米沢城(続日本100名城) 10 最終回 伝国の杜(米沢市上杉博物館)2 | みどりの木のブログ

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前回の続きです。

今回は伝国の杜(米沢市上杉博物館)2

で最終回です。

伝国の杜の展示品の一部を紹介します。

 

米沢藩の領地だった、置賜(おきたま)

地域は、山形県の最南端に位置します。

 

置賜(おきたま)地域の農家のジオラマ

 

置賜(おきたま)地域の地図です。

 

置賜地域の地形です。

ほぼ米沢藩の領地15万石でした。

 

置賜絵地図です。

この地図の南のさらに南には

会津盆地があります。

 

置賜(おきたま)地域の町のジオラマ

 

上杉家は関が原で西軍に味方

したので、120万石から30万

石に減封されて、さらに3代

上杉綱勝が1664年に嫡子も

養子も無いままに急死します。

このため上杉家は無嗣断絶の

危機に立ちます。それで綱勝

の妹富子と高家吉良上野介と

の間に生まれていた当時2歳

の綱憲を末期養子とすること

を訴えて幕閣に認められます。

しかし、石高が15万石に減

らされます。領地はほぼ置賜

郡のみとなりました。

それでも藩士を解雇しなかっ

たので、原方武士という半農

藩士が城外に居住しました。

 

伝国の杜展示より

外堀の外に描かれています。

 

3軒の原方屋敷図です。

細長い形状です。

 

原方屋敷のジオラマです。

 

『原方のくらし』には『子弟に厳しく

武芸を仕込み、そのための武芸所は、

七ヶ所に置かれた。』とあります。

『原方衆は城下の下士に較べて、藩

のお手伝い普請に動員される場合が

かなり多く、生活は自作の田畑を有

する点で城下の下士よりはやや良く、

『城下のお粥っ腹、原方の糞つかみ』

といわれ、幕末の藩儒山田穫堂が詩

に読み込んだほどです。

城下の下士も原方衆も生活で苦労し

たようです。

 

すいませんかなりボケました。

春には新芽を食用に出来たので、

藩も生垣にするように勧めまし

た。池を掘って鯉の養殖も勧め

ています。

 

すいませんかなりボケました。

行屋の図です。

男子が成人の儀式として、山

に登る行をする前に、身を清

める所が行屋です。

 

伝国の杜の庭に行屋があります。

右側には草木塔の石碑もあります。

 

伝国の杜にある大きな二の丸

までの古絵図です。

 

大名行列の模型です。

 

明治維新後の米沢市街地図です。

 

北側にある上杉城史苑は

飲食店などがあります。

中に入ると

 

お土産店がたくさんあります。

 

ここのレストランを利用しました。

米沢牛のステーキ弁当を食べました。

 

米沢牛のステーキ弁当です。

2000円でした。

 

これで米沢城紹介は終りです。

次回からは、2022紅葉写真です。

 

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