↑ ユダの荒野(現在の写真)
〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕節第3主日 2022年1月9日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を
成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 邉見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)
交読詩編 63(神よ、あなたはわたしの神)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) 詩篇63篇1-12節 (旧p.894)
説 教 「主を渇き求める」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。
申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp
次週礼拝 1月16日(日) 午後5時―5時50分
聖書 マルコによる福音書1章21-28節
説教題 「宣教の開始」
讃美歌(21) 57 510 27 交読詩編 100篇1-5節
本日の聖書
63:1【賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。】
2神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。
3今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。
4あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。
5命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。
6わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい、わたしの口は賛美の声をあげます。
7床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。
8あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。
9わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。 10わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。 11剣にかかり、山犬の餌食となりますように。 12神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。
本日の説教
詩篇150篇中、116篇に、「表題(見出し)」と言われるものが付いています。これは詩篇を編纂(編集)していく段階で付加されたと考えられ、表題は詩文についての情報を提供するための散文です。116の表題中、73篇が「ダビデの詩」となっていますが、さらにその中の13の表題は、旧約聖書に記されているダビデの伝記物語中の事件に、詩文はかかわらせています。【新共同訳旧約聖書注解ⅡP.91~92。「表題」「作者と年代」の項目参照】表題に、「ダビデの詩」と記されていると、ダビデ自身が書いた詩文だと思いがちですが、実は150篇のほとんどすべてが、無名の詩人によるものであり、バビロン捕囚(597~538年)以前のものです。詩篇の編纂は紀元前200年頃には終結していたと思われます。旧約聖書に精通した複数の優秀な編纂者が、沢山あつめられていた詩文から、150篇を選び、整理したのです。
詩篇63篇は、神を求める魂の渇き、聖所での神の現臨による渇きの癒し、そしてその生涯で表される賛美の応答について語ります。
この詩篇の背景は、1節の表題によると、ダビデがユダの荒野で過ごさなければならなかった時とあります。息子のアブシャロムの反乱の時も考えられるが、2節の「乾ききった水のない地」とあるので、サウル王が荒野でダビデの命を奪おうと狙った時と推定されます。ユダの荒野とは「ジフの荒野のホレシャ」や「アラバのマオンの荒野」、また「エン・ゲディの荒野」です。ダビデはサウロ王の追跡から逃れるめに三度も場所を変えています。その状況はサムエル記上23章15、24、24章2節に記されています。サウル王に追跡されていたときでも、常に、 ダビデは神の御翼の中に囲われたことを経験したのです。
詩人はおそらく聖所におり、そこで神の威厳の顕現に接し、神のいつくしみ深い助けを経験することを許され、今神の保護を受けて安全であることを知っています(3、7節)。
当時はまだエルサレムには神殿はなく、「神(契約)の箱」が安置されている所が聖所でした。その中で、先に神に向けた切々たる願いが満たされたので、今や感謝の歌が始まります。それはまた、自分の生命を狙う敵に突如として審(さばき)が下ることを彼に確信させました(10節以下)。12節に王の名が挙がっているが、それは捕囚前に聖なる箱(8節)があった王の宮で祝われた神(ヤハウェ)の祭りの場合だと思われます(シオンの丘と思われる)。祈り手はそこで自作の詩を朗読したのでしょう。またそこでは祭儀の進行の一こまとして、敵の運命の決定が王と会衆の面前で行なわれたのでしょう。
「2神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。」
この詩は、命を奪おうとする者たちのいる危険な世界から聖所にやってきた人の祈りとして作られています。その危険な世界のただ中で、詩人は、神の不在を経験し、魂の渇きと飢えを覚え、それなくしては魂が生きることの出来ない神の臨在の必要を味わっています。神へのあこがれは、炎熱下にすっかり干上がって水がなくなった荒野を疲れ果てて歩む人の、焼けつくようなのどの渇きに似て、かって苦難と迫害の続く中で、詩人の魂と肉体をすっかり衰弱させた思いでした。
「3今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。4あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。」
この神の臨在の必要は、聖所で、神の臨在によって満たされます。そこで詩人は、神のみ力とみ栄えをその目で見ます。神の臨在に接することは、必要を満たし、あたかも最も豊かな食事のもてなしを受けたかのように、魂を満ち足らせます。「あなたの慈しみは命にもまさる恵み」ですと言い、主を賛美します。「慈しみ(ヘブライ語はヘセド)」は真に主の特性であり、他のすべてのものに主の恵み深さを知らせるものです。ヘセドとは、誰であれ、主に信頼するすべての者に対する主の助けのこととです。詩人は、神が彼に真実であられることは、彼自身の生命よりも価値があると言おうとしているようです。詩人が、救いへの信頼を置いているのは、この神の慈しみ(へセド)なのです。彼のこの告白は、すべての正しい信仰が到達すべき、神のみに自己をささげる祈りの核心へとわたしたちを導きます。
「5命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。」
「手を高く上げ」て祈る姿勢は、讃美の自然的な結果です。詩人は神によってくまなく満たされた魂の反響に、「命のある限り、あなたをたたえ、祈ります」と信仰を告白します。「御名によって祈る」という告白は、イエス・キリストの名によって祈ることによって深化されます。
「6わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい、わたしの口は賛美の声をあげます。」
神を慕い求め、乾いていた詩人の魂は、「満ち足りました」と感謝しています。「乳と髄のもてなしを受けたように」とは、最上の栄養物のように心を満たすものです。そのようなもてなしを神から与えられて喜びの歌をうたい、賛美の声をあげます。
「7床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」
神の家で祈り手の心に浮かんだことは、祭儀の行事の範囲に限られているわけでなく、日常生活のあらゆる領域の中に及んで行きます。なぜなら、その喜びは神と共なる個人の精神生活の奥底に達しているからです。
詩人は夜寝るときも、主の御名を唱え、祈りを口ずさみながら夜をすごす、と言います。夜中でさえも彼の考えをたえず神への思いに没頭させます。
「8あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。」
神の恵みと守りを覚えて、神は必ず助けてくださることを自覚させ、安心して喜び歌います。
「9わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。」
「わたしの魂はあなたに付き従い」は、神にしがみついて離れないというねばり強い信仰です。「あなたは右の手で」とは、神の力強い確かな守りを意味します。信仰者は神にしがみつくことで、神にしっかりと支えていただいていることを感謝します。
「10わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。」
ただ一つの影が、完全に神に没頭する彼の魂に射し込んでいます。それは敵に関する考えです。だが彼もまた、自分の生命を狙う者が神の審(さばき)を免れないだろう、命を奪おうとする者は、必ず滅ぼされることを確信しています。
「11剣にかかり、山犬の餌食となりますように。」
正しい者に向けられた悪者の剣は、逆に悪者を滅ぼす結果になるということです「山犬の餌食となる」とは、死体が葬られない状態となり、恥と不名誉を受けることです。詩人は終わりの日の滅びのイメージを用いて、命を危険にさらす者がもはやいなくなることを求めます。
「12神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。」
主(ヤハウェ)への忠信の告白と、王や神の民が喜ぶこととが語られ、「偽りを言う者」の唇はふさがれることを願う。神に任命された王に対する忠誠を貫く者には神の守りを与えられる。「誇る」とは確信することであり、神に従うことを誇りに思うことです。
ダビデに対するサウロ王の敵意は、ダビデがペリシテ人との戦いに勝利を収めのをねたみ、王権を奪われることを恐れたからです。サウロ王は悪霊にとりつかれるようになります。そしてダビデを捕らえて殺そうとします。それを知った息子のヨナタンはダビデに逃れるように伝えました。ダビデは主に祈りつつ、主の導きに従いました。サウルは絶え間なくダビデを狙ったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった(サムエル記上23:14)、と記されています。
「主よ憐れんでください。絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです。」(詩篇86:3-4)というダビデの詩があります。苦難の中で、ダビデの魂は主を慕い求めています。渇いた地が水を求めるように魂は渇き求めています。慈しみの神は、必ずそれに応えてくださり、「乳と髄のもてなし」を受け、魂は満ち足りるのです。「乳と髄(脂肪・あぶら身)」は、神にに献げられるべき最善のものでした(レビ記3:16)。神の専有物をご自身がふるまってくださり、魂を満たしてくださるのです。
神は御子を救い主としてわたしたちに与えてくださいました。主イエスに深く愛されていることを体験し、わたしたちの方でも主イエスを深く愛してゆく中で、わたしたちは霊的な恵みに満たされ、生きる意味と喜びとを体験させられるのです。詩篇63篇は、神を求める魂の渇き、聖所での神の現臨による渇きの癒し、そしてその生涯で表される賛美の応答について語ります。