43.翁久允さん(富山ペンクラブ)

1961年の4月8日、三尊道舎で「筆塚」の除幕式をあげた。これは、私が「八庭園」というものを築造して道舎のぐるりに33の石を配し、それらの名を仏様や神仙、高僧、教理などの表徴としたのである。「見る庭」を作ると金がかかるので「聞く庭」を作ろうと構想したのだ。庭はいうまでもなく自然の縮図だが、自然はいつ見ても飽くことがないが金ばかりかけて人工を凝らした庭は飽きのくるもので、私はそんなのが嫌なのである。そこで、なるべく金をかけないで、なるべく自然らしいもののなかに金にしたら安っぽい普通の石をあちこちに座らせて、その石を神仏その他の表徴として立派な名を附し、毎朝その庭を清掃することによって私の精神を修養しようと思いたったのである。三十三というのは観音の王国を表徴したもので浄土のつもりである。だから見た目では「なんだ、こんなものが庭か」と、庭なるものを迷信しているものには思われるような庭である。しかし、石の名を一つ一つ説き出すと仏や神の説法となるのである。それが「聞く庭」だ。自然は実は説法なのである。「筆塚」は、人類が文字を初めて書き出したことによって今日の文化を築きあげた事を記念しようとしたものだが、それを管公の表徴としたのである。管公は詩人であり政治家であり、また書家でもあったからである。この庭にはもう一つの塚がある。それは茶の元祖と伝説される陸羽仙人を表徴した「茶筅塚」である。

筆塚の除幕式が終わってから毎年のことながら道舎では無礼講な宴がはじまる。その席上、文筆を弄するグループの談論が風発しだした。これを機縁に文筆を弄するものどもの何かのグループを結成しようではないかという声の高まりだった。それが「富山ペンクラブ」誕生の発端だったのだ。

筆塚に「ペン・クラブ」とは、東洋と西洋のごちゃまぜのようだが、日本ではもはや原稿一枚書くにも筆など使うものがなくなったのである。と言って「ペン塚」もおかしい。西洋のペンは日本の筆という意味でこの名を附し現代ぶったわけである。「筆クラブ」ではビルディングへ下駄ばきで行くような気がしたからだ。今ではペンクラブという名称は世界的になって、各国の文筆で飯を食っている人たちが、代表者を往来さして盛んに「いわゆる文化交流」というものをやっている。

われわれのクラブは、そういった偶然の機会に突然結成されたものだから「法三則」的なものさえないのである。誰でも入会したいものは「よし、よし」と受け入れる。いやになったら自然消滅となるのである。こうした状態もいつまで続くかわからないが、現在はこうなのである。

そのうちに一年たった。メンバー達はあちこちの新聞や雑誌に富山ペンクラブ会員として盛んに気炎をあげた。彼らは職業的文筆家ではなく全くのアマチュアで文筆愛弄家たちなのだ。誰いうことなく一周年記念として随筆集でも出版しようじゃないかということになった。それが本書である。

出版にはそれぞれの目的がある。しかし、この出版にはこれという目的がない。30人の道楽者が自分たちの好き放題なことを書いて一家の風を吹かしているのである。道楽だから各自費出版となった。

ここに一つの溜池がある。そこへあちこちから細い川が流れてきた。川の水にはそれぞれの味がある。清いものもあれば濁ったのもある。魚類や虫類などがその水の質を慕って棲息している。そうした30色の水が一つの溜池となって秋の紅葉を反映しているというのが本書である。

富山県に「ペンクラブ」さんというグループの出来たのも郷土文化史上これが初めてであり、こうしたものを出したのも初めてである。溜池の水が飲めるか飲まないかわからないが、せめて立山連峰を背景とした水面紅葉の反映に何かを感じてもらったら小川の流れもささやきを新たにするであろう。

1962年清秋 三尊道舎八庭園にて

(昭和37年、富山ペンクラブ随筆集)

「ちゃべちゃべ」でとやま心を話しましょう