日記

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「三昧耶」の語義から考える蓮如上人「機法一体」説について

2023年05月25日 | ブログ
三昧耶薩埵、三昧耶戒と出てくる「三昧耶」とは、元々、東密、台密共に語義は同じように解釈されてあるところであり、その四義(平等・誓願・驚覚・除垢障)における、特に「平等」と「誓願」という意味合いから、蓮如上人が南無阿弥陀佛の「機法一体」説を理論付けた可能性も高くあります。

一体という意味での「平等」は、もちろん、如来の観点からの「平等」の義(空性として平等)であり、空性(悟るべき空性のあり方)としては、凡夫も仏も一体という意味でありますから、本来(空性として一体)清浄ということ(本質的に本源から空性)で、その凡夫と仏の一体性(仏凡一体)から「三昧耶」を「信心」として援用したと考えることもできるわけであります。

いや、それより、「三昧耶」における「平等」より「誓願」の方を重視した可能性も高くあります。

「三昧耶」の「誓願」は、菩提心からの「弘願」(如来の本誓)という意味を有しており、つまり、三昧耶は、「如来の救いの本誓」ということでもあるのであります。

その如来の本誓に、阿弥陀如来の「本願」を合わせるということでの一体性であります。

無上瑜伽タントラ、あるいは、最勝三昧王三昧における成就法としての「三昧耶薩埵(金剛薩埵)と智薩埵」の関係性からではなくても、当時に日本に招来されていた密教における三昧耶の意味合いからでも説明できなくはないということであります。

更に論考して参りたいと存じます。

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密教にも似たような蓮如上人の「機法一体」説を確認することができました。

「私の信心と仏の救いは 本来一つゆえ」

まさに三昧耶薩埵(金剛薩埵)と智薩埵との関係性と同じ構造となると分かりました。

当時の民衆に流布した談義本の南無阿弥陀佛の密教思想から、蓮師が機法一体を展開したことからも類似するのは当然ではあるものの、天台密教にせよ、真言密教にせよ、三昧耶薩埵と智薩埵との合一性を明確に説く成就法、本尊瑜伽が日本に招来していたかどうかは明確ではありません。

三昧耶薩埵と智薩埵との合一性を明確に説くものは、代表的には「最勝三昧王三昧」となります。

もしも、談義本における機法一体の密教思想が、三昧耶薩埵と智薩埵の合一性を解くものとしてあったとするならば、まさに「私の信心と仏の救いは 本来一つゆえ」と同じことになるのであります。

蓮師は、確か台密の寺院でも学んでいたかと存じます。

しかし、最勝三昧王三昧は、無上瑜伽タントラ、秘密集会タントラに依拠しており、日本に三昧耶薩埵と智薩埵の合一性に関する成就法は招来していなかったはずなのであります。

もちろん、親鸞聖人の時代においてもです。

いずれにしても、「信心と本願」、「三昧耶と智慧」、その成仏へと向けた救いの原理は一致するところとなります。

無上瑜伽タントラから親鸞思想を考えると新たな知見が得られそうであります。

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