなら、

キリストはおひとりなのですから、私たちも一つとされます。

 

みんなと同じ思いになるなんて私には無理、それは大切なこととははわかっているのだけれども。 

だけどもそんなに大きな違いはないと思う、チョットした違いが私とあなたとを分けてしまう、

だから私が折れれば済むこととはわかってはいるが、それが出来ない、なぜキットすべてのことに自信が無いからなのかな。 


1ヨハネ1:3
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、

あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。

わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」

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どちらも幸いです

2024年03月29日 | キリスト教

 

ややにちかし あまつわがや こころにえがきて われはまてり  

       そなえられし わがすまいは かがやける まちのなかにぞある 

                                                                        
                                                                           聖歌 364 より
                                                                                                                
ピリピ  1:23
「この二つのことの間で、板挟みの状態です。

  一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」


( 同 )
私は、その二つのもの (死と生) の間に板ばさみとなっています。

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。   
 

へブル 11:16
「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」  

 


 もしよろしければ、聖書をお開きになって、この聖句の文脈をお確かめ下さい。

        聖書には死後のことも、今の命をどのように生きるかも書かれています。

 

     「 聖書は、決して死を待ち望むようには命じてはいません。天国を待ち望むべきであるとごく頻繁に命じています。」  
 
                                           マシュー・ヘンリー                                                                      
                                                                                          
最後に

これがクリスチャンとしての生きざまです。

クリスチャンは、単に後の世のことを思って、この世で苦しみ悩んでいる存在ではありません。 

なぜなら、主にあって豊かな実が結ばれていくからです。

けれども、同時に、この世には何の未練もありません。

なぜなら、天に用意されているものが、どれだけすぐれているかを知っているからです。

ここは苦しいから、はやく天国に行きたいでもないし、ここは楽しいから死にたくない、

でもないのです。どちらも自分にとっては益なのです。 

 

 

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主の御名

2024年03月23日 | キリスト教

・・・ 、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。

                                                  Ⅰサムエル 17章 45節B


  

主は私の ( 牧者 ) であって、主は私と ( 共 ) に歩んでくださり、私が病み悩むときも ( 癒 ) してくださる神です。また、私が貧しく乏しいときにはあらゆる恵み持って (  備 )  えてくださるから。私は声を大きく叫んで言います。主は私の頭の上にある (  旗 ) ですと宣言するとき、(  主の )  (  平安 )  が私のうちに満たされるのです。何故なら、わたしを守ってくださるお方は。(  万軍 )  の主であり、(   全能 ) の神だからです。  

 

 牧者 ( ローイ )     主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。     詩編 23:1     口語訳
 
 共に ( シヤンマー )  その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。          エゼキエル  48:35
 
 癒す ( ラファ― )    わたしはあなたをいやす主である。                出エジプト  15:26
 
 備え ( イルエ )     「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。        創世記    22:14
 
 旗  ( ニシ )       モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、    出エジプト  17:15
 
 平安 ( シャローム )   それを「主は平安」と名づけた。                 士師記  6:24  口語訳

 万軍 ( ツェバォット )  万軍の主の名によってお前に立ち向かう。             Ⅰサムエル  17:45
 
 全能 ( シャダイ )    「わたしは全能の神である。 ・・・・ 。            創世記    17:1

 

 ことばの前に、「 エル 」 または 「 ヤーウエ 」 または 「 エホバ 」 とつけます。例えば ( シャダイ ) の場合 エル・シャダイ となります。

              そして神は主キリスト・イエスを私に贈られた。ただただ感謝に尽きない。

 

 

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