佐倉城(日本100名城) 5 三の門から二の門 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は三の門から二の門です。

 

三の門を入った所です。

下図①から三の丸内です。

 

現代の地図に江戸時代を

重ねた地図です。

 

江戸時代中期の絵図です。

赤い線に沿って歩きました。

 

 

 

下図②付近から茶室三逕亭 

(さんけいてい)⑤が見えます。

江戸時代にはここは小姓長屋

でした。京都大徳寺の塔頭、

孤蓬庵の茶室忘筌(重要文化

財)を模したもので、昭和58

年に東京港区の乃木神社か

ら移築されました。陶淵明の

「帰去来の辞」から三逕亭と

名付けられました。

その手前窪地は空堀跡です。

下図のように土塁もありました

が消滅しています。

 

 

 

 

 

上図③付近です。

 

下図③から崖を下りる浅間坂が

あります。下りると出丸の方に

行けます。

 

 

 

茶室三逕亭が見えます。

道の先には銅像も見えます。

 

進むと

 

上図⑥の所です。

赤い線を通り二の門に行きますが、

道の両側にハリスと堀田正睦の銅

像があります。

 

タウンゼント・ハリスの銅像です。

 

ハリスの古写真です。

アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス

は日米修好通商条約に調印をしました。

 

掘田正睦の銅像です。

 

佐倉藩5代藩主堀田正睦(ほったまさよし)

堀田正睦(1810~1864年)は蘭学

を奨励して佐藤泰然を招聘して佐倉

順天堂を開かせます。そんなことで

「蘭癖」と呼ばれ開国派でした。

朝廷の勅許なしで1858年にアメリカ

総領事のタウンゼント・ハリスと日米

修好通商条約が調印されました。

井伊直弼が大老でしたので、正睦

を始めとする一橋派の排斥を始めま

す。1858年に正睦は松平忠固と

共に登城停止処分にされます。

6月には忠固と共に老中を罷免さ

れ正睦は政治生命を絶たれました。

正睦はそれまで天皇から勅許を受

ける係で、京都まで行きましたが、

勅許が得られなかったので直弼か

らの罷免でした。

直弼とはそれまで開国派として仲

が良かったのですが、勅許を出し

て欲しかったので一橋派になって

いたのも罷免の原因でした。

1864年に正睦は佐倉城三の丸

の松山御殿において失意のうちに

死去します。享年54でした。

 

赤い所は空堀です。

 

⑥の横にある空堀です。

 

二の門跡の看板が見えます。

 

二の門跡の解説板です。

武器庫として使用されました。

門の内側は二の丸です。

門幅は8間(約14.4m)です。

 

二の門の古写真です。

 

 

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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