SSブログ

鉛直から水平へ [中庸]

ご無沙汰しています。
更新しなかった理由はひとえに世間を賑わせている旧統一教会の問題を起点になぜかアクセス数が激減したからです。
まるで宗教そのものや宗教を扱う人にとにかく関わりたくないといった感じが伝わってきます。
私は本来の「道」を促し、逆に組織宗教の間違いを根本的に正すべくずっと前から活動しているのであって、繰り返しますが、もしそうなら、町の美化に努めるごみ屋さんを「汚い」とか「汚している」と見るくらいに心外なのです。
まあ私の方の内容も新鮮味がなくなったことは否めませんけど。
と言いながら結局、私は最近の世の中を見ていて同じことを思うだけです。

相変わらず宗教に関して日本では、「宗教団体に入信する」か「無宗教」かの二者択一になっていて、上記のように関わりたくない人たちは「無宗教」が健全だと思っているようですし、入信者の中でも純粋に信じる人は認めるけど純粋でない信者は排除するべきだと、そしてそれを「カネ目的か否か」で分けているようなのです。
まったく思考が地上的ですね。
というわけで、今回も【鉛直から水平へ】です。
それに尽きます。

日本の法律で「信教の自由」を認めていると言いますが、それが「性善説」に基づいているとネットの記事で言っているのを発見しました。
ところが、ネットで調べると、
「性善悦」をビジネス上で使用する場合、「性善説」の意味は本来の意味ではなく、
「間違った解釈」=「人の本性は善だから信じてよい」
という意味で使われることが一般的だといいます。(性悪説の対極として)
でも「それは間違いです」
と専門家は言っています。
そこまでは良いのです。
でもどうして間違いを引き起こすのかについては何も言っていません。
ならば、本来の意味とは何か?
専門家はただ、
「人間の本性は善であり、努力の有無など後天的な要因によって賢人や聖人になったり、悪に走ったりする」
とだけ解説しています。
これでは考える習慣に乏しい一般人は、「本性の善」というものを地上の延長に求めてしまい、
「賢人や聖人になって悪や欲が消えてなくなる」
「地上的道徳的に良い人間になる」
と履き違えてしまいます。【*】
賢人や聖人みたいになるというのは、道徳的に立派な人間になることではないのです。
むしろ有言不実行みたいなところがあります。
賢人や聖人というのは、中庸の実践によって、そういう地上の〈善悪〉を含んでいながら超越するだけなのです。(神のもの)
けっして悪や偽善が消えるわけではなく、一方的で極端なことをしなくなるだけです。
なので、どんな人でも本人の意識の有無にかかわらず、地上の道徳や法に触れることをする可能性があるということです。(カエサルのもの)
ネットの専門家はなぜかそこを指摘しません。〔宗教や哲学と関連付けていないのかもしれません〕
どうもこの「本性」というのが履き違えのもとだと思えます。
「本性は善」の善は地上の〈善〉ではなく、善悪を超越した《善》なのですが、専門家はそこを押さえていないのです。
たしかに本性に仏性が備わっています。
でもそれは地上における〈善〉と〈悪〉を含んでいることを意味します。
ある物体に光が当たって、明暗ができることを想像していただきたいのですが、それはどこかに「光源」があるからだとわかります。
ただし光源自体は地上生活では直接見ることはできません。
孟子の言う善とはこれであり、地上を超越した高い次元の《善》のことです。
神仏の光が人間には備わっているからこそ、地上ではそれが〈善悪〉となって表れるのです。
それを知ることで、明暗という〈影〉を盲目的に追わなくなるわけです。
西洋流に言えば、愛(love)から派生されて、地上では情愛(affection)と非情(heartlessness)に分かれるのです。
これは人間だからであり、他の生き物には悪も偽善も、情愛も非情もありません。
人に施す場合や人から施される場合に、純粋か不純かを気にする必要はないというより無意味です。
本来の《性善説》を持ち出すことは、自分自身の施しの中の不純さに悩む人、他人から受ける施しの中の欺瞞を気にする人を、「純粋なものなどない」と諦めさせることで安心させることです。
不純な動機や欺瞞があることこそ、人に仏性が備わっている証しなのだと思うことが肝心です。
それが人間であり社会なのです。
「全知全能であるはずの神はなぜ人間社会の悪を野放しにするのか?」
と疑問を抱く人がいますが、まったくわかっていないのです。
地上の〈善と悪〉は神の人間による顕れなのです。

【*】勝手な想像ですが、孟子が唱えた《性善説》を一般庶民は理解できず、善を地上の延長に求めてしまったことで、後輩にあたる荀子がそれに歯止めをかける形で性悪説を唱えたのだと思われます。
こういうことは古今東西で起きたようです。
ルターの宗教改革でも本意を庶民が理解できずに地上的な攻防に(つまり鉛直から水平へと)移行してしまったようです。
「人間の罪は神のみが宥すことができる」
教会の地上的権力を「超越」することを唱えたはずが、一般民衆はそれを「否定」することと履き違えた(農民戦争)と思われます。
地上の権力や上下関係は方便(神の反映)としてあることを認めながらも、一面的な服従や対立に終始しない《カエサルの物はカエサルに、神のものは神に》という霊的に高い視点を設けることが所詮は多数派の人間にはできないのでしょう。

聖書に記されているイエスの言葉、
「金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しい」
(ある貧しい女性がなけなしの金銭を寄付したのに対して)「この女性は天国に行く」
これらは、《カネが有るとか無いかという〈執著〉を捨てること》を意味していますが、これさえも、〈カネそのものを捨てること〉が天国なのだと曲解する人たちが後を絶ちません。(どこかの宗教団体における財産没収に似ていませんか?)
まさに「鉛直から水平へ」の愚行です。

15年前のT校におけるA主任との対話を思い出しました。〔詳しくは当ブログ『いま学校では』にあります〕
池田晶子女史の「人権が天与のものなら、なぜそれをわざわざ人間の法の言葉で表すのか?」
の問い掛けにA主任は、
「現実には人権が充分に与えられていないから、人間の法でそれを補ったんだよ」
と即答しました。
これもまさに「鉛直から水平へ」の愚行です。
賢人や聖人による《崇高な思考や霊的自覚》を促す活動を、世間はどうしてこうも地上的攻防にすり替えるのだろうかと呆れる次第です。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。