ショーエイのアタックまんがーワン

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも…ショーエイです。

日本の司法が壊れている話をします。

今回、解釈として面白いとおもえるのが、

松本人志さんの件で話題になっている名誉棄損です。

 

日本の司法では名誉棄損を

名誉を棄損してはいけないとだけ理解してます。

 

では、なんで名誉を棄損してはいけないのか?

 

こういう質問に対して弁護士を含む司法関係者が

どれだけ合理的に説明できるか?

 

個人の名誉は適切に守られるべきだから…

まあ、こういう答えを出すのがほぼ主流でしょう。

いわば適切に守られるという意味で、

文春の記事の様にその内容が「虚偽」か「事実」か

そこを焦点に宛てて考えてしまうのです。

 

正直、法解釈としては程度が低いですが、

日本ではこの程度の低い法解釈として

合理性の無い内容が主流で止まってます。

なので報道やゴシップに対しても、

またはSNSに対しても、

言論の自由とのダブルスタンダードが発生して

困惑して考えてしまうのです。

逆に合理的な解釈で反論すると、

勝手な独自解釈扱いで異端とされますが…

 

では、合理的な解釈は?

 

いわばプライバシーの侵害に該当する法律で、

本来の保護法益はプライバシーの保護に有るのです。

名誉では無く個人の自由は公の場で

棄損または侮辱されては成らないというのが前提です。

反対に棄損するまたは侮辱する目的で無い、

いわば相手を馬鹿にする目的でない場合は、

この法律は該当しない訳です。

ここが重要な解釈のポイントです。

 

事件を扱うニュースやSNS上の発言はどうか?

 

日本の司法ではダブルスタンダードで分別して

留まっているから混乱するのです。

いわばニュースや報道なら良いというレベルです。

ここがそもそも解釈が可笑しい所に成ります。

何故、ニュースや報道なら良いのかの説明が

出来ない人が多すぎるのも事実です。

 

実はポイントは侮辱または棄損する目的が有るか否かを

考えるべきところなのです。

ニュースなどの報道では、

例えば殺人罪を疑われた人物を

「容疑者」という形で報道します。

これは警察機関などが公に公表した内容に沿って、

あくまで殺人者ではなく、

容疑を掛けられている人物として報道している訳です。

 

ここで憲法13条の項目

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

いわば個人の権利保護の範疇は

公共の福祉に反しない限りなので、

警察機関が公表する情報に沿って報道するのは、

公共の福祉に則ったものです。

寧ろ犯罪容疑に対する報道は

容疑者の行為が

公共の福祉に反した可能性の中でのものと扱えます。

ただしポイントは「容疑者」として扱っている点で、

いわば受刑者という

犯罪行為が裁判上で確定した人の意味ではなく

あくまで疑いのある人物としている事です。

いわばこの容疑者を

侮辱するまたは名誉を棄損する意味では扱っていないのです。

彼らに犯罪者のレッテルを貼っているのは、

報道の読み手の程度が低いからなだけと成ります。

いわば大衆が勝手に勘違いしているだけなのです。

 

適切な報道のルールでは、

こうした名誉棄損や侮辱罪に成らないためのものが、

存在しているのです。

報道機関の関係者もここまで理解している人は少なく、

特に現代社会ではただ単にルールだからで、

従っている人が多いのも事実です。

 

一方で文春などのゴシップ記事は、

基本的には「公共の福祉に則った」とは断定できないものです。

ただし内容によっては公共の福祉に反する行為、

いわば犯罪に当たる行為も含まれるのが事実です。

 

そうした中でBBCが行ったジャニーズの事件の報道を例に

考えてみましょう。

ジャニーズ事務所の故人であるジャニー氏の事に関して

ジャニー氏を性加害者として報道したら、

これは名誉棄損及び侮辱罪に成ります。

なのでゴシップ誌の様な下手な報道の仕方はしません。

NHKなどでも、また池上彰氏も使う手法ですが、

「事実かどうかは解りません」を前提に報道する訳です。

その上で被害者として名乗りを上げた人の

声を伝えるに留めます。

いわば、こうした被害を受けたという声が存在しますが、

この辺の事実はどうなのでしょうか?

という疑問を投げつけるだけの報道に止めます。

これによって報道の対象となるジャニー氏の名誉を

意図的に棄損または侮辱する形では無い事を

証明するわけです。

 

いわば報道上の疑問に対して「事実無根」とするのか、

それとも「事実として承認」するのかは、

故人ジャニー氏に関わる

ジャニーズ事務所が判断する所として

渡して終わる形にしているのです。

あとは一般大衆の勝手な思い込みに対して、

報道された対象者がどう反応するかで、

その名誉を守るか否かが決まるという流れです。

勝手な思い込みとするのは、

事実は犯罪または不法行為として裁きが下されない以上、

確定できないという事です。

 

逆に文春記事の様に「芸能界の性の上納システム」として、

松本人志氏を対象に報じた内容だと、

明らかに意図的に報道対象者の名誉を

棄損する行為と成ります。

確かに見出しとしてはインパクトあります。

「芸能界の性の上納システムか?」

と疑問符を付けた場合、微妙な表現ですが、

記事の内容がその印象へ誘導するものであるなら、

これは名誉棄損になります。

まあ、本来は「なります」ですが…

日本の場合は名誉棄損するべきといた方が良いでしょう。

何故ならBBCなどの報道と、

ゴシップ記事の報道の違いが判らないから…

BBCの記事も読み方によっては誘導にも成ります。

ただしBBCなどでは証言は証言であって、

その証言が正確に断定できるものかどうかの検証まで行って、

検証結果として裏付け確認が出来ないものは

「現状確認は出来なかった」と伝えます。

ただし推理小説同様に、

複数の裏付け証言に

被害状況の類似した点が見受けられるなら

可能性は高まるとういう表現は可能です。

 

ゴシップ記事にこうした検証内容が適切に有ったか?

本当に記事の内容の状態で状況回避不可であったかどうか?

こうした内容の記載があるか否かで、

意図的な棄損に成るかが変わるのです。

 

SNSなどで

平気で他人のプライバシーを馬鹿にする行為が横行してます。

結局は司法が間抜けで

ゴシップ記事の様な物を擁護してしまうから問題なのです。

実際に裁判所は文春を含めたゴシップ記事に

民事的な不法行為の判断を下しています。

ただし、その損害賠償はスズメの涙程度で、

ある意味社会的な意味では棄損された側の敗訴です。

棄損を受けた賠償に対して、

寧ろ記事記載で得た収益の方が

遥かに利益が大きいという事実です。

 

故に一般人にたいしても

名誉棄損に対する個人的な配慮も浸透しません。

日本の裁判所は

裁判で利益を上げようとする人間を道徳的に否定します。

裁判結果が齎す影響を全く考えていない場所です。

司法は犯罪性を裁く、または判断する場所で、

犯罪を抑止する場所は

行政だけの管轄と考えているのでしょう。

実際は判例によって

犯罪抑止効果を与えるのが司法の機能です。

これを日本の司法では

判例は司法の判断基準としてしか扱いません。

むしろそちらは意味有りません。

裁判では状況によって

判例関係なく審議するべき場所だからです。

判決に対する研究は

判例が及ぼす社会抑止効果を考慮して、

寧ろ不法行為に対する賠償は

徹底的にやるべきなのです。

どれだけ行政で取り締まっても、

裁判が緩いケースは

寧ろ犯罪行為または不法行為が横行して、

取り締まる側は手つかずに成ります。

また、裁判上で違法行為の判断が為されないケースでは、

行政は立件することすらしません。

 

実は最高裁も含めて、

日本の司法はポンコツな故に、

日本国民の品質すらポンコツにしているとい事です。

 

特に企業に対しては

厳しい判決と厳しい賠償j金がある故に、

徹底したコンプライアンスの意識が社会に浸透する訳で、

これが最終的にはサービス向上にも繋がり、

その上で日本製品の品質と信頼に結びつくのです。

今の日本にはここが弱い事を理解せずに、

輸出が伸びない、

日本製品が売れない事を勘違いしているだけなのです。

 

製品の品質はどの国もほぼ同等に成ったら、

最終的にはサービスの品質で差異が生じる時代なのを、

全く理解できていないのも恥ずかしい話です。

 

半導体の6ナノか7ナノか?

そんなレベルの製品が

一般的な売り上げの製品の品質では無いのだから・・・

一般的に手に入る商品は最先端技術では有りません。

商品の売れいきは適正機能と適正価格の中で、

最終的にはサービスの品質で変わるのです。

 

こうした流れを産むのも、

社会教育として司法が適正に機能しないと、

その国民はダメなままで終わるのです。

 

さて…ジャニー氏の問題ですが…

どこまでの被害が有ったかは

個人的に確認できないので

弁護する感じは有りませんが…

 

ただし水商売も芸能界も一緒で、

売れる人間にはある共通点があります。

 

人間関係がどうして切り離せない世界で、

社交術とも言うべきところがどれだけあるかで決まります。

ミュージシャンは寧ろ売れる曲を出せばいいので、

その辺はちょっと変わりますが、

最終的には売ってくれる人を

味方に付けられるかで変わる点は否めません。

 

美男美女が集まる世界で、

最終的にはどこで勝負が決まるか…

製品を選ぶ際にどれを選んでも一緒なのと似ています。

製品なら気の利いたオプションだったり、

アフターサービスの充実性で決まります。

人の場合はその人のキャラクター性だったりもします。

芸人さんなら寧ろそこの勝負が前面に出る話ですが…

 

こうした売れる人の共通点は、

人から如何に愛されるかです。

まあ、逆に売れてしまえば何でもありな感じに成りますけど…

 

売れるまでの過程で

如何に人から愛されるか?

ただ単に媚売ってるだけではダメなのです。

結局は使う側も

「この子は売れる」

という要素は何気に感じ取れます。

 

ではその要素とは…

「断り上手」です。

ある意味人たらしな人は断り上手なところが有ります。

勿論、媚びるまたは付き従う相手を

見極める上手さも大事です。

ただ断り上手でなけば臨機応変に

色々な人間関係を繋ぎとめることは難しいのも事実です。

媚びている人だけに従っても他からのサポート無しでは、

結局は小さく埋もれるだけですから。

 

断り上手とは断り方に「嫌味を感じさせない」わけで、

例えるなら飲みに誘われたり、

それ以上の要求に対して、

上手く受け流せるか否かでその人の印象は変わってきます。

 

簡単な話、こいつを二度と誘いたくない。

またはもう誘えないかな。

断る相手を傷つける人はここで脱落します。

 

ジャニー氏の様なケースで

あくまで小説的な構成に成りますが、

ある種性的な要求を受けた場合、

「ジャニーさんの事は人間として尊敬しているけど…」

先ずここはある程度のひとなら言えます。

そして、

「そういう関係は無理です」

と言ったらアウトです。

この人は出世しないです。

むしろ言うべき話術は、

「ちょっとまだそういう道に進む覚悟は無いかな…」

勿論、相手がそこで止まる感じは無いかも知れませんが、

相手が男の側であったら、

「自分が女の子なら考えれるけど…

まだ男としての自分を捨てられないので・・・

そこは我慢してもらえませんか?」

という言い方だと、

最初の「人間として尊敬している」という言葉に

嘘を感じさせなく成ります。

 

こういう対応だとこの子は売れるという印象は持ちます。

迫った側も自分の立場を維持するために、

「あなた売れるわ!!」

と言って寧ろ状況を切り抜ける感じに成りやすいと言えます。

 

これが女性と男性の関係だった場合、

「何かこういう迫られ方は嫌だな…

また今度別なアプローチでという事で…」

と、思わせぶりで逃げる。

大抵の男性ならここで格好つけて

また次回にとなる心理も働きます。

 

それでも強引な事をしようものなら、

相手を警察に突き出す覚悟もありですが、

同時に日本では問題児として

その世界いわば芸能界では終わりを迎える可能性もあります。

 

勿論その時は逃げれても

別なアプローチで誘てくるでしょう。

その都度断るのも有りですが、

そう成ると相手はあの時は逃げただけと察し、

むしろ気分を害します。

あえて友達と飲んでいる中に誘ってみるのも

上手い処世術になります。

その際に相手に支払いはさせず、

むしろ御馳走する位の姿勢で、

如何に相手と対等な関係を築けるかも大事になります。

 

大手の事務所ならそういう対外的な意味では守られますが、

所属する子の様々な反応を見極めるのに、

食事に誘ったりすることはあると思います。

 

人間関係がものいう世界で、

悪い言い方をするなら如何に人をたらし込むかなのです。

キャバクラなどの水商売の世界では、

より性的な要求に直面するケースがあると思います。

そういう中で太客を捕まえるのも手ですが、

むしろ自分を魅了するテクニックが

最強の防衛手段でも有るのです。

 

本気で落としたい

 

男性がそういう気持ちになると、

寧ろ紳士的に接してきます。

更に他の男の影をチラつかせないのも

テクニックの一つです。

いわば誰のものでもない故に

自分に振り向かせたい心理が働くのです。

 

最終的には恋愛感情とは別に

応援したい気持ちにさせるのは、

むしろアイドルの世界にも通じるもので、

そこへ達するには恋愛とは別の

相手が大事に思ってくれる気持ちに、

大事に応えれる姿勢がポイントに成ります。

 

テイラー・スウィフトのファンは女性が主流ですが、

ファンと接する姿勢はその典型的姿だと思えます。

恋愛対象的なイメージより、

人間的なイメージが受け入れられると、

異性の存在は気に成らなくなる事もありますが、

人気を落とさずにそこまで達するのは、

男女ともに簡単ではないとも言えます。

 

芸能界とはそういう世界なのです。

華やかな反面、ドロドロした世界でも有る故に、

様々な問題を解決するのは難しいです。

 

 

 

【第三十七話 吉乃と帰蝶 後編②】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕

 信長の女性関係は謎に満ちていると言われる。

 一つには織田家公式の書物の殆どが、本能寺の変で消失した為、様々な詳細は謎と成っている点にある。

 これは実は断定してそう言っても良い話で、信長が公文書をどこに保管したかを推測し逆算して考えれば明確にできるところに成る。

 信長が文官として信頼を置いていたのは村井貞勝である事は、歴史家の方がたも承知の話で、主だった公文書はその村井貞勝に管理させていたと考える方が当然と言えるのだ。

 貞勝の屋敷は京の本能寺の側であったと伝えられ、本能寺の変同様にそれらは消失している。

 また、その流れから貞勝が文書を京の二条城に保管していた可能性も高い。

 その二条城も1579年に誠仁親王に献上した流れから、信長は別の城または御所を立てる予定だったと思われ、その際に二条城の公文書は貞勝の屋敷に保管されていた可能性も高い。

 いずれにしても貞勝の屋敷であり二条城も本能寺の変で焼失した事も有り、主だった公文書はそこで灰と化したと思われる。

 信長の実態に謎が多いのはこれが理由で、明智光秀が意図して全てを消し去ったのか、それとも単なる戦闘での事故だったのかは定かとする部分ではない。

 

 織田家の正式な家系図も帰蝶こと濃姫に関する記録もそうした焼失した記録の中にあったと思われ、それ以外の現存する書物に記されていないのは、信長の女性たちが公の場に登場しなかった事実としては察せられても良いと言えよう。

 秀吉の妻・ねねが信長に文を充てた点でもそれは察しが付く。

 本来、信長の妻に当たる人物が公または女中同士の宴などの場に出る状態だったならば、女性同士の相談事は信長の正妻に宛てる流れが妥当に思える。

 しかし ねね が直接信長に相談したという事は、信長自身で家臣ら女中の話にも耳を貸したという事が伺えるのだ。

 なぜそんなことを信長本人がやっていたのか?

 

 殆どの人間には理解できないかもしれないが、悪い意味でこう語れば納得するだろう…

 女中からの会話から家臣の動向を探る為。

 

 信長は女中たちの他愛もない会話から、家臣たちがどういう心情にあるかまで推察できた。そしてその推察を現状の行動やその他の情報と照らし合わせて把握する術を知っていたと言っても良い。

 それ故に信長にとって女中の陳情を聞くことは重要な公務でもあるのだ。

 勿論、その女中の心労や悩みを真摯に受け止めるゆえに、女中たちんも信長を信頼する訳で、いい形の意味で伝えるなら、女房衆も含めて家族ぐるみの絆で家臣団を纏めていたと言える。

 信長の側室を含めた妻側にこの役割を担えるものが居たのなら、信長の歴史上にその存在が記されていた事は言うまでもないが、実際には存在せず信長がその役割を兼任したという形で考える方が良さそうである。

 これは信長が自分の妻たちを蔑視していたおいう訳では無い。

 寧ろ…ここに記る吉乃と帰蝶が、その役割を担える状態になかったからだと伝えておこう。

 吉乃に限っては信長のそういう期待に応えられる存在であった事は何話かを通じて伝えてきたところだが、その吉乃は1566年の岐阜攻略前に他界している。

 そして濃姫こと帰蝶に関しては、以前にも伝えた様に子宝に恵まれず父・道三は兄・義龍に打たれ、その義龍は夫・信長と敵対した事で、精神的に辛い局面に遭遇した。

 気狂いを起こしたような事は無いが、それが下でうつ病状態が目立ち、信長にとっては女中を纏めるには厳しいという判断は有ったと言える。もしその様な状態でなければ、吉乃同様に帰蝶にもそれらを纏める器は有ったと言っておこう。

 信長の性格上、その帰蝶を通り越して公の場に他の女性を引き上げてしまう事は、寧ろ帰蝶のうつを悪化させることにも成りかねないため、寧ろ彼女を気遣って他の女性を公の場に出さなかったと考えてもいいだろう。

 ましてや…吉乃が生きていた際に、信忠の母と言う事で信長が正妻同様の扱いを考えた事実が有るのなら、信長もその浅はかな吉乃に対する情で帰蝶を最終的に追い詰めた事は、後に察した事であると言えるのだ。

 

 傾城の美女…ある意味ここでの吉乃の運命はそういう危うさを秘めているのかもしれない。

 しかし彼女自身が惑わして傾けた話では無く、全ては信長が望んだことで傾く話なのだ。

 

 土田弥平次を招集して野盗討伐を行う事となった信長らは、土田(つちだ)氏の居城(尾張)土田城へと向かった。

 予め滝川一益にはその土田城から盗賊団の拠点に襲撃を行う旨を伝え、盗賊団に対して一益の手柄と成る形とした。

 

 信長の部隊は那古野から清須を通ってそのまま西進するわけには行かず、前日に生駒屋敷のある小折に入ってそこから西へ清須を迂回して土田に向かった。

 その土田は現在の名古屋第三環状自動車道の清洲西インターチェンジがある場所周辺と成っている。

 そこから更に西に向かって7、8km行った場所に勝幡が有り、その勝幡から西南2キロ先に津島がある。

 

 小説的にこの事件を構成するなら、予期せぬ出来事とは信長の祖父にあたる土田政久がしゃしゃり出てくることだろう。

 政久からするとこの作戦は孫同士の共演になる。

 そしてまだ若い弥平次を補佐する意味で先陣を切って野盗団に突入するのだ。

 野党団はそれに備えて構えていた為、政久と弥平次はあえなく討ち死にする流れになる。

 更には作戦前に合流した信長は寧ろ弥平次の協力的な姿勢にほだされ好感を抱いた流れで、結果として祖父とその弥平次を謀計に嵌めて殺してしまった事を後悔する流れとなる。

 作者が小説的に構成を考えると以上の様な流れをまず思い浮かべた。

 しかし…真実は小説より奇なり。

 この言葉を踏まえて改めて状況を整理して考えると…

 

 前もって一益より信長と土田連合隊が襲撃を行う旨を知った野盗団はその拠点を見す見す手放すか、それとも交戦するかの選択肢を迫られる。

 彼らの拠点には盗品が積載されている状況も有り、拠点を捨て去ることはそれらを同時に放棄することにも成る。

 当時の野党団の状況を考えるなら金品と言うより、兵糧を保管している事が一番大きな問題として考えられる。

 いわばこの兵糧は彼ら賊徒を食わせる為の大事な生活源になるからだ。

 生活源でありその生活源を確保するための収入源となる盗品を放棄してしまう事は、ある意味彼ら組織の存続に係わる事態となるのだ。

 故に野党団は徹底抗戦を選択する事となるだろう。

 信長らの兵力は100程度、土田氏の拠点で集められたとしても300人か多くて500人。

 寧ろ300人の兵力を集めるのも大変だと考えた方が良い。

 その人数での戦いに成るゆえに、野党団は周辺賊徒の協力を仰いでそれに対抗できる兵力を揃えこれに備える形を取る。

 信長らはそういう流れに成る事はある程度想定できた訳で、それ故に先陣を切ることは寧ろ死地に突入する意味を知っていた。

 ところが…一益が報告した時期が作戦の前日と言うより、情報伝達に時間のかかる当時としては数日または1週間前に成ると考えると、野党団がそれなりに準備する時間もあったと言える。

 勿論土田側も信長から要請を受けた上で、自領の領民から兵を募らねば成らない。

 土田政久からすると小説論同様に孫の共演という喜ばしい事態ゆえに、寧ろ弥平次よりも政久が進んで募兵に努めたであろう。

 逆に弥平次と吉乃の婚姻で信長が嫉妬を抱いているなどとは考えもしなかったと言える。

 いわば時は戦国、仮に吉乃が信長の寵愛を受けていた女性だと知っていても、現代の様に恋愛感情の存在を理解する事は無く、むしろ妾の一人として扱いに留まるものとして考えたであろう。

 その反面、信長が野盗狩りをしている雄姿は耳にしていた事も有ってそれに協力する方が祖父の存在として当然と感じていた。

 それ故に土田政久自ら進んで徴兵に励んでいた。

 この動きは一益が野党団に伝えた報告と、土田氏の動きが別の密偵により合致する状況で確認できたと言える。

 

 土田政久の集める兵力がどれほどに成るかは測りかねないが、野党団は400名位の部隊を揃えた上で逆に土田城を急襲する作戦を考えた。

 いわば土田側は野党団がその計画を察していることを知らない訳で、野党狩りに慣れた信長の部隊と合流する前に叩いておくべきと考えるのが定石となるわけだ。

 

 これは信長側としても敵が先に動くことは想定外であった。

 

 さて…こちらが真実という形で伝えるのは、いわばこの土田政久であり信長の母方の土田の家系が歴史上から消えてしまうことにある。

 美濃土田(どた)氏と違い尾張土田(つちだ)氏はその地名こそ残存するも政久の名前以後の記録は一切存在していない状態なのだ。

 そこから逆算し、前野家文書の憶測部分など検証すると、尾張土田氏がどこかで断絶した事件が生じても不思議ではない。

 ある意味、天下統一目前までの大功を得た織田信長の母方の家系の記録が残っていないこと自体不思議と考えるべきである。

 本来ならば吉乃の家系となる生駒家同様に何らかの形で残っているべき家柄に成るのだ。

 そういう意味で弥平次と政久が野党団討伐の先陣を切って討ち死にしたとしても、政久の息子で弥平次の父親と成る存在は残ってしまう事になる場合、この流れとして辻褄が合わなくなるのだ。

 

 土田政久は野党団拠点襲撃の為、300名程度の人員を集めることに成功した。とは言っても300名を前もって土田城に招集しておく必要性はない。いわばこれは籠城戦では無いのだから。

 信長の部隊と合流する前に招集した兵が準備を整えていれば良いだけの話なのだ。

 故に政久はその合流当日の早朝に、土田城外の広い場所に集結させる発令を出したのみである。

 これは当時の形としては当然と考えるべきで、本来平時に城に常駐する兵力は殆ど居ないに等しい。

 本能寺の変で信長の近習であり信忠の近習の人数を参考に考えると、平時その周りの警護や雑務として招集された人数は50名から100名程度になる。

 そこから土田城の常駐兵を考えると30名から50名と考えてもいいだろう。

 そこに翌日の作戦に備えた兵糧用の炊き出しは寧ろ兵員とは別の女性たちの仕事に成ると考えても良いだろう。

 現実的な計算で戦国初期の城であり領主の屋敷の面積は100メートル四方もあれば十分で、そこにどれだけの世帯数が住み込みで居住を構えられるかで考えると自然と合点のいく人数となる。

 

 野党団はそういう状況を狙っての奇襲という事に成る。

 勿論、野党団がこうした襲撃を行えば、大名家は総力を挙げて彼らの討伐に動くことは十分に考えられる。

 なので本来は相手がどれだけ手薄でもこうした襲撃は考えないとも言える。

 しかし今回は信長が討伐の部隊を差し向けている状況なのだ。

 故に野党団は拠点を見す見す失うよりも兵糧や品物を他へ移す時間稼ぎを考えるのだ。

 土田氏を奇襲することで出鼻をくじく流れは成立する。

 いわば領民から兵を招集した者が突如居なく成れば、招集された兵は何も出来ない形で解散するしか無くなる。

 その上で信長の部隊が合流しても兵力差で野党団は守り切る事は適うという算段だ。

 その後に再度討伐隊を編成するにしても暫くの時は稼げる話で、その間に別の場所へ逃げて雲隠れすれば問題ないという事に成るのだ。

 ここまで考慮して野党団が寧ろ容赦の無い犯罪集団である事を考えると、彼らの土田城奇襲は皆殺しが作戦目標になるだろう。

 こうして土田城は奇襲を受け、その一族はあえなく皆殺しと成った。

 信長は一応の責任を感じるところもあって、土田城が奇襲を受けた知らせを聞くや、すぐさま土田城へ向かった。

 しかし時既に遅しで土田城は陥落し野党団は自分らの拠点に逃げ去った状態であった。

 信長の行動故に迅速な対応であった事は考えられ、政久が招集した兵を信長は吸収して自軍に加えた。

 そして襲撃を受けた土田城付近に陣を構え、そのまま予定通り野党団の拠点を襲撃する形を取った。

 

 元を正せば信長の謀計による事件である。

 無論、吉乃を手放したくない一心で弥平次を邪魔者として見ていたのも事実だが、信長自身その感情的な思考で謀計に嵌めて弥平次を死なせることに抵抗も感じていた。

 人間の心情にこうした状況下で心の天秤を掛ける時がある。

 ただ弥平次を騙して見殺しにするより、弥平次の器量を計ってその武運を見極めようとも考えていた。

 信長は暫くの時を得て、一益を使って謀計に嵌めている自分を恥じる部分もあって、弥平次に敵が備えを構えて挑む事は伝えるべきと思っていた矢先の話なのだ。

 勿論、その旨を信盛ではなく河尻秀隆に伝えたであろう。

 秀隆はそういう信長の心の変化に好感し、自分が上手く弥平次を補佐する形をも考えていたのだ。

 信長という人物は感情的な人間で、その感情が表に出ている時はかなり残忍な思考が先行してしまう。

 信長にとっては秀貞らが吉乃との関係を謀略によって妨害してきた事がそもそも許せず、故に謀略によってその妨害に対抗しようとしたのだ。

 しかし、よく考えてみれば弥平次は単に巻き込まれただけの存在でしかない。

 それゆえに弥平次を殺す理由が見つからない事に気づいたのだ。

 信長は弥平次という人物を見極めてから考えるという意味で自身の心に天秤を掛けるのだった。

 弥平次が仮に兵の招集をろくにせず、信長の作戦に支障を来たす状態を齎すのなら、そこで見殺しにしても構わないと考えていただろうし、臆病風に吹かれた将であるならそれはそれで吉乃を託すに値しないとして殺してしまう方向で考えた。

 寧ろ弥平次と言う人物がそういう程度である事を期待したという形にもなる。

 反対に信長に協力的で勇猛果敢な人物で有るのなら吉乃を諦めても彼を配下として大事にするべきと自分に言い聞かせていたのも事実だ。

 どの道弥平次を殺す理由としては明確には成らないが、信長としては最愛の吉乃を諦める理由を弥平次に求めていたと言ってもよいだろう。

 そういう覚悟もあってか、むしろそれを見極めることなく弥平次が死んでしまったこの事態は逆に自分自身を恥じるままの状態で結末したことになったわけになるのだ。

 確かに傍から見れば信長が土田城に赴いた時点で、信長が弥平次を謀計に嵌めた上、母方の実家を断絶させた形に映る。

 そういう世間体を意識して信長が土田城の弔い合戦に挑んだとも考えてもいいだろう。

 しかし、信長の性格とその後の本能寺の変までの行動を考えると、寧ろ世間体を気にして行動を考える人物ではない事は伝えられるだろう。

 いわば信長がこの弔い合戦に挑む理由は、自分自身の恥ずべき結末へのけじめでしか無かったのだ。

 

 この弔い合戦にあたって兵力的には土田の兵を合わせて互角であるが、本来敵の拠点を攻めるには少ないとも言える。

 寧ろ無駄な犠牲を生じさせること嫌う信長にとっては危い戦いとなる。

 作戦を練るにあたって佐久間信盛は那古野から援軍を募るべきと進言した。

 これに対して河尻秀隆は寧ろ現存の兵力で戦うべきと唱えた。

 その理由の一つは信長の今回の作戦がそもそも無謀なものであったと評価されることは、見す見す土田弥平次を謀計に嵌めるだけの行動に映るという点を危惧してのものである。

 その上でこの兵力で敵を殲滅できることを証明するべきという考えだ。

 そしてもう一つの理由は今まで積み重ねてきた実戦から、作戦次第では野盗団程度なら楽勝できるという算段である。

 いわばこれまでの集大成をここで実践すれば勝てると言う自信だ。

 

 歴史的な意味として仮にこの作戦で那古野から援軍を求めたとしたら寧ろ織田弾正忠家の正規軍の弔い合戦として史実に記録が残ってしまうだろう。

 逆に史実の記録として残らない話で、後に隠蔽されるような事実として考えるなら信長の悪ふざけの範疇でなければ成らない。

 ある意味、ここで寧ろ野盗団に臆して弔い合戦をせずに逃げかえることも可能だ。それならそれでより信長のうくけっぷりが証明される。

 しかしそれでは信長のその後は暗愚のまま終わってしまう事にも成りかねない。

 考えなければ成らないのが、この後に発生するお家騒動で、誰が信長を信用するかという話にもなる。

 いわば恋路にのぼせて恋敵を謀計に嵌めただけの人間に終わり感情任せの無能な人物でしかなくなってしまうのだ。

 

 もう一つ考えるべきは、信長初期時代の戦い方が少数精鋭であった点である。

 少数精鋭で戦う場合、その兵力でも勝てると言う自信がかなり備わっていないと軍の統率すら危うくなるのだ。

 勿論、一朝一夕でこの少数精鋭の自信を齎せるとは考えにくく、かなりの実績が伴ってものだという事を知っておかねば成らない。

 いわば指揮官にいくら自信があってもそれに従う精鋭が同じ様に自信を持てない場合、彼らは臆して戦えなくなってしまうのだ。 

 

 そして秀隆同様に信長にもその自信が備わりつつあった。

 ある意味、兵力差の互角状態ならその集大成を試してみる機会ととしては申し分のないことという自信である。

 先にも述べた様に信長は寧ろ世間体は気にしない。

 むしろ信長にとっての興味は戦国の世で絶対なる勝利の法則を見出す事だった。

 

 ここまでの野盗団、いわば野伏とも野武士ともいう敵を相手に経験を積んできた。

 勿論、それらの構成人数は30名から50名、多くて100名程度なので100名前後の部隊を編成する信長からすれば十分に勝算がある中での経験である。

 そこには基本的には沢彦の指導もあって、徹底した現代風にいうフォーメーションであり陣容編成を用いた戦い方で味方に被害を出さない形の演習でもあった。

 いわば無暗な乱戦になる形が被害を大きくする要因でそれを避け、前衛の盾持ち隊が敵の攻撃を受け流しつつ、前衛の隙間に割り込む敵を後衛が長槍を振り下ろしたり、弓で射止めたりする形を徹底する編成で守りながら戦う練習でもあった。

 仮に陣容が崩れてしまった場合は、河尻、佐久間、森らの大人衆が割り込んで補佐する形を取りその分数的有利な状況で部隊に被害が出ないように配慮してのものでもあった。

 演習の当初はこうした流れで進んでいった。

 そしてこうした実戦形式の演習を繰り返す中で、信長の戦術眼とも言うべき洞察力は敵の反応を様々な形で見極めて行ったのだ。

 敵が弓を撃ってくる距離感であり、おおよそその弓が届く範囲。

 更には乱戦を仕掛ける、いわば敵が突撃してくるタイミングなど。

 この様に色々な反応が見え始めると、信長はもっと別の反応を探りたくなり、敵が突撃してきたタイミングで全力で逃げてみたり、時には四散するように逃げてみたりしてその都度敵の反応を観察した。

 基本的にはこちらが構えてる状態に突進してくる場合は横一列に歩調を合わせて近づいてくる。

 ところが全力で逃げるとその追撃は自然と縦長に成ってしまう。

 いわば人それぞれで走る速度が変わり、足の速い者は前に、そして遅い者は後ろに成ってしまうのだ。

 また四散して逃げる場合、敵は同じ様に四散して追って来る。

 普通に考えれば当然の反応である。

 勿論、逃げる相手をあえて追わないケースもある。

 その場合は陰湿なほど何度も同じことを繰り返して敵を挑発してみたりもするのだ。ここでも色々な反応を探りつつ、また色々な手立てで相手を挑発して行く。

 こうした実験と検証を繰り返す話を信長は河尻秀隆や森可成と語り合った。勿論そこには信長の悪友たちも混じってのものだ。

 逆に佐久間信盛はさほど興味を抱かなかったが結果が出れば納得した感じだ。

 後に信長が秀隆や可成を大事にしたのはこうした科学的な話が通じる相手だったとも言える。

 いわば信長がこの演習を通じてやっていた事は戦術という科学の実験だったのである。

 そしてこの科学実験の集大成が少数精鋭で戦う術を可能にするのだ。

 殆どの人は上記の反応で何が出来るか…

 恐らくまだ解らないと思う。

 佐久間信盛からすれば、全力で逃げる敵を追えば自然と隊列が長くなるのはある意味当たり前な事で終わるのだ。

 ところがここで数的有利を生み出す作用が生まれるのだ。

 いわば縦長となって追ってきた先頭に居る人数は、密集した状態の数より自然と少なくなる。

 そこへ追われる側が一斉に切り返してその先頭を数的有利な状態で叩くと、敵の先頭集団は容易く崩れる。

 そこへ後ろから追加で敵が追いついてきたとしても、先頭集団が崩れた状態では同じ形勢のままに成るのだ。

 解かりやすい形にすると、極端に20人対100人の戦いで乱戦に成ればそこは1対5の戦場になるが、100人が縦長になってしまいその先頭集団が5人程度の状態で追って来るなら、20対5の状態で敵を叩ける。勿論、追撃の距離にもよるがその時間は一瞬と言っても良い。ただその一瞬でも20人でその5人を叩ければ十分なのだ。

 この20人は少数でも精鋭故にそれだけ選りすぐりの人間な訳で、20対5の状態なら楽勝と言っても良い。仮に20対10の状態でも十分だろう。いわば敵は縦長に追って来るため、同じ乱戦でも数的有利な状態を維持しながら次々と仕留めて行けば最終的には100名全員を圧倒できるという事だ。

 単純にはこういう事だが、この状況を引いては戦い引いては戦いを繰り返して上手く敵を削っていく形で用いるのだ。

 また四散して逃げる場合は、寧ろ視界の悪い森林地帯が効果的でもある。

 いわば四散して逃げた状態で敵を四散させるのだ。

 ただし四散しても3人から5人組で行動していれば、視界の悪い状態で分散した敵を少しづつ叩く場合は数的有利を得られる。

 ある意味精鋭であれば一人づつがゲリラ戦術で戦う事も可能といえる。

 これは宮本武蔵が吉岡道場相手に用いた方法とほぼ同じだ。

 こうした形勢を条件で有利に持ち込む研究の成果が信長と秀隆が抱く自信でもあるのだ。

 

 信長らが弔い合戦に備えるころ、この時期既に古渡から末森城に移った信秀の居城では大事件として扱われていた。

 そもそも弥平次と吉乃の話は、林秀貞の懸案である。

 故に実家を失った土田御前は先ずはその秀貞を責め立てた。

 普通に考えれば悲しみと怒りをどこへぶつけたら良いかで困惑するような事件で感情的に成ってしまう事は理解できる。

 しかしこの土田御前は織田信長の母親である事を忘れては成らない。いわば遺伝子的な意味で信長同様に精神的な強かさを持ち合わせているのだ。

 更にこうした強かさを持つ女性は悲しみを憎しみに変化させて考え始めるのだ。

 いわば人間故に実家を失ったことを一時的に悲しむが、現実主義的な思考で考えると結局は元には戻らないことを理解する。

 その上で悲しみを怒りに変えてその矛先を誰に向けるかを考え始めるのだ。

 

 次回は強かな母子(おやこ)に続く…

 

どうも…ショーエイです。

吉乃と帰蝶の話…前・中・後①②

と4回に分けて進めてきましたが、

まだまだこの流れは続きます。

と、言うのも帰蝶こと濃姫が嫁ぐ話までを想定しながら、

その話にまだ到達できなかったという感じです。

ですが、とりあえず吉乃の前夫がどう死んだのか、

そしてその事が織田家のお家騒動に発展する所で〆ておきます。

 

さて、今回はここで生兵法の話をします。

現代社会に於いて古の兵法書の知識は

十分なほどに浸透している言っても良いです。

それらに書かれた文言に関しては

僕より遥かに知っている人が多いのも事実です。。

しかし、それらの9割は初歩の理解しか得ていないと言っても良いです。

残りの1割の大半は、中級レベルで留まっている感じなのかな?

初歩レベルで留まっているかは、

実際にその内容をどれだけの実体験の中で理解できたかで変わってきます。

 

これは曹操の中訳の内容とした上での話にしますが、

風林火山という言葉を知りながら

使いどころすら解からないでいる人が多いという事です。

 

疾きこと風の如し、侵略すること火の如し、静かなること林の如し、動かざること山の如し。

 

大抵の人が生兵法で終わっているのは、

この言葉を自分の行動を裏付ける為だけに使っている点です。

特に、今は動かずにじっとして居ようと決断した事に対して、

周囲に「動かざること山の如し」と言うだろうと

自分の決断を力説するために用いる場合がこれに値します。

政治家にもこんなの多いですよね。

もし「動かざるごと山の如し」を適切に理解しているなら、

その自分の行動に対して、

「今、自分が先に動けば相手はこちらの意図を察する可能性があるため、ここは相手が動くまで待つ」

という明確な説明が出来るはずなのです。

寧ろ後者のように明確な説明をしてもらう方が、

聞き手も解かりやすいだろうと思います。

似たような意味で「静かなること林の如く」が有りますが、

こちらは寧ろ「沈黙」の心理効果を意味する。

これらを交渉術に応用して考えると、

相手が沈黙してしまうと色々と

こちらは動揺して色々な方向で考えてしまうケースは

多くの方がたは経験されていると思います。

 

交渉術のなかでこうした心理効果を用いて

沈黙の林の如くの効果と、

山の如しの効果を併用すると、

相手はこちらの考えを探りたくなって

ついつい口を開いてしまうという状態には導けます。

ただし、相手が口を開いても

その時点で相手の意図を読み取れなければ

所詮は単なる自身のパフォーマンスでしかない訳です。。

ここで場数を踏んだ経験者は

ある程度相手の意図を察して

次の対応を考えるところまで繋げられるわけです。

ここで中級レベルとして「風林火山」使い方を

体現していることに成るわけです。

いわば林に当たる「沈黙」と

山に当たる「不動」を用いることで

どういう反応を引き出せるかを理解していることになるのです。

 

ただし、これがまだ中級レベルとしているのは

相手が素人…いわば動揺しやすい相手であったり、

交渉弱者という立場で

寧ろ自分に逆らえない人を相手にした場合の話だからで、

元請けが下請けに注文を付けるような場合の話で

通用するレベルと言っておきます。

 

では上級者はというと…

同等の交渉、または交渉強者相手に

風林火山をどう用いるかを心得ていると言っても良いでしょう。

 

説明する時は烈火の如く話し、

聞くときは林の如く静かに耳を貸す。

動かしてはいけないポイントを山の如く定め、

引き際は速やかに行う。

 

そもそもの解釈を風林火山のイメージで考えるのではなく、

寧ろネゴシエーションの基本を

風林火山に当てはめて理解する感じです。

 

そもそもが曹操の中訳だとして説明している点で、

この表現には「穴」が有るわけで、

むしろ当たり前の事を言っているに過ぎないのも事実です。

ある意味、風林火山を知らない泥棒でも、

侵入する際は林の如く息をひそめて活動をする。

彼らは寧ろどうやって

息をひそめて侵入するかの術を知っているわけです。

そして難しいのは山の如く動かない形を作る事で、

これは敵に翻弄される事のない布陣を

築いた上で成立する話に成るわけです。

いわば山の如く動かなければ良いのではなく、

敵が迂闊に踏み込めない布陣ゆえに

それが動かぬ山の様に見えて

初めて山の効果を得られるのです。

 

殆どの人間は風林火山の言葉上の意味で

実践する所で留まるわけですが、

実は風林火山を実践する前段階で

どう機能させるかを考えねば

全く意味がないという事を知らないわけです。

 

兵法に限らず万の書物を読むことは大事ですが、

ただ単にその文字を記憶するのではなく、

またその内容通りに記憶するのではなく、

自分なりに内容を検証して考えながら読まなければ、

何も吸収していないのと同じなのです。

 

【第三十六話 吉乃と帰蝶 後編】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕

 

 恋は盲目。

 吉乃との恋は信長にとって初恋である。

 特に思春期真っただ中の時期は病にでも侵されたかのように、危い行動にも走りがちなのだ。

 いい意味で恋に純粋であればあるほど、その恋路の邪魔だては許せなくなる。

 時にこうした病は傾城ともいうべき出来事にも発展する。

 

 ここでは先ず吉乃こと九庵桂昌の夫だったとされる土田弥平次に関する話をしておこう。

 生駒家古文書に記された系譜上では、「何某弥平次」という形で姓は伏せてある。これはこの系譜上では異例中の異例で、何か理由があってのものと考えられる。

 様々な推測が立てられているが…ここは間違いなく「土田」であったとする。

 土田が尾張土田「つちだ」なのか美濃「どた」なのかは、事件性によって変わってくる。

 推測の中で登場する「三宅弥平次」が明智秀満という明智光秀の腹心に当たる為、織田家に配慮して消したのでは、というものもあるが、その場合、生駒家系譜は本能寺の変後に書かれたものとして、それ以前の系譜は自称にしかならない。信ぴょう性の意味でかなり怪しくなってしまう。

 土田弥平次という名前で「つちだ」であり「どた」という意味で「土田」が登場するのは、「武功夜話」という書物に由来する。

 武功夜話は「前野家文書」とされる前野長康とその父・宗康が記した日記および談話の記録を編纂したものと言われているが、原本不在という扱いで信ぴょう性が低いとされている。

 特に年表を照らし合わせてみるとデタラメ感が生じるのも事実だ。

 土田弥平次に関しては、1556年に明智城で戦死したと記されていたり、1553年に土田城で死んだとも、1551年に死んだとも記されている。

 代筆と編纂が繰り返されているのも事実らしい。

 基本現存する当時の手紙など外交上の記録以外は歴史を研究する上では一次資料として扱わないとされている。

 太田牛一の「信長公記」に関しても、準一次資料の扱いで、実際に1567年に信長が美濃攻略する以前の話は全てが伝聞及び談話から得た記録として見られる。

 武功夜話の原本に当たる「前野家文書」が日記として記載されていたのなら、一次資料扱いにも成るが、伝聞や談話が混ざっているため全てが正確に記されているとは成らないのも事実だ。

 勿論、原本の存在と科学的分析で執筆時期が明確になればその信ぴょう性はまた変わってくる。

 しかし、伝聞や談話、後日談をベースに記された怪しげな話でも、科学的に心理学と併用して見れば大いに参考にすることはできる。

 

 では、科学的な話とは何であるのか…

 現代でこそニュースなどをネットで調べる技術が存在する訳で、近代までは新聞などがその記録物として残ってきた。

 それ以前の中世では、そうした記録物らしいものは無い。

 日記として事件と同時期に記録したものなら参考に成るが、信長公記の様な伝記ものと成ると、伝聞、談話が混ざっているため、時間軸にズレが生じる可能性は高い。

 

 現代までのニュースで読者の方がたは何も調べずにどこまで覚えているか?

 これを用いて記事に関する記憶の実験をしてみよう。

 9.11として記憶されているアメリカでの同時多発テロ、筆者も流石に調べずとも2001年の出来事だと覚えている。

 では、安倍内閣が安保法制を成立させた時期は?

 日本女子サッカーがW杯を優勝した年は?

 イチロー選手が引退した年は?

 筆者は既に何年の出来事だったかと言われると覚えていないのだ。勿論何年の事か覚えている人も居るだろうが、殆どの人は何時の出来事なのかという点ではかなり曖昧になる。

 しかし、こうしたニュースは衝撃的な出来事としてで記憶している人は多いだろう。

 逆に上記のニュースの発生した順番位は並び替えることは出来るが、ある意味イチロー選手の引退と安保法制成立の時期が曖昧にもなる。

 人の記憶とは実はこうい現象を引き起こすのだ。

 自分にとって衝撃的な出来事だった場合は、その出来事を何気に忘れない。個人の功績などをハッキリと覚えているのもそれに該当する。

 しかし、何時、自分が何歳の時の話と言われると徐々に曖昧さが生じてくる。

 歴史上の記録が伝聞や談話で構成された場合、こうした曖昧さは必ず生じると考えても良い。

 なので他の資料と照らし合わせて年表がデタラメに成っているからその話が嘘と決めつけるのは間違っているとも言える。

 

 武功夜話の様に編纂が繰り返されたもので時間軸の修正などが行われている点は仕方のない事だが、それらは其々の制作者がその話の真実性を持たせるための葛藤であったと理解してもいいだろう。

 寧ろ年表の話より、事件の発生順序から伝聞性や推測性、または憶測による創作が有るのかを紐解いて実態を見極めて行くほうがよい。

 更には他の資料と照らし合わせて矛盾が生じるものか、話の筋立てとして合致するところが有るのか、推理小説で事件を暴くように考えて行かなければ成らない。

 

 先ず記憶に与える衝撃という点で、前野長康が自身の功績としてハッキリと覚えているだろう点で言うなれば、美濃墨俣の一夜城の話などは多少盛っている可能性は有るが、事実として考えても良いと判断する。

 ある意味、原本不在なので事後創作された可能性は否定できないので、歴史的な根拠という意味ではどうしても不足するが、心理的な根拠で言うなれば前野長康を主体にした創作物をあえて強調するかという地味すぎる点が逆に考えられる。

 むしろ前野長康が自己の功績を残しておきたいという一心で記した方の心情を優先して考えるべきだ。

 それゆえ墨俣の一夜城の話は単なる創作と断定するべきではないと言える。

 そういう中で彼の中での衝撃的な発見であり、衝撃を受けた事件として吉乃と土田弥平次の件が存在すると考える。

 実は前野長康および宗康が信長に拝謁出来たのは、1558年頃とされている。

 いわば、それ以前に生じた生駒家の話は全て伝聞になるのだ。

 その中で、吉乃が信長と関係を持っていたのは、濃姫が輿入れする前という情報。

 吉乃の最初の夫と成るべき相手は土田弥平次という人物で、どこかで戦死したとうい情報。ある意味、信長の最愛の女性が後家であったということを知った意味で、その筆者にとっては衝撃が残る話だ。

 そしてここで更なる衝撃的な情報として、実はその土田弥平次は信長の母方の出自の家系であったという事。

 これらは1558年以降、生駒屋敷となった小折城とも言われる中で、従者や侍女などからの談話で聞き知ったものと言える。

 勿論、こんな噂を聞きつけたら誰もが真実を知りたくなるのは当然であろう。

 長康または宗康自身も織田家中の人から、この件を聞き出そうとした。ある意味、当時で言うゴシップを探る記者の様な感じだろう。

 ここで、登場するのが生駒家古文書に記された「何某弥平次」という姓を伏せた事実。

 寧ろ生駒家が信長の母方の出自の人間であることを隠したい事情として参照する。

 そうなると生駒家同様に織田家中の者たちも決して口には出さない話に成ってくる。

 閉ざされた情報をこじ開けようとする心理はゴシップを暴きたい心理として作用し、憶測も含めて調べる流れになる。

 生駒家の従者たちの噂話からは、「つちだ」の姓の名前で土田御前と土田弥平次を聞き取っていた。伝聞での話ゆえに、「つちだ」と「どた」を聞き間違える事は無いと言える。

 武功夜話に土田御前の父親は土田政久ではなく、土田秀久だという形で記されている。

 あえて土田政久を否定し、秀久と記したのだ。

 長康であり宗康は寧ろ土田御前の父親は秀久の方では無く土田政久という人物として伝え聞いただろうと推測した上での流れで推理を進めて行くものとする。

 土田政久という名前でほとんどが統一して伝えているわけだが、既に「つちだ」と名乗る尾張土田氏が見当たらなくなっている。清州西部に土田とい地名は現存するが、尾張土田に関する資料はほぼ見かけない。資料を探る中で、尾張土田氏は近江六角氏の庶流で尾張斯波氏の所へ外交官的な意味で出向していた豪族である点は見えたが、それ以外の情報は調べられなかったわけだ。

 そこでここからは前野長康の行動とするが、長康の中で様々な憶測が考えられた。

 現代でもネット上で飛び交うフェイクニュースや陰謀論は憶測によって構成される部分が大きい。勿論、根拠を示しながら推測するのは推理に成るが、根拠もなく怪しむのは憶測でしかない。

 長康の憶測は、土田政久と生駒親重が同一人物であるところから始まった。長康らは自身の書物にもそう記したわけだ。

 確かに生駒親重は土田(どた)甚助とも言い、美濃土田(どた)氏が出自で、吉乃の祖父に当たる生駒豊政の養子に成って生駒姓を名乗る事と成った。

 この美濃土田氏と生駒家の関係を系譜の一部を参考にすると、生駒豊政の妹が美濃の土田秀久に嫁いでいる。

 生駒親重はその間に生まれた甚助であると生駒方は主張している。この同じ「土田」と記される家柄を長康の憶測で混沌して考えたために史書として意味不明な状態を齎したと言っても良い。

 いわば生駒家と織田家が隠蔽しようとした事実は、美濃土田家を含めた近親相姦という話なのだ。

 土田秀久の系図を見ると良く解る。

 この秀久の妹は「いぬゐ」という名で信長の祖父・織田信定に嫁いでいる。父・信秀の母は含笑院という名に成っているが、一部資料では「いぬゐ」という名であったとされている。

 因みにこの含笑院を弔うための含笑寺は清州の土田に建立されたという事で、ある意味尾張土田との関係性が伺える部分として一応は伝えておこう。

 勿論、長康が突き止めた話は、土田秀久が信定に妹を嫁がせたという話のみで、実際は信定の妾、いわば側室であったといえる。それを信定の正妻で信秀の生母が「いぬゐ」という名であったと主張する意味は、長康がこの近親相姦の憶測を成立させる為だったと言える。

 そしてこの長康の話では、土田秀久の子供に土田泰久、土田政久、土田久通、そして土田御前が居たとされ、信長はいわば従妹同士の間で生まれた子という意味で成立させている。

 史書を参考にすると、生駒親重の子、生駒親正は信長より8歳年上で、親重は信秀と同年代か多少年が上程度だったと考えられる。

 そうなると長康の憶測として、生駒親重と土田政久が同一人物に成る場合、土田御前が土田政久の娘となると年齢的に可笑しな存在に成る。

 故に親重の父である土田秀久が土田御前の父として、土田政久の妹として嫁いだのではと考えた。

 更には生駒家を通じて信長と吉乃の間にも親戚関係が成立する形で、信忠、信雄、五徳は近親相姦で生まれた信長に加えて更に近親相姦が重なった子という形で憶測を強めたのだ。

 故に、生駒家と織田家が隠そうとしていた話の裏側と結論付けた。

 武功夜話であり、前野家文書が門外不出なものとして扱われていた事実も、こうしたとんでもないゴシップを記したためとも考えられる。

 ある意味、こんな話が織田家に漏れたら一族断絶では済まされないような話なのだから。

 ただし、これらは長康が勝手に憶測で考えたものでしかない点は断言しよう。

 いわば、ここまでの憶測を成立させておいて、結局のところでは何故、吉乃の前夫である土田弥平次の名前が隠蔽されるのかに成るからだ。

 ある意味、仮に美濃土田の弥平次だったとすると、吉乃の初婚が従妹同士のものという関係が問題なだけで、信長との婚姻に関しては生駒家があえてその弥平次の姓を伏せる必要性はないのだ。

 吉乃が後家であった事実が問題なら寧ろ初婚の話すら抹消するだけのものと成る。前夫との血のつながりを問題視したとしても、後家と成った事が記されているなら、既にその婚姻自体は問題視して考える必要性も無い。

 そうではなく「何某弥平次」としなければ成らない、吉乃の初婚相手に別の何かがあると考えるべきなのだ。

 

 そうするともっと大きな事件と成りうる話で、後の信長の弟・信勝との確執に土田御前が関わっていた事実に照らし合わせて考えるべきと見た方が良さそうである。

 更に筆頭家老である林秀貞らはじめ、主だった織田家の人間が信勝側に付いた根拠にも結び付く大事件として見るべきなのだ。

 史実として明確な流れは、この信長の母親を介して織田家中が分裂したという事である。

 この信長と信勝の争いは他のケースとはまた違う。

 まずは生母が同じ兄弟同士。

 そして筆頭家老である林秀貞は信長付であった事。

 いわば通常起こるお家騒動は、生母が異なり女中の実権が元で起こるケース。

 または家中の重臣の権力争いで起こるケースが一般的だが、林秀貞の立場上、信長に反旗を翻す必要性はない。

 これらを踏まえて嫡子として地位が確定した状態でこのお家騒動が発生したことを考えると、信長の資質に問題が有ったと見なされたとすることに成るわけだ。

 史実であり信長公記に記される流れで実際にお家騒動に発展するほど資質を疑う事が書かれているかというと、寧ろ辻褄が合わなくなる。

 唯一は父信秀の葬儀で焼香をぶちまけたくらいの事。

 しかし…誰もが疑問に思わねば成らない事は、なぜ信長がその様な暴挙に出たのかという事。

 いずれの資料にしても信長が大うつけとされていた事は記されてても、なぜ大うつけという形で資質を疑われるほどに見られたかの理由は全くないと言っても良いだろう。

 寧ろそこに記された信長の奇行を見て、戦国の世にあってそれほど酷いかと思うものばかりと言っても良いだろう。

 

 これらを紐解いて考察した上で、長康、宗康親子の情報を推理する話に成るのだ。

 実際の記録として2人が信長に拝謁したのは信勝との争いも含めて全てが終わった1558年というう流れから、その中で先ず前野長康が事実として知り得た点と生駒家が何を隠したかったのかを挙げて考えてみるものとしよう。

 

 吉乃と信長の関係は濃姫こと帰蝶が嫁ぐ前であった。

 生駒家が馬借を生業とした商家であった。

 濃姫が嫁ぐ前に吉乃は身ごもっていた。

 そして、吉乃の前夫または初婚に成るはずの相手は土田弥平次という人物だった。ここでは「どた」か「つちだ」かは伏せておく。

 

 更には生駒家歴代が否定しようとしてきた事実。

 

 生駒家が馬借を生業とした商家ではなく、武家であったという事。

 吉乃の初婚相手は「土田弥平次」という名を伏せて「何某弥平次」とした事。

 

 先ずは生駒家の心情から推察して行く。

 吉乃と信長の関係が濃姫の嫁ぐ前だったとするなら、本来なら吉乃は正室として弾正忠家に嫁いでも可笑しくはない。

 しかし、吉乃は正室として嫁げなかった。

 いわばそこには生駒家と弾正忠家の家柄の格差が有ったからだ。

 その意味で美濃の土田(どた)氏を見ると、美濃土田氏は生駒家の娘を迎えて嫡男を産ませている形に成るわけで、ある意味生駒家の子女を正室として受け入れれた家柄に成る。

 いわば、生駒家と美濃土田氏は同格なのだ。

 ならば美濃土田氏が織田弾正忠家に正室として土田御前を嫁がせられたなら、生駒家も吉乃を正室として嫁がせることは出来たとも考えられる。

 勿論、同じ土豪であっても、美濃土田氏は武家で生駒家は商家という違いが生じる。

 生駒家が商家であったと断定できる事実は、寧ろ生駒豊政が土田甚助を養子として家督を継がせた点にあると言える。

 いわば土田甚助は美濃土田氏の血を引き継ぐ士族で、吉乃の父・家宗は豊政の嫡男であるにも関わらず、商家の血筋にすぎないという点だ。

 そして、その血筋ゆえに娘の吉乃は信長の正室に成れなかったという負い目もあり、それでもそこから信長の嫡男として信忠が成長した経緯を以てあえて商家であったという身分を隠ぺいし武家であることに拘った。全ては信忠の為とも言っておこう。

 無論、そこには信長からの気遣いや生駒家から信忠への気遣いが生じてのものと言っても良く、単なる見栄での話では無い。

 寧ろ見栄での話なら、土田甚助を生駒宗家という嫡男にしたことがそれに成ると言えよう。

 一次資料として残る信長から戦功の報奨として渡された手紙の内容は、寧ろ馬借という配達業で自由に商売してよいという内容に成る為、実際に商家である事を否定は出来ない。

 

 こうして家の格で流れを進めると、信長の母・土田御前の出自として美濃土田氏も危ぶまれる。

 信秀の最初の正室は、織田達勝の娘で尾張守護代の家柄になる。それと離縁して土田御前を継室として迎えたなら、寧ろそれ相応の家柄が保証されなければ成らない。

 美濃土田氏ももとは佐々木六角氏の末裔と称している。

 尾張土田氏も同じだが、問題は当時の家柄として関係性だ。

 美濃土田氏は明智傘下の土豪に過ぎず、当時の婚姻で使われる名目上の養子縁組は明智氏が精一杯だ。六角氏の末裔を名乗った所で宗家の六角氏が美濃の土豪の土田氏を相手にするとは考えにくい。

 現代でこそ明智光秀の威光で明智家は名門の様に扱われるが、当時の美濃での地位は、守護代斎藤氏、その下に長井氏と、明智はその下の存在にしか成らないのだ。

 仮に織田弾正忠家との外交上の政略結婚で家の格式の保証が必要なら、最低でも長井氏と養子縁組できるくらいの家柄が必要と成るのだ。

 寧ろそれ以外の家柄の娘なら正室という待遇ではなく側室で十分という話になる。いわば美濃土田氏と縁組しても美濃との外交上の影響力は全く機能しないのだ。

 逆に、美濃土田氏を織田方に懐柔するとするなら、弾正忠家から娘を差し出す形が考えられ、明智の傘下でしかない美濃土田氏を立てて正室という形で人質を取る流れは殆ど意味がないのだ。そういう意味でなら側室で十分に成る。

 一方の尾張土田氏なら同じ六角の末裔でも六角氏との繋がりは深い。いわば尾張斯波氏との外交上の仲介役で出向した家系だというからだ。

 美濃国諸旧記という史書の中には、信秀の正室は六角高頼の娘だと記されている。美濃国諸旧記も原本不在で記録形式も判明しておらず、一部後世に記されたものも存在する為、作成時期も不明で怪しいが、寧ろそこに伝聞としてそう残される意味で考えるなら、土田御前の出自は六角氏に近いと言える。

 ただし、六角高頼は1520年に死んでいる為、信秀は9歳の時に土田御前と婚姻を結んだ話になるため真に受けて考えると信ぴょう性は薄くなるが、高頼ではなく定頼の聞き違いならある意味話は成立する。

 伝聞による間違いは当然のものとして考える必要性は有る。

 もう一つは信長の生母が小嶋信房の娘だったする説。

 これも小嶋信房がどれほどの人物だったのか殆ど知られていないほどの家柄で、正室という扱いではなく単なる側室の一人であった可能性が高い。

 寧ろここで小嶋信房の娘が信長の生母として考えられたのは、土田御前との関係が親子とは思えないほどに確執が有ったため、織田家内縁の事情として憶測で記したと考えることでもある。

 仮に、土田御前が信長の生母で無い場合、先ずは信勝と共に土田御前は排除されていただろうし、後に信長の次男である信雄が彼女の面倒を見るような配慮までしなかったと考えられる。

 仮に小鳩信房の出自で尾張土田家を通して養子縁組のもと嫁がせた可能性もあるが、そこまで考える必要性も無く、どの道現状では単なる憶測でしかなくなってしまう。

 当時も今も、フェイクニュースは横行する訳で歴史の場合分別するのはかなり難しいと言える。

 そうした中で情報を統計上で結び付けて考えるなら、土田御前と近江六角氏の結びつきで考える方が資料上濃厚となり、その上で一番有力な家柄は自然と尾張土田(つちだ)氏に成る。

 たまたま土田御前の父親が土田政久という人物で、美濃土田氏も秀久という形で「久」を名前の継承に使っていた可能性もある。

 実際に、土田政久は土田御前の父としてしか登場せず、武功夜話が主張する生駒親重とは全く関係ないと考えてもよいだろう。

 

 そして、最後にようやく土田弥平次の話に戻るが…

 土田「つちだ」なのか「どた」なのか…

 本来は彼の出自はどうでもいいと考える。

 しかし…「何某」と記された人物である以上、そこに大きな事件性を感じるのだ。

 本来信長と土田御前の関係性において、生母が同じ兄弟なら、その母親としては兄弟が手を取り合って進むことを望む。

 多少の愛情に差はあるといえど、兄弟がいがみ合う形を望むことは考えにくいのだ。

 しかし、土田御前は弟の信勝を支持し、家老である林秀貞や柴田勝家まで取り込んで信長に対抗した訳だ。

 土田御前が野心家で、自分の傀儡にしやすい信勝を利用した可能性もあるが、それでは現実問題として多くの家老を取り込むことは難しい。ある意味実直な性格で知られる柴田勝家がそれに与する事も些か疑問が残る。

 これを土田弥平次の出自が信長の母方の実家「つちだ」だとし、信長が吉乃を取られた腹いせでその弥平次を謀略に嵌めて殺したなら…

 これは大問題に発展する。

 そこから土田御前と信長の間で確執が生じる流れも繋がり、信長の行為は「大うつけ」として織田家中にも映る話に成る。

 いわば…この事件があってこそ信長のその後の流れと合致するのだ。

 

 では、信長はどやって弥平次を嵌めたのか・・・

 

 信長と吉乃は仲睦まじい間柄なのは、近習に使える者誰もが目にしていた。かと言って吉乃は周りにも気配りを忘れず、面倒見も良かった。そういう意味で誰もが認める存在だったのだ。

 吉乃と土田弥平次の婚姻の話は、信長にこうして仕えていた者たちの耳にも届いていた。

 河尻秀隆にも佐久間信盛にも、また森可成にもである。

 思春期を既に過ぎた彼らからは寧ろ信長の恋路を一過性のものと見ていたのだろうか。

 傍から見ればそう見えても可笑しくは無いだろう。

 仮に信長の恋路の相手がただ美しいだけの女性であったのなら、近習の者たちも諫めるべき話として受け取った言える。

 しかし信長の側で吉乃の器量を目にした彼らは、この婚姻が政略的な意図をはらむことを理解し、逆に信長に同情したと言っても良い。

 

 前話で「前に出る者」と「一歩引ける者」の話をしたが、傾城はいわば「前に出る者」が要因と成る場合が多い。

 この「前に出る者」の特徴は自らの存在感をアピールするものである。

 こうした傾向はごく一般的でありふれた存在でもあるのだ。

 反対に「一歩引ける者」は寧ろ稀な存在であり、そういう姿勢は逆に人の目を引くと居ても良い。

 現代でも「神対応」と言われる行動が称賛を浴びるわけだが、こうした行動には周囲に気を配って円満な解決を模索できる能力が必要となる。

 誰もが理想とする解決力で有る故に目立つわけだが、中々誰もが思いつく方法とは成らないのも事実だ。

 前に出る者はむしろ自分の格好良さをアピールすることに務め、対象者を無駄に傷つけてしまう。

 勿論質の悪いのも居る為、一概に評価するのは難しいが、相手の意図を汲み取らずに一方的に自分の正義や論理で押し通すのだ。

 傍から見るとむしろ逆に勘違いしている様にも見えるケースである。

 一歩引ける者は相手の意図も汲み取った上でお互いが妥協できる所に落としどころ見出す。簡単に言えば、一方の主張も立てた上で、もう一方の権利を守るという形に成る。

 それ故にそれを目にした人々はその器量に惚れこむ意味で称賛を与えるのだ。

 

 信長の側仕えであり近習の者たちにとって吉乃の存在は寧ろそれに近いかそれそのものに映ったと言える。

 いわば信長の恋路の相手として信長にべったり付きそうだけの存在ではなく、分け隔てなく皆と接して気を配る女性であったと言える。

 これは信ぴょう性は些か欠けると言われるが前野家文書の内容を読み解くと見えてくるものでもある。

 秀吉の様な人物を適正に評価して信長に紹介したというエピソードなどがその代表例と言っても良い。

 いわば伝説の様な存在にも成りかねない話であるが、歴史上の記録の一部としてその存在を残しておきたいと思わせるほどの人物であったという評価は、寧ろ史実として認識する方が話の筋立てが見えやすくなると言っても良い。

 例えるなら「三国志演技」の中の諸葛孔明の神掛ったエピソードの数々、全てが伝説的な話であるが、いわばそのエピソードに信ぴょう性を置くのではなく、寧ろ諸葛孔明という存在が神掛った人物であるという点のみを史実として読み解くという事を意味するのだ。

 いわばその神掛りな手法は史実としては「謎」であっていい。

 しかし諸葛孔明がやった事の多くは普通では理解を通り越したものであった点は理解されるべきで、最終的に伝説として表現するには魔法にでも掛けたかのようにするしか術がない様な話だったという事に成る。

 普通の人がマジックのトリックを知らずにマジックを見せられたときに、まるで魔法に掛ったように見えてしまうのと同じで、伝説の中ではその魔法に掛った話のみが言い伝えまたは文書の中で独り歩きした状態で記されている感じなのだ。

 こうした流れは史書を読み解くうえで参考にされるべき点と言っても良い。

 現代の歴史家たちは信ぴょう性の欠ける話として無視しがちなのだが、伝説がなぜ伝説として存在したのか、又は後世に伝説として残った経緯を探求し、正式な史書と照らし合わせて研究することで新たな発見に結びつけるべきだと言っておこう。

 

 吉乃の存在はいわば伝説に成りうるほどの存在であった。

 いわば吉乃を知る信長の近習たち誰もが、彼女を信長の正妻になるに相応しい存在と認めていたほどだったと言っても良い。

 故に信長の恋路は一過性の病という認識ではなく、寧ろ天命または運命とも考えるほどのものとして彼らも感じていたという事に成る。

 それゆえに土田弥平次との政略結婚は、天命への障害であり、運命に反するものにも感じても可笑しくはないのだ。

 

 反対に吉乃の存在を知らない者、いわば織田弾正忠家家中の平手政秀であり林秀貞らは、一過性の恋としてこの問題を考えていたと言える。

 故にこの問題は信長の母方の家との政略結婚という方法で、容易に解決できると思っていたのだ。

 

 「まさかこの婚姻をあえて妨害するなんて事は無いだろう…」

 

 秀貞に至ってはそう考えていたのだろう。

 

 時は戦国、人の命は時として軽く見えてしまう。

 家中の意向での話ゆえに、信長の威圧であり脅しは相手に通じるとは考えにくい。

 かといってこの恋が信長のみならず信長の近習にも運命として絶対に成就させるべきものと意識されたのなら、2人の恋路の障害は七夕などのおとぎ話の悲運のようにも映ったであろう。

 ゆえに手段を選ばず成就させたいと考えても可笑しくはない。

 かといって暗殺というあからさまな手段を用いる話には成らないのも事実である。

 勿論、信長としては暗殺でも構わないと思うほど憤りを感じていた訳だが、ここに佐久間信盛が一案を講じた。

 年長者である信盛も河尻秀隆もそれだけ吉乃の存在を認めていた訳である。

 

 「家中の意向であるゆえに、あからさまに彼のものを排除する訳には行きませぬ。かと言って彼のものにこの婚儀を諦めさせるのも難しいでしょう。」

 

 いわば信長が弥平次に婚儀の破棄を要請しても、結局は家中からの圧力でその要請に応じない事は想定できるのだ。

 勿論、暗殺という手段で下手に排除すれば、信長の罪となり嫡男としての資質が問われる話にもなりかねない。

 多くの者たちはこの点を危惧していた。

 寧ろ諦めるしかないという状況でもあったわけだが…

 信長は全てを捨ててでも構わないという程、病に掛っていた。

 

 「では…その土田弥平次なるものを戦の先陣として使ってみるのは如何でしょう。先陣は些か危険が多いものでその器量を計る意味では打ってつけと言っても良いでしょう。」

 

 佐久間信盛は後に「逃げの佐久間」と言われる殿の名人の異名を取るが、それとは別に謀略によって私欲を肥やすことにも長けていた。

 信長は後にこの信盛の姿勢を糾弾し追放する話に成るわけだが、ここではその信盛の知恵に頼る話と成るのだ。

 

 「清須の西、土田領内付近には野盗どもの巣窟が有ります。その野盗掃討に土田弥平次を招き先陣を申し付ければ如何かと…」

 

 実直な河尻秀隆はここまで聞くと全てが理解できた。無論、彼はこういう謀に共感は出来ないが…あえてまだ黙っていた。

 

 「今、その野盗には滝川(滝川一益)なるものが潜伏しておりますゆえ、こちらの意向通りの手はずも可能です。一益には野盗の中枢でもっと探りを入れてもらわねば成らないため、その手土産程度に弥平次殿に働いてもらえればと・・・」

 

 かつて滝川一益が既に織田家に仕官した話は記しており、その際に野盗らに潜伏する任を受けていた点は伝えてある通りだ。

 いわば信盛は皆まで言わず、あえて土田弥平次の器量を計る意味で先陣を切らせる話をしたとするところで止めたのだ。

 信長からすればここまで聞くと、土田弥平次を戦死に追い込む算段として理解できるが、信盛は手はずが整っているゆえに先陣を切っても安全という意味を含めて提言したのだ。

 

 秀隆はこの謀略に不快感を覚えたものの、いわば戦場にて運命(さだめ)に委ねるという形で妥協した。

 ある意味、土田弥平次なるものの武運が有るのなら、その先陣の任を上手くこなすだろうという意味での妥協だ。

 

 恋の病に陥った信長からすれば戦場なら如何なる事故も有りうる話で、下手したら背後から暗殺という事まで考えた。

 勿論、信長の正義に反する話ではあるが、恋の病とはそれをも覆すほどに恐ろしいものだ。

 冷静な信長ならその様な謀計は決して許すことはなかったと言っておこう。

 思春期の子供を抱える親たちはそういう事を理解しておくのも大事だと伝えておこう。

 

 野盗狩りとは実戦の演習を兼ねたものである。

 敵対勢力となる国人衆を含めて野盗とすると、それは寧ろ政治的な意味での「野党」とした方が良いだろう。

 ここで言う野党とは政治の中での政党関係の話とは違い、領内に於ける権力外勢力を差す。

 かといって野党の拠点を簡単に潰していくという話でもない。

 寧ろ簡単に潰していける話なら、戦国時代の治安はもっと安全に統治できた話に成る。

 野党とは反勢力組織であり野武士とも、一部は国人とも言われる組織で、現代風に言うなれば反社会勢力、暴力団的な組織である。

 その組織が点在し仮に連携を組んで反乱を起こせば、いわば一揆が発生する事態に相当する。

 または一揆などを扇動して領内を脅かす存在でもあったと考えられる。

 国人と別に地下組織的なものに成るとゲリラ的に拠点を転々とする形であった為、発見も難しいと言える。

 史書などには詳しくこうした手法は記されていないと思われるが、現代の反社会勢力の手法がその当時にもあったと考えるなら、そこを参考にその部分は研究されるべきと言っておこう。

 いわば商人の移送を襲撃してその都度ショバ代を取ったり、農村を襲撃してみかじめ料を取ったりという形で生き延びた勢力である。

 逆にドラマや映画の様に、農村を襲撃して略奪するのは彼らにみかじめ料を納めない所への見せしめであり、寧ろ殆どの農村がこうした組織にみかじめ料を払う形で難を治めていたとも言える。

 その大きな勢力が国人衆という形で記されており、こうした農村との関係から一揆の扇動などを用いて領主を脅かす存在として位置したと考えられる。

 ある意味国人衆となれば領主から独立した形で知行を得ていた場合も多い。

 故に領主たちも野党勢力と上手く付き合って、揉め事の解決を任せる形で黙認していたとも言えるだろう。

 現代でこそ反社勢力撲滅の動きが当たり前の状態に成っているが、近代までは政治と反社勢力と持ちつ持たれつの関係があった為、寧ろ戦国時代の様な社会ではそれが当たり前だったと考えても良い。

 故に野党狩りはある意味異例中の異例であると言える。

 寧ろこの野党狩りを軍事演習として用いたのは信長の発想なのか、それとも信秀の方針だったのかは不明であるが、後の信長の秩序を参考に考えるなら合理的な手法として実践していたと考えた方が賢明であると言えよう。

 勿論、合理的な手法であっても簡単に彼らを壊滅出来るのなら、どこの領主も実践している訳だが、そういう訳にも行かない故に誰もが放置していたと考えたほうが妥当でもあるのだ。

 寧ろ戦が頻繁に発生する時代ゆえに、味方勢力として懐柔しておきたい事情もそこには有ったと言えよう。

 

 信長らは家中の名目上は治安維持で、生駒家が生業とする馬借の警護を通じて野党勢力との接触を試みた。

 いわば馬借という配送業が一番狙われやすい所で、偶々生駒家がそれを生業としていたから、それを活用したという形に成るのだ。

 傭兵を装って警護をしつつ、襲撃してきた野党を追い払い、密偵を放って逃げていく連中の後を付けさせて彼らの拠点を暴くところから始める。そして、後日その拠点を襲撃する。

 この際の襲撃は壊滅というものではなく、寧ろ敵を削る意味で行うのだ。

 いわば信長の部隊は100人程度で、相手も相応に拠点を守っている。軍事演習である以上、信長の部隊に死傷者を出すのでは意味がない。

 掃討作戦としてはリスクが高すぎるわけで、寧ろその様な作戦の場合は家中の協力を仰ぎ、下手すれば国人衆との戦になることを覚悟したものと成る。

 故に攻城戦を想定しつつ、犠牲が出ない程度に襲撃し、戦闘慣れさせるところで留めるのだ。

 無理に敵の殲滅を考えるなら、演習目的で訓練した兵士を無駄に死なせる事にも成るわけだ。

 勿論、こうした指導は河尻秀隆ら大人衆を通じて、政秀や沢彦から与えられていた。

 そしてこの演習を通じて、信長は犠牲の少ない攻め手の方法であり、引き際、更には殿(しんがり)の方法、そして殿を以て伏兵を配置するなどの兵法というべきか兵術の基礎を学ぶ程度のものだった。

 また、度々襲撃を加える事で敵は兵力を徐々に損耗し、自軍は消耗せず維持できれば少しづつ確実に攻略して行ける道筋も学べた。

 こうした演習で培った戦い方は後に実は美濃攻略に時間を掛けたところでも生きてくるのだ。

 

 実は信長の戦い方を研究するに、その強さは引き際の上手さと防御しながら戦う手法にあると見受けられる。

 長篠および設楽原の戦いで顕著に見られる点だが、浅井長政の突然の裏切りなどでの切り返して引いた判断、美濃攻略までの過程などでもこうした戦術・戦略眼は活きてくる。

 美濃攻略に於いてはある意味桶狭間から7年の時を要するものと成るが、信長が無理な形で一気に攻略に挑めば、良くて父信秀と同じ所で頓挫した可能性もあり、最悪尾張の弱体化が進んで破滅した可能性もあったのだ。

 こうした慎重な戦い方の基礎は寧ろこうした野党狩りの経験によって培われる必要性があり、経験なくして天性で習得するにはもっと時間を要したとも言える。

 いわば信長は若くして時間を要して敵を削る事が完全な攻略法であること実感していた故に、戦国の世で大成できたという事である。

 ある意味、この野党狩りまたは野盗狩りは治安維持が目的では無く、あくまでそれらを相手にした模擬戦なのだ。

 その上で敵の兵力を徐々に削って勢力を弱める作用と成るに過ぎなかった。

 後に、こうして野党狩りを進める中で、度重なる信長の襲撃に屈して投降する勢力も出てきた。

 蜂須賀小六(正勝)であり、前野長康らは当時20歳か18歳くらいであり、出自の国人衆の勢力としてではなく、近隣を荒らす今でいう愚連隊や暴走族の様な形で賊徒を率いて暴れまわっていた。

 いわば野武士集団の川並衆がこれに当たる。

 武功夜話などには川並衆と長康の出自の国人衆勢力は別物として記されていることから読み取れる流れである。

 いわば国人衆の方は父・宗康が率いており、長康は小六とともに別の川並衆として活動していた様だ。

 実際に信長に投降した時期は不明だが、史書としての記録では1558年に長康・宗康親子は信長に拝謁できたとされている。

 後の秀吉との関係性を考えると、1554年以降の話として、密偵として入り込んだ秀吉が彼らに投降を促して織田家に使えさせ、その際に秀吉の余力となった流れなら、武功夜話に記されたものとかなり合致する内容になるとも考えられる。

 特に1556年頃の話だと、丁度信長の後ろ盾であった斎藤道三が撃たれた時期で、更に弟・信勝との稲生の戦いがあった。

 この時期信長は自軍に味方する勢力を求めていたとも思われ、こうしたタイミングで秀吉が川並衆を引き連れてきたのならそれは大手柄になるとも考える。

 勿論、詳細は後程この時期のエピソードに合わせて書くものとする。

 

 勿論、こうした野党と一括りに言っても、様々である。

 小六らの様な若者の愚連隊として悪さを仕掛ける組織、更には彼らの出自とされる国人衆、また盗賊と呼ばれる窃盗団であり、一般的に忍びの様に扱われる暗殺団などもある。

 国人衆は寧ろ知行の様な場所も有り、現代で言う指定暴力団組織に近いとも言える。寧ろ下手に領主であり他勢力と揉めるような行動はせず、秩序だった独自のルールで生業を守ることに専念する。

 若者の愚連隊は、今でもヤンチャをする形で存在感をアピールする訳で、戦国の世ではよりむしろ秩序に反する行動をしたと思われる。

 現代の彼らとは違い、殺傷といった行為は当然の時代ゆえに単なるヤンチャでは済ませれないレベルであった事は理解しても良いと言えよう。

 盗賊であり忍びの様な集団は、今でも地下組織であり、表には見えにくい。その分、質が悪いが国人衆の一部が関わる場合も想定できる。これは現代でも同じかそれ以上に巧妙に出来た時代と言っても良い。

 史書としてこうした組織の話は「謎」に成ってくるのは当然で、仮に盗品目や暗殺リストのような文書記していたとしても、摘発される前に証拠隠滅で燃やすといった形に成る為、史書として残るケースは稀と言っても良いい。

 勿論、摘発する側も裁判所から逮捕状を取るような手続きは無いため、証拠も関係なく疑わしきだけでも襲撃する。

 それ故にそうした出来事が歴史上の出来事として残るのは稀である。

 寧ろ倭寇という海賊の話であり、石川五右衛門の様に伝説として残るくらいが関の山である。

 

 信長らが相手にした組織は寧ろ若者で構成される愚連隊の様な連中か盗賊の様な地下組織である、寧ろ領国経営に影響する国人衆は対象としていない。

 逆にそこを対象にした場合、領国問題に発展しかねないと言える。

 寧ろ国人衆の場合、荷馬を襲撃するような事はしないだろう。

 そういう襲撃をするのは盗賊の方で、国人衆が直接手を下す様なことはしない。

 勿論、犯罪組織の構図で言うなれば、盗賊が徴収した商品は国人衆を介して商人に売りさばかれる形が想像できるが、この時代では罪は実行犯の盗賊でそれをほう助した者までは裁けなったと言えるし、その証拠を掴むのはまた難しい時代であったとも言える。

 言い方によっては、「知り合いから商品を譲り受けただけ」で済まされると言っても良い。

 一部の国人衆は愚連隊や盗賊を実行犯として利用していた事も想定されて考えても良いと言える。

 

 と、は言え、証拠があっても中々国人衆という大きな組織に手出しをすることは出来なかったと言えよう。

 

 信盛が進言した野党勢力は、尾張一体を組織する盗賊団である。

 場所も尾張西の津島と清須の間に位置するとすれば、現実的に存在した可能性は十分にある。

 寧ろ盗賊団とするのも、津島の商港から清須に運ばれるルートに成るゆえにそうした組織が一番存在しやすいのだ。

 また丁度、土田が「とだ」ではなく「つちだ」だとするなら、その所領はこの辺りに位置する。

 

 更に大和守家が管轄の清須付近ではなく、弾正忠家の勝幡城に近い場所であれば、弾正忠家の管轄内にも成る。

 土田が信長の生母の出自であれば、この賊徒討伐に助力するのは当然という形も成立する。

 先にも話した様に、信長たち本来の作戦はあくまで模擬戦であり、掃討する作戦としては部隊の規模が少ないと言っても良い。

 また掃討作戦という相手を壊滅させる目的の場合は、それだけ人的損失も覚悟せねば成らないのだ。

 勿論土田側が信長の要請に応じて、300から400の兵を出してくれればそれ相応に戦えるという話にはなる。

 こうして…先ず信盛が土田弥平次に盗賊団討伐要請の文を記した。

 信盛は文の中で、

 

 「津島と清須を結ぶ街道沿いに度々出没する野党団の拠点が、御領内の西南に存在し、これを討伐する為の軍を差し向ける。

 よって土田方に道案内および先陣としての援軍を要請したい。敵数は数百程度と推定。

 当家は弾正忠家嫡男 織田信長公を含め100余名にて討伐に向かうものである。」

 

 この様に記して土田弥平次に宛てた。

 当時、土田弥平次は土田家当主では無いものの、恐らくその嫡男という立場であったと考えても良い。

 弥平次の父が誰であるか不明だが、その祖父は土田政久で信長の祖父に当たる。

 寧ろ信長の我がままを制止する意味での政略結婚で、それ相応の相手で無ければ、逆に効果は薄く、むしろ信長の威圧に屈する可能性も有る。

 また、信盛が書状を送る意味で、土田家当主に宛てるのは身分不相応なものと成る。当主に宛てる場合、少なくとも家老の平手政秀くらいの身分に頼らねば無視される可能性も有るのだ。

 逆にその嫡男に宛てるのなら話は別で、当時の信盛程度の身分でも問題はないと言えよう。

 勿論、ここで弥平次が兵を率いて援軍を出してくれるかは不明であるが、弾正忠家嫡男の信長が向かうという話に成れば、その弥平次自ら率いて援軍するのが寧ろ当然であろうという流れにも成る。

 

 そして信盛からの要請を受けた弥平次はその話を当時の当主である父に伝え、自ら部隊を率いて援軍することにした。

 ところが…ここで想定外の出来事が起こったのだ。

 

最近あまり長く書きすぎると、

ブログとしてアップできない現象が発生するので、

今回は分割して記すようにします。

 

まあ、この吉乃姉さんの話は本当に複雑でややこしいです。

色々な史書にある内容と照らし合わせると、

凄い滅茶苦茶に成ってくる。

信長たまの母・土田御前の出自に関しても、

かなり意味不明だし、

「つちだ」なの「どた」なの

と言ったところも

史書を参考に読み解くと全く確定しない。
 

でも最終的に母と子の確執があった事実に

照らし合わせて構成して行くと、

大きな事件がここに潜んでいることが、

プンプン匂ってくる。

 

今まで書かれてきた信長たまの若い頃の話では、

正直家中が割れるほどのうつけっぷりは有りませんでした。

唯一の決定打は

父親の葬儀で焼香をぶちまけた異常な行動くらいです。 

母性で見るならある意味この行動だけで

息子を見限るとは考えにくい。

 

故に、母親との確執は

それ以前に生じていたと考えるのが妥当なわけです。

 

これが歴史的な真実と断言するいみでは、

この推理を裏付ける文章が

一次資料として発見されなければ成らない訳ですが、

先ずもってそういう発見は無いだろうと思われます。

 

そうした実情も踏まえて

現存する史書の中で推理を構成し、

これ以上ないほどに

前後の事件、

ある意味、織田家の確執に結びつける形は

他に無いと断言します。

 

野党狩りの話にしても、

実は根拠があるのです。

先ず、江戸時代に

武功夜話の作者の一人が生駒家の人に、

「もし商売をしていた場合、どんなことをしていたか?」

と、聞いた際に、

生駒家の人は、

「馬借の傭兵」

という事を言っていたという記事がありました。

ここから察するに馬借は盗賊に狙われやすい流れで

用心棒を必要とした事が伺えます。

 

初陣した後の信長たまは暫く戦に参加した形跡が有りません。

もし信長たまがその後も戦下手だったのなら、

単にその間遊んでいたという事も考えられます。

しかし、実際には父・信秀が無くなった後、

ほぼ連戦連勝で勝ち進む訳です。

しかも数的不利をも覆す戦い方で。

 

では…どうしたらそんな屈強な部隊を構成できるのか?

 

いわば現実的な話、

信長たまの才覚だけで連戦連勝できるほど

戦は簡単ではない。

そこには他を圧倒するだけの

戦慣れした屈強な兵士たちが揃っていなければ

これだけの戦歴を築けない。

 

これは単なる鍛錬だけで到達できるものでもない。

 

実戦慣れさせるために

その都度、戦を起こすわけにもいかない中で、

生駒家との出会いで、

こうした野党狩りを思いついたのです。

 

実際に信長たまは頻繁に生駒屋敷を訪れているわけで、

更には小折城ともいわれる形で、

この生駒屋敷を築かせているのです。

生駒家に残る資料では、

その規模は清須城より大きかったとされているのです。

 

最終的にこうした野党狩りを頻繁に実施する中で、

兵の鍛錬と治安向上の両面での効果が

生まれたと考えられます。

 

これらは信長たまの治世にまつわる部分で、

紐づけできる話ともなるわけです。

そういう意味では単なる推測ではなく、

むしろ史実に存在する話を成立させる意味では、

これらが政策として機能していなければ

成らないという科学的な根拠になるのです。

 

更にはこうした治安と演習を用い、

生駒家の様な商人から傭兵という名目で徴収することで、

兵農分離とも言われる

職業軍人化を構成することも出来たのです。

最近の歴史家は発想力が無く、

織田軍団は職業軍人化は出来ていなかったとしているが、

それは信長直属とその他配下が用いる領民兵とで、

明らかに分別されいたと考える方が良いです。

 

信長たま直属いわば馬周り衆を含めた部隊は、

完全に職業軍人となっており、

元々は傭兵代という形で受け取っていた制度を

こうした治安維持活動を実施することで、

商人からの徴税という形に変化したと考えれば、

史書に残る流れと合致するのです。

堺の商人たちに求めた部分も、

こうした活動で領内安全に運搬できる保証を担保に、

要請したから

関係を拗らせることなく纏まったとも考えられます。

 

うつけの兵法はただ単に

創作や推測で構成しているのではなく、

史書の中で詳細に書かれない部分を、

科学的に解析して

合理的に成立する部分を研究して

記しているものだとご理解いただければ幸いです。

 

これは信長たまの成長部分に関しても同じで、

その戦術性、戦略性を取得する過程、

政治的な発想の根幹など、

史実上に残る話を

逆算によってエピソード化しているものです。

そうした経験を得ることで、

奇想天外な発想に結びつくという、

これも科学的な話で構成されています。

【第三十五話 吉乃と帰蝶 中編】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕

 

 ここまでの信長の成長を眺める上で、多くの読者は些か疑問に感じる点が生じてくるだろう。

 果たして…この信長は家中が分裂するほどの「うつけ」なのか?

 ある意味、勇猛果敢で戦国時代の将としては申し分ないように見えるだろう。

 先に記した様に教育問題で林秀貞との確執は理解できる内容と成ったが、信秀の死後、家中が二分するほど信長のうつけっぷりは酷いものかといえば、そうでもない。

 古今の歴史家たちが推測するように林秀貞であり、または信長の母親土田御前が野心的に仕掛けた出来事として考える事は可能であるが、その動向は寧ろ小説的で現実的な思考から成立するとは考えにくいのだ。

 いわば林秀貞がかなりの暗愚な将だった場合は、周囲の状況を精査せずに自身の権力基盤を構成する為、この反乱を起こすことになる。

 暗愚とは北に斎藤道三、東に今川、内には織田大和守家という状況下で、安易に家中が二分する流れを産めば周囲から瞬く間に滅ぼされる事は明白だからだ。

 もう一つは虚偽によって信長が「うつけ」とされた流れなら、寧ろ勝てば官軍の信長側がその様な話を歴史上に残すわけがない。

 しかし、家中全般に説得力を持つ意味で信長排斥が成立するのなら別な話となる。

 いわば信長が「うつけ」であった事は、成人した信長本人も認める事だった故に歴史として残ったという事に成る。

 では…その「大うつけ」となる話とは…

 

 恋は盲目、吉乃との大恋愛に信長が無茶をしたことが要因と推察するのだ。

 先ず、歴史的な資料上に、特に吉乃の存在を記した「前野家文書」には、吉乃の前夫は土田弥平次という人物であったとされている。

 他の資料には何某弥平次と記されている事もあり、実際の姓は不明という扱いにもされている。

 この土田弥平次は1556年に没したとしているが、 「前野家文書」にはこの頃の年代が曖昧に記されている事に成る為、年数に関しては無視できる。なぜなら濃姫の輿入れが同じ1556年と記されているからだ。実際は1549年が有力な訳でかなり微妙過ぎる。

 ただし…これらが薄い記憶を辿って後年に記されたとする事もできるわけで、時系列を考えずにその内容だけを汲み取る事は十分参考にできる。

 

 そして問題は…他では「何某」と不明なものとして表記されていたのが「前野家文書」では土田姓で記されていたという点である。

 いわばこの「土田」は、信長の母方の姓と同一…

故に土田御前な訳だが…最終的には他の文書では記されないほどの意味を持つ姓と推測できる。

 いわば信長としても隠蔽したい内容であった可能性が有るのだ。

 

 特に恋は盲目という流れで発生した出来事、または失態なら、ある意味誰も隠したい事実として残る事は予想できる。

 そしてこの土田弥平次の死が、濃姫輿入れ前後の出来事であったと「前野家文書」の作成者が記憶していた場合、恐らく1548年ぐらいと考える。

 

 信長が犬山を訪問し吉乃に一目ぼれした話は、仲間内でも話題に成った。心知れた仲間故に信長も堂々と打ち明けた。

 しかし、何の口実も無く自領から離れた場所に赴くことは容易ではない。

 ましてや生駒家との繋がりを持つのも不自然である。

 こうした話を沢彦に相談すると、その店が馬借であり生駒家が運営するものであると、いうことは解った。

 馬借(ばしゃく)とは現代で言う宅急便の様な馬を使った輸送業のことに成る。

 沢彦としても、

 

  「まあ、思春期の出来事ゆえに頼もしい事かな…」

 

 と、別段大事には成らないだろうと考えていた。

 そして信長は、

 

  「何とか生駒家と繋がりを持つ事は出来ぬか…」

 

 と、沢彦に知恵を拝借するのであった。

 沢彦としても小生意気な信長が恋事になるとどうもそわそわしている雰囲気がたまらなく愉快でもあった。

 

  (まあ、将たるもの妾の一人や二人当たり前じゃからの…)

 

 沢彦はそういう意味で信長の恋事を支援することにしたのだ。

 また初陣を迎えた後で石合戦の戦ごっこでは鍛錬として不十分であることも感じていた事もあって、何かいい方法は無いかと思案していた流れでもあった。

 そこに馬借の警護という話は面白いと考えたのだ。

 

 この流れは史実としても少し面白い意味で辻褄が有ってくる。

 信長の治世に於いて、領内は安全であったという点で考えると、軍事演習として織田軍では野盗狩りを推奨していた可能性が有るからだ。

 どれだけ治安を整えたとして、野に潜む野盗が蔓延る状態では、この治世は成立しない。しかし、織田軍がこぞって野盗を狩っていたとするなら、野盗は織田領内では活動しなくなる。

 他の領主も野盗をしばしば退治した可能性もあるが、同じ頃の治世の比較を考えると織田軍ほど頻繁に行ったとは考えにくく成るのだ。

 では、織田軍が野盗狩りを頻繁に行ったとして、その革新的な発想がどう生じたのかを逆算すると、こうした馬貸の護衛が起点と成る可能性も出てくるのだ。

 そして、史実上、生駒家が馬借であったという点、そして吉乃の存在、更にはこの時期信長が戦に参戦した形跡がない点が根拠として挙げられる。

 

 勿論、沢彦は初陣を迎えたばかりの信長の近習だけでこの警護を構成するには危なすぎる事も理解していた。

 そしてこの旨を政秀に信長の演習の意味で相談するや、

 

  「ならば、河尻秀隆と佐久間信盛ら若手を100名程度を従えさせましょう。」

 

 と、了承した。

 この隊に信長の武術師範役となった森可行に代わって、その息子で20代前半の森可成が指導役として参軍することにも成る。

 森可成は、後の信長最愛の小姓と言われる森乱(森蘭丸)の父親である。

 

 後の織田軍の編成で考えれば、この部隊はそうそうたるメンバーに成るのだ。

 この馬貸の警護を名目とした野盗狩り部隊は数年後まで続くと考え、後に2歳年下に成る池田恒興、佐々成政、5つ年下になる前田利家などが加わるのである。

 実はむしろこうした信長との繋がりがあったがゆえに、家中が分裂した際、彼らは「大うつけ」とされる信長側に付いたとも考えられるのだ。

 

 信長からすれば単に恋を成就させるための手段であったのだが、政秀からすれば野盗退治は尾張の治安を担うものとして考えていた。

 いわば治水の話同様に信長のワガママから再び信長の評判を向上させる流れになったという事である。

 

 勿論、これは清州の了承も得ての活動故に、無事信長は生駒家への出入りが自由に出来るように成ったわけだ。

 ある意味、生駒家が所属する犬山城は信秀の弟信康の息子の領地ではあるが織田伊勢守家の所領と成るため、信長の織田弾正忠家が不用意に近づくことは色々と問題が発生するのだ。

 

 那古野城主である信長と吉乃が恋仲になるのにさほど時間は掛からなかった。

 寧ろ吉乃も信長に一目ぼれしたようなものだ。

 無論、信長は恋事に長けていた訳では無い。

 そういう意味では不器用な感じに成るのだが、吉乃にとっては寧ろその不器用さに好感を持てたのかもしれない。

 それゆえに信長は率直に吉乃に告げるのであった。

 

  「お主をいずれわしの正室として迎えるから、待っておれ。」

 

 こんな感じで言うのである。

 これに対して吉乃は、

 

  「はいはい 楽しみにしてお待ち申し上げます。」

 

 と、笑顔で答えるのだ。

 勿論、吉乃の父である生駒家宗は、2人の仲を察した上で吉乃に、

 

  「当家の様な身分では信長殿の正室に成る事は叶わん、そなたは妾として扱われる事を覚悟せねばならん。」

 

 とも、伝えていた。

 吉乃もその事を十分に承知した上で、信長の言葉を有難く受け止めていたのである。

 一般的に恋愛上手な男なら、特にこの時代ではそういう方便で物を言える方が良かったとも言える。いわば最終的には側室扱いには成るが、正室とする気持ちは変わらないという感じで…

 しかし、信長のその言葉は本気そのものだった。

 むしろ恋の病に掛って盲目になったとも言えるだろうが、信長にとって正室は吉乃でなければ成らないという確信を得ての話だったのだ。

 それは恋愛が齎す錯覚とも言えるかも知れないが、信長は自分の世継ぎは吉乃との子で有る事が絶対とまで考えていた。

 ある意味これは錯覚ではない。

 寧ろ恋愛の摂理そのものなのだ。

 最愛の女性との子であるからよりその子を愛せると考えるのは当然で、寧ろ両親から愛されて育つ方が子供にとっても有難い話なのだ。恋愛と子孫を残す自然界の摂理は本来こういうものであると考えても良い。

 勿論、多くの人は巡り合わせによって色々な恋愛を経験して行く中で直感的な判断ではなく、寧ろ伴侶を見極めて決めて行くだろう。

 中にはこの時代の様に決められた定めを受け入れる者もいるだろう。

 結果として生まれてきた子供は子供として愛せるのが当然だ。

 言うまでもなく信長もそうであるのだが…

 信長が吉乃に拘ったのはそれだけではない。

 先にも述べた様に吉乃の気遣い、器量、全てが信長にとって最良だったのだ。

 いわば吉乃の女性としての品性は軍師がもつ王佐の才に匹敵する意味で、女性の立場で王を補佐する最良の才覚が見えたとでも言っておこう。単なる内助の功とは些か異なってくる。

 いわば信長の決断に助言や口を挟むものでは無く、典型的な内助の功であり男尊女卑の様なイメージになるが、夫の生活面をささえたり、夫の部下を労うなどの気遣いが出来る女房を意味する部分は一般的だろう。

 しかし、その中で「一歩引いて」が理解されているかいないかで違ってくるのだ。

 現代の女性観では、前に出ることを躊躇しない。

 前に出て力を発揮できるのならそれでも良いのだが、女性に限らず男性でも一歩引いての補佐が出来れば、それは諸葛孔明に匹敵する価値を生み出すのだ。

 「一歩引いて」とは自分の考えよりも主君の思惑を尊重して、その思惑の補佐をするという意味なのだ。

 男尊女卑の中では女性に求められた姿勢ゆえに、本来の意味が適切に伝わっていなかったのだろう。

 また、「一歩引いて」の中には客観視できる能力も大事に成る。

 逆に「一歩引いて見ろ」という言葉に成れば、こういう意味でも伝わるかもしれない。

 そういう客観視できる能力の下で、仮に主君が誤った決断に走るのなら、客観的な方法でその感情をなだめる、または事を収める様に働くのだ。

 多くの場合、直接的にものを言ってしまう。

 または主君の行動を辱めるような言動を用いる。

 例えるなら…信長が誰かに激怒し、罵声を浴びせるように怒鳴り散らした場合…

 その折檻を受けた相手に対して、

 

 「殿が感情的になって申し訳ない…」

 

 なんて労い方をしたら、信長はその時点でその言葉を発した者を処分するかもしれないのだ。

 一見、折檻された相手を労う様に見えるが、相手に何故信長が起ったのかが伝わらず、ある意味信長が怒った事が悪いという表現に成ってしまう。

 いわばその言葉は信長よりも前に出てモノをいう事に成るのだ。

 一歩引いてとは信長が怒った理由を当然と理解して、その上で折檻を受けた相手を労うのだ。

 ここで大事な事は誰にも恥を掻かせない言葉を選ぶことにある。

 この辺が気遣いの精神がものをいう部分と成る。

 

 まず最初に、

 

 「私には殿がお怒りに成った理由は良く存じ上げませんが…」

 

 と、客観的に中立であることを伝えるのだ。

 その上で、

 

 「貴殿のご活躍は殿より時折耳にしております。今後も是非変わらずご健闘を楽しみにしております。」

 

 と、伝え相手の恨みを緩和する。

 その上で、

 

 「もしよろしければ事の経緯お話しいただけますか?」

 

 と言う形で相手がそれを受け入れれば、うっぷんを聞くことで吐き出してもらう機会と出来る。

 そうして話を聞いたうえで、相手には相手の意図があっての事だった…大体はこうした意図が存在するため、

 

 「なるほど…そういう心意気もあの場面では殿に上手く伝わっていないかも知れません。もし、宜しければ私からそういうお話を殿にしておきます故、今後ともよろしく頼みます。」

 

 と、伝える。

 その上で言葉通りに信長にも伝えるのだ。

 そうする中で信長としても相手に対する怒りと、更には裏切りを疑う疑念も些か晴れるため、双方の関係も完全とは言わずとも、ある程度中和されるのだ。

 

 前に出ようとする人間は、相手と主君の間に入って相手を自分の方へ引き込もうとする。いわば主君との間の仲裁を働くのではなく、自分はその人の考えを理解できる人物としてアピールするのだ。

 いわば派閥を産む働きをするのである。

 一歩引く人間と比較すると、どう考えても一歩引く人間の方が信頼できるのだが、その一歩引く人間が存在しない場合、比較の対象も無いため賢く強かに前に出る人間をある意味信頼してしまう事にも成る。

 

 信長はそういう「一歩引いて考えれる」人間を良く知っている。

 平手政秀もそうであり、沢彦もそういう人物だ。

 彼らが信長の我がままを信長の手柄に変える様に働きかける事が正にそれそのものと言っても良い。

 勿論、自分の役割として手柄にしたとも考えられるが、主の気持ちを上手く形にしようとと言う気遣いが無ければ、発想に結びつくことすら無かったと言える。

 師に恵まれていたからか、信長自身もそういう才を持っている。

 故に吉乃を見て吉乃という人物を知る事で、その才を見極めたのだ。

 そういう意味で信長にとって吉乃が正妻に成る事は絶対なのだ。

 

 無論、吉乃に諸葛孔明の様な軍師の才を見た訳では無い。

 ただ自分のみならず、周りへの気遣いが王の妻としての片鱗を見せるのだ。

 誰もが夢見る王妃の姿…民からも将兵からも慕われる存在。

 そういう資質が吉乃にはあったと言える。

 

 そして信長は吉乃を正妻に迎えるべく、沢彦にも政秀にも伝えたのだ。

 勿論、二人は正妻ではなく妾という扱いでならと伝えるのだが、信長はそれを受け入れない。

 女性に対する考え方が違っていたと言えよう。

 沢彦も政秀も恋愛は理解するが、それでも女は子供を産む存在と言う認識が先行したのだろう。

 信長にとっては…寧ろ真剣に恋愛をしている当人にとっては、遊びの様な感覚では済まされないのだ。

 信長からすれば自分の嫡子と成るのは正妻の子ゆえに、吉乃との子を嫡子にする意味では吉乃が正妻でなければ成らないのだ。

 ある意味、自分が弾正忠家の正妻の長子で嫡子である意味と、異母兄の信弘が嫡子で無い事も踏まえての我がままでもある。

 また最愛の相手にこそその地位が与えられるべきで、生まれた子供に対する思い入れもそこで異なると信長は感じていた。

 大人二人からすると、嫡子は血筋や才能を含めて優秀な子を選別するのが戦国の世の常識と考えている訳だが、まだ若い信長にとっては愛情こそが重要と考えてしまう。

 さすがの2人もこればかりはどう知恵を絞っても上手くは行かない。

 他の家臣団の手前もある。

 故に吉乃が正妻として迎え入れられるのは無理だとしか言えないのだ。

 

 吉乃の方も、

 

 「私は別段信長さまの側に居れれば十分です。」

 

 と、妾でも良いという旨を伝えている。

 ある意味、それが恋を上手く成就するならばという形なのかもしれない。

 

 この信長の恋話は信秀の耳にも、林秀貞の耳にも遠からず伝わった。

 信長が既に元服を終えたこともあって、一層の事何処からか信長の正妻を迎える話が出てきても可笑しくは無かった。

 勿論、史実の資料にはその様な動きは濃姫以外に見当たらない。

 この濃姫との政略結婚は当時の情勢を考えると異例中の異例で、寧ろ守護職に匹敵する斎藤道三が、尾張の守護職の斯波氏でもなく、守護代の織田大和守家でもない、その下に位置する弾正忠家に姫を嫁がせる決断をするわけだ。 道三の方が姫を迎え入れる話では無く、自分より下位の家に人質を渡すような話に成る。

 そういう意味で現実的に考えると、道三が信長によほどの興味を持たなければ成立しない話に成る。

 信秀も秀貞もこの時点では美濃との政略結婚という事は発想だにしなかったと言えよう。

 

 その上で、信長に吉乃の正妻の件を諦めさせるために林秀貞らが色々と働きかけるのであった。

 最初の内は、正妻として迎える候補を公家などから募り信長に薦めるものだった。

 勿論、信長の我がままっぷりはそれらを全て拒否した。

 信長は秀貞に、

 

 「吉乃以外の女とでは子供も作らん!!」

 

 と、まで言い放つ。

 ある意味、秀貞が無理に婚姻を進めても意味がないという言葉にも成る。

 いわば子作りを強要する事は出来ない為、子が生まれないなら正妻の意味すらなくなる。 また、子宝に恵まれずそうして正妻の座を追われる流れに成れば、相手方に申し訳が立たなくもなる。

 秀貞も信長の強情っぷりは重々承知しているところで、無理に事を推し進めても上手く行かない事は予測できた。

 そこで逆に吉乃の方へ嫁ぎ先を見つける方へ転換したのだ。

 生駒家にとっても良縁となる相手で、しかも信長が迂闊に手出しできない相手…いわば母方の土田氏である。

 

 信長の生母である土田御前は「どた」とも「つちだ」とも呼び名に様々な説があり、その父とされる土田政久という人物の出自も定かではない。

 先に記した加納口の戦いに於いて、美濃可児郡の豪族に土田「どた」というものが居たことは記している。

 土田政久がこの豪族であったという説もあるわけだが、織田弾正忠の正室として迎える意味としては、寧ろ生駒家と大差ない存在になってしまう。

 他の有力説は、尾張海東郡…いわば津島であり、弾正忠家発祥の地とも言われる勝幡城の地域に成るが、そこの豪族土田「つちだ」氏が出自であるというものだ。

 この土田氏は近江の六角氏の支族庶流にあたる家柄で、「美濃国諸旧記」には土田御前は六角高頼の娘という記述もある為、六角氏との政略結婚の意味合いを考えると、その土田「つちだ」氏で有る可能性の方が現実的である。

 近江の守護職の六角家と弾正忠家では当時としてつり合いが取れない為、六角氏の支族庶流であれば六角高頼の娘という体裁で十分とも言えることと、いわば尾張海東郡は山を隔てれば当時は六角氏の領土と成ったため政略結婚として十分な根拠ともなる。

 その後、尾張で力を持った弾正忠家がこの土田氏をどう取り込んだかは不明であるが、愛知県清須市土田という地名が名古屋環状2号線の清洲西インターチェンジの場所に有り、その場所がこの土田氏の所領であったとするなら寧ろ斯波氏に所属する豪族と考えても良い。

 六角氏いわば六角高頼の時代、応仁の乱の関係で斯波氏と連携していた事もあり、その流れで土田氏が斯波氏との連絡役で尾張に派遣され、その流れで土着した可能性も十分に考えられる。

 そういう家柄の土田氏であれば弾正忠家信秀の正妻が土田(つちだ)御前と呼ばれるのも納得がいく話に成る。

 

 ここではこの六角氏支族庶流の土田(つちだ)氏として採用するものとする。

 いわば吉乃の嫁ぎ先は、この土田氏の弥平次という人物になるのだ。

 この土田氏は元の主君である六角氏とは1548年時点で見ると、高頼の死から20年、六角と斯波氏が連携した応仁の乱のころからは70年以上も経っているため、既に疎遠と成っている事もありうる状態で、土田御前が嫁いだことで寧ろ弾正忠家との繋がりの方が強く成っていた事も考えられる。

 その為、吉乃の縁談を秀貞がまとめるのはさほど難しい事でもなく、寧ろ信秀の奥方土田御前の了承が有れば事は上手く進む手はずに成る。

 信長の母親の息が掛った政略結婚故に、これを妨害する事は母親に歯向かうことを意味する為、秀貞もこれで吉乃の件は終息したものと考えた。

 こうして記すと…様々な史書に記された内容の辻褄が少しづつ合わさってくるだろう。

 

 ところが恋路を邪魔された信長の怒りは、恐ろしい方の思考を働かせるのだった。

 

 (土田弥平次をどうやって殺そうか…)

 

 これが織田家を2分するほどの信長の「大うつけ」な出来事であり、ある意味、450年経った今でこそ伝えられる信長の恥部という出来事なのだ。

 信長の恥部であるが故にあらゆる史書の中に伝えられなかったと言っても良い。

 

 因みに前野家文書の前野長康であり蜂須賀小六などが生駒家に出入りするのは1558年頃からに成るとの事で、それ以前の生駒家に関する記述は生駒の人間からまた聞きとして伺ったものでしかないとも言える。

 故に土田弥平次の名は出ても、戦死したとしか知らされていないとする事も推測できる。

 

 果たして・・・信長の大うつけな出来事とは・・・

 

どうも…ショーエイです。

「どうする家康」

結局、ひどい作品に成っちゃいましたね。

 

うつけの兵法でもフィクションに成る部分は多々あります。

ただし…そこは資料が無くて

解明できない部分に限る訳ですが、

歴史的な背景は崩さないように作ってます。

 

信長たま周辺の情報に限らず、

日本全体を取り巻く情勢も参考にして、

戦略性などを分析した上で、

資料が存在するもの、逸話として残るもの、

これらの内容を吟味した上で、

どういう結果を最終的に引き起こしたのかに

目標を定める形で構成する感じにしてます。

 

うつけの兵法が他の作品と明らかに違う点は、

織田信長という人物の記憶を

そのまま呼び起こしているかのように

錯覚できるようにしている点です。

 

いわば信長たま本人が日記を記したかのように、

構成しているわです。

 

まあ、神秘的な話にも感じるでしょうが、

実は科学的な流れで構成してます。

 

例えば…人間の心理。

大事な人間や

友人関係にある人間を側に置きたい、

そういう気持ちは誰でもあるもの。

そうした人物たちと、

部隊を統率して活躍する勝家、秀吉そして光秀らと、

ある種分別して考えるのも、

人の上に立つ人間の心理なのです。

そうした中で、

リーダーシップのある人間には、

積極的に任せるというのが信長流なのです。

 

資料に残る生き様、そして功績、

治世面も戦略面も、さらには戦術面も解析して、

織田信長という思考の根幹を、

解明していくわけです。

細かく説明するとトンデモなく長い文章になるので、

簡単に例だけを言うと、

人には負けず嫌いな要素が多々あります。

其々の人物のこの負けず嫌いな気質を

パラメーターの様に解析して行くわけです。

歴史上では、

アレクサンダーがMAXとして見て行く感じです。

曹操もナポレオンもかなり高いです。

実は寧ろ諸葛孔明や織田信長、またチンギスハンは、

逆に中間値より低く成ります。

この負けず嫌いというパラメーターで

戦術の特徴が変わってくるとも言えます。

 

これをサッカーの戦術で説明すると、

負けず嫌いの度合いが高いほど、

失点する事に神経質になります。

いわば防御も固めて慎重にゲームの流れを組み、

相手の隙を確実に捉えて勝利へ結びつける。

ある意味、普通に考えれば

かなり頼りがいのある方に見えます。

 

逆に負けず嫌いの度合いが低いと、

失点することには寛容です。

ここはアレクサンダーと比較する意味で、

チンギスハンを例に言うと、

チンギスハンは負けず嫌いのパラメーターは低いが、

勝負事を意識するパラメーターは寧ろアレクサンダーより高い。

勝負事を意識するパラメーターとは

相手との駆け引きを楽しむ要素に成ります。

 

いわば相手が自分よりも上手だった場合、

失点するのは当然と考えるのです。

負けず嫌いは失点することに神経質に成る為、

防御に絶対を求めます。

しかし、相手が上手ならと寛容に考える人は、

実は勝負の駆け引きで決まる部分を見極めて、

その上で効率よく守る方法を模索するのです。

逆に攻める場合も、

いかに駆け引きを用いて相手を崩すかを考えるのです。

 

なので負けず嫌いからすると…

実はこちらの方が奇想天外な相手と成るわけです。

一見、負けず嫌いの方が堅実に見えますが、

勝負師と表現しますが、勝負師からすると、

負けず嫌いは崩れやすいのです。

勿論、ここで勝負師とまで言うレベルは、

その他のパラメーターも高く成るわけですが、

洞察力などパラメーターがより高いと、

勝負事に対する修正力などが備わるわけです。

 

堅実に守る側は、特殊な駆け引きが生じると、

それに対応する修正力を求められます。

サッカーで言うなればドリブルが一つの要素です。

メッシ選手の様なドリブラーが突撃してきたら、

本来堅実な守備として構成していた部分も、

そのドリブル突破一つで崩れます。

ここで負けず嫌いのパラメーターだけで考えると…

最悪、メッシを潰せ!!

良くてもメッシにボールを持たせるな!!

という思考に流れます。

ある意味メッシが居なければ勝てるという思考です。

日本の中継を見ていると

良くいい選手が居ないと喜ぶ内容を耳にする部分です。

 

一方勝負師からすると

メッシ選手の居ない相手は面白くないと考えるのです。

いわばメッシ選手を止められなくて負けるのは、

勝負として相手が上手だったからと割り切れるのです。

その上でメッシ選手をどう封じるか…

この勝負に執念を燃やすのです。

 

さて…ここで大きな違いも生じます。

いわば勝負師は駆け引きを優先する思考な訳で、

メッシ選手のドリブルと同じような戦術を自らにも用います。

なのでその特徴であり弱点も知るわけです。

現代サッカーは一応はこのレベルにあります。

まあ、多くの分析官とも言うべきスコアラーなどが、

そういう弱点を試行錯誤した結果といえるのですが、

対応戦術としては

如何にシュートを撃ちにくい場所に誘導するか、

そしてパスコースも上手く塞ぐかなのです。

その為にはワザとコースに隙を作って誘導して行くのです。

ドリブラーは相手ディフェンスが基本ボールを取りに来なければ、

突破するのは難しく成ります。

ディフェンス陣はとにかくボールを奪う思考より、

味方と連携して如何に相手をそこへ誘い込むか、

そういう思考が求められます。

 

こう説明すると…諸葛孔明の伏兵術にも見えてくると思います。

 

なのでそういう場合は味方へのパスで、

そのディフェンスラインを崩していく判断に成るのですが、

現代サッカーの駆け引きはここで成立すると言っておきます。

 

まあ、ワールドカップで

メッシ選手が圧倒的なドリブルで崩すシーンが

見られなかったのはこうした戦術の影響もあると言っておきます。

しかし…今度はエムバペ選手の様な

スピードのある相手への対応という時代もあって、

勝負の駆け引きの中では

新たな手段が常に生み出されるわけです。

 

他にも発想力という部分。

ナポレオンなどはここが高いです。

勿論、諸葛孔明でり信長たまも高い部分です。

発想力とは新たな手段を生み出す能力です。

敵が対応を講じるまでは

ある意味奇襲戦術的な効果を与えます。

ナポレオンは勝負師としては能力が低い分、

洞察力が足りないと言え、

自身の発想力が相手に見切られる瞬間の対応が

遅れるわけです。

なので結果戦争に負けて捕まったわけですが、

諸葛孔明と信長たまは勝負師としての能力が高いゆえに、

自身の発想力に依存せず、

相手が見極めて対応する瞬間まで見逃しません。

また負けず嫌いでは無いので、引き際も早いわけです。

 

まあ、何気に長くなってしまいましたが…

人物の心理解析というのは

こうした細かい要素を含み、

ほぼCIAやFBIといった特殊機関が

用いるようなレベルと言っておきます。

 

最初に歴史学者さんたちの功績を称えておきます。

彼らの功績で現存する歴史的な資料の発掘や、

現代にも伝わるように解説して下さった事で、

我々はどういう歴史の流れかを知る事が出来たわけです。

正直、これなくして当時の情勢などを知る事は出来ません。

しかし…その中で

資料と資料の合間という表現にしますが、

見えない部分の分析は正直素人です。

いわばCIAやFBIという特殊機関が用いるような分析で、

その人物の戦術性や政治的な思考を

読み取らねばならないのですが、

ハッキリ言って普通の人では難し過ぎます。

 

歴史学者がどれだけ頑張って議論したところで、

所詮見えているのは現代での常識の範囲でしかない。

天才と呼ばれる人たちがその歴史を生み出している訳で、

その天才の発想に追いついていないというのが実情です。

 

その典型的なのが、桶狭間の戦いの奇襲攻撃説、迂回攻撃説、正面攻撃説という議論です。

 

ハッキリ言っておきます。

うつけの兵法ではこの桶狭間の戦いの流れは既に完成してます。

そしてその構成は

上記の何れにも当てはまる方法に成ると言っておきます。

 

また三段撃ちに関しても…

450年間、誰もこの撃ち方に気づかなかったのかという内容で、

 

 

動画を作りました。

ブログで内容は以前に語った通りです。

解かりやすく動画にしました。

 

ついでにチャンネル登録とイイねくれると嬉しいです。

 

まあ、とりあえず…

フィクションであってもフィクションに見えないようにするには、

大変な作業であるという事で…

資料で見えないからフィクションに出来るが、

資料との辻褄を上手く合わせないと、

それは単なる想像の物語でしかなくなるという事です。

【第三十四話 吉乃と帰蝶 前編】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕



 信長の正妻という立ち位置を巡っては、2人の女性の名前がよく挙がる。一人は道三の娘で知られている濃姫こと帰蝶である。
 帰蝶に関しては少ない情報であれ、信長公記という史書にも記されているため、ほぼ存在として間違いは無いだろう。
 しかし、映画やドラマ、またはゲームなどで信長の妻として活躍する姿は実はどこにも記されてはいない。
 むしろ斎藤道三の娘としてのイメージから創作されたものが多いと言える。
 ただし帰蝶以外に信長の正妻として登場する人間は居ない。

 一方の吉乃に関しては、信長の嫡男である信忠の母として知られているが、実は信忠の生母は不明という記述も多く、その実態は不明である。
 信忠の後の子、五徳姫や信雄の生母としてはほぼ認められた存在であり、これらを精査して考えると吉乃は帰蝶の後妻として正妻の座に就く存在ではない事は明白なのだ。
 一方で織田家家臣団の妻、ある意味秀吉の妻 ねねや前田利家の妻 松などは良妻として登場する。

 信長が男尊女卑であったかという点で考えるなら、その史書に女性の活躍がない点を考えるとそう見えても可笑しくは無いのだ。
 ただし、既にこの小説の中でも語ったように、信長の軌跡を精神分析すると信長の本性は女性的であると言っていい。

 昨今の信長のモデルはかなり男性的なイメージで作られているため、実は史実の信長イメージとは些か合わないように見えてくる。
 何が合わないのか…多くの人は寧ろ怪しむ点で錯覚するだろうが、根本的に男性的イメージの象徴として作り出された信長像を見て頼りなさを本来感じるか?

 という点を一度見直してみた方が良い。

 いわばうつけと呼ばれた若い頃から男性的なイメージのままで活動していたのなら、戦国の世を生き抜く意味では寧ろ期待される感じで映る。こうした小説やドラマを見る読者や視聴者も、寧ろ期待はずれなイメージは感じないであろう。
 素行の悪さなどを強調して、不良少年ぽいからバカなイメージがあったと感じる点で強調している部分もあるが、父・信秀の戦ざんまいの織田弾正忠家で考えるなら、寧ろその荒々しさは期待を持つ方に感じると言える。



 では…女性的な信長とは…
 言っておくが信長が女性という話では無い。
 イメージとしては宝塚劇団の女性が演じた男性という感じだ。

  大きくこの違いを述べるなら、男性的イメージでは威圧的な雰囲気で周りを従える感じになり、女性的イメージだと自由奔放で気が優しい。言い方を変えるなら男性好みのイメージと女性好みのイメージとも言っておこう。
 まあ、女性も好みは其々で、ヤンキーぽい人が好きという人も多いだろう。

 しかし、仕事をする上司で考えた場合、女性はヤンキーぽい威圧的な男性をあまり好まない。逆に男性同士ならそういう姿は頼りに感じるとも言えるだろう。
 これは逆の場合でも同じである。
 女性同士なら威圧的な女性上司は頼りに感じるが、寧ろ男性はそういう女性上司を嫌うだろう。
 女性の社会進出の話で女性が不満に感じている部分はこうしたイメージの逆転が影響している点とも言ってよいだろう。

 女性が男性を従える場合、男性を威圧するように演じるのは実は逆効果で、これは男性から足元をすくわれる要因、いわば男性が反逆心を抱く要素であることを知っておいた方が良いのである。
 まあ、近年では女性的な男性も増えてきたので、イメージは徐々に変わりつつある点は付け加えておこう。

 では…信長が女性的という点を説明しよう。

 単純に言えば男性が嫉妬するほど女性にモテるという感じだ。
 威圧的で強さを象徴する形の男性的なモテかたなら、むしろ男性は嫉妬するより憧れを抱くだろう。

 もし信長がそうであったら、光秀は寧ろ謀叛に走らなかったかもしれないとも付け加えておこう。

 昨今の役者が演じる信長というのは後者に近いのだ。

 かといってナヨナヨした感じであり、優しいだけのイメージとも実は違うのだ。
 寧ろ芯の強い女性が母性の気配りを以て制する感じで、父性とは違う包み込むオーラを発するという形で表現するしかない。
 父性のオーラは寧ろ厳しさの中に人生の教訓を与え、子供たちにチャレンジ精神を植え込む。
 母性のオーラは優しさの中に支える者が居ることを伝え、子供たちを鼓舞する。

 これが戦いの中で従える者をどう魅了するかというと、
 父性は前線に立って自らが側線して兵を奮い立たせる。
 母性は後方にて兵を鼓舞して、後方の患いを断つ。
 ある意味、父性は関羽の様な将軍で、母性は諸葛孔明の様な軍師と言えば解かりやすいかも知れない。
 信長は寧ろ自ら前に出て戦う事が多いとも考えられ、関羽の様なイメージも先行するだろうが、本質は孔明と同じ軍師型である。

 これは実は史書の中に証明されている。

 一つ付け足しておく事は、信長流は少し異質として見た方が現代人には解りやすいかも知れない。

 まず、関羽の様な将軍だと自らの手柄として敵将を自らが討ち取った記録が存在する。
 一方の信長にはそういう記録は皆無といっていい。
 今川義元の首を取った記録も、結果として義元に組み入ったのが服部小平太で、首を取ったのが毛利新介と成っている。

 ただし信長自身もその場面に居た点は十分に考慮される。
 もしこれが関羽の様な武将なら、恐らくその手柄を他の者に譲る事はしなかったと言える。いわば自らの手で首を取りに行っただろう。

 逆に…曹操ならば、将軍として自らの直属部隊の手柄であった場合、軍全体の士気を考慮して自らが討ち取った形でアピールするのだ。
 その方が曹操自身の神格化が強まり、自身が率いるイメージが軍全体を支配する意味で強固な信頼として構築されるからである。

 この時点で信長の思考が些か父性的な思考と異なる点を理解して欲しい。
 いわば信長の近習は軍としては信長の一部で、それを信長の手柄として伝えても申し分ない。これは多くの戦国武将であり、三国時代に限らず中世ヨーロッパの世界でも同じなのだ。

 そしてその報奨は寧ろ部隊の中の手柄として与えれば良いのだ。
 これは現代の企業でも同じと言えよう。

 ところが信長は一介の将であっても、その手柄は手柄として大いに称賛し自らの手柄とする事はしなかった。
 むしろ信長は自身の神格化や体裁の為、手柄を利用するよりも、どんな身分でもどんな手柄でも公正に評価を与える事を寧ろアピールして個々の兵士たちの活動に鼓舞を与える形を取ったのだ。

 ここで父性的な方法だと、自らに付き従えば勝利は確実に得られるというアピールとなり、目標を達成する為に力を合わせて行こうという団結力に結びつく効果が得られる。

 一方で母性的、あるいみ信長的な方法だと、個々で手柄を求めて奮闘すればそれだけ個々の手柄として賞賛されるという、いわば兵士一人一人に遣り甲斐を与える意味で鼓舞するのだ。

 現代でこそ母性的な方法の方が当たり前の時代に感じるだろうが、これがネット上の評価として騒がれると・・・他力本願の様な弱弱しいイメージで伝わる点でも理解して欲しい。
 いわばその人は何の才能も無く、優秀な人に支えられているだけというイメージにも成りかねないのだ。
 

 人間の葛藤はこういう部分で生じ、これは男性に限らず、女性でも同じで、結果として両方が父性的な強いイメージを求めようとするのも自然心理であると言える。
 弱いイメージに対して、他人は「頼りない」とか、「利用されているだけ」という心理が働く点を危惧してしまうことを痛感するゆえにどうしても強く見せたいと考えるのである。

 ゆえにそうした概念を払拭する意味で、芯の強さが必要と成るのだ。
 芯の強さが母性的または女性的な要素である点は、女性が男性よりも力が弱くなることを理解しているからと言っていい。

 いわば決して勝てない部分を認知することで、その勝てない領域で勝負せず勝てる所を見極めて挑む事が求められる点に特化した意味で考える所と成る。

 男性の思考では全てに於いて自らが最強と成れる可能性を感じられる。いわば一番を目指して努力する要素がそこに有るのだ。
 ところが女性は男性を意識して最強を目指そうにも生物学的な壁がどうしても立ちはだからる為、徐々に最良で我慢するしか無くなる。我慢するという表現はある意味その女性が女性であることに悔しさを感じるという意味で表現しておこう。

 ただし、一つ付け足して言っておくことは・・・これは一般的な心理で、単純に強さを求める意識が先行する場合のケースだ。

 寧ろ本当に優秀な人間は…
 ここでも再度、孫子の言葉を用いるなら、

 「己を知り、敵を知らば、百戦危うからず」

 である。
 いわば女性的な概念の「最良」で有る事を目指すのだ。
 先ず少し悪い表現の仕方でこれを説明しよう。
 男性的な概念で「最強」を目指すうえでは、自然勝てない相手に屈するという従属心理が働く。
 なので最強であるものが弱い者を従える構図も人間社会で意外と成立する。ただし…これは猿を含め動物的な心理とも言っておこう。
 因みに日本ではこうした心理が強く働きやすい。

 ただし格闘技という意味で最強を決めた場合で、どれだけその人物が強くても、銃弾一発食らわせれば殺せる。
 むしろ海外の世界ではこういう思考が先行するといえる。

 日本人ならば、

 「素手の相手に銃を使うのは卑怯だ!!」

 そういう思考で軽蔑を与えるだろう。
 なので日本ではボスザル崇拝の思考が生じやすいのだ。

 それでも動物的な意味で崇められるボスザル的な状態が人間社会を統べる意味では邪魔であり不要だと考えるなら、そんな評価を気にもしなでこのボスザルを屈服させる。
 それが金という手段なのか、組織的な暴力なのかは人間社会として手段は色々とある。
 この論理と思考が「芯の強さ」という部分に成って来る。
 いわば他人がどう考え、どのように評価しようが気にもせず、自分の選択が最良に成ると信じる姿勢だ。

 前述の様に悪い表現の仕方だが、こういう事である。

 実際にその最良に成る意味で、現代では学歴であり権力を握る方面で人間は努力をしているのだ。
 ただし、自ら身体的な最強では無く、権力的な最強を目指す意味で考えるならこれも寧ろ「男性的」要素として言えることに成る。

 では、最良=芯の強さとは…
 軍師の意味で最良という部分を言うなれば、それは指揮官としての能力だろう。
 スポーツの世界、サッカーを概念にするなら、フィールドでプレイする人間は身体的な努力を究極までに鍛錬した人たちである。
 それらを統べて最大限に活用し勝利へ導く者が指揮官である。

 いわばプレイヤーとしては身体的に最強のレベルに成れずとも、指揮官としてなら最良に組織を動かせるという意識がここに成る。

 ところが…身体的な最強を極めた人間たちが、身体的な最強を放棄した指揮官を馬鹿にして見ることは多々ある事で、その上で指揮官として最良に組織を動かすことの重要性を説き、その上で従わせるには「自身の負い目」を省みずに、寧ろ身体的な労力とは別の世界であるという信念で、「芯の強さ」を示さねば上手く機能しない部分でも有るのだ。

 勿論の事、いわばフィールドでプレイする現場の心理や駆け引きを経験すらした事ない人間に、その部分が理解できないだろう。
 そういう事も含めて「自身の負い目」として圧し掛かるのだ。
 言葉で伝えるより遥かにこのプレッシャーは重いのも事実である。
 ゆえに普通の人には中々耐えられるものでは無いし、それを払拭するには指揮官としての実力を証明するしかないのも事実だ。
 有名な話で言うなれば、モウリーニョという有名な監督がその成功の一例と言っていいだろう。

 女性の中からこうした人物が登場しないのは、女性には更に男性と女性の違いが双方の意識の衝突面として付け足される分、それを上手く緩和させる表現であり説得術が中々見つけられない点にあると言っても良い。

 寧ろその女性に男性指揮官を凌駕するほどの才能があっても、組織がその才能を信頼して従順に従ってくれなければ、その才能通りのイメージで機能せず、結果に中々結びつかない状態で終わるという事だ。
 これは男性同士の間でも「負い目」の中で発生する点は前述の通りで、男性で有っても難しい部分であるのだ。
 まあ、女性が苦戦しているのはこの部分になるだろうし、女性が主張する壁はここがネックとも言っておこう。
 ただ、身体的な努力面でどうして勝てないという意識の中で、そこを敢えて努力して克服するのか、それとも早々と勝てるフィールドを見出すのかのは人それぞれであるが、自己のベストを目指して強さを求めるか、強さを放棄して最強を統べる道を選ぶのかの違いと言っておこう。

 その選択肢の意味で見ても、諦めずに努力を積み重ねる方が「男性的」に好意を持たれるイメージで、寧ろ無理な勝負を避けて勝てる所で勝つ道を選ぶのは好意的にとは言わずとも、賞賛される選択として「女性的」イメージになると言えよう。

 長い説明に成ったが、信長が女性的であるというのはこういう部分である。
 軍師という存在は極めて女性的と言っても良いが、いわばそれは体裁を気にせずに手段を選ばないという事にも成るだろう。
 ところが信長のそれは、宝塚劇団の男役としての女性を魅了する男性的な部分が付与されるため、人間として恰好つけの部分を残す違いが有るのだ。勿論、信長に限らず良才として名の通った軍師という人たちにも言える事ではあるが、これが公正明大な采配という部分で寄与するのだ。
 ある意味この部分が信長と近しい所で接する男性を魅了した部分に成ったのかも知れず、逆に遠目で見る男性を嫉妬させた部分であるとも言える。

 そして曹操の様な人物であり、明智光秀の様に男性的な魅力を追求する人間にとっては許せなかったのかも知れないと言っておこう。
 男同士の世界では、万能としての強さを強調したがる。
 ある意味、槍に特化した試合では勝てなくとも、異種格闘の意味で自分がその人物に勝てれば自分が強いとアピールできる。
 ボクシングという上半身だけの試合では勝てなくても、蹴りも含め、寝技を含めた勝負なら、ボクシングの世界チャンピオンを倒せるという主張もその一環である。
 ところが信長からすればそこで競い合って強さを求める事にすら価値を感じないのだ。

 寧ろ・・・槍裁きでは勝てない、剣裁きでは勝てない、石投げでは勝てないで、言い方を悪くすれば諦めてしまう、というより勝負しない人に感じられるかも知れない。

 いわばプロのサッカー選手の様に巧みにボールさばきをする人間以上に巧みにボールを操ろうと努力はしないのだ。
 むしろそういう才能に対しては、その人物が他の相手に負けることが無いように鼓舞して応援するのだ。
 こうして自分の部隊全体がそれらを結集させて総合的に強く成る事を求めていくという感じに成る。

 その中で総合的に部隊全体として足りないと感じる部分で自身を特化させるのだ。

 この時の信長の悪童メンバーで新介と吉法師の頃の信長がやりあったエピソードを盛り込んでいるが、剣術では信長の方がまだ上手である。しかし、いざ相撲となると信長は新介に勝てないのだ。
 史実にはない事だが、そういう事にしておくとする。

 普通の男の子なら、臣下である新介に相撲で勝てないとういう状態はナメられる気がして許せないと感じるだろう。
 ゆえに何度も挑み、下手したら主従の威圧を以て相手が負けるまで挑み続けても可笑しくはない。

 ところが信長はそういう評価に対しては公正で、寧ろ相手が本気を出さずに自分が勝たせてもらう事の方が気に入らないのだ。

 それは剣術に関しても、槍術に関しても一緒と言っていい。
 ゆえに信長との勝負では手を抜いてはダメなのだ。

 逆に本気でやりあって仮に信長が勝てたとしても、相手が自分より弱かっただけか…と寧ろ喜びを感じないのだ。
 これが信長が持つ女性的本質である。
 いわば信長は全ての勝負に於いて自分が最強に成れるとはおもっておらず、世界全体を見つめた場合、自分より優れた人間は山ほど居るだろうことを認めてしまっているのだ。

 いわば新介との相撲で、新介を倒す為に試行錯誤してみたが、中々敵わないし寧ろ新介以上にパワーを着ける意味では追いつかない。しかし、いざ木刀を手にして戦えば新介より自分の方が強い。

 ならばその相撲という土壌で頑張っても意味がないと感じるのだ。

 しかし、自分を負かすほど、ある意味自分が認めた人間が最強として居てくれれば、自分の兵力としては満足と考えるのだ。
 見ようによっては負け犬の様にも見える発想で、一歩間違えば負け犬に成ってしまう。

 これは剣術に於いても、岩室の方が上手いと感じる部分でも同じなのだ。
 逆に言えば、信長の悪童の中で最強となったものは決して他で負けては成らないというプレッシャーを与えるのだった。
 これも女性が寧ろ男性に求める所に似ているのだ。
 いわば自分を守る意味で強い男性を求める部分と言っても良い。

 ただし信長は全てに於いて勝てないと諦めている訳では無い。逆に邪道、いわば剣道の流儀から離れた自由な発想の世界でなら勝つ方法は見いだせるし、相撲に於いてもいざ首を取るという勝負なら勝てる自信はあった。

 これは戦の世界でも同じで、古来からの戦の流儀で勝負するなら信長は勝てないかも知れないが、その流儀から外れて新しい発想を盛り込んで確実に勝つ為の勝負なら絶対的になれたのと同じだ。その極みが長篠の戦いだったのかも知れない。

 そして…これが「うつけの兵法」の神髄なのである。

  ある意味、こうした発想の根源は庄内川で年長の八郎たちを相手に戦ごっこしていた事でも培われた。
 身体的に上の相手に挑んで試行錯誤して行くうち、強いだけが武器では無い事を学んだ結果としても伝えられると言えよう。

 現代の男性であり女性からすると、こうした思考で柔軟に生きていく事は当然と考えるだろう。

 しかし、信長の違いは負けを受け入れても決して屈服しないことにある。ある意味他の手段で相手を凌駕するつもりで常に居るのだ。

 部分的に突出した才ある人間からすると、寧ろ信長のその強気とも言える姿勢は腹立たしくも感じるだろうが、信長はそれを証明できるゆえにそうした相手に嫉妬を与える。そしてまるでその部分的な才であり努力を馬鹿にしているかのように見えるのだ。

 才ある女性が男性から妬まれる思考的要素として信長の考え方は寧ろ多くの裏切りを招く要因であったのかも知れない。

 さて・・・話を戻して・・・

 信長の本質が女性的であったがゆえに、寧ろ女性が活躍する場がなかったのだ。
 秀吉の浮気話でその妻のねねが信長に相談に行った逸話がある。
 普通に考えるならこの相談は信長の正妻が受けるべき話で、逸話として残す場合でも同じで、寧ろ信長が正妻の濃姫辺りから睨みつけられた様な雰囲気の方が話としては面白く映る。
 しかし、逸話として残る意味でも、ねねが相談した相手が信長であったという事だ。ある意味、逸話で考えるより実話として考えても良い内容に成る。
 それだけ女房衆であり女性からしても、信長の見識は信頼されていたと思われる。

 また文官として村井貞勝といった優秀な人物が居るが、実は信長には軍師らしい軍師が全くいない。
 信秀来からの林秀貞にしても、秀吉の竹中半兵衛にしても、黒田官兵衛にしても信長の軍師という立ち位置には居ない。
 または明智光秀もそういう立ち位置になれた人物だろうが、普通の将として活躍しているに過ぎないのだ。

 いわば信長は軍師要らずの君主なのだ。
 そういう意味では賢妻女房の存在があっても良いように見える。
 そこで濃姫の存在を思い描いてしまうのも有りだろう。

 しかし、本当にそうであるならば確実に史書のどこかに記されているはずで、信長があえてそこを隠すことは性格的に考えられないのだ。
 そういう事も踏まえて帰蝶こと濃姫の存在があまり記されていない点を考えなければ成らない。

 先ず、濃姫以外に信長の正妻の記録がない点で考えると、信長は濃姫を正妻という立場維持していた。
 様々な説があるが、濃姫が仮にどこかで早世した場合でも、信長は正妻を変えることはしなかったと言える。
 見方によっては美濃衆を従える意味で、濃姫の存在を利用したとも言える話成るが、寧ろ斎藤道三の遺言を元に美濃攻略を進めて稲葉一鉄らを調略したのなら、天下布武はその道三と信長の共作であること徹底する方が良いのだ。
 その意味では濃姫が正妻で有り続けることが大事であり、信忠が濃姫の子として嫡男になった点も大事に成るのだ。

 仮にこうした心情を利用するなら、信忠に家督を譲った時点で濃姫を避けても良い話にもなる。
 これは足利義昭との関係でも同じで、信長は家臣団の心を利用するという意味でこうした政略的な公約を利用したのではなく、寧ろ公約した事を忠実に守らねば彼らの公約に対する忠義に背くことに成る点を常に意識していたと言っても良い。
 ある意味、キレイごとに見えるかもしれないが、これをキレイごとと考えているのは逆に愚かと言っても良いほどの話に成る。
 信長は心の嘘は、その行動で暴かれる事を知っており、信長が人を見る上では公約と行動または行為、別な言い方をすれば姿勢が合致しないものは信用しないのだ。
 自分がそうであるように他人に対してもそこは常に誠実なのだ。
 計算で誠実を装っているか、本当に誠実なのか、本心は解らないが結果として見え方は同じなのだ。
 それ故に計算であっても本心でなければ成立しない話と言えよう。

 では、計算でこの誠実さを利用する場合、誠実に守っていく事でどういう不利益が生じるかだけが焦点と成っていく。
 いわば正妻の地位を濃姫から他に移す場合、気持ちが他の女性に移っていたとしても喜ぶのはその女性とその一族位。
 軍全体を統べる上では逆に不誠実さで家臣団の忠義が離れるより、その女性や家族が離れる方がマシと考える。

 計算で無く誠実な意味で考えた場合、むしろその地位をあえて求めるような女性では自分の側に置いておく価値は無いと考えてしまうのだ。
 また本心から道三を立てる意味においても、道三は既に死んでしまっているゆえに敵対する不利益は無い。ちゃんと立てた上で美濃衆の心をつなぎ留めておくほうが、自分だけの手柄にするよりも効果的。無論、尾張衆は新参者を良く感じないだろうが、彼らの関係を繋ぐ意味では道三あっての信長であり尾張の躍進と定めておくほうが寧ろ家臣団の団結としては効果的なのだ。

 結果…信長は本気で道三を立てている。
 本気で立てているから、どこにもボロが出ないのだ。

 秀吉の場合、本気で信長を立てていなかったから色々とボロを出す。彼の言葉の節々でも見れるように、行動でもハッキリと解る。

 それと比較して見れば、信長のそれには嘘が見えないのだ。
 嘘が見えないほど本気でやるゆえに、全てが計算であったのなら正に化け物に見えてくる。
 嘘を用いて人を欺く人間には正にそう映るわけで、秀吉は寧ろ信長のそういう所に恐怖を抱いていたと言えよう。光秀もそう感じたのかも知れない。

 いわば濃姫こと帰蝶を正妻として維持していたのは、濃姫に如何なる問題が発生していたとしても、信長が道三からの遺言を誠実に受け継ぐ意味としては決して外せない事だったと言っておこう。

 言い方を変えるなら、妻としての濃姫への愛よりも、道三への敬愛の方が強く、本気でその美濃衆が加わったことを感謝していたという事なのだ。

 また、この誠実に感謝を示す気持ちに勿論何の不利益が生じる事も無い。ゆえに本気で感謝するのだ。

 ある意味計算とういう部分で疑うのなら、自らを本気でそう演じるために本気に成るように自らに暗示を掛けたという話に成る。

 かの司馬遼太郎先生の国盗り物語の中でも、度々「本気」という表現で信長の行為が記されていたわけだが、様々な史書を研究して考えた人でも「本気」としか表現できないほどであった事は理解しても良いと言えよう。 
 

 斉の管仲であり、諸葛孔明の様に軍師であり王の補佐として存在する人間はこうした誠実さを王道の規範として助言するのだが、信長はその助言なく王道を示せたゆえに、政治的な意味では誰の助言も必要なかったと言ってもよい。

 では…帰蝶、ここからは濃姫をそう戻して話を進めるが、史実にも殆ど出てこない彼女は一体どうしたのか・・・

 帰蝶のこの部分は筆者にとっても長年の謎だった。
 と、いうよりも・・・帰蝶の事を本気で考えていなかった。
 イメージとして先行するのは、道三の娘として活発な性格の女性である。
 しかし、実態は…どうやら慎ましく静かな女性…と、言うよりもそうなってしまったという形が適切に伝わりやすいかも知れない。

 実は帰蝶の織田家での環境を分析すると、精神的な病を発症する条件がいくつか重なる点が見受けられる。
 これは精神科医の先生が見ればすぐに納得する内容だ。
 とは、言うものの狂人化した訳では無い。

 一つ目は帰蝶に子供が出来なかった点。
 史書には女子を産んだ可能性は有るのではという憶測は多々存在する。寧ろ女子でも産んでいたのなら、ここで生じる精神的打撃はいくらか緩和されていたと言えるだろう。
 逆に子宝に一向に恵まれないと成ると…正妻であっても嫡男どころか子供すら産めない存在と成り、一般的には正室としての存在価値すら危ぶまれる事態と成る。
 現代の女性でもこうしたプレッシャーを感じる人は多々いると言え、現代なら夫の愛情を意識した形で悩む話と成る。

 ただし、愛情の話とは別に、自分の正室としての立場を考えるなら父・道三の存在が美濃に有る限り安泰とも言え、仮に道三亡き後でも兄・義龍が尾張との関係を維持してくれれば問題無いとも言えた。
 こうした状況や噂話などは、この当時、帰蝶に仕えていた侍女が耳打ちするケースが一般的だった。
 女性のこうした耳打ち話は、現代でも悪い状況を想定したものが多い。
 耳打ちする方は相手を気遣って悪い状況になった時、聞き手があまりダメージを受けないようにと考えてのこととも理解できる。
 しかし耳打ちされる当人からすれば…憶測で様々な不安を駆り立てられるのだ。
 帰蝶が信長に嫁いでから4年も経って、子宝に恵まれないと、侍女も正室付きという立場から不安に駆られる。
 そういう流れで

 「他の大名家では子宝に恵まれない女はその地位を追われてしまうみたいですが…織田家は大丈夫なのでしょうか…」

 そう聞いてもこの時はまだ気丈に、

 「その点は心配は無いです。父(道三)と信長さまは同盟者としていい関係に有るのですから。」

 そう言い放つ。
 ここで実は
 道三と信長が顔合わせをする正徳寺の会見が丁度いい時期で発生するのだ。
 1549年に嫁いでから、4年目に当たる1553年。
 恐らく帰蝶が子宝に恵まれない点を危惧した事と、直前に平手政秀が自害した件で、同盟者としての信長を見極めたいと感じたことで道三が鎌をかける意味で提示している。
 後に詳しく書くが・・・道三はこの時会見の実現は寧ろ期待すらしておらず、何らかの代案が提示される事を期待し、その内容で相手の器量を見極めようとした。
 現実的に考えるならこういう事で、寧ろ信長が会見を受けた段階で道三は既に度肝を抜かれたというのが事実であろう。
 無論、こうした経緯も帰蝶の侍女からの報告などが絡んでの事だが、帰蝶の不安は正徳寺の会見後、道三からの文で和らぐ形と成ったと言える。

 その流れで次の不安事は…
 一向に子宝に恵まれないプレッシャーに加えて道三が兄・義龍に殺されたという事件だ。
 この時点で…美濃と尾張の関係は途絶えた。
 考えられる事は侍女の不安である。
 いわば戦国の習わしで同盟が切れた際に、正妻であっても人質の意味も含めて殺される可能性があるという事。その際にお付の侍女は言うまでもない。
 特に帰蝶は子宝にも恵まれなかったゆえに、こうした不安が過るのは仕方のない事である。
 侍女にこうした精神状態の人間が出ると、自然発生的に主である帰蝶にも伝播していくのだ。
 勿論、子を産めないという引け目まで感じる帰蝶は、徐々に明るさも失い、不安を感じる様子が表情や仕草そして何気ない態度にも表れてくる。
 そういう人の心を敏感に感じてしまう信長にとっては、些か気持ち悪いのだ。気持ち悪いというのは生理的ないみでは無く、寧ろ帰蝶の気持ちを汲み取って何とか心配ないように計らっても、全く改善せず依然とでは別人に見えてしまう点だ。

 前述の通り、ここでより慎ましく静かな女性に成ってしまったのだ。
 それ以前の帰蝶は躾の行き届いた意味での慎ましさがあり、道三が「帰蝶」と名付けたのか、後世に「帰蝶」とされたのか、その名の通りどこか華やかさを持ち、気丈なまでも明るさを醸し出す素敵な女性だったと言えよう。寧ろそういう女性であったと考える。
 その帰蝶が不安を募らせ、むしろ妻としての責任感から子宝を授かれない事で、徐々に明るさを失っていく事は信長としても辛い事なのだ。
 それを払拭するために不安から解放する努力を試みるも、帰蝶の何かを媚びる感じの姿勢に、むしろ本来の愛らしさが色あせて見えてくるのだ。
 むしろその時の帰蝶を愛するゆえに、自分がその心を取り戻せて上げれない辛さを信長は感じていた。

 勿論、帰蝶も信長のその心は伝わるが・・・不安がどうしても付きまとい、やはり子宝に恵まれない事への自負も合わさり、気丈に振舞おうとする労力も不自然で何事も上手く行かない点で気を病んでいくのだ。
 これは夫婦生活で些細なことで生じる亀裂の原因でもあるが、信長と帰蝶の関係では理由が寧ろ解っている分、余計に辛いのだ。

 勿論、信長は帰蝶を正妻から外すことが無かった意味でも解るように、子宝に恵まれない帰蝶を攻める事は無かった。
 しかし、その優しさに寧ろどう答えて良いのか…それが帰蝶を苦しめた要因だったのかも知れない。
 現代なら夫の愛情を感じて夫婦間は良好に改善する様な流れだろうが、逆に戦国時代の常識の中では、体裁上の優しさに映ったとも言え、美濃衆を利用する為に大事にされているだけなどと、精神的に病んでくると素直に愛情として受け入れられなくなるのも当然なのだ。そして結局は自分が信長から何を欲しているのか…

 それが愛情なのか、地位の保証なのか、それすら混沌として心が満たされなくなるのだ。

 逆に精神的な病で無ければ、寧ろ地位の保証という部分で妥協して考える心の強さは保てたのかも知れない。

 後世になって物語として登場する帰蝶が信長の正室として輝きを放つ姿は、史実とは異なるものの、本来信長が帰蝶に求めていた姿、または本来そうあるべきだった姿と言っても良い。
 もし、帰蝶が子宝に恵まれ正室として毅然とした態度で振舞えたのなら、後世に描き出される濃姫であり帰蝶こそ、それそのもであったことは間違いないだろう。

 帰蝶の話があまり史実の中で大きく出てこないのは、彼女が寧ろ政治の表舞台に顔を出さない、慎ましく家庭を守ろうとした女性であったと考えてもらう方が良いのやもしれない。

 今は、帰蝶の話はここまでで留め置いておくとしよう。

 次に吉乃の話である。
 実は彼女も記録が殆ど皆無なのだ。
 本当に信忠の母なのかという点も危惧される。
 ただし…吉乃自身にこの事実を聞けたなら、
 彼女は

 「信忠は私が生んだ子供で、濃姫が育てた子」

 と言うだろう。
 信長が最愛とする女性はこういう女性だという事だ。
 ゆえに嫡男は信忠しか居ないのだとも伝えておこう。

 因みに蘭丸がここまでの文章を読んでいたら、
 こういう事を言うだろう…

 「折角、帰蝶さまを美しい形で〆たのに…結局は、二股ですか?」

 ある意味、蘭丸とはこういう事を信長に言える存在なのだと紹介した上で、現代人の視点からするとそう映っても可笑しくはない。
 ただしここは二股というより、二人の女性を愛さねば成らなかったという表現で弁護しておこう。

 ただその前に吉乃に関する史実と照らし合わせた話をしよう。

 吉乃の記述は、前野家文書の中の「武功夜話」に登場する。
 吉乃というのは本来の名では無いとされ、一説には類という名であったとされるが・・・帰蝶同様に名前の美しさとイメージから類でも吉野でも無く吉乃を採用するとした。

 前野家文書は色々と史実参照の有力資料としては疑問視されているもので、些か怪しい。
 しかし、吉乃の存在を探る意味では、吉乃が実在しないと寧ろ逸話として登場することすら無かったと考え、詳細は別として吉乃の存在を確定する意味で考えるものとする。
 そして吉乃の出自である生駒家を精査するいみでも参考にするものとする。

 父は生駒家宗とされ、小折城主だったらしい。

 小折城は犬山城主・織田信清に属していたとされ、この織田信清はこの小説で記した先の加納口の戦いで奮戦して死んだとした信秀の弟・織田信康の子である。
 ゆえにこの地は意外と信長が自由に立ち入れた場所とも考えられる。
 生駒家は商人として考えられるが、前野家文書では商人で無いと強調されている。その反面から読み解くと、生駒家は商人であり寧ろ出世した後にこの事実を否定したい何かが有ると推測する。
 大方の資料から総括して書かれているものは、灰や油の商いと馬借(ばしゃく)で財をなしたとされている。

 因みに馬借とは現在の宅急便の様なもので、馬を使って輸送を行っていた商売である。

 そして今度は信長が生駒家に気軽に出入りできる時期を探るとしよう。
 出入りが気軽に出来る時分は、先ず織田信康の時代と、信清と弾正忠家の関係が有効的だった時分に成る。
 そうなると信秀の死後、信清は犬山で独自勢力として活動し、信長とは距離を置くことと成る為、この間、信長は生駒屋敷への出入りはむしろ制限される。
 いわば吉乃との出会いは、1552年以前か、信清との間で和解が成立した後と成るが、その年数は現在不明。

 信清が浮野の戦いと岩倉城攻略で信長を支援したのは1558年の事でそれ以前に一度信長の姉を嫁がせて和解してる。
 因みに信忠の誕生は1557年が最有力で、1555年説もある。

  さて・・・吉乃に関してはフィクションになる部分が多くなるとした上で、帰蝶こと濃姫との政略結婚に結びつく過程までを分析し、史実として辻褄が有って来るより現実的な流れで話をすすめていくものとしよう。

 吉乃は生駒家宗の長女として生まれた。
 生年は信長より早く、1528年だったとされているが、享年39か29歳だったという説で分かれている事を考えると…何か年齢をサバよんで言ってそうな雰囲気の女性にも感じる。
 ただ何となく、その間を取って信長より一つ年上という感じが一番しっくりくると考える。

 いわば女性としてのイメージはそういう茶目っ気のある感じだ。

 実際生駒家は商人では無いと主張しているが、実は商人であるがゆえに二人の関係の問題と成ったと考えられる。
 そしてこの吉乃が原因で平手政秀はある意味無謀とも言える斎藤道三の娘、濃姫(ここでは濃姫とする)との政略結婚を結び付けるのだ。

 ここからは少しこの年代の出来事の流れを記しておく。


 1547年9月に信長は初陣を終えた。
 この時に信長の父・信秀は岡崎城を落としている。
 その年の11月には美濃で大きな動きが出た。
 その前年の1546年、加納口の戦いでの停戦から、道三と朝倉孝景らが囲う土岐頼芸、頼純の間で正式な和議が成立した。

 この時、頼芸は隠退、頼純は道三の娘を娶りその上で美濃守護職就任が約束されたという。この時、濃姫こと帰蝶は頼純に嫁ぐ予定だった。予定だったしておくのは、実際に嫁いだかまでは不明になるからである。
 ここには室町幕府の仲裁と、寧ろ近江の六角定頼を含めての和議であったため、道三としては強気に出られない内容と成った。
 いわば加納口の戦いの越前・尾張連合に加えて、南近江の六角まで加わる算段となるからだ。
 勿論、その六角定頼もこのころ将軍・足利義晴から管領代に任ぜられ京の覇権を巡っての戦いに備えなければ成らず、美濃の患いを断っておきたい腹であった。そういう探り合いの中で一応の和議が成立した形と成った。
 そこで信秀は安心して三河岡崎攻略へ準備を進める事が適ったのだったが…

  1547年11月、西暦で考えるなら信秀が岡崎城を落とした時期と一致するが、実はもう一つの加納口の戦いが勃発している記録がある。
 この時に道三は大桑城で土岐頼芸と頼純を蜂起させて、頼純は打って出て討ち死にしたとある。
 一方では頼純は同時期に急死したともあり、これは有名な道三の毒殺事件として語られている。
 いずれにしても道三にとっては悪名を轟かせる謀略による行為に成るのだが…濃姫を娶るはずだった土岐頼純が1547年11月か12月に死んだ形と成っている。
 戦略的な観点から察するに、大桑城急襲の話が妥当と考える。
 いわば信秀が岡崎攻略に向かった時期であり、六角定頼は畿内の情勢から目が離せない状況が続いていた。
 残るは越前の朝倉ぐらいだが、その当主孝景も翌年の1548年4月には急死しているが、この時期恐らく何らかの病に掛っていた可能性もあり、道三はその情報も掴んでいたかもしれない。
 いずれにしても近江の六角も、尾張の織田も動けない事を察し、敵は山岳地帯を越えて進まなければ成らない越前の朝倉のみ、そういう状況下を利用して一気に道三は美濃掌握に乗り出したと考えた方が良さそうである。

 第二次とする加納口の戦いの流れから逆算して、道三は帰蝶(改めて帰蝶に戻す)の嫁入りを反故する旨を土岐頼純に伝えた。
 ただし、和議の件には一切触れていない。
 いわば帰蝶はまだ13歳(実年12歳)ゆえにまだ若すぎるからという理由で嫁入りの期日を変更した形を取ったのだ。

 無論、何時という時期は記さずに。

 それに腹を立てた土岐頼純は、六角や朝倉、そして信秀に密書を送り、道三が和議を反故した事を記したのだ。
 道三はこれら密偵を予め配置した斥候に掴ませさせ、それを証拠に携えて大桑城を包囲した。
 包囲した上で頼純方の言い分とで舌戦を広げたのだ。

 無論、道三は、

 「当方は帰蝶が若すぎるので時期をずらすと提案しただけだ。」

 と、不義の意味では無かった事を強調した。
 すると頼純方は、

 「約束の期日を勝手に反故したうえで、次の期日も示さぬとはそれは和議事態を反故にする意味であろう。」

 と反論する。

 それに対して、

 「期日を記さなかった事はこちらの落ち度だが…和議を守る気持ちが有るのならその辺は改めて話し合うべきでは無かったのか?」

 道三はそう大声で伝えるや、

  「いずれにしても当方を勝手に不義理もの扱いにして、再び近江、越後、尾張の軍勢を招き入れ、安易な見識でこの美濃に戦乱を起こそうとしたことは許しがたい!!」

 そういって大桑城を囲んだのだった。
 そしてこの直前に隠居扱いと成っていた土岐頼芸の方は越前に逃れたのだ。
 頼純はまんまと嵌められたと憤るだけだったのだ。
 これは美濃国諸旧記に書かれた部分を参考にした内容と成る。

 この美濃国諸旧記は一次資料と一致しない部分が多いとされているが、加納口の戦いと戦略的に考える時系列がむしろ一致するため、これを採用した。
 いわば道三が美濃掌握と大垣城奪還などを目指すうえでは、ここに記された時期と内容が一番辻褄があうという事である。

 そし大桑城側を蜂起させたという意味から、道三がこの様なタヌキ芝居を演じて相手の出方を見極めた点は、十分にあり得る流れで、道三を信用していないだろう土岐頼純の行動は恐らく期待はずれの意味で想定されたと言える。
 ある意味、頼純が道三と上手く付き合う意思があったなら、恐らくは別の選択肢が存在し頼純は守護職の地位を守れたのかも知れない。勿論、道三は鼻っから頼純にそんな英断が出来る事を期待すらしていなかったわけだが・・・

 こうして大桑城を攻略した道三は、次に大垣城へと向かった。
 勿論、岡崎を攻略した信秀を出し抜く形で…
 更には織田大和守家と織田伊勢守家を信秀にけし掛ける策を以て。
 ある意味、道三にも見て取れるように、尾張の内情は危かった。
 先の第一次(1544年)加納口の戦いで、坂井大膳を主軸とした大和守家と伊勢守家は木曽川で大敗を喫したのみで、大垣城を得た信秀こと弾正忠家のみが一人勝ち状態となっていた。
 更にはここで信秀は岡崎攻略まで為したのだ。
 勢力的にも弾正忠家は大和守家を既に凌駕している。
 その中で一応の斯波氏を守護とした意味では、完全に力関係が逆転した状態に成っていると言っていい。
 弾正忠家の主家に当たる大和守家としては、台頭した信秀をそろそろ抑え込まねばという焦りが生じる。

 道三はこの心理を利用したのだった。
 尾張の守護代(守護職の下の地位)である大和守家としては、本来美濃に属する大垣などどうでも良かった。
 考えようによっては美濃にある弾正忠家の領地なのだから、尾張全体の問題として考える場所では無いのだ。
 そこで道三は坂井大膳の主人である織田信友に

 「尾張との和議は守るが大垣は美濃ゆえに返してもらう」

 という旨を斯波義統宛として送ったのだ。
 いわば信秀の大垣城を攻めるという意味で。
 勿論道三は素早く大垣攻略に動き出した。
 その状況で、岡崎攻略を終えた信秀はすぐさま大垣へと向かったのだ。この時、岡崎城には松平広忠が残り、安祥城には信長の兄にあたる織田信広が残って今川に備えた。
 この三河は吉良義安を守護とする勢力での布陣に成り、信秀は形式上その援軍でしかない。
 そういう意味で松平広忠も信秀の家臣としてはではなく、信秀方の勢力として三河吉良家に使えたという形に成る。

 坂井大膳は慌てる信秀をあえて見送るように大垣までの道のりを開き、信秀が大垣に到達する頃合いを見計らって、その信秀に要望書を出したのだった。

 「貴公の守護に対する功績は考慮するも、自領を広げるだけの振る舞いは主家に対する反逆を狙ってのものと疑わざるを得ない。もし貴公に叛意無しとするならば、熱田及び古渡を主家に献上するように」

 と、いう内容で、主家とは斯波家を意味するが、本当の所は大和守家が貰いうるという算段で、信秀もその事は承知の上だ。
 実際の所は大垣城は第一次加納口の戦いで、坂井大膳との約定を以て攻略したもので、知多半島に至っては水野信元を調略して尾張方に引き入れ、岡崎に至っては今川の勢いを食い止める意味で吉良義安を守護とした勢力で緩衝地帯をつくったに過ぎない。
 その援軍の拠点として安祥城に信広を置いているに過ぎないのだ。

 そういう意味では信秀の領地は大垣と安祥城を得たに過ぎない。
 水野信元ら知多半島の勢力に至っては、自らの配下に組み込んだ訳では無く、寧ろ斯波尾張の勢力として組み込んだというのが実態で有ろう。

 信秀はこうした弁明を以て、平手政秀を清州に遣わしたのだ。
 それまでの間に坂井大膳は古渡城を包囲した。
 そして大膳は信秀に向けた要望と同じ文言で城内に告げた。
 現状、明確な資料は見つからなかった為、この時古渡城に誰が残っていたのかは不明であるが、道三から大垣城を守る為の部隊が主力で小豆坂七本槍とされる織田信光、織田信房、岡田重能、佐々政次、佐々孫介、中野一安、下方貞清と言った面々は信秀と共にその前線に行ったと思われる。
 因みに後に七本槍は戦の手柄を賞した勇士七名に与えられる栄誉として受け継がれるようであるが、この小豆坂の七本槍が後世の創作で無ければ信秀による発想と言ってもよい。
 ただし、これを第一次小豆坂の戦いの功労者としているが、1542年に起きたとされるこの戦いはこの小説では不採用としている。

 寧ろこの時期の戦いで信秀と今川が大規模な衝突を起こす状況に無かった為、安祥側の松平と、岡崎側の松平の勢力争いとして扱う形とした。
 されど、第一次小豆坂の戦いと類似した規模の合戦として、岡崎城攻略が当てはまると考える。
 織田信光以外はあまり名の知られていない面々であるが、武勇面では柴田勝家らに引けを取らなかったとされる下方貞清の生年は1527だろうとされている。この人物は寧ろ享年が1606年で80歳と考えるなら、推定した生年は妥当と見なす流れで、結果その逆算によって1542年とした場合、若干15歳でしか無くなる。
 

 今の中学生に当たる少年が大人相手にどれだけ戦えるものなのか…
 確かにサッカーの王様ペレは若干17歳でワールドカップで結果を出しているのだから、その年齢で実力ある者が結果を残す可能性は否定できない。しかし、どう考えても稀で些か危ぶまれる。
 更には、佐々成政の兄二人、長兄の政次は推定生年は1522年で次兄の孫介の推定生年は1527年とされ、これも下方貞清と同じなのだ。更には岡田重能も同年齢とされ、15歳の少年3人がスーパールーキーとして手柄を立てた形で見ると、他の大人たちは何をやっているのかと疑問にも感じる。
 勿論、織田信光は1542年で26歳なのだから、その信光が引っ張って少年たちも手柄に貢献したとも考えても良いが、まだ成長期の15歳の少年3名という話と、この1542年の小豆坂の戦い事態が懐疑的に考えられる点を踏まえると年数としては怪しく感じるのだ。

 ところが信長の初陣と重なる1547年の岡崎城攻めならば、15歳の少年たちの年齢はほぼ20歳という所に成る。
 よってこの小豆坂の七本槍は丁度この岡崎攻めでの功績で賞された面々で、その勇み足で大垣へ向かった為、そのまま信秀に従ったと考えてもよい。

 こうした流れから…この時古渡城に残った人間を探ると、那古野に家老として残る林秀貞。ただし参謀として信秀と同行している可能性もある。
 平手政秀は交渉役として清州へ赴く為、外れるとして、更には信長の初陣に同行した内藤勝介や青山信昌が信長付の家老として残っている。
 25歳の柴田勝家、30代前後の佐久間盛重らは小豆坂の戦い等で名前が出てこないため、守備側の与力として残っている可能性が高い。
 

 史実の話の中で、この坂井大膳が古渡を急襲したという出来事はあまり大きな意味で記されてはいない。
 しかし、実際に状況を精査するならここで生じている緊張感は後の信長包囲網に匹敵する信秀包囲網だと言ってもいいだろう。
 岡崎を陥落させたものの、その岡崎には今川が報復を狙っている。
 そして大垣は斎藤道三、更に内側からは大和守家から反逆の疑義を掛けられているのだ。
 先の道三が土岐頼純を陥れた様に、迂闊な行動は命取りと成る。今、信秀の古渡城にはそういう緊張感が漂っているのだ。

 坂井大膳が古渡の速やかな開城を再び迫ると、城門越しに佐久間盛重が登場した。

 そして、

 「おお!!坂井殿、しばし待たれよ。今しがた平手殿がその辺の手はずを確認しに清州へ向かわれた故に、当方としても迂闊に従うわけには成らないので。」

 と、戦う意思は無いという体裁を盛り込んでそう答えた。
 とは言え、大膳はいつでも武力行使に移る構えを崩さない。
 さて坂井大膳は何かと言いがかりを付けて古渡を落とす算段であるが、弾正忠家が本気で大和守家に反旗を翻すことは望んではいない。いくら大膳でも弾正忠家との間で大きな戦に発展すれば、それは尾張を弱体化させ危うくすることは理解している。
 逆に、弾正忠家としてもその戦に成ればいわば信秀包囲網という状況下で苦戦を強いられ滅亡する危機すらある状況なのだ。
 ゆえに尾張国としての状況打開としては、大膳の要望に従わざるを得ないと考えてのものだ。

 大膳からすればこの包囲によって弾正忠家から最低でも何らかの譲歩を引き出せると見込んでの行動だろう。

 勿論、速やかに従わないのなら強硬策も有りうるという算段でも有るのだが、その際は後に信秀と和睦する意味で主家としての正当な理由が欲しいのだ。
 その正当な理由の為、明らかに古渡が攻撃を仕掛けてきたから応戦したという形を求めていたのだ。

 古渡に残った城兵に対して清州の部隊は2倍から3倍多い状態で包囲している。恐らく城兵500名程度に対して、坂井大膳は1500から2500位は従えている。

 無論、籠城戦という形にはなるが、緊迫した状況であり坂井大膳の腹立たしくも感じるこの行動に、城内は憤りを隠せないのも事実だ。
 更にそうした中で坂井大膳は城兵を腰抜けと罵る挑発を兵士たちに煽らせ相手が仕掛けてくる様にも仕向けている。

 そういう状況下で盛重らは城を上手く守らねば成らなかったのだ。
 そこで盛重はもう一人の勇将・柴田勝家と示し合わせて共に数名の兵士を従え城門から大膳の前に現れたのだ。

 盛重は古渡を囲む城兵と大膳に向って、

 「主家からのご下知といえ、暫くの時をお待たせしている事は申し訳ない。」

 と先ず口上を述べ、

 「その退屈な時を暫しの余興に於いて御持て成しとさせていただこうと存じ上げまする。」

 と伝えた。
 そして先ずは、盛重と勝家による剣舞とも言うべき組み手を披露した。
 二人は気迫に満ちた声を上げ、一刀一刀激しく打ち合って見る者を圧倒させた。

 鋼と鋼がぶつかり合う大きな音を響かせ、二人の気迫に満ちた声を周囲に響かせた。
 それまで城兵に「腰抜け」と煽っていた兵士たちも静まり返って、二人の剣舞を傍観し始めた。

 そして城内から剣舞のリズムに合わせて太鼓が鳴り響くや、盛重が一緒に連れてきた兵士たちも組み手をはじめ、その兵士たちの掛け声に合わせて門の内側に控えた城兵たちも掛け声を響かせた。

 規律に満ちた城兵の掛け声と気迫に満ちた剣舞を披露することで、大膳側の兵は完全に怖気づいた。
 勿論、大膳自身もその空気に飲み込まれるように静まり返った。
 先の土岐頼純の対応とは違い、盛重のその策は正に妙技であった。恐らく相手が斎藤道三であっても手出しは出来ないどころか、道三なら寧ろ盛重の対応を大いに称えただろう。
 
 一方の政秀は斯波義統と織田信友を前にして、弾正忠家に叛意が無い事を告げた、。
 政秀は寧ろ…

 「当家は尾張斯波家の為に注力を尽くしている次第で、他家に代わり義統公の剣と成り盾と成って転戦しております。」

 そしてここからが政秀の手腕の凄み意であり、政秀は一呼吸おいてからこう述べるのであった。

 「もしそれを叛意として扱われるのなら我々もお家断絶を覚悟の上で抵抗せざるを得なく成ります。勿論、その時、残念ながら尾張は斯波家の物でも、ましてや弾正忠家の物と成る事も無く、美濃と駿河の良いように切り取られてしまう事に成るでしょうが…」

 政秀は弾正忠家が自決覚悟で抵抗しても謀叛に成らず、寧ろ外敵を招くだけの流れでしかない事を伝え、弾正忠家がそれに対抗する盾で有る事を改めて意識させたのだ。
 大和守家の信友に対しては脅しである。
 脅しではあるが政秀の言葉は一考させるだけの力があった。
 坂井大膳にそそのかされて愚かしい決断をした信友でも窮地にあるとはいえ信秀と争う事の大事は理解できた。更にはその信秀と争った後に美濃や駿河が尾張を目指してきたなら、寧ろ防ぎきれる状態では無くなる事くらいは察しがつく。

 逆に斯波義統にとっては信秀の叛意は信友らからの耳打ちでしか聞いておらず、政秀の言葉は逆にその疑いを払拭するに充分であった。
 ある意味、尾張の為には織田弾正忠家信秀の存在は不可欠であることを改めて意識する内容となったのだ。
 こうして古渡を包囲した状況は何事も起らず、政秀の弁明も功を奏して信友は斯波義統の命をもって大膳に兵を引かせたのだ。
 尾張守護斯波義統の命は、岩倉の伊勢守家や犬山の織田信清の下へも告げられた。

 元々、尾張国内の問題として信秀に叛意ありとして伝えられ、守護の命に従って信秀包囲網に加わった岩倉の伊勢守家は何事も無く速やかに兵を引いた。
 犬山の織田信清も信秀の弟であり父の信康から受け継いで日も浅く、寧ろ主家の命に従って行動したに過ぎず、叔父である信秀を恨む根拠も無かったのも事実である。

 因みに岩倉城の伊勢守家当主の織田信安はその父とされる織田敏信から後を継いで当主と成っている。
 その敏信の死は1517年で有ったとされ、信安が幼少であったとしても当主に成ったのはその年であると考えられる。
 史書の中には信秀の弟、信康がその後見人と成ったとされているが、信秀の生年は1511年でその弟となると1517年時点では子供に過ぎない。
 寧ろ弾正忠家が信安の後見人としての地位を得ていたのなら、信秀の父であり信長の祖父である織田信定がその地位にあったと考えるのが妥当で、信秀とは違ってまだ従順な大和守家の家臣に過ぎなかった信定を伊勢守家の監視役として派遣したと考える流れでも不思議ではない。

 また、信定が弾正忠家を称したのも1516年に署名した記録が残っている事からも時期的な意味でも成立すると考える。
 そして信秀に家督を継がせたあと、信定は犬山城に入って隠居し信秀の弟に当たる信康にその城主の地位を譲ったとすれば、些か辻褄は有ってくる。
 その流れから1547年時点で織田信安は30歳を越えた成人で、寧ろ犬山城主の織田信清は信長と歳が近かったと考えられ、伊勢守家と犬山城の関係は寧ろ完全に主従という形に成っていたと言えよう。

 さて…吉乃の話に戻ろう。
 ここからはフィクション性が強く成ると言っておこう。
 ただし信長が吉乃っと出会うには、犬山城との関係が上手く機能せねば成らない。
 幼少期に出会う可能性も考慮できるが、寧ろ二人が恋愛感情を抱くほどと成るならば、初陣を終えてからの出会いが一番妥当であろう。
 尾張国内での騒動が無事に決着が着くと、信秀は大垣で道三との戦いに専念する事と成った。
 今川への備えである三河の情勢に関しては、寧ろ吉良義安の勢力に頼らざるを得なかったと言っても良い。

 信秀が美濃との争いに専念するに於いては、岩倉の伊勢守家であり犬山城の協力は必要不可欠と成る。
 初陣を終えてからの信長は暫く戦場に出る事は無かったようである。
 しかし、元服を終えた信長が何の活動もせずにいたのは寧ろ不自然とも言えるだろう。
 そこで信秀は嫡男である信長を名代として岩倉と犬山に遣わしたと考えるのだ。
 岩倉の織田信安は幼少の信長と猿楽(能)を楽しんんだという記録も存在しているらしい。
 そうした流れを踏まえるのならこの時期の信長の訪問は最適であると言えよう。

 信長は政秀ら家老と共に、先ずは岩倉城を訪れた。
 そこで家同士の外交上の辞令を済ませて、犬山城へと赴いた。
 その犬山城の城下を通った際に、一人の商人娘に目を引かれたのだ。 それが生駒家の娘、吉乃である。

 勿論、ただ単に美しい娘に目を奪われた訳では無い。
 寧ろ美しいだけの女性なら熱田で何人も目にしている。

 生駒家が馬貸し、いわば配達業務を行っていた商人として考えるなら、その商家は人の出入りが激しい活気のある場所だったと言えよう。
 その活気に満ちた場所に、世話焼きの良い活気に溢れた少女に目を奪われたのだ。
 そこに出入りする人々から慕われるように声を掛けられ、少女は愛想良く対応する。そして商家の主人の娘として上手く場を切り盛りする姿に信長は目を惹かれたのだ。

 信長は才女を愛する。女性に限らず才有るものを愛するのだ。
 寧ろ人の才を見抜こうとするゆえに、そこに才を見出した時、大事に考える。
 信長がそこを通りすがったのはほんの一瞬であるが、寧ろ吉乃の才を見逃さなかったのだ。

 吉乃にこうした世話焼きとしての才が有る事は「前野家文書」に書かれる中で見て取れるもので、それが逸話であるとしてもここに吉乃の存在が記されているだけで、彼女がそうした者たちから如何に慕われていた存在であるか想像はつく話だ。
 いわば信長が自身の妻に求める才能に家臣から愛される才を求めていたのは不思議では無いのだ。

 ある意味、誰もが望む王妃としての素質そのものが吉乃にはあったといえよう。
 勿論、濃姫にその才が足りなかったとは言わない。
 彼女には彼女らしき素質があったのだが、吉乃の場合、商家の娘で有るがゆえに親しみやすさと気遣いが別なものとして備わっていたと言える。
 言い方を変えれば、信長が最愛とした女性が商家の出身であった事は一番腑に落ちる話という事だ。
 

 とは言え、信秀の代理として犬山に訪れた信長は吉乃の事を気に止めながらもその場は素通りした。
 そして公用が終わった後に、信長は悪童たちを引き連れて再び犬山へ足を運ぶことと成る。 勿論、その目的は吉乃に会うためだ。


どうも…ショーエイです。
動画制作もやっと一作目が出来て、
これからショートを含めて更に更新していく中で、
中々、うつけの兵法の更新が出来なくて、
申し訳ありません。

ワガネコ タマタイム・ショー - YouTube

↑にリンク貼っておきます。
中々動画が見て貰える環境に無くて登録者数もまだ全然ですが、
笑えるコンテンツで
世界中の人に

世界の平和を考えてもらうことを目指しているので、
是非、このブログ見て下さる方々のご協力をお願いしたいです。

Youtubeの検索機能を考えると、
少しでも登録者数や視聴回数が増えてくれれば、
それだけ多くの人が見る切っ掛けになりますので、
是非お願いします。

さて… うつけの兵法の話に戻って。

ここでは吉乃という女性を実に
誰もから愛される王妃の様にしています。
勿論、後世の作品上で

魔王信長の理想の妻として描かれる濃姫も
王妃としての才は十分とも言えます。

では、信長たま自身が女性だったとして、
吉乃の様な女性に成れるかというと否です。
寧ろ魔王信長の理想の妻としての濃姫なら成れます。
ただし、夫が劉備玄徳の様な人物であるなら、
諸葛孔明を女性にしたような存在になれるが、
夫がダメ、または独身を通す女性ならば、
信長たまそのものが女性化しただけに成ります。

自由気ままでハチャメチャな性格という意味では、
ストーリーの主人公としては魅力的ですが、
誰もこんな女を妻にしようとは考えないような女性に成ります。

吉乃とはいわばその真逆であり、
願わくば誰もが妻にしたい理想の女性と言うことに成ります。
ただ人間そんな完璧な人は居ません。
吉乃は寧ろ信長たまの女性像に憧れ、
願わくば諸葛孔明が劉備玄徳に尽くすような存在を求めますが、
実はそういう部分では寧ろお節介になる感じです。

ただ、そういう吉乃の憧れ部分も理解できるゆえに、
信長たまは寧ろ彼女の愛嬌として受け入れられる訳です。



ところで最近の信長たまの評価では、
このブログで良く説明するように、
信長=諸葛孔明でも成立する雰囲気に成ってきました。
逆にこの関係性を、
漢の高祖 劉邦と=にすると、
不思議に感じるかも知れません。
いわば劉邦は無能に近い扱いで、
寧ろ韓信、張良、蕭何の三人に支えられたイメージです。
もし孔明先生や信長たまの様に才能あふれた人物なら、
そんな評価には成らないのでは…
寧ろ項羽の方がそれっぽいと思うと思います。

これを面白い形で解析すると…
実はどれだけ劉邦に才能が有ったとしても、
その才能に信用が無かった為、
寧ろその才能を周りが使わせなかったという感じで考えられます。

信用が無いというのは実績が無いという点です。
そして実績を作る上でも使わせてもらえないから、
実績が作れない訳です。

いわば農村の荒くれ者でしか無く、
軍も指揮した実績も無い人に、
軍の指揮を任せられるか?
という部分です。


勿論、劉邦が集めた軍であっても、
軍を指揮した経験のある人物が居る場合、
周りは寧ろそちらを頼ります。
指揮官として命を預けるなら、
そういう人物の方が安心と考えるのが当然だからです。
劉邦は寧ろ賢明な人物ゆえに、
そういう流れならそうした方が良いと判断します。

これはオッサン先生がMMORPGのゲームで
エルダーズ・スクロール・オンラインを
やっていて感じたことらしいのです。

ギルド運営して多くの人が集まったわけですが、
それまでは様々な難関ダンジョン(12人制の試練)を、
試行錯誤を駆使して独自のやり方を編み出しながら、
攻略していったわけです。
ある意味、この時点では信長たまの
美濃攻略までの様な雰囲気でした。

それから多くの人が更に加入して大所帯に成ると、
徐々に試行錯誤して攻略していく遊び方から、
誰かの攻略法を模倣する流れに成って行ったわけです。
オッサン先生の実績なら攻略法を
独自で見極める事は可能な訳ですが、
寧ろ先に攻略した人のやり方を知っている人たちは、
それを模倣してやるほうが早いという流れに成るわけです。
そうなると独自の方法を指示しても、
むしろ不満を抱く人が出てくる有様です。

まあ、そのギルドを解散した理由は、
そういう遊び方ならゲーム自体に面白みを感じない事と、
そういう事に毎日21時から0時まで時間を割くなら、
Youtubeの動画の方に時間を掛けた方が
良いと判断したからですが…

もし、その遊び方に天下や生活が掛っていたなら、
寧ろギルドに集まった人たちのやりたい方向で、
そのまま進めるのも問題なかった訳です。

劉邦は寧ろ、そういう状態にあったのではと推測します。
そして張良の様に軍師としての実力を認められた人物であり、
蕭何の様に政務の実績がある人に任せ、
自分はそれらの提案を適正に裁可するだけに努める。
韓信に対しては寧ろ才能を見抜き、
大所帯の長となって自分が出来なくなった実績作りを、
寧ろ後押しして活躍させた。

ただし…ここからが劉邦が優秀であった所で、

項羽との戦いに於いては、
諸将が提案したやり方では勝てない事を知っていた。
かと言って、自ら作戦を提示しても素直に従ってくれないので、
あえて負けると知りながらもそのまま戦い続けたのです。

ここで誰もが勘違いしているのは、
劉邦がその都度速やかに撤退できなければ、
劉邦自体が討ち取られてるか、
項羽に何度も挑まるだけの軍を維持できなかったであろうこと。

直感では無く、
ここが崩れたら勝てないという事を熟知してたから、
損失少なく軍を引かせられたという事です。

ある意味、自分が撤退するという命令だけは
誰もが従わざるを得なかった部分で、
そこだけを上手く活用して戦ったという感じです。

そして…これは推測ですが…

項羽を最後に追い詰めた指揮は
劉邦が自ら採った可能性があるという事です。
ある意味、それまでの敗戦は
自分のやり方に従わせる為の布石で、
最終的に誰がやっても同じなら、
俺の言うとおりにしてみろと見せつけた結果とも言えるのです。

勿論、孔明先生も信長たまも、
自分の功績をあえてアピールしない訳で、
天下を取った劉邦親分も、
項羽を追い詰めた最後の指揮を自分の手柄とすることなく、
韓信、張良、蕭何の存在を称えて、
彼らによって天下統一という偉業を
成し遂げたこととしたわけです。

才能を証明するというのは実に難しい事で、
後世ではその才能が評価された後ゆえに、

誰もがその才に惹き込まれるが、
現世では寧ろ結果が出ない内は、
その才能は中々信用されないものなのです。
寧ろ、才能よりも実績の方が見えやすく、
それ故に人々は何処か学歴や資格といったものを
充てにしてしまうのです。



そういう意味では、古今東西いずれも、
才能よりも努力が報われる世の中と言っても良いかも知れません。

【第三十三話 干し柿の美味】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 1547年9月、信秀は岡崎城を陥落させた。

 史書には様々な説が存在し、三河物語などでは竹千代こと後の徳川家康は今川へ人質に出される際に、田原城で戸田康光の裏切りによって尾張の信秀に送られたともされている。

 近年ではこの時期に信秀が岡崎城を陥落させたという資料も見つかり、その際に松平広忠が信秀に人質として差し出したという見解が些か有力視されているようだ。

 しかし、疑問に感じるのは何故、三河物語(1626年著)の著者である大久保忠教は戸田康光の裏切りとして記したのか。

 忠教の父、大久保忠員は兄の忠俊と共に、この時代の松平広忠を支えた人物である。ゆえに詳しい詳細を知っていても可笑しくはない。

 そこで何が食い違ったのかを先ず分析して見よう。

 恐らく今川と松平との関係上、竹千代こと後の家康が人質として差し出される話は既に存在していたと考える。

 その盟約が成立する中で、信秀の三河侵攻が発生しそれに同調して寝返ったのが戸田康光であった。

 戸田康光の居城は今川の遠江に近く、信秀侵攻の際に今川からの援軍の足止めに成ったと考えられる。

 実際に同時期に戦闘があったようである。

 それ故に忠俊、忠員らはこの戸田康光の裏切りによって岡崎城陥落を招いたと伝えても可笑しくは無いのである。

 では、船の行先が突然変わったという表現は何が原因か。

 それは当時まだ6歳でしか無かった竹千代の曖昧な記憶、いわば家康が後にこの事を思い出した際に、今川の駿府へ行くはずだったのが突如織田の尾張に辿りついた記憶をそう表現したとも考えられる。いわば人質として差し出されると聞いていた場所が違ったという事だけを覚えていた。

 

 これらを踏まえて実態に近づけて話を進めるのなら…

 

 今川と松平の間で竹千代を人質として駿府に送る盟約が成立していた。しかし岡崎が陥落してしまった事で信秀が竹千代を人質として持ち帰ったと考える。

 

 当初竹千代は駿府へ行くと伝えられていた。

 勿論、6歳の身でも岡崎陥落の出来事は理解できる。

 しかし、家康自身にその記憶や実家が落城したという記憶があるのなら、その衝撃は鮮明に覚えており、一次資料として扱われる史書の中に何らかの形で残っていても可笑しくはない。

 ところが史書の記述が混在状態ゆえに、後の家康の記憶の中には鮮明では無く曖昧な記憶として残ったレベルだった可能性が高いのだ。

 そこから読み解くに、竹千代は既に駿府へ向かって出立していた。

 いわば広忠が今川からの援軍を得る約定として、落城前に竹千代を送り出したと考える。

 ここで戸田康光が織田方に寝返ったとする史書の表現は間違えであることを言っておこう。

 と、言うより何故田原城という今川領に近い戸田康光がリスクを覚悟で織田に寝返るのか…かなり不可思議な現象となるからだ。

 田原城は静岡県浜松市から愛知県に入る豊橋市を得て、渥美半島の中腹に位置する場所に成る。

 いわばかなり今川領の方に近い勢力と成るのだ。

 その勢力が今川と織田の戦いで考えた中で、織田方に与する利は殆どないと言える。

 なので実はこの表現は間違いなのだ。

 ところが実は本編25話を参考に見れば流れは説明が付くのだ。

 うつけの兵法 第二十五話「大は小を飲み込む」後編 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)

 

 岡崎を巡る三河の支配状況は吉良氏の存在がこの時点では左右する。

 いわば東条と西条吉良の存在である。

 元々松平清康であり松平広忠は東条吉良側の豪族で、広忠の広は元服時に吉良持広から一字を拝領したものである。

 その東条吉良は西条吉良との関係から今川と手を結んで三河の守護としての地位を維持しようとしていた。

 そうした中で松平氏の間でも西条方と東条方で分裂し争っていたのだ。

 ところが今川の調略で政略結婚を得て、西条吉良が完全に今川の傀儡と成ってしまった。この時の当主が吉良義堯である。

 逆に東条吉良は西条の吉良義堯の次男義安を養子に迎えてこの義安が東条吉良を受け継いだのだった。

 当初の今川の目論見では東西の吉良が統一されると見込んでの調略であったが、東条を引き継いだ吉良義安は今川の傀儡として扱われる吉良氏の存在が許せず、尾張いわば斯波氏であり織田信秀と結んで吉良氏の威光復帰を目論むのであった。

 この時点で三河の命運は尾張と駿府に委ねられる形に成っているのだが、且つて西条方として尾張と結んで戦っていた勢力も反今川、いわば今川の傀儡となる三河を嫌って東条の吉良義安に与するように成るのだ。いわば吉良氏を巡って、三河の独立か駿府の属国かを掛けた戦いに成ると言ってもよい。

 この吉良義安の動きが信秀を岡崎に引き入れ、かつ戸田康光を動かしたのだ。

 いわば戸田康光は織田方に寝返ったのではなく、吉良義安に与した形を取ったのだ。

 言い換えれば現実的な話、戸田康光が信秀に忠義を示す意味で寝返るには利害として成立せず、寧ろそれが東条吉良の当主吉良義安なら三河を守るという意味で忠義が成立するのだ。

 

 そして竹千代ら一行は駿府へ陸路で向かう途中、吉良義安かまたは戸田康光、恐らく史書の通り戸田康光の兵に見つかってそのまま尾張へ移送されたとする感じになる。

 いわば援軍を求める為の一行が早々と吉良義安の勢力に見つかって捕まったという形で考える。

 そしてその数日後に岡崎城は陥落した。

 それを知った今川勢は三河へ侵攻して、戸田康光ら率いる吉良義安、いわば東条吉良の勢力と遠江三河の国境で争った。

 そうした状況もあって岡崎勢が今川、ある意味西条吉良を傀儡にした今川に寝返らないよう、竹千代を安全地帯となる信秀の元へ送ったという流れに成る。

 現状の史実として見られる資料を精査するなら、これが一番辻褄が合う状態である。

 こうした吉良義安を三河の守護とした勢力として、酒井将監らもこれに与した形で考える。

 

 それ故に人質として尾張に連れてこられた竹千代の扱いは、丁重なものだったと考える。

 いわば名目上は信秀が岡崎を支配する為の人質では無く、東条吉良方に岡崎を組み込む為の人質として預かっているからだ。

 また更に言い換えれば、尾張斯波の代理で信秀が竹千代を預かる形にも成るのが実態である。

 ゆえに竹千代を粗末に扱う事は出来ないのだ。

 更にこの年、いわば9月に岡崎を陥落させた2か月後には美濃の斎藤道三が信秀に対して攻勢を仕掛けてくるのだ。

 ゆえに三河の吉良義安の勢力には今川を食い止める盾という意味で耐えてもらわねば成らないという利害も生じてくるのだ。

 

 さて…初陣を終えた信長と人質として尾張に来た竹千代の出会いは実際に有ったのかという点である。

 史実の有力な資料にはそうした記述は一切ないという。

 なので2人は出会っていないとする事の方が、歴史を検証する上では正当なのだ。

 ところが信長と家康の関係はある意味不可思議であると言える。

 信長の義理の弟に成る浅井長政は裏切った。

 家康は三河から遠江にも領地を獲得し、ある意味浅井長政より裏切る条件としては有利であった。

 また、三方ヶ原の戦いなどの敗戦を考えるなら、武田に寝返っても可笑しくはないと言えた。

 それでも家康は信長と共に戦ったのだ。

 信長包囲網という第三者から見て明らかに信長絶対絶命の危機に見える状態に於いて、信長と共に有るのは寧ろ自滅覚悟の決断とも言える状況だった。

 それでも尚、家康は裏切る事は無かったのだ。

 

 こう考えるなら一次資料では無く、その後世に美談として加えられたような物語が寧ろ真実味を帯びてくる感じに成るのだ。

 

 筆者はここで一つの賭けをした。

 当時、資料を細かく調べる前に、竹千代が人質として滞在した場所が熱田の加藤家なら出会っている、そうで無ければ出会っていないとすることにした。

 なぜ熱田の加藤家だったのか・・・

 先ず、その加藤家からは信長の悪友に加藤弥三郎が居る。

 そしてもう一つは…筆者の何らかの勘か、何かの記憶かである。

 

 結果、竹千代が居たのは熱田の加藤順盛の所だったそうだ。

 ここで熱田の加藤の事も調べが付き、前述として加藤家当主は「左衛門」とする形にしていたが、どうやらそれは「図書助」と名乗っていたらしいので、そこは改めておくものとする。

 ただ筆者はそれだけ漠然とした形でしか熱田の加藤家を記していなかった中でのこの流れであることは強調したい。

 

 ゆえに信長と竹千代は実は会っていたとする事と成った。

 

 熱田の加藤家なら、弥三郎から話は伝わり、信長がふらりと立ち寄ることも有りうる場所と成る。

 また初陣の関係上、信秀の最終的な目標が岡崎であった訳で、信長にとってその「岡崎から来た人質」という興味の対象となるのだ。

 

 初陣を終えてから間もなくの事、信長は弥三郎から実家に岡崎の人質が来たことを聞いた。

 そして、悪童らを引き連れてどんな奴か見てみることにした。

 竹千代は熱田の加藤家の羽城に幽閉されていたと記されているが、恐らく幽閉では無く最低でも軟禁状態で殆ど不自由のない状態であったと言える。

 その根拠には竹千代の心を織田方というより吉良義安方として洗脳する意味で扱う必要性もあったからだ。

 また信秀は生き別れとなった竹千代の実母、於大の方を面会させるなどして竹千代の心を調略しようともしていた。

 この於大の方は水野忠政の娘で、1544年いわば竹千代が3歳にも満たない時にその忠政が死に、於大の兄信元が継いで、ここでは織田方に成るが方針転換をしたことで今川方の松平広忠と絶縁する。

 その際にこの於大の方は実家の水野家へ戻され、丁度竹千代が那古野に連れて来られる1547年に水野家の政略結婚の相手として久松俊勝の元へ嫁がされた。

 

 竹千代自身の記憶に母、於大の事は何も残っていなかったのは実態であろう。

 また、多くの歴史家は竹千代が那古野に来た時点で、まだ数え年で6歳という事は実質5歳の子供で、小学生にも満たないいわば現代で言うなれば「5歳の幼稚園児」でしかない事を忘れがちである。

 

 色々とドラマや小説などでは凛々しい感じで描かれる事が多いが、現実的に考えるなら知らない土地に連れて来られて脅える毎日であったと考える方が無難である。

 そこに実母と名乗る於大を面会させるなどして、竹千代に安心感を与えるのだ。

 実際に洗脳という形の調略として用いるなら、於大の方は偽物でも良い。しかし、流れからして偽物を使う必要も無さそうなので、竹千代に面会した於大は実母であったと考えてもいいであろう。

 

 勿論、この時竹千代は於大の顔など覚えても居ない。

 いわば母を名乗る知らない女性が突然面会で現れたというのが最初の印象であろう。

 ところが母親が我が子を慈しむ想いは、不安に駆られて過ごす竹千代を直ぐに包み込むのであった。

 生き別れになった我が子との再会に嘘の涙を流すことは無い。

 子供心・・・寧ろ純粋な子供ゆえにその真偽は敏感に感じ取れるのかも知れない。

 偽物の演技では無く、実母故の愛情表現で寧ろ何も知らない5歳児には直感的に違いを感じるとも言える。

 そこには心臓の鼓動であり、包み込んでくる優しさなど不自然でない何かを感じ取り、竹千代はその人物が本当の実母於大で有る事を認識した。

 

 もし、この於大に偽者を使っていたのなら、成人した家康はこの人物を疑うだけの根拠を見つけたであろうし、もしそうなら信長との信頼関係も無かったとも言える。

 結果、そうでは無く後の家康はこの於大を実母として丁重に扱っている。

 またこの時竹千代の側目として同行していたのは酒井正親(後に酒井忠世という人物がこの系譜から出る)と、23歳の酒井忠次であっと考えられる。

 ※記録上では駿府へ同行した2名として記されているが、恐らく那古野にも同行していたと考えられる。

 この両名の酒井家はあの酒井将監(忠尚)の親戚筋にあたり、一説には将監は忠次の叔父にあたる。

 その為、織田方と連携していた酒井将監意向でこの両名が竹千代の側目として選ばれた可能性も否定できない。

 寧ろこれが酒井家が徳川の時代に残り続けた切っ掛けとも考えられ、将監一代の話では一族は断絶していたとも言えるのだ。

 と、は言えこの両名は広忠の妻の時代の於大を知る世代で、面識はあった可能性もある。

 なのである意味誤魔化しは効かないと言えるが、両名が将監の指示を受けて任についていたのならそこは定かではないとも言える。

 ただし流れとして偽者を必要とする情勢下ではなかった事は明らかなわけで、余計な勘繰りを捨てて話を進めるものとする。

 

 こうして母との面会を経てようやく尾張での生活に安心感を抱き始めた頃、竹千代の下に信長がやってきた。

 

 弥三郎の実家で、熱田の加藤家とは馴染みもある信長は自分の庭の様に羽城を歩き回って竹千代の所にやってきた。

 勿論、その姿は戦ごっこの帰りであり、小汚い農民の服装のままであった。

 竹千代は宿所の庭で側目の両酒井と遊んでいた。

 鬼ごっこでもしていた感じか…

 

 そこへ突然農民の様な出で立ちの信長が現れたのだ。

 側目の二人は狼藉者として身を構えた。

 

 信長は何も気にしない風で、

 

 「おお!!そなたが岡崎の」

 

 と、言って庭に面した軒床に胡坐をかいて座った。

 すると弥三郎、岩室、長谷川といった悪童の面々が信長に追いついてくるように現れ、

 

 「信長さま岡崎の子は見つかりましたか?」

 

 と、聞き

 

 「居ったぞ、ここに」

 

 と、信長は返事した。

 酒井両名は「信長」という名前に気づき、すぐさまそれが尾張の若殿であること察した。

 ドラマや小説の様に、その出で立ちなど気にすることは無い。

 若殿と気付くやすぐさま無礼を詫びなければ、自身どころか竹千代の立場まで危うくしてしまう。

 ましてや加藤家の羽城に得体の知れないものがズカズカと入り込めることなどないのだ。

 2人は片膝を信長の前でついて、頭を垂らしてすぐさま、

 

 「これは失礼つかまつった。」

 

 と、詫びた。

 

 「若!!すぐこちらへ!!」

 

 そして2人はすぐさま竹千代を呼びよせ脇に寄せ付けた。

 竹千代は二人の間に入り込んで立ったまま信長の方を見ているだけだった。

 両酒井は焦って、すぐさま竹千代に

 

 「若!!私らと同じような姿勢で!!」

 

 と、耳打ちするように伝えた。

 それに対して信長も察して、

 

 「気にするな。そのままで良い。」

 

 と、優しく声を掛けた。

 2人は再度平服するような形で、

 

 「はっ!!」

 

 と述べるだけであった。

 すると信長は自分の懐から袋を取り出して、そこから干し柿を取り出して食べ始めた。

 相変わらず行儀の悪い悪ガキである。

 そして一口食うや、竹千代に、

 

 「そなたも食うか?」

 

 と、聞いた。

 目の前の信長が美味しそうに食べてるのを見て、竹千代はすぐさま頷いた。

 信長は袋からもう一つ取り出して、竹千代を手招きで呼び寄せた。

 既に於大に出会ってから尾張に安心感を覚え始めたのか、何の警戒心も無く竹千代は信長の手招きに近づいて行った。

 信長はまるで猫でもあやすかのような感覚で竹千代を見ていたのだろうか…

 干し柿につられて近づいて来た竹千代を両手で抱きかかえて、

 

 「ほら捕まえたぞ!!」

 

 と、言って鬼ごっこをしていた続きの様にしてあやしたのだ。

 こうした茶目っ気のある演出は信長の上手さと言っていい。

 と、いうより信長も神童で実は人懐っこいところが有る故に、こういう接し方を自然と出来るのだ。

 竹千代にはその雰囲気が心地よく感じたのか、ツボに嵌ったように大笑いした。

 それを見た信長もすっかり竹千代の可愛らしさを気に入った。

 どの年齢でも人懐っこい生き物には愛着を覚える。

 信長が竹千代に感じたのは正にそんな感覚であろう。

 そして竹千代に干し柿を手渡してやり、次に自分の膝の上に乗るように誘った。

 5歳児の子供でもそこは躾のためか、少し遠慮して酒井たちの方を見て確認した。

 信長はその遠慮を察してか、こんどは竹千代の脇腹をくすぐって、

強引に膝の上に寝かせるように押し倒したのだ。

 キャッキャキャッキャと笑う反応を示す子供は可愛い。

 まるで猫が喉を鳴らして懐くようなかんじだ。

 

 信長は人心掌握術に長けていたのは事実だが、多くの人はこれを策士の様に計算で為されたものだと考えてしまう。

 しかし、人心掌握術の基本は、相手が喜ぶことが何かを知る事にあり、それは今でいうエンターテインメントの基本とも言えるのだ。

 人を楽しませる事を楽しみとして考える場合、逆に陰湿な策士の計算ではなく寧ろ気持ちを伝えねば楽しさを共有できないのだ。

 いわば一緒に楽しむ事を目指すゆえに一方的では無くなり、相手も自然と心地よさを感じるのだ。それ故に相手はその存在を大事に考えてくれる。

 この関係性を生み出す意味で、信長は生来エンターテインナーとして人心掌握術を身に着けていたと言えよう。

 

 そして信長は竹千代を膝の上に座らせて、

 

 「どうだ?美味しいか?」

 

 と、干し柿を食べる竹千代に聞くと、

 竹千代は笑顔で、

 

 「うん!!」

 

 と頷いた。

 こんな反応を示されたら誰でもこの竹千代を可愛いと思ってしまう。

 それは例え魔王の心を持っていたとしても、癒されてしまう様な光景である。

 信長の側に居た岩室にしても、長谷川、弥三郎も同じ様に感じただろう。

 

 筆者はこれを記す前に、13歳の若者と5歳の子供が一緒に遊ぶという接点に疑問を持っていた。

 それ故に、信長と竹千代は一度だけしか会っていない関係だったと考えていた。

 様々な流れを精査しながら、ごく自然な流れでストーリーを展開して行くうちにこうしたエピソードが生じることと成った。

 ある意味これが自然な形であり、恐らく二人の間にこうした出会いがあったのは間違いないと言えよう。

 

 信長にとって竹千代との将来をこの時点では全く考えていない。

 後に岡崎と同盟を結ぶという戦略的な視野も全くないのだ。

 ただ、自分に懐いてくれた竹千代が凄く可愛く感じた、ただそれだけの関係でしかないのだ。

 ある意味、竹千代にはそういう愛される雰囲気を醸し出す神童としての素質があったと言ってもいいだろう。

 

 一方の成人した竹千代こと家康は、こんな出来事を全く覚えても居ないだろう。ただ記憶として残る大きな刺激は、この時に食べた干し柿の味。

 その味は別段格別なものでは無いにしても、信長という得体の知れない存在に何となく心を許し、初めて食べた甘味として残るなら、格別に美味しかったものとだけ印象に残ると考える。

 

 その後、信長らは可愛い三河の坊主に会いに度々熱田の羽城に足を運んだのは間違いない。

 鬼ごっこや隠れん坊をして遊んであげる流れは十分に考えられる。

 ある意味、信長の優しさで竹千代と遊んだのではなく、寧ろ幼少期の家康こと竹千代の愛らしさに信長たちは癒されに行ったと表現する方が適切と言えよう。

 家康が天下人と成る上では信長の存在は絶大である。

 その関係性が上手く生じるには、この出会いは天命であり、神童としての竹千代が信長を魅了したと言えよう。

 

 そして、もう一つは後に家康の重臣となる両酒井、特に酒井忠次の目にこの光景が焼き付いていたことだ。

 寧ろこちらでは人質として尾張に滞在する竹千代の心を、この時の信長は気遣ってくれたように映るのだ。

 勿論、筆者は正直に記している。信長は可愛い竹千代に癒されに遊びに行っていただけ。別段、竹千代を気遣っての行動ではない。

 信長はまるで猫でも愛でるかのように竹千代を可愛がっていた。

 それでも酒井忠次らからはその二人の関係性がとても有難く映るのは事実であろう。また、傍から見ればまるで兄弟の様な関係で見れたとも言える。

 

 こうして後の信長と家康の関係性は、この時分の出来事が大きく影響したという従来の見識は間違いでは無いといえる。

 家康の記憶の中に、あの甘くて美味しかった干し柿の味が染みついているのに対して、忠次が幼少期の二人の関係性を耳打ちする中で、家康の心の中に信長へ対する信頼が構築されたことは自然な流れとして成立するのである。

 見方によれば、家康は幼少期に信長に対する信頼を洗脳されたとも見えるが…全ては天命の為しえたもので、人間の思惑が及ぼすものでは無いとは言っておこう。

 

 次回は…信長の恋話、「吉乃と帰蝶」です。

 

どうも・・・ショーエイです。

Youtube向けの動画制作。

まだまだ勉強する部分が多くて大変なのですが、

とうとう「どうする家康」も始まってしまい、

しかも昨年の9月から

「うつけの兵法」の更新がない事も気づき、

急遽書くことにしたわけです。

 

まあ、普通の小説として想像力を張り巡らせて、

良い感じのストーリーにしようと思えば、

そこまで労力は掛からないのですが、

この「うつけの兵法」は出来るだけ史実というより、

事実に近づけて話を構成したいので、

調べものを解析するのに労力をものすごく使います。

 

前の記事にも記した様に、

小説や物語として歴史を見るのは

それはそれで素敵な事です。

「どうする家康」での信長と家康の関係性も、

あれはあれで十分にありです。

物語として見るなら、

寧ろあちらの方がファンタジックな雰囲気もあって、

ストーリー性としては面白いと言えます。

 

ただ、その上で実際はどうなの?

と、いう意味で今回の「干し柿の美味」というタイトルで、

書き記したわけです。

 

ここでは歴史家も見落としている事実。

三河の覇権は、表面上は今川と織田の戦いでは無く、

依然として東条吉良と西条吉良の覇権争いであった事。

その裏で今川と織田の調略合戦があったという点で考えなければ、

戦略的な心理的な流れで

本当にグジャグジャに成ってしまうという事。

 

ある意味、ここでも記した様に

今川領に近い戸田康光の田原城が

何故織田方に着くのか?

殆ど地政学的に考えると自殺行為であり、

織田に寝返る利点すらない訳です。

 

歴史家たちはそんな不可思議な点を考慮せずに、

史書の記述のみで決めつけてる有様なのかな?

 

まあ、こうした意味不明で曖昧な情報が多い中で、

色々な観点から辻褄が合うように整理していく作業は、

本当に時間が掛かるのです。

ある意味、一次資料だけの話でなく、

伝承ベースの二次、三次資料であっても

何故その様な伝承が発生するのかまで考慮して、

一次資料に書き落としがあった点を踏まえて精査するので、

動画を作る作業より頭が爆発しそうになります。

 

今回の竹千代と信長の出会いは有ったのか?

という点では、一次資料には全く存在しません。

かと言って出会っていないと決めつけるのも違う。

伝承ベースでは様々な美談の様に描かれている訳ですが、

出会う可能性など信長の性格であり、

当時の竹千代の環境から探って考えなければならないという事。

 

本編でも記したよう、13歳の少年と5歳児が一緒に遊ぶか?

と、いう疑問も先行して生じた訳ですが…

とりあえず流れで…

多分会っては居るけど一緒には遊ばないだろう…

と、いう想定で書き始めたら…

なんと…いや…これ一緒に遊んじゃう流れだね…

と、思わぬ展開が見えてきたのです。

 

頭で色々と悩んで書かないより、

適当に書いて柔軟に考える方が良いのかな

と、気付かされた感じです。

 

さて・・・次回の恋話…

とにかく信長が吉乃が好きで好きで

仕方なかったのは間違いないです。

ここでも史実はグジャグジャなので…

色々と悩ましいです。

さて…まだ書き始めても居ないのですが…

色々な疑問点を前もって記しておきます。

 

何故、斎藤道三と織田弾正忠家の間で

政略結婚が成立したのか?

 

誰も疑問にすら感じない部分ですが…

織田弾正忠家は尾張の支配図で言うなれば、

斯波氏>織田大和守家>織田弾正忠家という序列です。

 

美濃の守護を追い出した形で、

その座を得た形の斎藤道三は、

いわば斯波氏と同格と言えます。

 

ここで大垣城の存在がキーポイントに成るのでが…

大垣城を調べると…

1544年に織田信秀に落とされて、

1549年に斎藤道三に攻め落として奪い返された。

 

うつけの兵法では1544年に

加納口の戦いが有った形で記したのもこの流れを汲んでからです。

しかし、1548年に織田と斎藤で

政略結婚が取りまとめられていることに成り、

1549年には帰蝶こと濃姫が輿入れしてます。

なので…1549年に斎藤道三が攻め落したというのは、

ちょっと辻褄が合わなくなる。

ただし、政略結婚の条件が、大垣城の返還であったとするならば、

政略結婚が成立する条件としては実は申し分が無いのです。

 

また、時系列での話をすると…

1547年に加納口の戦いがあったとするなら、

織田信秀は岡崎にも行って、美濃にも行っていたことに成ります。

無理では無いにしても、こんな戦い方では身を滅ぼします。

しかし、事実はこれに近い事は想定できます。

 

1547年9月に岡崎城陥落で、1547年11月に加納口の戦いが有った。しかし、この加納口の戦いとされるのは1544年に結んだ休戦からの延長と考えます。

すると岡崎攻めに労力を費やした信秀の隙をついて道三が仕掛けた形は戦略的に有りうる話の流れに成るのです。

 

史実ではこの2つの状況が混在して存在するため、グジャグジャに成って見えますが、精査するとここは上手く整理できる流れの様です。

しかし…1549年に大垣城が攻め落されたという記述を信用するなら、織田と斎藤で結んだ政略結婚の話とどう辻褄を合わせるのか?

それとも単に攻め落とされたという表現は

何らかの過剰な形で残る記録で、

実は斎藤方から竹越尚光という人物が

城主として普通に入って取り戻しただけなのか?

 

実は帰蝶こと濃姫が輿入れする話を作るまでに

色々グジャグジャ情勢を整理して考えなければ成らないのです。

結構…辛い作業でもありますが…

最終的には…辻褄が合うようにすればそれで見えてくるのです。

 

ただし…次話の問題は…

信忠君の生年が何時かで異なる。

記録上では1557年が有力とされているが…

一応、吉乃という人物であろうと考えられるも、

生母不明という形も有力視されています。

 

信忠君は、

信長たまの嫡男ですよ!! 

 

何故そんな子の母親が生母不明な扱いなの?

吉乃姉さんではダメなのですか?

 

という意味で、ちょっと何気に怪しくない?

 

ただし、その生年を前倒しで考えてみたが…

元服が1572年となると…1557年で丁度15歳。

元服の記録は前後しても前倒しは無さそうなので、

生年も前倒しは難しいと考えます。

 

ここから逆算すると、

吉乃と信長たまのラブラブな時期は、

濃姫が輿入れした後で…

濃姫に失礼な言い方で、

現代風に言うなれば…不倫な関係?に成てしまう。

 

また、資料によると、

信正君と言う子がその前に生まれているようですが…

これらの関係性を盛り込みつつ、

信長たまの女性関係を探っていかねば成らない訳で…

色々と大変な作業でもあります。

果たして…どのような展開に…

まあ、史実に記録がない部分なので…

史実から外れない所で纏めるのが妥当なのかな?

 

因みに色々な史書に残る内容を参照して

濃姫と吉乃姉さんに当時の印象を聞いてみると…

 

濃姫

「何か…結構放置されてた気がする。別に仲が悪かった訳ではないけど…あまり表舞台に出る感じもなかったし…」

 

吉乃

「信長さまとの記憶は色々とあって、充実していた感じ。でも、濃姫様の手前もあってあまり表舞台に出る事はありませんでした。」

 

歴史上の記録や伝承を元に精査するとこんな感じで、

実は秀吉や蜂須賀小六、そして前野長康らといった立身出世組からは吉乃の方が慕われた存在として残る。

ただし、武功夜話であり前野家文書という記録は盛った話が多く信ぴょう性は疑われるものである。

しかし、それでもその存在が残されることはそれだけの人物であったと考えても良さそうである。

 

こうした流れから次話の構成を考えていきます。

果てさて・・・どんな話になるのやら・・・ 

【第三十二話 初陣】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 信長の初陣は1547年の吉良大浜の戦いとされている。

 信秀は1544年に越前朝倉と連携して道三の美濃へ侵攻したが、双方が痛み分けという形で和睦した。

 一方の今川は北条と和睦を計り東からの脅威を収めようと試みるも、既に北条氏綱から三代目の氏康に代替わりした北条がその和睦に難色を示したため不調に終わった。

 今川からすれば尾張が美濃と停戦した事で、寧ろ尾張の矛先が三河に向くことを警戒して考えたのだ。

 

 一方で甲斐の武田は、北条と敵対していた信虎が1541年に追放され、それ以後武田晴信(信玄)が当主となっていた。

 信虎は関東との関係に固執して寧ろ甲斐から領土を広げられずにいた訳だが、晴信は寧ろ関東への関与の前に信濃方面へその地盤を広げ、武田家をより強固なものとすることを目指したと考える。

 

 晴信の巧みな所は、信虎の時代に成立していた甲駿同盟をそのまま維持した事にある。

 更には1541年に北条は氏綱が死去し、氏康に代替わりした時期でもあった。

 この期に関東の山内上杉家と扇谷上杉家は連携して北条へと侵攻したのであった。

 武田は信虎の時代ではその山内、扇谷両家と同盟して北条と対立していたが、晴信は寧ろその双方に天秤を掛けるように働きかけて、逆に動かない姿勢を示して氏康に先ず貸を作ったと考えられる。

 歴史の評価では暴君気味で考えられる武田信虎であったが、寧ろ信虎の行動は源氏と足利幕府に対して義を通した存在と認識してもよさそうである。

 しかし、その義を通す姿勢が裏目に出て、信濃佐久郡の攻略の際、敵方が山内上杉家を頼って援軍を求めたことで、信虎は同盟国との対峙を避けてその攻略から速やかに手を引いているのだ。

 その際に晴信も同行していたわけだが、甲斐の地から一向に領土が広がらない状況を察してか、信虎の判断に疑念を抱いたとも考えられる。

 屈強な将を抱えながらも、甲斐一国では軍の規模は限定され、武田家の繁栄を妨げると晴信は考えたのかも知れない。

 こうした晴信の疑念に、板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らが賛同して信虎追放という処置に至ったとと考えられる。

 仮に信虎という人物が暴君の様な存在であったら、追放と言う形では無く寧ろ内乱が生じていたとも考えられ、その際に駿河の今川との関係も崩れていた可能性もある。

 比較的追放というよりも隠居させた感じが強く、信虎もあえて抗う形もなく速やかに身を引いた形に成っている。

 また、信虎の隠居先は今川で、その今川と晴信の間で信虎の隠居量を求めるなどの外交が散見している点からも、事はかなり穏便な形で終始している。

 恐らく信虎は晴信の行く末と甲斐の繁栄を陰ながら見守る決意に転じたと考えられ、

 今川には、

 

 「晴信が暗愚なものであるのなら、今川が甲斐を得ればよい、もし晴信が名君ならばこれと結ぶことは寧ろ今川の利と成る。」

 

 と、いう風に伝えていたのだろう、と考えてしまう。

 どの道、武田信虎という人物の行動を分析すると、義に厚くかなり良い人格者であったと評価する方が適切である。

 甲陽軍艦で彼の治世が悪政であったとする記述は、寧ろ晴信の不義を後世に正当化させるためのものとして考える方がよさそうである。

 

 こうして家督を継いだ晴信は、寧ろ父・信虎の義によって今川との関係は繋がれたと言っても過言ではない。

 また北条氏綱が死んで、氏康に代替わりしたタイミングで晴信は過去の因縁を清算する機運を与えたのだ。

 寧ろこうした算段の中で、1541年は晴信にとって絶好の機会であったとも言える。

 関東の混乱に乗じて、晴信はすぐさま信濃へ侵攻する機会と定めたのだ。

 更には矛先を東から西に向けたことで関東で奮戦する氏康に対して晴信は暗に相互の利害の一致を示したとも言える。 

 

 一部資料には瀬沢の戦いで、諏訪と小笠原の連合軍が甲斐に攻め込んできたとされている。

 これも寧ろ晴信の侵攻を正当化するための方便で、実際に史家の間でもそういう評価で考えられている。

 信虎の時代には信濃の勢力と同盟を結んでおり、その同盟連合で信濃佐久の攻略に出向いている。

 寧ろ晴信は諏訪頼重に対して、先の信濃佐久攻略の件で援軍を差し向けた山内上杉家と諏訪氏が勝手に和睦し、一部所領を分割して受けた事が、同盟の違反に当たるとして、これを理由に関係を断ったとされている。

 義に厚かった信虎の時代から、不義に働く晴信の時代へと甲斐が変わった事もあって、一方的な関係断絶を表明した晴信の挑発に諏訪頼重が乗ってしまった事は十分に考えられる。

 瀬沢の戦いはそうした形で事実として発生した事は否定できない。

 晴信はそれを見越して準備を整え、それを理由として信濃攻略に乗り出したのだ。

 

 晴信の家臣団は苦しい領内運営のまま、義に奉仕させられていた信虎の時代よりも、所領を増やして繁栄へと導こうとする晴信の考えに傾くのは当然の成行だったとも言える。

 いくら経営者が人格者であっても、給与が低いままで働かされるのは苦しいだけで、寧ろ野心的に業務を広げ、その給与が功績によって上がっていくほうが有難いと思う心理は誰でも同じなのである。

 信虎は義に厚い人格者であったかも知れないが、晴信は寧ろ家臣思いの人格者であったという対比で考えてもいいかもしれない。

 

 対外的な信用は信虎の方が高かったといえるが、家中の信用は晴信の方が高く、それ故に屈強な武田軍団を組織できたとも言えよう。

 

 こうして今まで甲斐一国で頓挫していた武田家を信濃まで拡大させた晴信の地盤は2年足らずで安定した。

 

 一方の北条氏康は西に駿河の脅威を抱えながら、関東の地盤を固めるために奔走していた。

 更には天文の飢饉なども起り、かなり厳しい中でのものともなった。

 寧ろ今までならそこに加えて甲斐武田の脅威が加わる中、晴信は逆に目を西に向けて脅威となる態度に出なかった事もあって、唯一利害を共有できる存在として氏康は意識し始めたのだ。

 こうした心理作戦は恐らく晴信が想定していた流れとも考えられる。

 晴信からすれば、信虎は寧ろ関東に目を向け過ぎたゆえに甲斐から広げられなかった。逆に信濃に目を向ければ領土拡大は比較的容易であると考えたのだろう。

 その上で誰と結んで誰と敵対するのが理に適うのかを見極め、寧ろ勢いのある今川と北条と争うのは下策と分析していた。

 そういう流れで今川との関係をいじしたまま、北条とは利害の一致を説いて1544年には甲相同盟を成立させたのであった。

 

 一方で氏康は今川との関係がこじれたまま、関東の問題にも対処せざるを得なかった。

 今川は氏綱の時代に起こった第一次河東の乱で失った富士川以東の河東地域の奪還を求めていた。

 晴信の仲介で、今川と氏康の和睦が提案されるも、今川がその河東地域の返還を求めるゆえに不調に終わった。

 先の話でも記した様に、川を挟んで境界とする方が、実は双方にとっても守りやすい。今川はそれを最終的な備えとして北条に対応し、西の三河の動静に些か力を注げたが、北条としても富士川を挟んだ守備で今川を食い止めて東の関東に力を注ぐ算段で考えていたのは同じである。

 逆に同盟が成立すればその双方の脅威は払拭されるのだが、とは言え早雲の時代から三代目の氏康としては義元の父、氏親の時代の様な信頼関係は想像できないといった状態である。

 こうして和睦が不調に終わるや、今川が今度は河東地域奪還に向けて兵を差し向けてきたのだ。

 

 北条が関東の攻略にやきもきしている事は、今川の参謀太原雪斎も承知の事であった。

 また、今川としても美濃と尾張が停戦した状態では、次に三河の動向が気に成る状態でもあった。

 ゆえに北条とは出来るだけ早く和睦しておく必要性は熟知していたが、北条にその必要性と河東地域の返還を意識させるためにあえて関東の支配権で北条と敵対する山内上杉と同盟を結んだのである。

 

 30歳に成ったばかりの氏康はまだ血の気が多かったのか、今川の脅威と関東のいざこざを同時に処理する難しさを理解していなかった。

 そうした中で1545年に第二次河東の乱と呼ばれる、今川方の河東地方奪還作戦が発生した。

 そしてそれに呼応するように山内上杉家と扇谷上杉家が大軍で武蔵の河越城を包囲した。

 無論、北条の主力は河越の防衛に注がざるを得なかった。

 その為、河東地域は今川軍の攻勢に押され伊豆の手前の三島まで侵攻される状態に成った。

 本来なら富士川でこの侵攻を食い止めれるはずだったが、戦力をどうしても河越を含む武蔵防衛に注がざるを得なかった氏康は、半ば河東地域が奪われる覚悟で対応したと考えられる。

 資料の中には今川と武田の連合軍と成っているが、武田がこの時点で北条と対峙する状態は考えられないため、今川軍の単独行動であったと考える。

 

 こうしてあっという間に窮地に立たされた状態で、武田晴信は北条に今川との和平仲介を再び申し出た。

 戦略上、こういう流れが一番適切であり、この和平には今川義元も太原雪斎もあらかじめ算段していたと言える。

 無論、条件は先の和平仲介と同じもので、河東地域の今川への返還であった。

 氏康もまんまと嵌められたと察するも、既に失った形ゆえにこれを諦める形と成った。寧ろ氏康は今川とは最悪和平が成立すると考えていた為、主力を武蔵方面に向けたと言える。

 と、は言えこの和平で、氏康にもようやく晴信や義元が北条を潰す意図がないことが伝わったのだろう。寧ろ北条には関東に専念してもらいたいという利害を察せられる形と成った。

 後の甲相駿の正式な三国同盟成立はこの7年後の1552年と成るが、この時点の三国間和睦はその前哨として成立したものと考えられる。

 こうして三国間の利害の一致が成立した後、氏康は河越を包囲した両上杉家を通説では8万対1万の圧倒的な不利を覆して、見事にこれらを打ち破り、関東の地盤を徐々に固めていくのであった。

 

 信長が元服した1546年は今川の情勢が東から西へ向き始める頃合いでもあった。

 

 1543年三河では、織田方の勢力として安祥城周辺を支配していた松平信定の子、清定が死去してまう。

 これに伴って松平広忠は今川の支援を受けて安祥城奪還に動いた。

 この時期の三河情勢は資料が様々な見解に分かれており、実はかなり混沌とした状態である。

 松平清定の子で、その後を受け継いだ松平家次は1545年に広畔畷の戦いで父・清定、酒井将監、榊原長政らと一緒に戦って敗れたとされているが、清定の死が1543年ともされている中では、寧ろ清定の死を切っ掛けに発生した戦いと考える方が妥当である。

 1544年から1545年に掛けては、信秀は美濃の斎藤利政(道三)との戦で動けない状態であり、松平広忠として見れば三河を纏める絶好の機会であった。

 更には1542年に信秀と今川が小豆坂の戦いで衝突したとあるが、これらは実質、松平広忠と松平清定の三河領有を巡っての戦であったと考え、織田、今川双方が援軍を差し向けた中での話として考える。

 そうした中、結果決着がつかずに終わったとするのが妥当で、寧ろその後清定が死んで、1545年の広畔畷の戦いで一応の決着がついたとする方が流れとして辻褄が有ってくる。

 恐らくこの戦いで安祥城は広忠方に奪われたであろう。

 ゆえに安祥城を失った家次らは北三河の現在の豊田市から瀬戸市あたりを拠点に暫く広忠に抵抗していたと考える。

 因みに榊原長政は後の徳川四天王にも准える榊原康政の父である。

 

 一方で、愛知県刈谷市及び知多半島北部を支配していた水野忠政が清定と同じくして1543年に死去している。

 水野忠政の娘で於大の方と言われる女性は、家康の実母であり、いわば広忠の正妻に当たる人物であった。

 また、忠政の後を継ぐ、信元の正妻は松平信定の娘で、外交上この水野氏は半独立した豪族として双方に中立した存在として所領を維持したと考える。

 いわば勢力としては信秀と三河の松平に挟まれた場所と成る為、迂闊に戦に巻き込まれれば最初に狙われる事になる。

 その上で中立であること守って、むしろ双方の戦に巻き込まれないように堅持していたと考える。

 ところが忠政が死んで、信元の代に代わると中立の立場から信秀に与するようになった。

 

 信元の目的は知多半島の征服であったと考えられ、信秀は三河の安祥城の松平清定らに加え、水野氏の勢力を組み入れる事で今川との緩衝を設けようと考えていた。

 そのため信元に知多半島制圧を許す形で引き込んだと言える。

 知多半島は中部国際空港セントレアのある半島で、尾張にも三河にも与しない豪族が点在していた場所と考えるのが良さそうである。

 水野信元はこれら豪族を制圧して尾張と三河の間に一大勢力を興そうと画策したとしてもおかしくは無い。

 故に信秀との間で利害が一致したのだろう

 しかし、その連合の一角であった安祥城の松平家次らは、広忠に敗北してしまった。

 そうした中で信元は1546年に酒井将監を味方に引き入れたとする。しかし、1545年の広畔畷の戦いで敗北し、安祥城を失っても尚、現在の豊田市にある三河上野城で抵抗を続けていたと考える場合、継続して連携していたと考える方が妥当で、寧ろ1547年に信秀が岡崎城に攻め込む流れで、それに呼応するように酒井将監らに働きかけたという意味で解釈する方が正しいと考える。

 

 更には今川が北条と和睦した事も信秀の耳に入っていた。

 ゆえに信秀にとって今は再び三河方面の事が最優先事項となったのだ。

 

 信長が初陣を迎える1547年はそうした流れからの出来事であった。

 この初陣は1547年9月に織田信秀が岡崎城を陥落させる流れに合わせて組み込まれたものと考える。

 

 刈谷城の南方、知多半島の半田から衣浦港を挟んだ対岸に、碧南という場所がある。ここが信長の初陣の吉良大浜だとされている。

 この大浜という場所は、現在でこそ東の西尾市と陸続きに成っているが、当時は油ケ淵と矢作川が合流して湾を形成していた。

 そのため大浜は知多半島の東に並行して突出した半島の南端に位置する事と成る。

 この地を治めていたのは長田氏で、恐らく長田重元であったと考える。そしてその重元は広忠の時代に信秀の侵攻に備えるためこの大浜の砦の守将を命じられたとされるが、元々平安時代より長田氏の所領であったため広忠方に与した三河の豪族として存在していたとする方が正しと思われる。

 刈谷城の南方に位置する勢力で、寧ろ水野信元の背後を脅かす存在にあった。

 場所も知多半島から湾を挟んで場所ゆえに、海側から侵攻が無い限りある意味刈谷方面へ動きやすい場所でもあった。

 水野信元もこの長田氏の勢力が敵方にある上では、迂闊に動きが取れなかった。

 信長の初陣の記録では、大浜に2000の兵が居たとされている。

 更には油ケ淵から安祥に向けて現在長田川というのが流れている。それから察するに、その長田川の東から現在の安城市南辺りまで長田氏の所領であった可能性も考えられる。

 一方の水野氏は知多半島北部の東浦から刈谷に掛けての領地を持つ豪族で、信元が織田方に寄り添った後は長田氏とは隣接する形で争っていたと思われる。

 そうした状況の下で、信元は信秀に相談を持ち掛けたのだ。

 

 信秀も長田の勢力を攻略しようと思えば出来なくもなかった。

 しかし、そこで兵力を割くのは岡崎攻略を目指すうえでは得策では無かったのだ。

 長田氏の勢力は大浜で2000人で、それ以外の兵力も合わせると5000人規模の豪族と考えても良い。

 仮にその砦を正攻法で攻略すると成れば、兵力はその倍から4倍は必要に成る。いわば10000人以上必要なのだ。

 そうした中で攻略出来たとしても全ての兵力が残るわけではない。

 寧ろ怪我なども含めれば砦を落とすまでに半数は使えなくなる。

 

 松平広忠を中心に岡崎の三河勢力が地盤を固める前に、岡崎を攻略しておきたい。それが適わねば三河は今川に飲み込まれてしまう事に成る。

 それ故に信秀としても無駄に兵力を割くより、岡崎攻略に集中させたかった。

 信元を交えてそうした会話が流れる中で、大浜の長田の勢力を足止めさせるいい妙案がないものか模索しているところに、林秀貞が懸案を出した。

 

 「では、大浜の兵力が迂闊に動けないよう、対岸の亀崎(半田市北東部沿岸)から奇襲を掛けてそれを警戒するようにさせては如何でしょうか?」

 

 すると、信秀は

 

 「対岸からの兵を警戒させて、動けないようにさせるという事か?」

 

 と聞くや、秀貞は

 

 「その通りです。寧ろ、大浜の隙を我々が狙っていると悟らせるのです。」

 

 すると信秀は成程な…と少し考えた。

 そこで秀貞は、

 

 「先ず、水野殿の刈谷城の部隊を安祥方面へ侵攻させます。更に我々の主力部隊も安祥へ進めるのです。これに対して大浜の部隊がどこへ動くか…これも見極めます。」

 

 そこで信秀は、

 

 「もし、大浜の部隊が動かずにその場にとどまった場合は?」

 

 すると秀貞は、

 

 「我々が岡崎へ向かって進軍する中で、大浜の部隊が動けないようにするのが目的です。その為、一応の奇襲は行った上で、大浜の港に火をかけて速やかに撤退するだけでも効果は有ります。」

 

 秀貞は続けた

 

 「大浜の港が焼失すれば、長田の動きは止まるでしょう。大浜の主体は水兵で、船の消失大きな痛手と成りますゆえ。」

 

 当時の大浜は海運の要衝で、江戸時代には江戸廻船の基地であったとされる。

 記録上に長田氏の詳しい事は残されてい居ないが、地勢的な事を考慮するなら大浜は長田氏の水軍基地であったとする方が良さそうである。

 そこで、信秀は、

 

 「その奇襲部隊は誰がやるのだ?」

 

 それに対して秀貞は、

 

 「望みとあらば、那古野の部隊を私が指揮してやりましょう。」

 

 と、言うや…

 信秀は少し考えてから、

 

 「いや…そなたには主力の方に居てもらう必要がある…と、するならば信長の初陣に丁度いいかもしれんな…」

 

 その言葉に流石の秀貞も驚き、

 

 「殿、簡単な役目とは言え、この奇襲はかなり危険なものと成ります…若の初陣として扱うには些か賛同しかねます。」

 

 と、諫めるも信秀は

 

 「むしろこの程度で死んでしまうならそれまでよ。ある意味、将としての見極めが出来るなら、速やかに引き返せば危険はない。」

 

  更に目の前に置いてあった地図を差しながら、

 

 「大浜からの退却には、すぐ北の高浜を伝って刈谷に抜ければいい。幸いその北側の勢力は水野殿の支配地域だ・・・この程度の作戦も理解できないうつけならば嫡男として失格とも言える。」

 

 そうまで聞くと秀貞は何も言いかえさなかった。

 そうは言うものの信秀は、

 

 「まあ、信長には歴戦の雄の勝介(名古屋城の家老の一人内藤勝介)を付けておくゆえに、心配はあるまい」

 

 と、大浜攻めを信長の初陣としたのであった。

 

 こうして初陣が決まるや信長は大いに喜んだ。

 

 (やっと本当の戦が出来る!!)

 

 この時、供回りとして岩室らも初陣としてあてがわれた。

 そして河尻秀隆と佐久間信盛が信長の護衛として付き添った。

 総指揮として初陣の守役を任された内藤勝介は、その大役に大いに意気込んだ。

 寧ろ、この勝介の意気込みが、信秀の安心を逆に覆すことに成る。

 勝介は確かに歴戦の雄で、小豆坂の戦いで功績を挙げたとされている。実際に小豆坂の戦い事態は不明瞭だが、以前の安祥城攻略など三河での戦で大功を上げた人物として考えればよいであろう。

 それ故に信長の初陣を前にして大いにその腕っぷしを披露しようと意気込んだのだ。

 

 1547年8月頃と推定(吉良大浜の戦いの日時は不明)

 信秀は部隊を編成して古渡から水野信元と合流するため、刈谷城へ出発した。

 そして、刈谷城で水野信元と合流するや、三河上野の酒井将監らと呼応して先ずは安祥城奪還を目指した。

 安祥城にはかつての松平信定、清定らに使えていた者も多く、それらと呼応する形で包囲を展開し速やかに攻略したものと考える。

 大浜にはもう一つの勢力があったとされ、恐らく大浜の半島北部で高浜との境目辺りに領地を持つ河合氏が居たとされ、その河合氏は信秀と結託しており、長田重元の動向を監視していた。

 安祥城攻略までの過程では重元に動きは無く、いわば刈谷と安祥の距離感からも長田が奇襲を用いるには近すぎた為と考えれた。

 そこから信秀らは岡崎に入る手前の矢作川に差し掛かると、いよいよ長田が動くなら絶好の距離と察して、那古野に早馬を走らせた。

 

 信長の初陣は予め準備されていたこともあり、政秀は紅の横筋を織入れた頭巾に、陣羽織、鎧を着せられた軍馬を用意してそれに備えて信長を着飾った。

 そして那古野城の兵800名を従えて、知多半島を南下し、

 現在の半田市亀崎という場所に布陣し、船で対岸の大浜を狙う作戦に出た。

 既に河合氏からの報告では、大浜の砦ではあわただしく水煙が立ち上り、更には船舶の準備も行われているという事だった。

 ゆえに長田氏が戦支度を整えている事は予想された。

 

 そして半日も経つと大浜から船が出航し始めた。

 船団、関船20隻、小早船50隻という規模だと思われる。

 当時の船には安宅船という巨大なもので、水夫50名と兵50名の100名が乗り込めたという規模で、その下に関船(せきふね)が30名、小早船が10名という定員。

 よって関船20隻で兵数600、小早船50隻で兵数500の総勢1100人の部隊が大浜から出航したことに成る。

 そしてその船団は大浜の半島を南に迂回してから、東に進路を進め、吉良(西尾市)に上陸、または矢作川を上って岡崎へ向かう形で確認された。

 

 対岸の亀崎から大浜は5~6キロ程度の距離ゆえに、そこからもそれは確認できた。

 それから日暮れの時を待って、信長らは大浜の港の北方1キロの場所(碧南市天王町)に向かって出航した。

 恐らく関船は用いずに小早船約80隻で渡ったと考える。

 この天王町とする場所に河合氏の部隊300程度が先行して待機しており、信長の部隊が合流するのを待った。

 この際に河合氏側から軍馬をいくらか運ばせる手はずも整えている。

 

 大浜の砦には900の兵が残っており、対岸から敵が向かって来ることは警戒していたと思われ、その為すべての行軍は夜に行った。

 仮に敵がそれに気づく可能性を察して、予め河合氏の部隊を先行して待機させ、いざという時の伏兵にしておいた形である。

 

 実はこの初陣に於いては信長は指揮権という指揮権は無かったと言える。

 部隊の指揮はほぼ内藤勝介に委ねられ、信長はただ、参戦して経験を積むだけのものでしかなかったのだ。

 河合氏との連絡も勝介が取りあっており、こうした手はずもその勝介によるものであった。

 勝介はその夜の内に簡素な陣容を作って、そこで一晩過ごし、明け方を狙って大浜の港を焼き払う作戦に出た。

 実は寧ろ手早く敵の港を焼き払って夜の内に撤退する方が結果としては賢明であった。

 しかし、長田の本隊は夕刻頃出航し岡崎へ向かったと察した勝介は、砦に残った兵を挑発しておびき寄せ、あわよくば砦を落として信長の初陣の手柄にしようと考えた。

 その為、ここは休息を取って明日に備える事としたのだった。

 勝介の家老としての親心とでもいう所だったのだろう。

 

 そして日が昇る頃には準備を整え、信長を引き連れ300程の部隊で南下し、一気に大浜の港と城下町を焼き払った。

 その後速やかに元の天王町に引き返して、城兵が打って出るのを待った。

 案の定、大軍でないと悟った城兵は、僅か100名ほどを残して追撃してきた。

 焼き討ちに出た信長らが天王町に差し掛かると、城兵の追撃隊も数百メートル付近まで迫ってきた。そこへ居残りの300と河合氏の援軍300で、一気に弓矢での斉射が行われた。

 これで追撃してきた城兵は大きな痛手を被る事と成った。

 そしてこれに信長らの部隊と入れ替わるようにして居残り部隊が追撃してきた城兵に突撃を仕掛け、一気に殲滅を掛けた。

 ところがその後、北から予期していなかった長田の伏兵が現れたのだ。

 伏兵というよりもほぼ岡崎へ向かったはずの兵が北から引き返してきたのだ。

 大浜の半島北の方角は河合氏の拠点があり、退却路として想定していたもので、寧ろ備えは薄かった。

 岡崎へ向かう体で、東に進んだはずの部隊が何故、想定した退却ルートの北側から現れたのか…

 

 奇襲を察して伏せていたのか・・・

 さすがの勝介も混乱した。

 

 勿論、長田重元も奇襲を察していたわけではない。

 寧ろ重元は刈谷へ奇襲を掛ける上で、河合氏がその動向を探るだろうことを想定して、一旦は東に進路を向けただけなのだ。

 その後、油ケ淵に入り込んで進路を西へ切り返し、先ずはその河合氏の居城(恐らく大浜の北、現在の高浜川南方と新川に囲まれた場所)を急襲しようと考えていた矢先の出来ごとだったと考える。

 下手に河合氏に察せられると、むしろ河合氏が刈谷方面から援軍を呼び寄せて刈谷への攻略が頓挫すると考えての策略だったのだろう。寧ろその河合氏に岡崎への援軍に出たと装って、油断した隙にこれを攻略すればという動きであったと考える方が良い。

 長田重元も奇襲を狙って、夜の内に進路を変更し明け方を狙って攻撃を仕掛ける予定であった。

 ところが大浜の港から煙が立ち上るのが見えた為、そのまま南下して引き返したところだったという具合である。

 いわば双方の奇襲がこの天王町で遭遇してしまったという奇妙な形と成ったわけだ。

 

 実際に碧南市の記録では、信長の初陣である吉良大浜の戦いは信長の大敗だったという記録もある。

 その中で、信長は城下を放火したが、長田方の伏兵に遭遇して大敗して逃げ延びたとあり、死者も多数出て現在の碧南市天王町には織田方の使者の為に13の塚が立ったとされている。

 半島の形状から北に退路を確保した状態でこの作戦が実行された場合、それほど大きな損失を受ける前に撤退していたであろう。

 ましてや城内に長田の兵が2000人そのまま残っていた場合、800の兵でこれを迎え撃つことは恐らく考えないであろう。

 仮に伏兵を配置するとしても、織田方の奇襲を予期できた事は難しく、この場所は比較的平地で部隊が影を潜めて動くには難しいのも事実である。

 兵数の観点から見ても、信長の方が半数以下で少なく、寧ろ奇襲による焼き討ちが狙いであった事は明白で、敵地に潜入する場合でも信長の方が夜間に移動した事が想定される。

 そうした中で長田方が伏兵を忍ばせるにしても織田方とその夜間に遭遇する可能性もある。

 

 実際に大浜のもう一つの勢力である河合氏がどの辺を拠点としていたかは定かではない。しかし、半島の形状と、刈谷方面に水野氏が居たとするならば、自然とその後ろ盾を持って長田氏と大浜で対立できたとすれば、大浜の北側にあったと推測する方が無難と言える。

 

 信長の進行ルートに関しては、刈谷から陸路で高浜を通ってそのまま大浜に南下したルートは想定できる。

 しかし、経験も無く初陣である信長が敵よりも少数で無理やり戦う様な作戦は現実的に行わないだろうと考えるのと、仮に多数の死者が出るほどの乱戦と成った場合、そこから無事に逃げれる状況にあったとは考えにくい。

 ただし馬術に優れた信長ならという事も考えられなくも無いが、敵に弓矢が有った場合、中々ドラマの様に上手くは行かないとも言える話だ。

 実は陸路を通って敵の拠点を焼き討ちし速やかに引き返す状態であったら、信長の損失は殆どなく事を終えることに成功したと言える。

 火矢を用いて軍馬を走らせれば300騎も有れば要は足りると言え、追手が追いつく前に撤退することも十分である。

 寧ろ、信長公記などの資料に基づき、無事に役目を終えたとするならば信長の初陣はこうした成行で成立するだろう。

 

 しかし、そうではなく天王町という場で多数の死者が出たという事に成ると、作戦遂行の足は遅く、撤退も速やかに行かなかった事が想定される。

 

 この時代、数百の軍を動かせば何らかの動向は必ず何者か…いわば斥候または間者や忍の目に留まる事は考えねば成らない。

 仮に長田重元が多くの間者を抱えるほどでないとしても、刈谷方面であり、知多半島方面に情報網を持つことは十分に考えられる。

 筆者はその状況を踏まえて、刈谷方面に信長が動き、そこから高浜方面へ向かう動きは寧ろ奇襲としては失敗する可能性を考えた。

 それ故に知多半島の半田方面へ南下して、寧ろ知多半島の攻略に動いたように見せかける方が策としては面白く感じたのだ。

 

 結果として天王町に長田重元の本隊が慌てて引き返してきた時点で、重元が不用意に動く危険性を感じる点では成功している。

 いわばこれが足止めという策略の効果でも有るのだ。

 

 長田重元に対する心理的な効果は上手く機能したとは言え、信長は南北からの挟み撃ちに遭遇し、寧ろ陸路による退路は絶望的な状況と成った。

 されど幸いなことに天王町の海岸には渡ったて来た船がまだ残っていた。

 勝介は敵の存在に気付くやすぐさま秀隆と信盛に、信長と室井ら初陣の子らを船に向かわせ逃がすように命じたのだ。

 幸いな事に敵、長田方の船舶は油ケ淵に停泊した状態に成っており、信長らの船を追跡する部隊は無く無事に亀崎へと渡れたのだった。

 無論、挟撃を受けた状態で、兵力差も倍近くある長田の部隊に対して勝介は奮戦した。勿論信長を無事に逃がす為に殿として立ちふさがったのだ。

 勿論、この状況を察した河合氏もすぐさまその長田の伏兵に対して挟撃するように援軍を差し向けた事は言うまでもない。

 そして河合氏の援軍が届くや、双方が挟撃状態となり長田方にも混乱が生じて乱戦状態に成ったと考えられる。そうした中で殿として立ちふさがった内藤勝介ら殿(しんがり)部隊は多数の戦死者を出しながらも、全滅には至らず、その内藤勝介も何とか無事に生還できたのである。

 

 確かに局地戦としては信長の初陣は負け戦である。

 しかし、大局としては長田重元の河合氏への奇襲は未然に防げたわけで、刈谷方面への脅威もこれによって暫くは封じられたと言える。

 長田重元も信長の奇襲は退けたものの、恐らくはこの乱戦で大打撃を受けて暫くは大人しく静観せざるを得なかった。

 

 無事に那古野に生還した信長は、その後で生還した勝介からその後の経緯を聞いて、その経験を新しい指南役となった森可行に話した。

 そこには沢彦の姿もあった。

 可行は沢彦からも詳細を聞いて、信長の初陣に対して、

 

 「まさにそれこそ孫子で言う、兵は詭道なりですな。」

 

 と、信長に伝えた。

 信長は、

 

 「兵は詭道なり?と、は?」

 

 と、可行に聞くや、

 

 「兵は詭道なりとは、戦は騙し合いの世界でこちらが相手を騙しているようで、相手もこちらを騙そうとするものだという事です。ゆえにこちらが相手を騙せたと思い込んでいるだけでは、逆に相手の企みに嵌って痛手を食らうということです。それ故に戦では常に臨機応変に備えて挑む事が肝心という意味です。」

 

 信長からすれば初陣で痛い経験をしたことから可行の言葉は解りやすかった。

 そして信長はもしかしたらあそこで死んでいたかも知れないという経験を得て、戦をより慎重に考える事の大切さを学んだのである。

 更に可行は、

 

 「先ずは命あっての無事が何よりです。その上で局地的には負け戦だったやも知れませんが、大局として見るならば勝ち戦だったのですぞ…その功もあって信秀殿は無事岡崎を落とされたようですので。」

 

 と、信長を労った。

 

 実際最近の資料では、1547年に信秀は一度岡崎城を落としている。その際に後の家康である竹千代は織田の人質として連れ去られたという説が現在では有力と成っているのだ。

 

 こうして信秀は自身の版図を最大に広げたのであったが…

 寧ろこれが彼の全盛期であり、斎藤利政と今川義元を同時に敵に回したことで、この信長の初陣から翌年には大きな苦境が待ち受けるのであった。

 

 次回は信長と竹千代がいよいよ対面する話へと続くのである。

 

やっと信長たまの初陣にまでこぎつけた訳ですが…

本当に資料を参考にしながら

この流れを見ると頭が痛くなるのです。

 

実際に周辺の情勢を考慮しながら考えないと、

本当にどの資料が正しいのかすらはっきりとしないのも事実です。

 

信長公記には初陣は勝ち戦で終わったと記されているものの、碧南市の資料では負け戦だったとある。

資料の優先度で、信長公記を優先して考えても良いのですが、伝承でその真逆の結果が残っているのはやっぱり無視できない。

そういう流れで精査して、更にはその辺の情勢をも調べてみると、意外と局地的には負け戦でも、大局的には勝ち戦になる状態が見えてきたわけです。

 

まあ、元々800人対2000人の戦いな訳で、

流石に初陣でこれに勝ったのなら、

信長公記で

もっと勇ましく記されててもいいと思う感じでもあったのですが、

意外と内容はさっぱりした感じだったので…

何か…都合悪い事隠したのかなと怪しむ感も否めなかった訳です。

 

そうした中で状況であり地形…

実際に河合氏が大浜のどの辺を領有していたかまでは

定かではありませんが、

半田という知多半島の対岸から船で渡って、陸路を経由して刈谷方面から退却するルートは見えたので、

恐らく想定外の混乱が生じたとするならば、

河合氏の情報に誤りがあった、

また想定していた退却ルートが突如使えなくなったという事情が

思い浮かんだわけです。

 

また、碧南市の資料には信長方の兵が多数死んだと有りますが、

全滅するほどの規模では無かった感じもあり、

織田方に呼応していたもう一つの大浜の勢力である河合氏が、

何の行動も起こさなかったという状態も想定できません。

 

また、この河合氏は長田氏に比べて勢力としては弱かった感があり、水野氏や織田家の後ろ盾で長田氏と対抗していたよ思われます。

そう考えると長田氏がこの河合氏の勢力を狙うタイミングは、寧ろ後ろ盾の双璧が岡崎攻略に動き出す時とも考えられ、今回のこうした流れが想像できたわけです。

 

更には初陣である信長たまがそうした乱戦の中、

無事でいられる保証もなくなるので、

恐らく渡航した際の船でさっさと逃がされたであろう状態も、

当然の事として考えられます。

 

こうした状況を総括してこの初陣を描いてみた訳ですが、

意外とこんな感じだったとして成立すると思います。

その後、信秀が岡崎を攻略したという

最近の資料と照らし合わせると、

戦略的にも辻褄が有ってきて、

寧ろ信長たまの初陣はその奇襲と足止めの意味では

無事目的を果たしたと言えます。

 

まあ、結構大変な作業で…

実はもう一つのPCのブラウザーは検索したページが分けわかんないくらい並んでいて、そうした人物であり出来事に記された内容が

全て繋がるように考えるのは本当に疲れる作業なのです。

一か月に一回しか更新できていない「うつけの兵法」ですが、

どうか末永く読んでいただければと思います。

 

そういえば…日本の元総理の国葬…9月27日って…

実はオッサン先生の誕生日なんですよね。

て…ことは…なんだかそういうプレゼントに成っちゃう感じで…

不思議な感じなんだそうです。

という事で…国を挙げてそういう事に成るのなら、

今回は何も言わないそうです。

 

因みに…悲しいかな…竹内裕子さんの命日でもあるんですよね。

あ・・・それとアヴリル・ラヴィーンも同じ誕生日なんだって…

 

【第三十一話 織田三郎信長】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 吉法師の元服は1546年だったとされている。

 信長公記には13歳で元服したと記されており、現代風に生まれ年を0歳とした場合、1534年6月23日生まれから逆算すると、1547年6月23日に成る。

 しかし、当時は数え年である為、生まれた年は1歳で、その次の年の元旦を迎えると2歳に成るという仕組みらしい。

 ※筆者もこの事を忘れていた為、ここより年数を若干修正する。

 

 1544年加納口の戦いを得て、信秀は道三をあと一歩のところまで追い詰めるも、結果として奇襲受けて大敗を喫した。

 史実の概要と照らし合わせても、溺死者3千人という数字などから、前話に記した戦いでほぼ合致すると言える。

 その後、美濃と尾張、そして越前は暫くの休戦状態を迎える。

 大敗を喫したとはいえ、この戦いで信秀は大垣を得ており信秀の勢力としては全盛期を迎えていたと言える。

 

 吉法師が元服を迎えた1546年はささやかな平穏を迎えていた時期だったと言えよう。

 

 さてここまでの吉法師の成長を簡単に纏め上げておこう。

 

 吉法師は沢彦の薦めもあって、庄内川で戦ごっこに明け暮れていた。

 学業という分野はそっちのけで、自分の好きな事にのみ興味を注ぐ生活を続けていた。

 その一方で気前がいいのか、お人好しなのか、城下の子供たちとの約束で那古野に治水を齎す約束をして、治水工事を行い、結果として石高を飛躍的に上げる実績を得た。

 無論、そこには政秀、沢彦、熱田の加藤氏の補佐あっての物であり、信秀の入れ知恵も忘れては成らない。

 されどこの切っ掛けを導いたのは吉法師そのものである。

 

 実はこの時点で吉法師が「うつけ」であるとは、弾正忠家家臣の誰もがまだ思っていない。

 むしろそうした功績から大いに期待を受けていたと言える。

 

 これらの話は勿論史実として記されている事ではないのだが、今後に起こりうる尾張国内のいざこざ、いわば清州の大和守家と弾正忠家の争いであり、後に家督相続でバラバラに成っても信長に与する者が居た事も踏まえての布石となるエピソードなのだ。

 寧ろこうしたエピソードが無い限り中々曖昧に記された史実の辻褄を合わせることが難しいのである。

 

 この時分、林秀貞はまだ吉法師を見限ていない。

 無論、勉学はそっちのけで遊び惚けている事は承知しているものの、それはまだ元服前の子供の話ゆえに大目にみれる段階なのだ。

 寧ろ、元服に当たって以後の教育係として秀貞本人が引き受ける事を信秀に申し出たくらいであろう。

 

 秀貞としても、那古野治水の話の流れなどから吉法師の器に期待していた。確かに吉法師一人で為した事ではないことも承知の上だが、幼少期の経験としては十分といえる実績とも考えたのだろう。

 また、秀貞は越前の朝倉との酒席で、朝倉の長夜叉が兵法を諳んじる話を意識し、吉法師にもそうした知性を期待したのだ。

 

 こうして一次資料として存在する信長公記にある信長元服の流れが奇妙にも成立するのである。

 

 1546年の元服にあたって、信秀の居城古渡城で儀が執り行われ、筆頭家老として林美作守秀貞、平手中務政秀、青山与三右衛門信昌らがその後見人として名を連ねた。

 そして…元服を迎えた吉法師は、

 織田三郎信長と改め、いよいよ織田信長が歴史上に登場するのである。

 

 ここからは吉法師を改め信長として話を進める。

 

 信長としても元服は待ち焦がれたものであった。

 早く実戦に出てみたい…

 庄内川での戦ごっこに明け暮れながら、自分の中で準備を整えていたのだ。

 第22話うつけの兵法 第二十二話「長槍」 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)の話が丁度この時分になる。

 

 信長はこうした戦ごっこの中で、自然と適材適所の必要性を学んでいった。

 マイクロソフトの創始者であるビル・ゲイツは部下に求める自信の考えの変化をこう述べている。

 若いころは部下に万能性を求めていたが、ある時からより専門性を求めるように考えが変わった・・・と・・・

 

 信長は庄内川の宿敵八郎と何度も勝負を繰り返すうちに、より効果的な戦い方を模索していった。

 沢彦が農民の子供たちを集めさせて戦わせた意図がそこに有ったのかは知らない。しかし、武家として万能教育を受けた岩室らとは違い、農民の子供たちには得手不得手が散見したのだ。

 最初の内は誰もがそれらを訓練し、自分たちと同じように何でも出来るようにと期待した。

 しかし、一朝一夕ですぐに出来るように成るわけでもなく、武家の子らが出来ているところに達するには数年掛るのも当たり前だ。

 それでも八郎たちとは毎日の様に戦わなければ成らない。

 そうして苦戦して行くうちに信長は出来ない事を求めても結果は出ない事に気づき始め、むしろ出来る事を特化させて戦術に組み込んでいく方法に転換し始めたのだ。

 そういう意識を持ち始めると自然信長の視野は味方全体を見渡せるように成って行ったのだ。

 

 (こいつは殴り合いはダメだが…石を投げさせたら上手いな…)

 

 そういう子には石だけを投げるように命じ、

 

 (ああ…こいつは臆病すぎて何をやらせてもダメか…)

 

 そう感じた子には寧ろ戦闘では無く石を拾い集めさせて、石を投げる奴に渡す役目を与えるのだ。

 更には石を投げる子がもっと早く数を投げれればより効率が上がると考えたら、更に戦闘に不向きな子に集めた石を手渡しする役目を与えることも思いついた。

 以前にも書いたが、これが通説で言われる三弾撃ちの原理である。

 更に信長は石を集める子に、効率よく石を集める方法を考えるようにも命じ、石を手渡す子により手早く渡す方法を考えさせた。

 信長自身もあえてその役割を担いながら方法を模索したのである。

 

 殆どの人間は出来ない子を見捨てる方向で考えてしまう。

 いわば弱い奴は弱いから戦力としては充てにしないのだ。

 信長は寧ろ人を使う意味では心が優しいのかもしれない。

 悪く言えばお人好しなのだ。

 弱い奴がただ殴られて終わるだけの状況を見て、それで良いとは考えない。戦力として自分の方について戦ってくれている事を大事に考えるのだ。

 こうした思考は戦ごっこの中で人を集める大変さから意識し始めたと言ってもいいだろう。

 相手が10人増やしてきたら、こちらも10人増やさねば成らない。

 そうした中でも戦ごっこは怖いから、痛いからと抜ける子も出てくるのだ。

 相手の八郎たちは自分らより年長である。

 その分確かに体つきも力も強いのだ。

 とは言え、信長からすれば相手は農民の子で自分は武家の子であるという意識が年の差の威圧感を克服している。

 しかし、兵力が増えれば増えるほど、味方の士気がより勝敗を左右してくるのも事実だ。

 沢彦が信長に戦ごっこを薦めた意図は、こうした経験から信長が何を吸収して成長していくかで考えており、むしろ何を学ばせるかは考えてはいなかった。

 勿論、大方「何を学ぶだろう」は期待していたが…信長のそれは予想を超えていたと言えるだろう。

 沢彦は戦に於いて兵の士気が勝敗を大きく左右する事を学ぶだろうことまでは期待しており、農民の子らは武家の子より、寧ろそこの差が大きく出る。

 勿論、沢彦は言葉でそういう教えを信長に伝えている。

 その上で信長がその士気をどうコントロールするかまでは、沢彦も黙って眺めるまでであった。

 信長の意識の中では、

 

 (農民相手に負けるわけには行かない…)

 

 自分が武家の子として、そして今後初陣して織田弾正忠家を背負って立つ上では、決して譲れない所だったと言えよう。

 そして本質的な優しさが、戦えない子に戦う意義・・・

 戦ごっこで言うなれば戦う楽しみを少しでも感じさせようとする配慮を齎すのである。

 石拾い…いわば野球部で言うなれば球拾いの様な役割に成るだろう。確かに野球部の練習中の球拾いは試合に何の関係もない雑用でしかない。

 新入部員もダラダラとそれをやらされていたら、野球に対するモチベーションも低下して行く。

 信長なら寧ろその球拾いに意義を持たせるのだ。

 球を拾う際の捕球する姿勢、拾ってからちゃんと的を目掛けて投げ返すという練習の意味を適切に与えてやらせるのだ。

 

 自分の役割に意義を持たせる。

 信長の優しさはそういう部分に出てくるのだ。

 ゆえに信長は自らも石拾いをやってみせた。

 そして誰よりも効率良く石を拾い集める方法を考えるのだ。

 他の者が一つ一つ石を拾って集める中、信長は木の板を用いてごっそりと寄せ集めたり、散見する場所ではその木の板に石を集めて一気に運んだりと効率のいい形を示した。

 さらに信長は投石の上手い千秋と組んで、千秋が素早い連射で石を投げれるように効率のいい渡し方をも練習した。

 最終的には千秋が石を投げたとき信長が石を軽く浮かせるように渡して千秋が左手でそれを掴み右手に持ち替えてまた投げるという連携が形に成ってくるのであった。

 信長は他の者にも投げ手と渡し手でコンビを組ませて、その連係プレイを徹底させたのだ。

 そうして行くうちに、石投げや殴り合いが下手な子でも、渡し手という役割に興味を示すものが出てきた。逆に自分は石を誰よりも効率よく拾い集めて貢献するという子も出てくるのだ。

 また、殴り合いは怖いけど石投げなら練習すれば何とか出来そうという子は石投げを徹底的に練習し始めた。

 信長がそうして皆に戦う意義を与えることで、其々が自分のやりたい役割を見出してそれぞれがそこに特化して修練を重ねることで、いわば短期間で部隊を強く成長させれたのだ。

 信長のこの成長ぶりは沢彦の予想を遥かに超えたものだった。

 沢彦は信長を見ながら、孫子の伝承の一節を思い出した。

 

 (孫子(孫武)は一兵一兵の動向にも気遣い、彼らを大事に扱う事で兵の士気を高めたというが…吉法師さま(まだ元服前)はまるで孫子を知らずして孫子の心を会得したのやもしれん・・・)

 

 こうして信長は組織化した部隊を何気に構成したのである。

 石拾いに限らず、長い竹の棒を振り下ろすだけの者。

 石を投げる者、渡す者、そして室井ら武家の子や、新介に小平太といった前線で戦えるものを統率し、対岸から迫ってくる八郎たち相手に毎日の様に戦い続けた。

 そしてその戦術の連携は徐々に効果的に機能し始めた。

 竹の長槍を振り下ろし敵が怯んだ矢先に投石の連射を浴びせ、近接部隊が切り込み敵を足止めする。その間に長槍と投石部隊は後方に下がって再び陣容を整え、合図とともに近接部隊は再び長槍部隊の後ろへ下がるという連携だ。

 当初は味方の投石が味方に当たるような事もあったが、近接部隊が投石の際に長槍の後ろで味方の投石が当たらないよう盾で守ったり、長槍の間隔を調整して投石の精度を向上させるなどして連携を模索しつつ高めていった。

 そうして行くうちに次第に八郎たちは信長に対抗できなくなっていった。

 

 沢彦はこうした戦いっぷりを政秀や盛重にも見せた。

 そして2人も信長の戦っぷりを大いに称えた。

 特に盛重はこれを見て…

 

 (若は…まるで軍神の化身なのかもしれん…)

 

 と、驚きを隠せずより信長に心を寄せるのであった。

 他にも側で警護していた河尻秀隆や佐久間信盛も大いに期待を寄せる形で見守っていた。更には朝倉宗滴が秘かに興味本位で送った患者もそれを目にしたことだろう。

 政秀に至っては、信長をここへ導いた沢彦の手腕に敬意を抱いた。

 

 元服した後に、信長の戦い方に心酔し始めた佐久間盛重は、筆頭家老として那古野に入った林秀貞にも信長の戦ごっこを視察するように勧めた。

 しかし秀貞は、

 

 「実際の戦と戦ごっこは訳が違う。」

 

 と、一笑して目もくれなかった。

 

 「むしろ若には兵書を学ばせ、初陣に向けて本当の戦に備えてもらわねばならん!!」

 

 と、堅物な考えで盛重の誘いを断ったのだ。

 秀貞からすれば盛重は一介の将に過ぎない。

 その一介の将が評価する戦は、勇猛果敢な猪武者の話だろうと小馬鹿にして聞いたのだろう。

 秀貞の様に軍全体を指揮するのが織田家嫡男としての戦い方と考える意味では、戦ごっこの戦い方など寧ろ「君主危うきに近寄らず」とは別の所にあると考えていた。

 こういう秀貞の堅物っぷりは、政秀はともかく、沢彦は寧ろ嫌っていた。

 盛重が沢彦に、

 

 「美作さま(秀貞)は若の戦ごっこなどには興味はないという感じで、一笑されました。」

 

 と、伝えるや沢彦は、

 

 「だろうな…あれは策士としては優秀かも知れんが…頭が固すぎる。まあ、若の戦い方を見たところで何も感じないやもしれんだろう。」

 

 「されど・・・信秀さまの参謀でもある方ゆえに・・・」

 

 と盛重が何やら残念そうに述べると、

 沢彦は

 

 「美作殿は軍師では無く策士じゃ、軍の動かし方は全て信秀さまの采配でしかない。他でそれが出来るのは政秀殿くらいか…まあ、そなた位だろう・・・」

 

 と、沢彦は盛重の才を称えつつ伝えた。

 

 「兵は詭道成り…軍を動かすのは水物と一緒で柔軟に戦況を見極めて動きを変化させねば成らない。頭の固い人間ではその指揮は採れないのだ。」

 

 さらに沢彦は続ける

 

 「策士は相手の隙を見極める事には長けており、その隙を的確につくことは実に巧妙だが…一進一退の攻防の中ではあまり役には立たない。戦の主体はその一進一退の攻防にあって、その攻防を巧妙に続ける中に隙が生じるのだ。」

 

 沢彦は盛重をじっと睨むように見て、

 

 「武人としてのそなたなら、武技を交える相手との攻防でそれは理解できるであろう」

 

 盛重も沢彦の話はよく理解できた。

 これは寧ろ現代風に言うなれば、サッカーにおけるフェイントが策で、ボールキープが攻防の技術として説明した方が解りやすいかもしれない。

 策いわばフェイントの種類をどれだけ多様に持っていても、相手の当たりに対してのボディバランスやボールキープが出来なければ、相手のディフェンスを結局は避けきれないという話と同じなのだ。

 そしてそうした攻防の中で策=フェイントを適切な場とタイミングで用いなければ寧ろ何の効果も無いものと成ってしまう。

 逆に多様なフェイントを用いずとも、相手の隙を的確について動けばディフェンスを突破する事は十分に可能な話で、多彩なテクニックを披露するネイマールより、地味な動きで的確なコントロールを用いるメッシの方が突破力がある違いでも言える。

 

 秀貞の教えようとしている事は、兵書を学ぶことで多彩なフェイントいわば小細工を学ばせようとすることにある。

 寧ろ沢彦は戦ごっこという実戦に近い状況の中で、柔軟に判断できる感覚を修練させる方が効果的だと考えているのだ。

 

 無論、信長の性格を考えればどちらが適しているかは言うまでもない。ただし、沢彦の教え方は寧ろ信長ゆえに効果的に作用するもので、むしろ他に対しては秀貞の考え方が有効的とも言えるのだ。

 その違いは・・・いわば信長は自分で考えていくからだ。

 いわば、自分で考えるゆえに自分なりの策もそこで適切に編み出していくわけで、兵書で教わった策を手探りで実戦しながら身に着けるのと訳が違うのである。

 ある意味、信長が策を編み出した瞬間は、その場とタイミングにどうしても必要だから思いついたわけで、故にいつでも必要に応じて使いどころまで理解したものになるのだ。

 これはメッシのドリブルでも言えることで、彼の微かなフェイントは常時自分に必要な絶妙なタイミングと場で機能する故に、その動きも自然でぎこちなさも無くディフェンスも簡単に惑わされるのだ。

 そしてそれは自身の必要性と自身の動きに合わせた独創的なものゆえに、相手も見極めにくいものとして機能するのである。

 

 一部の歴史家は最近の研究で信長は革新的ではないという評価を与えようとしてるが…それはその歴史家たちが革新的で無いゆえに解っていないだけの話でしかない。

 また、皇室を尊重していたという姿勢で保守的だったなどと評価しているが…そもそもが彼らの勘違いでしかないのだ。

 確かに信長は誰もが想像するような魔王化した英雄的な人物ではない。

 実は信長は根本的な野心家でもない。ただ自分のやりたいようにやれれば良いだけなのだ。

 そこに無駄な意見が入り込むのは好ましくないと考えているだけで、自分の考えが絶対であるという事でもない。

 ただし自分以外の人間では誤った選択をしてしまう事まで考えると、全ての判断を自分に委ねてくれればその方が効率が良いというだけの話なのだ。

 よって皇室が地位として自分の上にあっても気にはしない。

 むしろ皇室が自分の統治に無駄に意見を述べてかき回す様な事さえなければ、上方の存在として尊重する事も厭わない。

 織田信長という人物を説明する上で、何度も言うが、信長を使いこなせる人物は劉備玄徳しか居ないという事を先ず伝えておこう。

 いわば信義と誠実、そして目指す目標が合致する人物なら、信長はその下でも安心して居られるという事だ。もしくは劉備の子劉禅の様にすべてを信長に託す人物ならその下で最大限に補佐する役割を担うであろう。いわば当時の皇室(宮中)はそういう感じでもあったのだ。

 と、言うことに成ると…信長と諸葛孔明は同一の存在になるのだ。

 

 一般的には性格が違うのでは…と、反論されるのが当然ともいえる。しかし、それは三国志演義で神格化され穏やかなイメージの孔明があるからで、史実として残る孔明の「偉大なる凡人」という評価とは実はかけ離れているのだ。

 更に普通の人は孔明の様な軍師が居ればと恋焦がれるだろうが、実際に普通の人に諸葛孔明を部下として扱えるか?と聞けばどうだろう。

 恐らく孔明は普通の人の下では真面に働かないだろうと言っておこう。

 実際に劉備に出会う前は、言うなればニート状態だった感じで、曹操もNG、劉表もNG、兄の諸葛瑾が使える孫権もNGだった。

 今で言うなればどこも大企業のようなもの。

 その理由は…どこも自分のやりたいようにやらせてくれそうも無いから…だったら何もしないで遊んでるという選択なのだ。

 

 信長にしても孔明にしても、人に試されるのは凄く嫌う。

 普通の人は、その人の実力を見極める上である程度試すのは当然と言えるだろうが…信長や孔明のレベルに成るとその試された中では結果が出せない事を知っているから嫌がるのだ。

 ???何故か…

 実は個人の能力としては突出した才能を引き出せないからだ。

 ある意味、ある程度の剣術は出来ても、自分より優れた剣術家は他にもいる。細かい業務に関しても…例えば経理作業のようなものも自分より経験のある人の方がより効率的にこなせる。

 では…一介の将としては…

 他人の戦術の中に一介の将として組み込まれも、無難にその作戦をこなすことは出来ても、目立つような働きには成らない。

 ただし、そうした中でも他人からする驚くような成果を出すこともあるだろう、しかし彼ら本人からするとその成果は通過点の作業に過ぎず自慢できるほどの成果とは考えないのも事実である。

 ゆえに試験的に使われるような事も嫌うのである。

 寧ろ自分の立てた企画を企画リーダーとして組織編成まで委任してやらせてくれればようやく実感できる成果を出せるといった感じに成るのだ。

 普通はいきなりそんな事をやらせてくれない訳だが、サッカーで言う司令塔であり自分中心で動き回れて初めて機能する才能と言っても良い。

 実際のところ普通は恐ろしくて扱いにくい人物なのだ。

 ある意味やらせてみれば突然化けるのだが…

 普通の人はそんな化け物が目の前に現れてるとは信じられない…

 いわば、誰かを見てその人にそんな才能が有るなんて信じれる人は殆ど居ないだろう。寧ろ大抵の人は自分より才能がある人物と見定める器量は持たないのも事実だ。

 

 ところが…劉備玄徳はやらせてくれるのだ。

 劉備や孔明、信長は人の才能を見極める能力があると言えるが、実際はそれ以外の人でも出来る人は結構いる。

 ビル・ゲイツの話でも出したが、

 大抵の人は人に万能型を求める。

 こういう場合、自然と自己顕示欲が働き、人を下に見てしまいがちになる。そして万能を求めるゆえにどうしても人の短所に目が行くのだ。

 ところがビル・ゲイツが後者として語ったように、特化型を求める意識だと…更に付け加えれば自分に足りないものを求める意識で人見ると、なぜだかその人の長所を探そうとするのだ。

 この意識の違いだけで人を見る目は大きく変わるのだ。

 

 ここで三顧の礼を用いて劉備が孔明をどう見定めたかを説明しておこう。

 劉備は孔明と話している内に、その思考力に圧倒された。

 一般的には天下三分の計に感銘したとされているが…

 正直、あんなものは架空の話でしかない。

 現実的に事実として提示するならば、劉備の目標は漢朝の復興である。劉表の一介の客将でしかなっかた劉備の主導でそれを為しうる話は現実的あり得ないのだ。

 三国志の正史にも演技にも明確に記されない内容でこの三顧の礼を解明するなら…

 

 劉備は孔明に

 「漢朝を曹操の手から救い出すにはどうするべきか…」

 と、いう質問投げかけた。

 孔明はこれに対して・・・

 「劉表の荊州と劉璋の益州が盟約を結び、これに孫呉を加えれば天下を二分して戦うことは叶います。」

 そして、

 「曹操を逆賊となし、大義を劉氏漢朝復興とするならば、手順として先ずは荊州と益州を結び付け劉氏の連合を作り、そこに孫呉を朝廷への貢献という利害を説いて勢力に組み入れるのが得策でしょう」

 これに対して劉備は、

 「その連合は成りうると思いますか?」

 と聞くや、孔明は

 「連合は恐らく今なら成立するでしょう。」

 劉備は

 「今なら?と、は…」

 そして孔明は

 「先ず、荊州にも益州にも、また孫呉にも、曹操の勢いを好ましく感じない勢力は多々居ます。寧ろ曹操を打倒せねばと考える方が主流でしょう。なのでこの連合はどの国でも構想上にあるはずです。」

 更に

 「勿論、曹操もその事は察しているところで、その前に荊州へ攻め込む算段も考えられます。問題は…この荊州をどうやって先ず守り抜くかです。荊州が先ず曹操の手に落ちれば連合を意識する勢力は保身を考え曹操を支持する勢力に圧倒されることも考えられます。また益州と孫呉が分断される形に成ると…連携もまた難しく成ります。」

 劉備の

 「この荊州を曹操の大軍から守り抜くことは出来るのですか?」

 という質問に対して、

 「絶対は無いと言いますが…曹操の進み方次第では可能です。」

 「進み方…次第とは…?」

 劉備が惚れこむ言葉は恐らくこの後の孔明の発想です。

 孔明はこう伝えます。

 「如何なる大軍を以て攻め込んでも、糧道を断たれればその軍は孤立します。漢の高祖が彭越を用いて項羽との戦いで後方攪乱した遊撃戦(ゲリラ戦)を誰かが出来ればの話でもありますが…」

 いわばこの戦い方は劉備の得意な戦術でもあったわけで、知ってか知らずか孔明がそこに目を付けたことに衝撃が走ったのだ。

 ある意味、劉備からすればその役割は自分たちなら出来るという意味で。

 

 少し脱線して三国志のエピソードを伝えたが、

 とにかく信長も孔明も扱いにくい人物で、会話の内容や質問の仕方一つで機嫌を損ねる事もあるわけです。

 むしろ短所を見るような会話だと、凡人にしか感じない回答をするのです。

 扱うには劉備の様に長所を引き出す会話ができ、その内容を理解して馬鹿にせずに素直に受け止める器量が必要に成る。

 いわば話を聞く以上、相手の話を大事に理解しようとする姿勢が求めらる。劉備が「その連合は成りうると思いますか?」とか「今なら…と、は・・・?」と質問する姿勢で自分の理解がまだ及んでいない点を素直に示し考えを聞きたいという形で、今の時間を興味を持って大事にしているという事を伝える気構えが無ければならないのです。

 実は寧ろ海外では当たり前の姿勢な訳で、日本人が知らない事や理解していない事を恥ずかしいと思うとか、相手に無駄な時間を使わせるのは失礼かなと気遣う事は逆に失礼に成るのだ。

 逆に、孔明はあえて「絶対は無い」とも伝えているなかで、そこに揚げ足取る意味で、

 「しかし曹操が守りを固めたらそれは上手くは行かないのでは…」

 と、間抜けな事を言ってしまったら、孔明的にその人物はアウトに成る。

 信長にしても、孔明にしても基本は自分のやりたいようにやらせてくれるかがポイントで、下手な反論を用いることはその人物が時として自分の言葉を拒絶する事を感じさせるのだ。

 ある意味天才ゆえとここは伝えておくが…

 ほんの些細な事でも、自分の思考と異なる状態に成るとその計算が微妙に狂ってくるのだ。

 「泣いて馬謖切る」のエピソードでもあるように、自分の指示を些細な思惑で無視して大失態を及ぼす状態。

 本人は些細な失態で終わると思っている事でも、孔明的には大失態に成るのだ。

 無論、その後馬謖を切って撤退をするわけで、孔明が大敗して逃げ帰ったという状態ではない。

 しかし…孔明の計算では馬謖の居た場所を守らねば結果大敗する状況まで見えていたのだ。

 なのでさっさと引き返すしかないと判断した。

 

 信長にしても孔明にしてもこうした余計な思惑を勝手に挟まれることを嫌うのだ。

 

 一方で劉備の様な人物は解らない事は聞いてくる。

 これも大事なポイントで、そういう人物は自らの思惑を挟む前に必ずこちらの考えを聞いてくる。その上で適切に議論してお互い納得した上で決定してくれるため、孔明であり信長の様なタイプでもやり易い。

 ただし…議論に於ける内容を適切に理解し更には適切に何が一番効果的を見極める能力が無いとダメなのも事実だ。

 いわば孔明や信長の計算以上に効果的または孔明や信長が気付かない発想がそこに無ければ他への決断は許されないのも事実だ。

 ここまでの判断力がある人物と成ると、一般的に、または現代社会の優秀な人物たちの中でも限られてくるか、またはそのレベルでも存在しないと言える。

 

 信長のこうしたエピソードで有名なのは、長篠の戦で奇襲作戦を提案した酒井忠次の話がその一つであろう。

 軍議で提案した時、信長は忠次に激怒して見せその懸案を一蹴したという話で、軍議の後でひっそりと呼び出してその懸案を大いに褒めたたえて実行させた。

 結果、その功もあって長篠の戦いは予想以上の効果を上げたとされるが、軍議の場でそれを採用すれば、敵の密偵がまぎれていた場合、それが筒抜けに成ってしまう些細な配慮まで信長は気付けてしまった点にある。

 これは史書に記されているエピソードだから、信長の配慮まで知りうる話になってはいるが、ここに信長の上に誰か居た場合、むしろ信長が孔明の様な立場で軍師であった場合、激怒を演じて忠次の懸案をみおくる姿勢を察せられるかというと…ほぼ皆無で、むしろその場で忠次の懸案を採用してむしろ失態を演じてしまうのではないかと思われる。

 

 劉備の様な人物は、孔明の話す内容を「状況次第では可能」という意味で適切に捉えて、その内容が理に適う点で納得できる。そういう所から、また別な状況に成ればその時何か思いついてくれる人物としての期待を孔明の長所として見抜いたわけだ。

 また孔明が異質な才能ある人物とも見極め、信長が見せたような感情的とも見える部分も、何か意図するものがあると察して合わせられる度量も劉備にはあった。

 故に、孔明はその後も劉備から離れずに入れた訳だ。

 反対に孔明であり、信長の怖さのもう一つは、言葉の流れ、表情、声のトーンまで見極めて相手の心情まで読み取る事にある。

 なので一言間違えたら逆鱗に触れるわけで、相手が誠実な姿勢で挑んでいるか否かまで見抜いてくる。

 とは言え誠実に求めれば彼らを使いこなせるというわけでもない。

 先ず、前述にも記したように、ある意味我がままなのだ。自分がやりたいようにやらせてくれるか否かで仕事に対する姿勢も態度も変わってくる。その辺は凡人いわば普通どこにでもいる人と変わらないように見えてくるだろう。

 更に厄介なのがやる気がない時に文句を言われると逆鱗に触れて去っていくから、むしろ真摯職をこなす真っ当な人からすると凡人以下にしか見えないのである。

 ただし、三国志の龐統エピソードでもあるように、自分の分野の仕事の場合、やる気を出した時の手際の良さは常識を超えたものに成る点は事実だろう。

 馬鹿と天才は紙一重と言うが…信長や孔明に限らず、世の中にはこういう天才型が結構埋もれているのも事実である。

 凡人なのか奇人なのか区別つかない故に普通の人は避けてしまうのも事実だろう。ただし彼らの才能を引き出し味方に付ければその心強さは計り知れないと言っておこう。

 しかし、彼らの気質を理解し、その才能を見いだせていない人には寧ろ失望が先行してしまうだろう。

 仮に彼らが能力を発揮して実力を示した際は、その才覚に恐怖してしまうケースもある。

 

 ある意味、足利義昭がそこに陥ったと言える。

 昨今信長は誤解されて見られがちで、孔明の様な人物ではなく寧ろ野心を剥き出しにした曹操の様に見られがちだ。

 ゆえに足利義昭を傀儡として扱おうとしていたと考えられがちだ。

 しかし、多くの人が義昭と同じ錯覚に陥る程、信長の実績とその才覚にに畏怖したと言えよう。

 畏怖して見えるゆえにその本心まで野心的なものと考えてしまうのだ。

 しかし、信長が義昭に送った「殿中御掟」であり「異見十七ヶ条」は君主たる者の姿勢をしたためたもので、信長からすれば決して自分の傀儡とするための義昭への束縛ではない。

 寧ろ、その内容は信長が当然の事として心がけている内容とも言えるもので、むしろそれは自分の臣下に対して誠実な姿勢を示している。

 孔明は劉禅に対して似たようなものを送り付けている。

 また、出師表でもそういう戒めの言葉を伝えている。

 

 土岐頼芸が斎藤道三を恐れた話は前に記したと思う。

 信長も誠実に義昭を補佐して天下泰平を実現しようとした。

 無論多くの人が信長を疑うように、数多に存在する敵を効率よく排除するために義昭を利用したとも言えるだろう。

 それも信長の計算の中では嘘ではない。

 ただし誤解されるのは信長の合理的思考だ。

  信長の目的は天下泰平を齎すことで、それを自分の天命としていた。そこには自分が将軍であり王として君臨する必要性は無く、その地位はそれ相応の人物が担っても構わないと考えていたのだ。

 ただし自分の理想とする社会構成がその中で実現できれば良いだけの事だった。

 いわば万民誰もが身分に関係なく生きる選択が出来る社会を目指したのだ。

 これはこの物語の最初に伝えたことでもあり、信長は自らが死した後、生まれ変わる先が農民でも自分の才覚一つで伸し上がれる土台を作りたいだけなのだとも伝えている。

 いわばそれこそが英雄が為しえるべき世界で、それを齎してこそ真の英雄なのだとも考えていた。

 結果として…この信長の理想は坂本龍馬を経て、明治維新になって初めて実現した社会で…今の日本がその姿そのものとも言える。

 

 信長がそれを理想としたその証明の一つが秀吉の存在でもあるのだ。

 信長は秀吉の才覚を単に利用したのではなく、才能あるものは農民の中にも居る事を証明して見せたのだ。

 また義昭に示した戒めの中にも身分に関係なく丁重に扱うようにお願いする文脈も残っている。

 先ず、これが信長の目指した社会であり世界観であることを理解してほしい。 

 

 故にその社会を実現するには、先ず天下を泰平に導くことが最優先であったのだ。

 そういう意味で足利義昭という征夷大将軍の下で実現することもその道の一つとして受け入れていたのだ。

 されどその義昭が名君として泰平を導ける存在に成らねば戦乱の時代の争いは収まらないという事情もあった。

 いわば将軍の評判が良ければ、その人物を将軍として立てる事に異を為す者は少なく成り、逆に評判が悪ければ異を為して別の者を立てようとする勢力が増大する。

 応仁の乱から明応の変を経ての戦国時代と言われる状態が実際にそれを物語っている。

 信長が義昭にしたためたものは全てそういう戒めを込めたものなのだ。

 しかし、信長のそうした誠実な願いは義昭に届かなった。

 逆に義昭は細川の傀儡として、三好の傀儡として将軍職が利用されてきた事から、信長もそれと同じと疑いはじめたのだ。

 そして表面では誠実さを保っているものの、腹の内では自分を排斥しようと考えているのではと疑うのも無理ない事だ。

 信長にしても孔明にしても、相手がそういう猜疑に陥るだろうことは直ぐに察せられるが…その猜疑が出たとき相手をコントロールする難しさも知っている。

 信長の勢力はそれだけ義昭よりもはるかに大きく、また事実そういう誠実な姿勢を示す信長の人間としての魅力は寧ろ人望の無い義昭にとっては脅威にすら感じるものだったのだろう。

 むしろなまじ教養があり、三国志の曹操の様な人物として信長を見ていたのなら、そう感じても不思議ではないのだ。

 

 勿論、信長も信長で自身の勢力を広げることで義昭をある程度コントロールする地位は担保して考えていたのは間違いない。

 ここは理解が難しい部分かも知れないが、信長の目標は自分が理想とする社会を天下に定める事だ。

 そういう意味でもし義昭では無理と判断した場合は、最悪割り切らねばとも考えていた。

 いわば最悪割り切らねばと考えていた訳で、合理的に考えるとその行為は自らの信義を損ねる事も覚悟せねば成らない事を信長は知っていた。

 いわば、信長は美濃攻略を果たした以前の家臣は別として、それ以後に加わった家臣たちに対しては幕府復興を信長の信義として従っていた訳で、それを裏切る事の意味を考えていたと言える。

 打算で考えれば、彼らが反乱を起こすのを避けたいという思考にも成ろう。

 ただ信長は誠実な心を尊重したい故に、彼らの想いを踏みにじるような事は避けたいという意識があったとも言えるのだ。

 そこは人それぞれの見方で構わないが、いずれにしても義昭を排除する考えは得策ではないのだ。

 故に義昭が信長に反旗を翻しても、信長は義昭を殺さずにいたのだ。寧ろ殺さずにいたというよりも、どうやら現行の資料解析では義昭と何度も和解しようとしていたらしい。

 簡単に倒せる相手だった故の演出なのか、誠意だったのか・・・

 既に義昭が猜疑を抱いてしまったその時点での信長の思考は性格上どうとも言えないが…そこは既に前者の形で考えていたと言ってもいいだろう。

 

 諸葛孔明と照らし合わせて巷で考えられる信長とは全く別物である点はある程度理解できたかもしれない。

 そして信長の革新的な発想は、自由と平等をその時代に既に求めていたことだった。

 保守的な室町の身分社会に固執する人間たちからすれば、それはあまりにも革新過ぎる発想で、アメリカの奴隷解放を唱えたエイブラハム・リンカーンにも似た事情がそこに有ったと言えよう。

 歴史家たちは一度その辺を紐解いて信長の功績を見直してみて欲しい。

 

 合理的に考えようとする信長と、固定観念で「戦のやり方とはこういうものだ」と決めつけた様に考える林美作守秀貞とは、実に相性が悪いのだ。

 

 勿論、元服を迎えた当初は、秀貞の授業も暫く聞いていた。

 しかし信長からすれば眠くなる話でしかないのだ。

 悪く言えば学校の詰め込み授業と言えるが、

 信長からすれば進学塾の講師が解りやすく教える授業でも眠くなるだろう…何故なそこに合理性が無いからだ。

 同じ鶴翼の陣の話でも、沢彦はその使い方を合理的に教え、実践することでその効果まで実感させた。

 しかし、秀貞のは

 

 「鶴翼の陣の形は箸をこのよう(V字)に置いた形で考え、敵を両翼の内側に引き込んで包むように攻撃するものです。」

 

 と、説明するのだった。

 信長の言う合理的とは、どうやって敵をその内側に引き込むかが大事なので有る。

 また、敵がその陣容を見れば鶴翼であると分かってしまう。

 相手がこちらが鶴翼を敷くと解らないように陣容をどう組み立てるかが秀貞の話には無いのだ。

 無論、信長は既に沢彦からそうした事も教わっている。

 故に秀貞が説明しないのならこちらから質問する気もないのだ。

 ある意味、秀貞は教え方下手だっただけなのかも知れない。

 ただ、信長に限らず、室井らも秀貞の授業は耐えられないと感じるほどだった。

 

 父信秀の参謀でもある林美作守秀貞の授業であるがゆえに、どんなものかと期待したが、結局は沢彦や盛重のそれと比べると全くつまらないのである。

 そして暫くすると信長たちは秀貞の授業を抜け出して、庄内川へ遊びに出るようになったのだ。

 信長の年齢も丁度現代で言う反抗期に差し掛かったころである。

 秀貞は信長に立派な教養をと思って授業をしていたわけだが、自身の教え方は差し置いて、それを投げ出す信長に呆れかえった。

 無論、秀貞は実質弾正忠家のナンバー2という地位もあって、政秀も秀貞に何も言えなかったのも事実。

 寧ろ守役として信長に授業を受けるように口うるさくいうしかなかった。

 政秀の心労が始まるのはこの頃からであろう。

 ある意味、今までは政秀も自分の裁量で何とでしてあげられる範疇ゆえに仕方ないと許せてきたのだが、秀貞を交えた話に成るとそう簡単には行かないのだ。

 勿論、信長はそんな政秀の話など聞く耳も持たず、むしろ

 

 「美作(秀貞)の話など無駄事だ」

 

 と、反抗するのであった。

 秀貞としても期待を裏切られたどころか、逆に信長に馬鹿にされたと感じたであろう。

 そして暫くすると秀貞は那古野に顔を出さなくなった。

 

 秀貞は策士として執念深い性格でもあった。

 寧ろ、策士である故に執念深い。

 また、策士で有る故に陰湿なのだ。

 逆に信長の執念深さとはまた違うのである。

 

 秀貞は信長の近況を古渡で信秀に報告した。

 開口一番、秀貞は

 

 「殿、申し上げておきますが…今のままでは若は猪に成りますぞ!!」

 

 そう伝えるのであった。

 信秀はその言葉に、

 

 「猪とは…どういう事だ?」

 

 「若は確かに勇ましく成長されてます。しかし、あれは一介の将としての成長で、軍の指揮を執る者では有りませぬ。」

 

 秀貞は盛重を勇猛な将としては認めているが、盛重の戦い方は自ら先陣を切ってその武技によって敵を殲滅するのものだった故に、盛重が評価する意味をそう捉えたのだ。

 逆に自らが教えようとする兵法であり戦術、そして教養などに興味を示さない姿勢でより強くそう感じるであった。

 

 そして信秀は、

 

 「で…そなたは何を教えようとしたのだ?」

 

 と、聞くや、

 

 「勿論、兵法から陣立てに至るまで・・・しかし、若は全く興味を示す様子もなく、孫子ですら全く覚えようとしませぬ。」

 

 と、秀貞はまくし立てるように語り、

 

 「彼を知り、己を知らば百戦危うからず であり、風林火山の言葉すら暗記しませぬ・・・あれはうつけなのかと思ったほどです」

 

 秀貞の話を聞いていると信秀も心配に成ってきた。

 ある意味、孫子の初歩で暗記するのにさほど難しい言葉ではない。

 逆に、信長からすればその意味を理解できれば十分なのだ。

 無論、その様な事は既に盛重から教わっており、

 寧ろ、盛重からは、

 

 「自分が相手だったらどう考えるか、相手が自分だったらどうするか、それを常に心がけて敵と向き合いなされ・・・」

 

 と、信長は教わっている。

 故に孫子のそれを聞いて、信長としては既にそれは理解しているで言葉をイチイチ暗記する必要性を感じなかっただけだ。

 

 しかし、信秀は盛重や沢彦が信長に何を教えたのかまでは知らない。勿論、治水の際に、熱田の加藤から知行の話であり商売の話は学んでいるくらいは逆に知っている訳で、信長がそこまでうつけとは思っていないのも事実だ。

 

 そこで信秀は一応信長の指南役として認めている盛重を呼び出して話を聞くことにした。

 後日その盛重は古渡に現れた。

 

 「大学助(盛重)よ、そなたは信長の成長をどう見る?」

 

 すると盛重は誇らしげに、

 

 「まるで軍神の様に成長されております。」

 

 人の言葉は時として誤った意味で伝えてしまう。

 いわば盛重の伝えたいのは、陣立て、陣容、指揮すべてに於いて見事だと伝えたつもりであった。

 しかし、信秀も盛重の勇ましいまでの戦いっぷりを良く知っている。

 それはまさに鬼神の如く敵を殲滅するもので、むしろ力で敵をねじ伏せる様なイメージであった。

 無論、盛重は兵法にも長けている。

 されど盛重が戦場で与えられる役割は寧ろ戦術に組み込まれた突撃という役目なのだ。

 勿論盛重の突撃は敵の陣容を見定めて効果的に敵が崩れる場所を見極める戦術眼が求められる。

 時には敵の一部を引っ張り出して陣形に穴をあけるなど、ただ猪武者として突っ込んでいくわけではない。

 それでもそれを指揮し指示するのは信秀の様な大将のすることで、盛重の様な将を駒として使うのが役目になる。

 信秀は盛重の言葉を秀貞と同じように駒としての勇ましさと受け止めた。

 故に…

 

 「信長の戦い方は勇ましいか?」

 

 と、聞いた。

 信秀の意味は駒としてのものであるが、盛重はその質問をそのまま信長の軍を動かす指揮力で捉えた。

 

 「はい!!勇ましいです。」

 

 ある意味信秀は駒としての勇ましさも将として大事な事と思ってはいるが、それに加えて信長には秀貞が言うようにもっと指揮官としての成長も望むのであった。

 

 信秀は暫く言葉を考えて盛重に

 

 「信長に対するそなたの教育には大変感謝しておる。しかし、そなたにはやはり今後、前線で活躍してもらわねばと思ってな…」

 

 盛重も何気に察した…

 

 「また三河の動きがキナ臭くてな、今後は那古野の守備ではなく鳴海方面を任せたい。」

 

 そして盛重はその下知を素直に受け止め、

 

 「はっ!!有難きに存じます。」

 

 と、従った。そして一言付け加えたのだ。

 

 「今後の信長さまの指南役の件ですが…一つ宜しいでしょうか?」

 

 信秀も盛重は大事な家臣で有るゆえに、無下にはできない。

 信秀は盛重の発言を許した。

 

 「先の美濃との大戦で、美濃より出国してきた森可行という者がおります。犬山の信康さまと栗栖で対峙していた将ですが、道三とは馬が合わず将を解任された事もあって、美濃を出奔し今は私の客人として庇護しております。」

 

 信秀も弟の信康からその名前はしばしば聞いていた。

 

 「それで…その森可行とは…どういう人物だ?」

 

 盛重は、

 

 「義に厚い人物で、その武技は鮮やかでこの盛重も魅了されるものでした。されど美濃から出奔した事もあって織田家に使える事は出来ぬと申しておりますが、むしろ信長さまの指南役としてならと思いまして…」

 

 後の信長の腹心となる森可成の父、森可行はあまり史実に記録のない人物であるが元は美濃の名家である。

 源頼朝の流浪時代からの縁もある家柄で、土岐氏の中でもそれ相応に地位があったと察せれる。

 土岐頼芸が追放された後も、道三に一時期使えていた様でもあり、故に本編では道三から栗栖方面の指揮官に一時期任命されたとした。

 しかし源氏の名家として、また土岐家の家臣として寧ろその忠義を疑われ斎藤正義と交代させられた人物として記している。

 その後、その交代で道三からの信用は得られないと察した森可行は、下手に森家家名に汚名を着せられて粛清を受けるならばと考え、秘かに美濃を出奔する流れで記している。

 

 出奔してからの流れは、義に厚い人物であるがゆえに旧知で以前の主君でもった土岐頼芸を頼る事は寧ろできなかった。

 森可成の出生場所から笠松方面で何らかのつながりがあり、ある意味美濃加納の商人との繋がりから熱田の加藤家に身を寄せた流れで考える。

 そして熱田の加藤家の紹介で平手政秀の紹介を受け、そこから織田家への士官を薦められるも、政秀の説得が叶わず、むしろ武芸の面で話が合う佐久間大学盛重に客人として預けた流れとする。

 

 盛重も可行の士官を説得しては見るものの、それは難しいと考えてはいたが、むしろその義侠心に惚れこみ彼を庇護する形で扱っていた。

 可行は盛重の知行からいくらかの農地を買い上げて、家族と共にひっそりと暮らすことを考えていた。

 

 こうした流れから盛重は信長への指南役としてならと考え、この期に信秀に推挙したのだった。

 信秀は盛重から経緯を聞き、その可行に興味を持った。

 当初は信長が猪武者として成長するのを警戒して、盛重を体裁よくその指南役から外すことが狙いだったが、可行の話を聞いたあとではもうそれはどうでもいいことに成った。

 また、可行が栗栖で指揮官として弟の信康と一進一退の攻防を演じた人物であったこともあり、むしろ危惧していた部分も払拭されると考えた。

 信秀は、

 

 「盛重よ…ならばその森可行に信長の件よろしく伝え申せ」

 

 といって盛重の推挙を聞き入れた。

 

 その後、盛重は可行に信長の指南を頼んだ。

 この時、盛重は沢彦を一緒に連れて行った。

 勿論、可行は士官は断る話であったが、沢彦が、

 

 「わしも織田に仕官している訳ではない。わしは坊主として信長さまを弟子にしておるつもりでな…」

 

 そして沢彦は、

 

 「信長さまは中々に面白い。弟子にしてみるのもいいと思うのだが…」

 

 と、可行の心情を察しつつそう説いた。

 その言葉に可行は

 

 「弟子などとは恐れ多い事です。されど…仕官するという事でなく私程度の者でも何か伝えれるものがあるならば、それをお伝えするのも一興かなと…」

 

 そして可行は改めて、

 

 「大学殿(盛重)…ならば是非よろしくお願い申し上げます。」

 

 と、盛重の誘いを受け入れたのだ。

 

 さて…この森可行はその子息である森可成を通じて、後の信長の秘蔵っ子森蘭丸、そして最強の武人とも言われる森長可へと繋がるのである。

 信長がこの森家を特別に扱っていたのは言うまでもない。

 ある意味、この森家との繋がりが有る故に蘭丸は特別な子であったのだ。

 

 こうして元服を終えた信長は森可行という新たな師範を迎えいよいよ初陣へと向かうのであった。そしてこうした繋がりが家中で劣勢に立たされる信長の窮地救うのである。

 

どうも…ショーエイです。

一般的には信長たまが大事にしていた武将は、

は羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀と

池田恒興、前田利家では無いかと言われています。

それはある意味、後の実績から察せられる事なのですが…

 

実は総合的な統治能力とは別に、

信長たまが個人的に大事にしていたのは、

幼少期の悪童たち、岩室、長谷川、山口、加藤、千秋に、

池田恒興や前田利家、佐々成政などはもちろんの事、

今回の話で登場した森可成、

更には河尻秀隆や佐久間信盛も実は大事にしていた武将です。

ただし、信盛に至っては

あまりにも人に対する礼を欠く存在あったため、

再三の忠告を無視して驕りも生じていたので、

見せしめに追放した感じです。

更には内政面では

実は村井貞勝も大事にされていた人物で、

これらの人は基本的に信長たまの小説などでは

あまり目立って登場しないです。

 

秀吉に至っては、農民上がりで才能が有ったため、

ここでも話した様に

身分の関係ない社会の理想を証明する意味で、

大事にされていたと言えます。

 

こうした中で、信長たまは軍を統率して行ける才能と、

そのリーダーとしての魅力があるかで判断し、

寧ろ戦いでの武功があっても、

大軍を統率するという指揮官としての才能というより、

それを寧ろ望まない性格の人物は、

自分の直属として側に置いていた感じです。

 

因みに…信長たまの直属、

黒と赤の母衣衆は滅茶苦茶強かったです。

というよりこの部隊が強かったから、

信長たま自身の戦功も突出していたと言えるのです。

寧ろ織田軍団の立場としては、

彼らの立場は柴田勝家や丹羽長秀、秀吉、光秀、

より高かったと言えます。

 

いわば現代の政治で言うなれば、

柴田勝家らは大臣という見方もあるかも知れませんが、

寧ろ都知事や県知事の存在です。

アメリカ的には州知事で、

州軍を指揮したり、州の政治決定を委任された感じ。

 

寧ろ大臣や長官的な中央の政治にかかわる人は、

黒と赤の母衣衆や村井貞勝の様な立場で、

信長たまの側に居たという感じです。

仮に勝家たちを大臣とした場合、

母衣衆は政策秘書と言う感じにもなりますが、

権限や地位を考えるとまた違う感じなのです。

 

因みに黒母衣衆だったとされる津田盛月が、

柴田勝家の所領と接していて入り組んだ利権の争いで、

柴田勝家の代官を切り殺してしまった事件があったようです。

勿論信長たまは裁判上、身内同士の抗争は許さず、

犯行に及んだ津田盛月と

その兄中川重政を改易処分にしてますが、

あの柴田勝家と

そういう事件を起こせるほどの立場であった事は明白です。

 

いわば母衣衆が勘違いするほどの権限が

彼らにあったという感じで察すればと言う話です。

 

とは言え元服をようやく迎えた本編…

いよいよ初陣へを駒を進めていきますが、

その前に林秀貞や森可行との関係を交えて、

初陣の裏側を次回に記したいと思います。

 

ネタバレでいうと…

吉良大浜の戦いは…信長たまの負け戦です!!

【第三十話 マムシ戦法】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕

 

 毒蛇は草むらに潜み相手の隙をついてその毒を以て捕食する。

 道三の頭は今、まさにその毒をどこに潜ませるかを考えていた。

 

(敵は既にこちらの窮地を悟っている…)

 

 一般的多くの人は相手に自分の弱みを見せたくないと考える。

 いわばその後の交渉で少しでも優位性を保とうとするためにそう考えるのである。

 その為、情報漏洩を防ぐため四苦八苦するのだ。

 そうして四苦八苦すると、指揮を執る本人は状況を理解していても周りの人間は指揮者が理解していないのではと錯綜するのだ。

 どこの企業の会議室でもよく見られる光景かもしれない。

 指揮者以外の人間は情報を把握して打開策を練る方向で考えたいのだが、指揮者は寧ろその打開策で何とかできるとは思っていないため、ついつい外部に漏れないようにとそれを否定しまいがちにもなる。

 いわば指揮者の頭は戦争なら休戦であり和平交渉で解決する形に持って行こうとするからだ。

 人間、保身が先行すると自然とこういう形に成りがちである。

 ところが死ぬ覚悟を決めた者は全く別物なのだ。

 

 達人同士が刃を交える際に、我武者羅に自分を殺す気で向かって来る相手は確かに怖い。しかし、そこで脅えるのは敗北を意味してしまうのだ。

 相手が野獣同然に向かって来るのなら、相手に一打食らわせるだけで相手は怯む。一打食らわせずとも上手く避けるだけでも効果は出る。いわば殺す気で向かって来る相手が一度自身の保身を頭に過らせると意外ともろく崩れるからだ。

 そういう意味で一番怖いのは、死ぬ覚悟を持った相手で、一挙手一投足冷静に見極めてくる分、一瞬の隙が命取りになるのだ。

 プロボクサー同士の戦いでボクサーが殴られる事を恐れない姿は正にそういう境地と言っても良い。

 

 決死の覚悟とは誰もが簡単に口に出すが、実はそんな簡単なものではない。

 また猪突猛進の様な自決する覚悟の相手も違うのだ。

 

 道三の覚悟は、勝負に負ければ命を落としても悔いはないという所である。その上で今命のやり取りの中で、相手との勝負を楽しむというものである。

 いわばこの窮地を道三は楽しみ始めたのだ…

 ゆえに自然と孫子の基本、「彼を知り、己を知る」事が見極められるのであった。

 

 軍議を開く中で、家臣たちは口々に…

 

「殿…敵がここまで迫った以上、木曽川に展開する部隊を集結させて稲葉山で籠城するのが得策かと…」

 

 と、懸案してくる。

 道三はその言葉を寧ろ冷静に受け止めて、

 

「他の者も、それが適切と考えるか?」

 

 と、あえて聞くのであった。

 すると家臣団は顔を見合わせつつお互いにうなづき合って意思を確認しだした。

 道三はその様子を観察して、あえて返答を求めることなく、

 

「ははは・・・なるほどな、皆がそう考えるのならそうなのであろう。」

 

 と、笑いながらそう伝えた。

 この時、道三の中では自身の思い描く計が大方機能する事を確信した。

 更にはその場でこう告げたのである。

 

「ならば…籠城する方向で調整しよう。皆の者沙汰を待て」

 

 と言って締めるのであった。

 敵を騙すなら味方から…と、良く言うものだが、

 味方に嘘を述べるのが得策ではない。

 味方には「前向きに考える」という形で道三は伝えたのだ。

 これは君主として人の心をとらえる者は常に考えておかなければ成らないのだ。

 味方に嘘を述べて計を行うと、その計を知らされたものと、嘘を付かれたものとではその信頼関係に差が生じてしまう。

 「敵を騙すなら味方から」という言葉は当時でも誰もが認知する言葉である。その中で「嘘」の中に置かれた者は、自分が信用されていないのではと錯覚する者も出てくる。

 人の心がそうした些細な事で崩れていくこと知る上では、事が治まった後の事も考えて注意しなければ成らない。

 ゆえに道三は「前向きに考える」と伝え、「沙汰を待て」と止めた上で、必要最小限の指示で行うという形にしたのである。

 

 さて…ここからは戦の演出家の手腕が問われる部分である。

 道三は先ず、笠松に布陣する安藤守成に稲葉山寄りに幾分か後退して、高台のある場所に陣を敷くように命じた。

 無論、これは木曽川を挟んで対陣する尾張本隊からすれば水計を狙ったあからさまな布陣に見える。

 また道三はその場所であえて要塞を建設するようにも命じたのだ。

 要塞と言っても木材で防御を固める程度のものだが、その作業で何日かは掛るのだ。

 対陣する尾張本隊の坂井大膳は2,3日もすると少し違和感を感じ始めるのであった。

 大膳も稲葉山が包囲されつつある状況は知っている。

 その上で今水計に嵌めようとする動きを警戒して木曽川の渡河を躊躇している自身の判断に疑念を抱くのであった。

 

 (足止め…か・・・?)

 

 大膳はそう警戒感を抱いて、木曽川の堤防付近の様子を探らせるように犬山城の織田信康に命じた。

 対岸の堤防を守る氏家直家隊は未だそこの守りを固めて、さらには可児郡の斎藤正義隊も陣容を崩していない事を確認した。

 勿論この時点で道三からの指示は双方に伝えられている。

 更には氏家直家は堤防の場所に大軍が渡りやすいように橋を拡張し始めた。

 ここまで来ると何か怪しさを感じる。

 そこで大膳は道三が今何を一番狙っているのかを考えた。

 

(尾張からの渡河の足止めで一番狙いやすいのは…)

 

 無論、誰もが気付くであろう…

 

(稲葉山を包囲する井ノ口の部隊への奇襲か!!)

 

 勿論、道三もそれを実は狙っていたのだ。

 しかし、安藤守成も氏家直家の部隊も、そして斎藤正義の部隊も未だ動いてはいない。

 大膳は策士らしく思考を巡らせて考えた・・・

 

(ならば奇襲の機会をどこかで合わせるか…)

 

 策士なら孫子の兵法の基本は誰でも知っている。大膳はそのタイミングを見極めるのに自身が渡河を一番警戒する時と考えた。

 

(雨の降った時・・・)

 

 はてさて道三との駆け引きは如何に…

 

 大膳は自身の考えをすぐさま早馬を走らせて井ノ口側の方へ伝えたのである。

 無論、信秀と宗滴という優秀な戦略家が居る井ノ口対岸でも木曽川の状況は把握していた。故に大膳の知らせに驚くことは無かった。

 恐らくはその頃合いと誰もが意識したのである。

 

 1544年10月8日(旧暦 天正13年9月22日)ついにその時が訪れた。

 さて…ここで誰もが忘れている稲葉一鉄の存在である。

 前日の夕刻過ぎに雨が降ろ始めると、揖斐城付近で潜伏していた稲葉一鉄の部隊が突如、その揖斐城を急襲した。

 勿論の事、道三より開城して潜伏することが伝えられていた一鉄はここに攻め込みやすい抜け道をあらかじめ用意していたのだ。

 更に加納口への兵力集中で揖斐城の守備は薄く備えていた事もあってそこに入っていた土岐頼純を逃がすのが精いっぱいで陥落したのである。

 この一報が尾張越前連合に伝わるや、焦りを生じさせたのである。

 道三の狙いはこの焦りを生じさせることにあった。

 井ノ口対岸の部隊は急襲がある事に備えて陣容を構えてはいたが、越前への退路と越前からの補給路を断たれたことで動揺したのだ。

 こうした動揺を察して信秀も宗滴も、

 

(道三め!!やはり備えていたか!!)

 

 と、痛感したのだ。

 いわば兵士より寧ろその動揺は越前の将たちに広がったのだ。

 彼らは孝景に、

 

「殿!!ここは先ず後方の退路を守るのが適策なのでは!!」

「根尾川との合流地点を固めねば、我々は孤立しますぞ!!」

 

 信秀も宗滴も、この動揺こそが道三の狙いであると悟った。

 宗滴は孝景に、

 

「これは敵の謀!!今動くは敵の思う壺です。ここは敵の急襲を防いだ後に対応するべきかと!!」

 

 そう伝えた。

 孝景も冷静な将である故に、宗滴の懸案を受け入れた。

 

 こうした状況は木曽川の坂井大膳の元にも届いた。

 大膳はもしやと思い、犬山の織田信康に堰のある坂祝を急襲するように命じたのだ。

 無論、無策に急襲するのは敵に備えが有ったとき大被害を被る。

 ゆえに密偵を放って、先ず様子を見させた。

 既に夜更けで辺りは暗く、雨が降ったことで月明りも無い。

 密偵は敵に悟られないギリギリのところでは敵陣に軍旗が立っていることしか確認できない。

 雨音で敵の気配は音では確認できない。

 しかし、信康はその密偵に敵陣に侵入して確認するように告げていた。まさに決死の密偵である。

 もし、その密偵が帰らぬ時は、敵はまだそこに布陣していると判断するつもりであった。

 

 戦に興じる者は様々に思考を巡らし、それぞれが慎重に対処している。歴史小説に書かれる間抜けな結末など、現実では作家の空想に過ぎないのだ。

 

 密偵は命を賭して、敵陣中に入り込んで確認した・・・

 

(誰も・・・居ない…偽兵の計!!)

 

 そう判断するやその密偵はすぐさま信康の元に報告した。

 信康はそれを聞くや大膳にも早馬を走らせてすぐさま木曽川を渡河するように告げた。

 

 大膳の元にそう伝わるや大膳はすぐさま渡河を指示した。

 勿論その場合に備えて準備をしていたのである。

 無論対岸に安藤守成の部隊が居る可能性はあった。

 しかし、木曽川の堰の決壊が無いと判断したら、大軍でごり押しすることは十分可能と考えていた。

 雨で水かさが増すとは言え、渡河するために近くに逆に堰を設けて水位を更に下げる準備をしていた為、船を使うことなく渡れる状態にあった。

 敵がそれを妨害して来ない事は状況から逆算して想定済みだったのだ。

 どんな指揮官でも様々な思考を巡らして戦っているのだから当然である。

 そして夜更けから明け方の頃合いには渡河が完了して、安藤守成が築いた要塞への攻撃が始まった。

 

 さて…こうした情報の伝達や報告は早ければ早いほどいい。

 笠松から道三が堰を設けた坂祝までは20キロほどある。

 晴れている日ならば狼煙を使う事は出来るが、雨の日ではその煙を確認するのは困難とも言える。

 そこで道三は笠松の状況を坂祝に居る氏家直家に素早く伝える為におよそ100m感覚で弓兵を200名ほど配置して、矢文ならぬ矢を届かせて伝達させる方法を用いた。

 それでも失敗する可能性を考慮して早馬も走らせるのだが…

 100mなら大方狙いを定めやすく、馬より早く伝わるのだ。

 無論、200人と言っても貴重な戦力故に緊急時にしか用いられない代物である。

 

 敵が井ノ口側への急襲へ向かったものと考えて、今のうちに坂祝の堰を占拠しようと信康は軍をそこへ進めた。

 万が一の伏兵に備えてはいたものの、そこへ突如斎藤正義の部隊が襲い掛かってきたのだ。

 さらに対岸から突如氏家直家の部隊が出現し、信康はまんまと空城の計に踊らされたのだ。

 空城の計とは城を空に見せかけて敵を策に嵌める事で、必ずしも警戒して撤退させるだけのハッタリ計ではないのだ。

 

 1544年10月8日のこの日に、信秀の弟の織田信康は加納口の戦いで戦死したとされている。

 おそらく犬山に居た彼がこうした戦いの流れで敗死したのではと推測する。

 この道三の逆転劇の計はそうした資料に基づき算出して見たものである。

 

 坂祝での空城の計が成功するや、渡河した大膳の尾張本隊は一気に窮地に立たされた。

 いわば…堰を決壊させての笠松への水攻めが可能になったからだ。

 更に大膳は速やかな渡河を狙って、自陣の近くにも堰を設けた。

 大量の水が木曽川を伝って急流のごとく流れていき、その自らが用意した堰に到達したのならこの被害は言うまでもない。

 道三の本命はここに敵を嵌めこむ事であって、信秀らへの急襲はその次なのであった。

 

 大膳の尾張本隊は無残にも命からがら逃げかえるしか無かった。

 そしてかなりの被害をここで被ったことに成る。

 この笠松から稲葉山の間に加納という場所があり、そこを中心に戦の大局が決した事から加納口の戦いと呼ばれたと推測する。

 

 尾張本隊の倒壊を得て、10月8日の早朝には井ノ口の状況は一変してしまったことに成る。

 稲葉山城を包囲していたはずの状態が、一夜にして逆に包囲される状況へと変わったのだ。

 今と成っては揖斐城方面へ守備を固めるのも危い。

 笠松で尾張本隊と対陣していた安藤守成の部隊は、結果としてほぼ無傷で動ける状態に成っていた。

 また、堰の守備に回っていた氏家直家の部隊も犬山に居た織田信康が打ち取られ、更には斎藤正義が土田に居る限り他に回れる状態になったのだ。

 

 この時、信秀は大垣の守備を警戒し、孝景と宗滴は越前方面への退路を警戒した。

 孝景と宗滴は井ノ口からそのまま北に抜けて土岐氏の守護所であった大桑城へと向かうことにした。

 そこで信秀ら尾張の部隊が殿(しんがり)を務める事にして、越前部隊を先ず大桑に向かわせ態勢を立て直そうと試みた。

 

 越前軍からすれば揖斐(北方)城を奪い返された以上、大桑を攻略し根尾川上流から揖斐川上流の道筋を繋げて美濃北西支配から再起を図る算段に転じた訳だ。

 この時点で井ノ口対岸の陣は殿を残すのみで、信秀はその西方にある鷺山城で追撃を食い止めるように後退した。

 

 越前の将たちの中には、もっと早く・・・いわば揖斐城陥落の時点で動くべきだったと不満を呈する者も出ていた。

 それを退けて様子見を進言した宗滴と信秀は今と成っては立場を失う形だったとも言えよう。

 軍というものは結果だけを見て意見が錯綜して崩れやすい所もある。

 道三は笠松の戦況が決した時点で、井ノ口対岸を急襲する考えでいたが現状を冷静に考え、迂闊に態勢を崩す状況も危いと感じ、

安藤守成には笠松での尾張本隊の残党狩りを継続させ、氏家直家の部隊のみを稲葉山城に帰還させるに留めた。

 

 無論、道三は井ノ口対岸に自軍の渡河を阻止する殿(しんがり)が待機する事、鷺山城辺りで更なる追撃を阻止するだろう配置は予想できており、無理にこの追撃で兵力を消耗することは相手にむしろ再起の機会を与えかねないと警戒した。

 しかし…長良川を挟んだ対岸の鷺山城に尾張勢が居座る状況も芳しくない。

 そうして総括して考え、時期を得て更に形勢を取り戻す意味で考えると、ここで一度休戦を申し入れる方が得策に思えたのだ。

 

 敵である越前と信秀の軍勢は今混乱しているのは定か。

 されど現状背水の陣同様に、彼らは必死で退路を生み出そうとする。

 そういう状況で追撃を仕掛けるのは時として逆に被害を自軍に拡大させてしまう。

  これは笠松の尾張本隊の様な壊滅した相手とはまた違うからだ。

 ただし、越前と信秀は必死であるがゆえに兵の士気は高いが、むしろ交渉には弱腰に成りやすい。

 道三はそういう心境も察した上であえて休戦交渉の使者を送るのであった。

 

 条件は…

 鷺山城と揖斐川と根尾川の拠点を放棄しろという条件で、越前と信秀の撤退を保証するを交換するという形で休戦を申し入れたものである。

 この交渉に美濃側から赴いた使者は堀田道空であったとしよう。

 

 道空は先ず越前の朝倉孝景の下を訪れて、南方からの尾張本隊が瓦解した以上、美濃兵は集中して越前と信秀の部隊と対峙できることを説いた。

 その上で…

 

「双方がぶつかりあえば双方で激しい戦闘に成るのは必至。」

 

 道空はあえて美濃が孝景らを侮っていない事を述べた上で、

 

「その上で美濃は必ず勝利するつもりでおります。こちらも必死で挑む所存・・・それゆえの被害は覚悟の上です。」

 

 そして続けた

 

「その上で越前側は退路を断たれた状況で、我々に必死に成って挑むが得策と考えられるか?」

 

 道空はそう相手を諭すのであった。

 

「ここは是非、痛み分けという事で一旦兵を引かれる事でいかがでしょうか?」

 

 道空はハッタリを述べるわけでもなく、双方が甚大な被害覚悟で挑む形が越前側にとって既に大きな賭けでしかなくなる点を強調したのだった。

 孝景もそういう言われ方をすると、ある意味今博打を打つよりも、安全にここは退けるべきかなと冷静に考え始めた。

 そばで聞いいていた宗滴も流石に勝てるかもしれないが、五分以下の博打ならばと孝景に耳打ちした。

 

 こうして道空は先ず越前側の撤退を確約させたのである。

 そしてそのまま信秀の鷺山城に赴き越前側との交渉の結果を通達した。

 信秀も流石に尾張本隊に続き、越前までも撤退すると成っては、むしろ笠松の安藤守成に大垣を急襲されては退路を断たれるどころではない事は察した。

 寧ろ信秀は多くは聞くことなく大垣に撤退する旨を道空に告げその上で休戦を全うするように求めたのだ。

 

 史実にある1544年10月に起こったとされる加納口の戦いは先ずもって休戦と言う形で幕を閉じたのである。

 されど…歴史的な記録上では1547年説または1547年に2度目の衝突があったと記される上で、この戦いは天文16年9月22日(1547年11月4日へと休戦を得て続くものとする。

 

どうも・・・ショーエイです。

ちょっと加納口の位置が最初よくわからなくて、

井ノ口の対岸を加納口と考えていたわけですが…

何と…加納という駅が岐阜駅のそばにあるでは無いですか!!

 

ある意味資料上の逆算みたいな形で軍を動かすように

この戦いの構成を考えていたのですが…

何気にこの戦い「加納口の戦い」とも「井ノ口の戦い」とも記されており、結果として岐阜駅の南方の場所が加納と呼ばれる地だと判明した後でも、この構成は寧ろ問題なく成立するものであったことに成ったわけです。

 

元々地名を勘違いしていたけど、笠松の木曽川方面の戦いにも焦点を当てていた為、むしろそこの決着が加納口にあたる事に成ってたわけです。

 

更に色々な資料と照らし合わせて、

木曽川で2、3千人がおぼれ死んだとかいうものも含めると、

この戦いの概要はこうした流れであったことが妥当と考えられます。

とにかく道三は圧倒的不利な状況を打開したのは事実な訳で、

その意味の明確な資料は実は存在もしてません。

 

想像力をフルに働かせて

リアルにその逆転劇を再現してみた訳ですが、

何気に史実の戦いは

こういうものであった感じに成ったのかなと

ちょっと満足しております。

 

その分、かなりの時間を擁しましたが・・・

 

さて次回からはいよいよ信長たまの元服への過程で話を進めます。

とりあえず加納口の第2戦目は・・・濃姫こと帰蝶との関係性へと結びつけていきます。

ちょっとフィクション的な要素も含めますが・・・

実際に信長たまはこんな感じだったという所で、

史実資料から外れない形で今後もお送りして行きたいと思います。

【第二十九話 尾張と越前】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕修正版

 

 道三が籠る稲葉山城から長良川を挟んで対陣する尾張越後の連合軍。この場所はその長良川を挟んで稲葉山城下がある道三側の場所を井ノ口と言うらしい。加納口はどうやら現在の岐阜駅南東の名鉄名古屋線加納駅辺りをいうらしい。

 その井ノ口の対岸に布陣した尾張の信秀、そして越前の朝倉孝景は火矢での攻撃や夜襲を駆使して、稲葉山城下の井ノ口を破壊した。

 いわば道三方への経済制裁の意味があったのだが、最終的な補給路は井ノ口から稲葉山城を完全に封鎖しなければ成らのだ。

 尾張朝倉連合の中には、総兵力1万5千ある為稲葉山城包囲に十分と唱える者も居た。

 しかしそれに異を唱えるのが朝倉宗滴であった。

 長良川を挟んだ対岸から井ノ口へ渡っての布陣は、兵法上背水の陣になり、こうした兵法を熟知すると勿論嫌う。

 ただ大陸の楚漢戦争の歴史に於いて漢の名将韓信が背水の陣を用いた例を挙げて、そう主張する者も多かった。

 戦は戦費が嵩張るもの、それ故に早期決戦を目指してしまう思考が頭をよぎる。1万5千人分の兵糧を運び込むのも大変な労力だ。

 更に言えば稲葉山城は敵の本営。故に敵は既に追い込まれたものとも考えてしまいがちになる。

 そういう周りの雰囲気の中で、宗滴は今はまだ時期尚早と異を唱え続けた。

 朝倉孝景も国の経営を考える身ゆえに、どちらかというと早期決戦に傾いてしまうのだ。

 周囲が焦りを示す中で、信秀とその参謀の林秀勝は宗滴の考えに同調したしたのだ。

 

 信秀は相手が道三である事を伝え、南方から攻め入っている笠松の状況が膠着している状態では、背水の陣を敷くことは命取りに成ると説明した。

 いわば長良川の上流は道三方の手にあり、水計を以て長良川の両岸が分断されれば、井ノ口の方は退路も失い大損害を被るのである。

 ここでいう水計とは、かの小説などで諸葛孔明が敵を一網打尽にする様な形とはまた異なり、上流の決壊で洪水を齎し足場のぬかるみなどを作って相手の動きを鈍らせるという程度の効果しかない。

 ただし井ノ口は稲葉山の真下にあり、稲葉山は高所に成る分、地の利を得て足が鈍った敵を弓矢で狙い撃ちしやすくなるという効果も発生するのだ。

 また水害は数日で収まるわけではなく、それが収まったとしてもその足場の悪い状況は中々改善されない。

 勿論知恵を絞って船などを活用して対策を練るような考えもあるが、結局井ノ口を破壊してしまった事が、むしろ敵に最良の視界を与えてしまったことに成り、船を以て逃げるにしてもそれも敵の的の対象と成に成るのだ。

 更には補給した物資もそこで無駄になり、結果包囲は崩れて撤退を余儀なくされかねない。

 

 口達者な信秀は宗滴にに代わってそう伝えたのだ。

 見事なまでに自分と同じ考えを代弁してくれた信秀に、宗滴は一目を置くのであった。

 

 結果、孝景は宗滴らの戒めを理解して笠松の戦況が動くまでは暫く対岸に布陣する事に決めたのだ。

 

 無論、長期戦が厳しいのは道三の方も同じである。

 城下町の井ノ口があそこまで破壊された上では、むしろ敵が井ノ口に布陣してくれることを期待した。

 そういう意味で信秀が警戒しているような備えは十分であるが敵は対岸から動かないのである。

 戦上手な者同士の戦いとはこういうものお互いに都合よく隙を見せてくれないのだ。

 いかに兵法を熟知していようとも、結局はこうした駆け引きを知らねば常に失態を演じる愚者と成るが常だからである。

 故にここからの勝敗は更なる展開の発想力が決め手と成ってくる。

 かの諸葛孔明の軍略もそうであるが、動かぬ敵を動くように仕向けるのがその発想力の根源である。

 とは言え、動かぬ敵を動かすのは中々難しい。

 

 では…道三はどう考えるのか…

 今の目的は…敵を井ノ口に布陣させたいのだ…

 

 そこで笠松で膠着している尾張の本隊が動き出せば、長良川対岸の部隊は井ノ口に入り込んでくる…無論、尾張本隊と信秀が居る越前との連合軍の合流は避けねば成らない…

 

 そうやって一つ一つ分析しながら何が可能かを考えるのだ…

 

 そこで…対岸の井ノ口側の部隊は動かせずとも、尾張本隊は動くかも知れないと…そういう閃きで道三は頭を切り替えていくのだ。

 

 井ノ口に対陣されている状況は、敵はこちらの不利を予測する。

 ならば突然笠松の部隊が後退したとしても、敵は自然な行動と認識するだろう。

 問題は…笠松への備えとして木曽川に設置した堰の決壊を警戒するか否か…

 ここが警戒されると…恐らく敵は動かない可能性もある…

 いわば道三は自ら笠松へ尾張本隊を渡らせないように備えたものが寧ろ邪魔になってくる事を理解した。

 

 道三はそうやって状況の欠点をも見極めながら考えを巡らせた。

 無論、木曽川の堰を捨てるわけには行かない。その条件でこれをどう謀るのか・・・

 

 道三が状況の打開を試行錯誤している中、井ノ口の対岸に布陣する尾張越前の連合軍では、軍議の後、しばしば親睦を深める酒席が設けられた。

 ここで多くの人は勘違いしがちだが、尾張の織田信秀と越前の朝倉孝景は同格の扱いには成らないのだ。

 元々は織田と朝倉は斯波氏を主家とした家臣団である。

 しかし、そうした意味でも孝景は越前の守護代に成るわけで、尾張の守護代はあくまで大和守家であって、信秀の弾正忠家はその下の扱いに成る。

 応仁の乱以降、朝倉家は斯波氏から独立した存在と成っており、そういう意味では越前守護で尾張斯波氏と同列に成る。

 加納口の連合軍の大将はその朝倉孝景であり、信秀は尾張から派兵された援軍の将に過ぎないのだ。

 

 信秀が宗滴に同調して井ノ口へ布陣の不利を解いた後の酒席の中で、突如当主の嫡男自慢が話題に上がった。

 ここでいう当主とは朝倉孝景と信秀のことに成る。

 

 孝景の嫡男は後の朝倉義景ことで1533年生まれで、1534年生まれの信長とはほぼ同年代に成る。

 その義景は孝景が41歳の時にようやく生まれた男子だったという。史実上幼少期の記録はほとんど残っていないようだが、幼名は長夜叉であったという。

 その長夜叉こと義景はこの1544年時点では11歳であり、吉法師はまだ10歳である。

 そんな次期朝倉家当主となる長夜叉の話を朝倉家臣団が持ち掛けた。

 

 「大殿(孝景)、そういえば長夜叉(のちの義景)様は最近、孫子を諳んじたとお聞きしましたが…」

 

 「諳んじているとは言っているが…まだ11を数えたばかりで愛読しているに過ぎないだろう。」

 

 「とは言え、あのような代物を愛読できるとは何とも末恐ろしいですな。」

 

 後の朝倉義景は博識という意味では優秀だったと言える。

 多くの作品では凡庸な人物に描かれるが、むしろ現代風の高学歴なエリートの典型と言っても過言ではないだろう。

 

 「まあ、勉学に熱心なのは頼もしい事は確かだな。」

 

 孝景にとって晩年の子ゆえにより可愛いのであろう。孝景は気分よくそう語った。

 そして孝景は信秀にも年の近い子息がいる事を思い出して、

 

 「ところで信秀殿のご子息も、ウチの長夜叉と年が近いと聞いているが…」

 

 無論、多少酔ってはいると言っても信秀は立場を弁えていた。

 自慢気に吉法師を立てるのではなく、むしろ話を盛って場を盛り上げることに徹したのだ。

 

 「ウチの嫡男は、勉学など全くそっちのけで遊びほうけております…いや長夜叉様がうらやましい限りですな…」

 

 そして更に場を盛り上げる意味で、

 

 「孫子などを読めと申し付けても、この言い訳が何とも大たわけでしてのう・・・」

 

 話し上手な信秀は少しタメを作って周囲の興味を煽るのであった。

 

 「はてさて、いかように・・・」

 

 信秀は周囲がそうして興味を示した事を確認して

 

 「それが…孫子なんぞ自分で考えるから要らぬと抜かしよったのですわ」

 

 すると周囲はその突拍子もない子供の言い訳を聞いて場は大いに盛り上がった。

 

 「ははは、それは何とも大それた言い訳かな・・・子供らしいというより大そうな大物ですな。」

 

 実情を知る林秀貞は寧ろ悩まし気な表情を浮かべていただろう。

 それ以外の者は吉法師のうつけっぷりに大笑いして信秀のネタを楽しんだ。

 孝景は寧ろ信秀の話の上手さに一目を置くのであった。

 その周囲の殆どが、信秀の口上のネタか、またはその大たわけぷりを楽しんだのだが…そこに朝倉宗滴ひとりは別な見方で興味を示したのだ。

 史実の資料としてこの朝倉宗滴が死ぬ間際に信長の行く末に興味を示していたという事は有名な話である。

 朝倉をその後亡ぼす事に成る信長で、まだ尾張の隣国というほどではない越前の宗滴が信長に興味を持っていた事はある意味不思議である。

 その宗滴の死は1555年で、桶狭間の戦いも終わっていない、また弟の決着も着いていない時分の事ゆえに、なぜ信長を気にかけていたのかという見識には些か不思議に思う点がある。

 

 先見の明とは些細な情報から直感的に派生するものを分析して見極めるものである。

 宗滴は信秀の口上であると知りながらも、むしろ信秀が冗談語ったその教育方針に何かを感じたのだろう。

 先の作戦会議で宗滴は信秀の才覚に一目を置いた。

 その人物が話を盛ったであろうと知りつつも、自分の嫡男に自らで考えるという教育を施していると考えたのだ。

 無論この時点ではそれが成就するという保証はない。

 宗滴自身が多くの戦を経験した事で、戦が書物通りに流れわけではない事を知っている。

 現代風にビデオゲームを題材にゲーム理論的な要素で伝えるなら、書物はその攻略法である。ビデオゲームの様にプログラム化された内容で進行する出来事ならそれで攻略することは可能だろう。

 しかし、一般的に使われるゲーム理論では、孫子の兵法で記された「兵は詭道成り」と同じで、現実社会は騙し合いの世界であり、そこに協調や協力の必要性を説いたものと成っている。

 いわばその中での判断力は、自らの思考力が試される場で単純に攻略法的な知識が試される場では無いのである。

 

 政治をゲームの中に盛り込むと、善良な言葉を吐くことが一種の攻略法的な要素として認識される。

 しかし、情報社会でマジョリティである人々の思考が偽善という言葉の有り方を意識すると、その善良な言葉だけでは意味がなくなるのだ。

 思考力の無い人間はこの攻略法に基づき、偽善を貫こうとするが、社会営利の関係でその偽善を暴こうとするものが存在したりすることでその偽善は淘汰されることにも成る。

 ゆえに思考力の高い者は自らが偽善になる事を避け、むしろ人間としての自然な言葉を用いてそこに説得力を込めるのである。

 いわば状況を適切に見極めて今何を伝えるべきかを把握してそこに言葉の重みを与えるのである。

 これは戦いの場に於いても同じで、状況を見極めて今何をするべきかで勝敗の行く末を有利に進めなければ成らないのだ。

 

 宗滴にとって朝倉の行く末を考えたときに、長夜叉が孫子を諳んじて喜んでいる事よりも、むしろ信秀の様に自分で思考させる教育の方が理想的であると感じた事が切っ掛けだったのかも知れない。

 

 故にこうした酒席での切っ掛けで信秀と宗滴の間で何らかの交友関係が生じて互いに文のやり取りがあったか、または宗滴自身の興味から様々な文化人を通じて義景と信長の成長を比較する意味でその情報を収取していたことも考えられるのである。

 

 もしこの加納口の戦いが1547年説に従っていれば、吉法師は13歳で、この話の筋書きとして、戦ごっこに明け暮れている事、または灌漑工事を齎した様な話が伝わって宗滴の興味を惹いたという流れも考えられる。

 しかし、ここでは1544年説としているため、それらの内容は後に宗滴が個人的に取得する以外、尾張と越前に接点が無くなるのである。

 

 こうして酒席を交えて信秀、宗滴二人の知将が理解を深めた形で越前と尾張の団結は強まったわけであるが…

 ここに道三の謀(はかりごと)が如何にして襲い掛かるのか…

 

 いよいよ加納口の戦いは決着へと向かうのである。

 

どうもショーエイです。

【修正版の理由】

加納口の戦いとされる加納口がどこにあるのか・・・

中々よく解らなかったため、最初は井ノ口の対岸と考えていた。

ところが…地図を見ると岐阜駅南東の名鉄線駅に加納という駅があるでは無いですか!!

 

それでも侵攻ルートの計算上では、長良川を挟んだ井の口の対岸が尾張越前の布陣する場所と考えます。

大垣から長良川を渡って今の加納駅辺りに布陣する場合、恐らく退路が断たれる危険性がある。

木曽川から北上して加納口に布陣した場合だと、むしろ道三の逆転劇は難しくなるのです。

 

加納口の戦いなのか井ノ口の戦いなのか名前が2つある所以。

こうした事も踏まえて形で考えて行く感じで構成していきます。

 

 

【修正前↓】

朝倉宗滴が死ぬ間際に、信長たまに言及していたという資料を目にしてかなり困惑しました。

本編でも書いたように、1555年に亡くなったとされる宗滴が信長たまの大成を予言していた根拠をどう辻褄合わせて考えるか…

実はこの戦いで信秀と宗滴が一緒に戦っていた資料が有ったのでここでの流れが切っ掛けだろうとは推測出来たものの、1544年説と1547年説とでは信長たまこと吉法師のエピソードに違いが生じるのでかなり悩みました。

1547年説ならもっと興味を惹く内容で宗滴に伝わったと思うのですが、どう考えても1547年説では無いと思うので1544年の時点である意味まだ良い子に近い吉法師にどう興味を持たせられるかで試行錯誤していたわけです。

 

さて…ウクライナ情勢…

既に3か月以上経過して、世の中もこの情報から熱が冷めてきた感が有ります。

ゲーム理論の中で少し語った状況の流れというのはこういう事も当てはまるのです。

戦争の優劣も、いささか変化しており、今後またどう変化していくのか正直解りません。

ただウクライナが巻き返すとか、ロシアが圧倒するという予測を立てるのは寧ろ愚かしい人のやる事で、自分に主導権のない出来事に対しては柔軟に見極める必要性があると言えます。

 

その中で違和感を感じる点は、ロシアが最新兵器の投入をまだそんなにしていない事。

背後に潜むNATOや米軍の情報収取を警戒しての事なのか、それとも技術的な事情で出来ないのか…

いわば後者の可能性を予測してウクライナが巻き返すと考えると、前者であった場合、その思考は後手に回ります。

逆にここまでの流れではロシアの作戦実行力が機能しなかった点が明白と成って事ですが、今後ここが修正されてくるのかは考慮しなければ成りません。

また兵の士気に関しても、意外とここまではモロかった印象が有ります。

ただ、そのことがNATO諸国に馬鹿にされていたことでロシア兵がどう考えてくるか…悔しいという気持ちを抱くのか、それとも諦めムードが漂うのか…正直ここも解りません。

 

当方はここまでロシアを過大評価して考えていた感が有りますが、それは結果です。

ウクライナを過小評価する感じでは考えていなかったので、いわば現状ウクライナにとってロシアに脆さが有ったのは運が良かったというだけの話です。

 

今後の展開もロシアの脆さが浮き彫りに成ればウクライナはいい形に展開すると言えますが、その脆さが修正されてくるとまた展開は変わります。

 

ニュースなどでは英軍の見解が良く出てきて、米軍の見解はあまり出てきてません。

英軍はロシアが脆いという点を指摘してウクライナが優勢に成る事を主張してますが、米軍は一応ロシアを過大評価して見続ける感じで考えているようです。

 

さて…兵は詭道成り

常に敵を過小評価して見ようとすることは、その過小評価に謀略があった時に予測しなかった奇襲を食らうのです。

いわば敵を油断させていた場合です。

過大評価をすることは常に相手がやりうる事を想定して考えます。

故にその警戒を越えた奇襲でない限り、そこに対処することはでき、また奇襲を受けた場合でも被害を最小限に止められます。

ここは現状でロシアがウクライナを過小評価していた可能性で考えられる部分で、ロシアはウクライナの反撃で大打撃を食らった感じです。

 

情報を過信して過小評価することは、それだけ準備の費用も時間も抑えて対応できる分、ある意味労力が抑えられます。

誰もが最小限の労力で戦いたいと考えるのは人間の嵯峨です。

逆に過大評価をして挑む場合、むしろ無駄なこともしなければ成りません。

この無駄なことを嫌う人が多いので、出来る限り情報収取を信じて対応しようと考えたくなるのです。

ところが予測と違って混乱してしまうのは前者の方で、後者はあらゆる予測に対応している分、混乱せず冷静に対応できるのです。

ここで実は大きな差が生じることを「兵は詭道成り」の一文に盛り込まれているのです。

 

無駄な労力に兵力を割けるように大軍を維持しておきたいわけで、ウクライナに対してロシアはまだそれが可能であるのです。

寧ろウクライナは無駄な兵力を割ける余裕がない分、そこを抑えて戦わなければ成りません。

ところがロシアをウクライナが過小評価する事は、こうした状況に博打的な奇襲で挑みがちに成ります。

その奇襲が運よく成就すれば良いのですが、運悪く失敗した際にはそこで貴重な兵力を損失します。

 

歴史的な評価では、織田信長も諸葛亮孔明も奇襲をあまり用いなかったとされてます。

実は相手を過小に考えて戦うことを嫌い、むしろそれで失敗した際のリスクを恐れたのです。

 

ただし…

これはブログで何度も書いた内容で、魔仙妃の言葉として伝えている事ですが…

 

「確率あるところに可能性有り、その可能性を確実たるまで練り上げて実行する事、これ奇策なり」

 

と、いう言葉です。

いわば奇襲も確実に成就すると判断できるものなら実行するのです。それだけ用意周到に準備とタイミング見計らって実行するものであると伝えておきます。

うつけの兵法では、これが桶狭間の戦いに用いられるわけですが、果たして桶狭間は奇襲になるのか、それとも正面突破だったのか、その実態を期待しつつ是非ご覧いただければと思います。