ヒマローグ

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ごめんなさいの一言で

2021-02-28 08:42:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「関係を見直して」2月23日
 専門記者大治朋子氏が、『謝罪のコスト』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、神戸大学大学院教授大坪庸介氏の論文を紹介しています。『相手との関係を続けることに価値を感じ▽このままでは許してもらえない-と考えると「コストをかけてでも謝罪しようとする傾向」が見られる』というのです。
 そしてそのことから、『何をやっても許してくれそうで、長期的な関係性に影響を及ぼしそうにないと感じると「言葉だけの謝罪で十分」と考えてしまいがちなのだろう』とし、昨今の政治情勢へと話が移っていきます。その分析には私も同感ですが、ここでは学校における謝罪について考えたいと思います。
 多くの子供が長時間共に過ごす場である学校は、日常的に大小様々な問題が起き続ける場でもあります。そして、多くのトラブルの解決には、真実の究明・責任の所在の確認・謝罪と許しという過程が必要になります。つまり学校は、謝罪と許しの場でもあるということであり、謝罪が正しく行われることが問題解決に必須の条件であるということです。
 子供同士のトラブルでは、謝罪も許しも子供が行います。一方で、直接的な被害者がいないケース、つまり学校のルールや約束事が破られたときの謝罪は、叱った教員に対して行われることが一般的です。授業中の私語、掃除当番のサボり、器物の破損、校舎内を走り回るなど、実際には他の子供の学校生活や学習権に悪影響を与える行為であり、被害者は他の子供たちなのですが、教員がそれらの被害者の代わりに謝罪を受け、許しを与えるという形です。
 その「謝罪」には、十分なコストが払われているでしょうか。言葉だけで、つまり上辺だけ、形式的な謝罪に陥ってしまっているケースが多いのではないでしょうか。「謝罪」する子供の心の中を文字化すれば、「はいはい、分かりました。謝ればいいんでしょ。頭も下げますよ。気が済んだ?はい儀式はお終い」というような感じでしょうか。特に反抗的な子供というわけでもない普通の子供の場合でも。
 こうした上辺だけの謝罪を重ねる経験は、子供に中に謝罪=言葉で形式的に行う儀式という認識を植え付けてしまいます。それは自分の責任や結果の重大性のへの認識を麻痺させ、むしろ自分は不当に、過剰に責められているという被害者意識を増長させることにつながり、現在の子供たちが主役となる将来社会の倫理観の欠如をもたらし、社会を荒廃させることになります。
 大治氏の考察に従えば、言葉だけ上辺だけの形式的謝罪が横行するのは、教員が形だけの謝罪を安易に受け入れて緩してしまうことに原因があることになります。許すのは簡単なことです。しつこい奴と子供に嫌われることもありませんし、寛大な心の大きな人という印象を与えることもできます。一方、本気で叱り、本当に心からの謝罪か否かを見極め、子供が納得するまで説くのは、子供理解力と根気がいることです。易きに流れるのは人間の性、教員は常に自戒しなければなりません。
 

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