新型コロナウイルスについて思うこと | 『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

これは『哲学の透視図』を改題したもので、サイババとの体験談、教えを通して「人間とは何なのか?」「死をゴールとした人生に何の意味があるのか?」「真理とは何なのか?」といったものの答えを探究していくものです。

すでに前回の記事から4か月近く更新が途絶えたままなのですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 

私の方は、可もなく不可もなしといった感じのまま、そこそこ充実した日々を送っているのですが、今年いっぱいは集中してやらなければならないことがあって、今年はこのまま更新なしで終わりそうです。

 

そんな中、資料として調べていた過去記事の中に、書いた私自身がすっかり忘れていた、ウイルスと人類の関係について書いていたものがあったので、それをここで再掲載しておきます。

すでに読んでいる方もいるかもしれませんが、書いた私自身が忘れていたくらいなので、過去に読んでいた方もたぶん忘れていると思うし、改めて読み返してみたら、そこそこ面白かったので。(^^)/

 

お付き合いいただければ幸いです。

 

 

記事の抜粋。

    ↓

『・・・人類と、人類に病をもたらすウイルスという二者の関係について考えてみます。


頭脳が生み出す知恵のみで物事を考える人々は、病をもたらすウイルスを滅ぼすことで、確実に人間は一つの病からは解放され健康への切符を手に入れられるになると考えます。

しかし、インドの霊的賢者は 「決してそうはならない」 と警告します。
なぜなら、人もウイルスも、ともに自然の一部であり、自然によって生み出され、自然によって育まれているものだからです。


そうである以上、その事実が究極的に私たちに突き付けてくる命題と言うものは 

「人類の側に、病気やウイルスを滅ぼそうとする力が医学として存在しているという事実が逆説的に暗示していることは、病気やウイルスの方にも、そうした人類の力に対抗して生き残るための潜在的な力を自然は必ず与えて育んでいるはずである」 

ということです。

 そうして建設された生命モデルは、私たちに対して 

「この先人類が、どこまで医学を発達させたとしても、その結果として得られる医学の勝利は常に一時的なものでしかなく、その勝利の後には必ず進化によって体制を立て直した病の側からの、新たな反撃が加えられ、その戦いはどこまで行っても、決して決着を見ることのない、永遠のいたちごっこに終わらざるを得ないものになるのだ」 

 ということを教えるものになるのです。

こうした形而上学によって描き出されていく生命モデルは、自然科学によって取り扱えないものであるため、これまでは、科学の崇拝者たちによって 『絵空事』 として無視されてきました。

しかしそれが本当に 「まともな人間が関わるべきでない絵空事」 と無視していいものかどうかは、誰もが目の前の現実を、ただあるがままに直視さえすればわかるはずのものなのです。

少なくともこうした生命モデルの正しさは、かつて夢の治療薬として登場した抗生物質が、それを使って治療すればするほどに、一時的には医学が勝利をおさめたかに見える状況の陰では、抗生物質によって手痛い打撃を受けた病原菌が逆にその毒性を利用して巧みに進化し、さらに強力な、薬によっては殺すことのできない耐性菌となって人類の前に立ちはだかり始めていることや、自然界にはウイルスという遺伝子の運び屋が存在し、常にそのウイルスによる遺伝子組み換えが行われていて、いつ人類の存亡を脅かす未知の病原菌が誕生するかわからないということの発見や、現実に、新型インフルエンザや、エボラ出血熱などの脅威が、人類の未来に重大な暗雲を投げかける現象をおこし始めているという事実が教えてくれているものなのです。

私たちは今まで、医学がこれまで成し遂げてきた輝かしい勝利の話しや、これから医学が成し遂げていくであろう輝かしい勝利の話し、医学が私たちにもたらすであろう夢の新薬、夢の医療技術、夢の医療体制といった話をいったいどれほど聞かされてきたでしょうか?

その結果として私たちの目の前にやってきている現実はどうなのでしょうか・・・』

 

 

以下は、記事の全文です。

         ↓

《《私は、サイババ様の帰依者を自称していますが、厳密に言えば、そう名乗る資格を持っていません。

なぜかというと、サイババ様御自身が、カリユガと呼ばれる現代には 「神の帰依者と呼べる人間は存在していない」 と繰り返し言っておられたからです。

「神の帰依者と自称する人間はいても、神が帰依者と認める人間はいない」 と。

それだけ人間は堕落してしまっているということです。

では、ブッダやキリストが生きていた時代には、神の帰依者と呼べるような人たちが大勢いたかというとそれも違います。
大別して四つある時代(ユガ)の最後にあたる、《人間が自らの神性をもっとも衰退させ、ダルマ(人としてなすべきこととなすべきではないこと・正義)を見失い堕落する》カリユガという時代は、ブッダやキリストが生まれた時代以前からすでに始まっていたものだからです。

自然科学を盲目的に信仰する人たちはこうした話を 「非科学的」 と嘲笑って相手にしないでしょうが、人類最古の聖典であるヴェーダやヴェーダンタも、サイババ様も人類の歴史は数千年や数万年といった単位の話ではなく、人智が及ばない悠久の過去から連綿と続いてきているものであることを明言しています。

その時間の流れの中で、多くの生物は原始の生物から今の姿へと進化してきたのかもしれませんが、それと同時に、人間は、神の子としての自己の本質を見失いながら退化してきたという相反する事実も同時に存在しているのです。

神話は、そうした人類の歴史の原点にあった物語の「長い年月の中で風化してしまった記録」という一面も持っているのです。

しかし、そうした人類の歴史を、自然科学が明らかにできる日は来ません。
何故なら、連綿と続いてきた人類の歴史の節目節目には、ノアの箱舟の神話にあるような、地上のすべてを呑み込むような大洪水や天変地異が起こり、地球規模でリセットされてきた瞬間が幾度となくあるからです。

自然科学がそうしたことの何一つを知らず、知ろうともせず、神の存在をも無視したものである以上、この世の真実を明らかにすることなど永遠に不可能なことだと言わざるを得ません。

自然科学は、宇宙の歴史の始まりをビッグバンと考えています。
そして、人類最古の聖典ヴェーダやヴェーダーンタも、サイババ様もそれを否定はしません。

ヒンドゥ教ーでは、何を為す時も、最初に 「オーム」 というマントラを唱えてから始めます。
そして、サイババ様は、この「オーム」 というマントラこそが宇宙が誕生するときに鳴り響いた音であると仰っています。

キリスト教徒が唱える「アーメン」のいう言葉の原点にあったものも、同じく、この聖音の表現であると言われています。
聖書に「初めに言葉があった」と書かれているのは、宇宙は、この聖音とともに誕生したことを意味していると・・・。
(ちなみに、このオームという、宇宙開闢の時に鳴り響いた音をマントラとして人が発する時、それは『音』 と言う姿を取った神を呼び出して礼拝していることになります)

ヴェーダやヴェーダーンタも、サイババ様も、宇宙がビッグバンと呼ばれているような現象とともに誕生したことは認めますが、自然科学のように、それが偶然に起こった 「たった一度のできごとである」 という考えには同意しません。

そうではなく、生物が輪廻転生するように、宇宙もまた、誕生しては滅び、滅んでは生まれ変わり続けていると証言しています。

私たちの先祖は、この宇宙の中に、名や姿を持った多くの 『神』 という存在を見出してきましたが、ヴェーダやヴェーダーンタも、サイババ様も、「この宇宙の中に生まれ、この宇宙とともに滅びゆく存在は、真の神ではない」 と教えます。

そうした神々(日本において八百万の神と呼ばれているような神々)は、ヒンドゥー教では半神と呼ばれていて、自然のある部分を司っている超自然的な神的存在ではあっても、この宇宙を創造した究極の神秘である《至高神》ではないということです。

そうした神々(半神)もまた輪廻転生し、最終的なゴールに辿り着くには、人間としての生を得る必要があります。
人間としての生が、神に至る、最終的な関門であるとともに、唯一のチャンスなのです。

したがって、すべての人の人生において、生きることは目的ではなく、あくまでも目的を達成するために与えられた 『手段』 であり、目的は、真理を悟り、神の子としての真の自己を実現することです。

この世に姿や形を持ち、物質や物理的エネルギーとして観測できる宇宙は、樹木で言えば幹や枝や葉や花や果実であり、極めて表面的な部分です。
なぜなら、そうした樹木を真に存在させているものは、そうした目に見える部分ではなく、地下に埋もれていて目には見えない、根の部分だからです。

木の幹を切り倒しても、根がある限り木は何度でも再生します。
それは、木が地上に芽を出し、成長し、枝葉を生い茂らせ、花を咲かせ、果実を実らせるのは、地上に姿を現している木そのものにその力があるからではなく、すべては地下に姿を隠している根から与えられているものだからです。

それと同じように、宇宙もまた、それを生み出し、育んでいるものは、目に見え、物理的に観測できる、物質的な宇宙そのものの中にあるのではなく、《神》という、物理的に探し出すことも、人智によって理解することもできない、不可知の領域に隠れ潜んでいる超越的な存在にあるのです。

宇宙がそうであるように、その宇宙に生み落とされている私たちの存在基盤もまた、宇宙そのものにあるのではなく、宇宙を超越して不可知である《神》にあるのです。

このことを理解できない限り、自分がなぜこの世に存在しているのか、自分という存在はどこから来てどこへ行こうとしているのか、何を為し、何を為すべきではないのかを理解することはできません。

つまり 「正しく生きることができない」 ということです。

それを理解する力は、頭脳にはありません。
しかし、頭脳は、それができるという迷妄を生み出し、その迷妄の中に人を呑み込んでいきます。

その結果、人は、あたかも蚕が自分が吐き出した繭によって自分自身を闇の中に閉じ込めてしまうように、自らの頭脳が生み出す迷妄によって、それを叡智と勘違いしながら無知という闇の中に閉じ込められているのです。

その結果として出来上がったのが、私たちであり、私たちの目の前に広がっている世界です。

そこにあるのは、進化した人間の叡智の結晶として作られた、人類史上最も輝かしい幸福と希望に満ちた世界のはずです。
しかし、その栄光は、人々の幸福は、希望は、どこにあるのでしょう?

ある時期から人々は、神を信仰することをやめ、人間の頭脳と、頭脳が生み出す科学に跪くようになりました。
その結果何が起こったでしょうか?

人が神を信仰していた時、自然は万物の母であるという意識のもと、自然に対して敬意を払い、愛していました。
人が神を無視し、頭脳に跪き始めた瞬間から、人は自然を自らの支配下に置くべき道具であると考えるようになり、好き勝手に破壊し、自分たちの都合のいいように作り変えようとし始めました。

その結果、何が起こっているのか、もはや誰の目にも明らかです。
しかし、頭脳にだけ頼って自然を理解しようとする人々の智の本質は迷妄であるため、なぜそうなってしまったのかを理解できません。

それを理解できる真の叡智は、頭脳に頼る唯物論者の中にではなく、神に帰依する霊的賢者の中にしかありません。

頭脳にだけ頼る人は、表面的な物事しか理解できないため、何を考え、何をするときでも 「自然というものが、そこに存在している《すべての生物》 《すべての環境》 《すべての現象》 といったものの総合的な働きの結果として生み落され、育まれ、維持運営されているものである」 ということを忘れがちです。

そのため、人類に病をもたらすウイルスや、生活するのに不都合な環境を排除し、人類にとって都合の言い生物だけを増やしたり、新たに作り出していけばいくほどに、「この世界は、人類にとって快適で住みやすい世界になっていくに違いない」 と言うような考えにたやすく陥ります。

しかし、霊的な世界に住まう真の賢者たちや、その賢者たちが真の智の至宝と崇める天啓聖典ヴェーダやヴェーダーンタも、アヴァーターと崇めるサイババ様も 「それは頭脳が描き出しただけの愚かな迷妄であり、現実は決してそうはならない」 と告げてきます。

何故なら、自然というものが、自然の中に存在しているすべてのものの働きの生で作られているものである以上、そこに人間にとってどれほど都合に悪い生物や現象や環境が存在していたとしても、それらのすべては、あくまで人間の利己的な目から見た場合の話しであり、自然そのもにとっそうではなく、それらのすべてが自然をその状態に維持するためには必要不可欠な存在であることを意味しているからです。

つまり、「自然の中に、人間にとって不都合な生物は存在していたとしても、自然に不都合な生物や、必要のない生物など、ただの一つも存在していない」 ということなのです。

頭脳にだけ頼る人間は、自然の一部分だけを自分たちの都合のいいように変えることが可能だと考えて、それを試みます。
しかしその結果として、予想もしなかったような変化が、地球環境全体で起こります。

例えば、人類と、人類に病をもたらすウイルスという二者の関係について考えてみます。
頭脳が生み出す知恵のみで物事を考える人々は、病をもたらすウイルスを滅ぼすことで、確実に人間は一つの病からは解放され健康への切符を手に入れられるになると考えます。

しかし、霊的賢者は 「決してそうはならない」 と警告します。
なぜなら、人もウイルスも、ともに自然の一部であり、自然によって生み出され、自然によって育まれているものであるからです。

そうである以上、その事実が究極的に私たちに突き付けてくる命題と言うものは 「人類の側に、病気やウイルスを滅ぼそうとする力が医学として存在しているという事実が逆説的に暗示していることは、病気やウイルスの方にも、そうした人類の力に対抗して生き残るための潜在的な力を自然は必ず与えて育んでいるはずである」 ということです。

そうして建設された生命モデルは、私たちに対して 「この先人類が、どこまで医学を発達させたとしても、その結果として得られる医学の勝利は常に一時的なものでしかなく、その勝利の後には必ず進化によって体制を立て直した病の側からの、新たな反撃が加えられ、その戦いはどこまで行っても、決して決着を見ることのない、永遠のいたちごっこに終わらざるを得ないものになるのだ」 ということを教えるものになるのです。

こうした形而上学によって描き出されていく生命モデルは、自然科学によって取り扱えないものであるため、これまでは、科学の崇拝者たちによって 『絵空事』 として無視されてきました。

しかしそれが本当に 「まともな人間が関わるべきでない絵空事」 と無視していいものかどうかは、誰もが目の前の現実を、ただあるがままに直視さえすればわかるはずのものなのです。

少なくともこうした生命モデルの正しさは、かつて夢の治療薬として登場した抗生物質が、それを使って治療すればするほどに、一時的には医学が勝利をおさめたかに見える状況の陰では、抗生物質によって手痛い打撃を受けた病原菌が逆にその毒性を利用して巧みに進化し、さらに強力な、薬によっては殺すことのできない耐性菌となって人類の前に立ちはだかり始めていることや、自然界にはウイルスという遺伝子の運び屋が存在し、常にそのウイルスによる遺伝子組み換えが行われていて、いつ人類の存亡を脅かす未知の病原菌が誕生するかわからないということの発見や、現実に、新型インフルエンザや、エボラ出血熱などの脅威が、人類の未来に重大な暗雲を投げかける現象をおこし始めているという事実が教えてくれているものなのです。

私たちは今まで、医学がこれまで成し遂げてきた輝かしい勝利の話しや、これから医学が成し遂げていくであろう輝かしい勝利の話し、医学が私たちにもたらすであろう夢の新薬、夢の医療技術、夢の医療体制といった話をいったいどれほど聞かされてきたでしょうか?

その結果として私たちの目の前にやってきている現実はどうなのでしょうか?

それは本当に、私たちがこれまで聞かされてきたような、医学の発達によって、一つ、また一つと、それまで人類を苦しめていた病から解放され、健康を謳歌しながら人生を全うできるような輝かしいものとして私たちの前に存在しているでしょうか?

それともそれは、医学が発達すればするほどに、医者や病院が国中に行き渡れば行き渡るほどに、それを必要とする病人も増え続け、新たな治療薬が開発されればされただけ、新しい病も世界のどこかで発生し続け、新たな治療法や技術が開発されればされただけ、それによって救われる人がいる反面、その治療が原因となって生み出されていく新たな問題や悲劇も増え続けているという奇妙なものになってはいないでしょうか?


それでもまだ、私たちが、そうなることを警告してきた賢者の意見ではなく、そうした意見をあざ笑い無視し続けてきた人々の意見だけに価値を見出すべきなのでしょか。

少なくともヴェーダやヴェーダーンタは、

「このまま人類が、人類の一方的な都合だけを持ちだして、全体的な自然の言い分を無視した傲慢なやり方で自然を作り替えようとするのであれば、その結果として人類が手にするものは、豊かさでも、快適さでも、便利さでもなく、その反作用として自然の摂理が生み落す、人類が手にした豊かさも快適さも便利さも打ち砕こうとする新たな災害であり、もし人類が、人類の一方的な都合だけを持ちだして、病をなりふり構わぬ力づくで滅ぼし、死が決して避けられないものであるにもかかわらず、なりふり構わず遠ざけようとだけするのであれば、その結果として人類が手に入れるものは、健康でも幸福でもなく、その反作用として自然の摂理が生み落す新たな病であり悲劇である」 

と警告してきます。

しかし、だからと言って、人類が科学や医学を発達させることによって、自らの健康と繁栄を求めてはいけないと言っているわけではありません。

ただ、「さも自然が自分たちのためだけにあるとでも言うような傲慢さで、世界を作り替えようとするような科学や医学は、決して人類に真の幸福も繁栄も健康ももたらすことはなく、その反作用として自然の摂理が生み落す新たな不幸、新たな病、新たな悲劇をもたらすだけである」 と警告しているだけです。

人間は自然や社会を作り替えるために生まれてきたのではなく、自分を変容させるために生まれてきたものだからです。
しかし残念ながら、そうしたヴェーダやヴェーダーンタの教えを理解する力は、頭脳には存在していません。

それは私たちが、頭脳が生み出す知的な迷妄を離れて、自らの内宇宙の深遠に隠されている霊性に立ち返った時に初めて理解できるものなのです。

サイババ様の御言葉
『ヴェーダは、三つの場・・・過去・現在・未来を貫く時の流れによって、変えられることも、覆されることもない真理を説いています。

ヴェーダーは、三界
筆者注釈  天界・地界・現象界)の繁栄と幸福を確実にします。
ヴェーダは、人間社会に平和と安全を授けます。

ヴェーダは、真理の言葉の集大成であり、開かれた意識の中にそれらを受け取る能力を得た聖賢たちによって霊視されたものです。

実に、その言葉は、まさに至高者である神の息吹です。
ヴェーダの比類なき重要性は、こうした事実に基づいています』

『この世に生きるものは皆、欲しいものが手に入るよう、そして、嫌なことを避けられるように努力します。
ヴェーダは、その両方を成就させる方法を説いていることを知りなさい。

言い換えるならば、ヴェーダは、《しなければならないこと》と、《してはならないこと》を明言しているのです。
その定めと禁令に従うなら、人は利益を得、悪を避けることができます。

ヴェーダは《物質的なもの》と⦅霊的なもの》、《現世》と《現世を超えた世界》の両方に関係しています』

『礼拝、バジャン
(神への愛や栄光を歌うこと)、瞑想といった霊性修業は、高位の神々に対するバクティ(信愛・信仰)に促された行為です。

こうしたものが導くことができる深みや高みに気づいていない者は、その効力を論ずるべきではありません。
それは実際に行することを通してのみ、得ること、判断することができます。

その証は個人的な体験の中に見出されます。

                            (中略)
百万冊の本から集められた博識よりもはるかに貴重なものは、一度の瞑想を通して得た叡智という穀物です。
その閃光(グニャーナ)【叡智】は、どんなに微かであったとしても、貴い取得物です。

                            (中略)
人として生まれたならば、一瞬たりとも人の本性を忘れてはなりません。
決して獣のレベルや、阿修羅のレベルに身を落としてはなりません。

そのようなどん底にだけは落ちるまいと固く決意しなければなりません。

霊性の道だけが、その決意を奮い立たせ持続させてくれます。
そのような切なる願いを呼び覚まし、強めることができます』

サティヤ サイババ著 「ヴェーダ」 より抜粋 》》

 

今回は以上です。

ではまた。

みんな幸せになりますように。

 

サイラム<(_ _)>