新発田城(日本100名城) 13 足軽長屋 前編 | みどりの木のブログ

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前回の続きです。

今回は足軽長屋です。

 

下図E付近から南方向です。

道の右側を新発田川が流れ

ています。

 

Eから少し進むと

 

足軽長屋が見えます。

右に行くと藩主下屋敷の

清水園です。

 

足軽八軒長屋です。

国重要文化財になっています。

平面図は

 

八軒長屋の構造です。

板設置が古いので見難いです。

 

現在は1棟しか残って

いませんが、この棟は

昭和40年ぐらいまで

使用されていたので保

存できました。

江戸時代は100棟余

りの足軽屋敷があった

そうです。

 

城から離れた清水園付近が、

下級武士の居住区でした。

足軽の居住区は侍町と区別

して、足軽町と呼ばれます。

 

江戸時代も後期になると、

福沢諭吉の家のように、

蔵のある一戸建てに住む

など、才能がある足軽は

そろばん侍になったり、

家塾を持つなど豊かな

生活が出来る者も少数

いました。伊藤博文も

足軽出身でした。

また、新発田藩の近く

の村上藩には皇后さま

の先祖が、足軽として

暮らしていましたが、

学問を身につけて出世

しています。

ただし、いくら親が学

問の出来た人でも、何

代にも渡り出来る子孫

が残らないようです。

例えば両親ともに東大

出の大川隆法夫妻の場

合でも、優秀な子供が

続かなかったようです

し、国語学者の金田一

家も4代目は学者とし

て続かないようです。

鴨長明の「方丈記」に

ある現実があります。

職場の先輩だった方で

京都大学を出た人も、

優秀な子供が続かない

場合が多いと言ってい

ました。

職場の同僚だった方の

高校時代の同級生で、

都知事になった舛添要一

さんは父親が炭鉱現場

労働者でしたが、彼は

炭鉱幹部の社宅を見て、

そんな家に住みたいと

猛烈に勉強して東大に

行けました。

また私の義実家はうど

ん屋でしたが、3兄弟

がいて、2人は京都大

学で、3人目は国立大

医学部でした。

遺伝ではなくて、本人

が強い向学心に燃える

ことが一番大事です。

私は一般の国立大学出

身ですが、実家がボロ

くて向学心が出たよう

に思います。

主に学歴区別で晩婚化

の傾向がある日本です

が、学歴などより本人

のそれまでの、生き方

がどうだったかが大切

ですね。

うそをつく人が多いの

で、篠田麻里子さんの

ようにすぐに信用する

ことなく、その方の実

態を見極めてください。

 

裏に回ると

 

解説板です。

清水谷長屋といわれて、

江戸時代には4棟あった

そうです。建築年代は天

保13年で、幕末に建て

られたそうです。明治維

新でも新しい長屋なので、

昭和まで使われたのでし

ょう。

 

回り込んで裏から見たところです。

 

話が飛んだので、

内部の紹介は次回にします。

 

今回はここまでで、次回につづく

 

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