SSブログ

いま日本で何が起きているのか? [霊的存在]

いま、日本は暗いニュースで溢れて、嫌になっている人も多いと思います。
何が原因なのでしょうか?
どうすればいいのでしょうか?
おかしいとは感じているでしょうけど、何がどうなのかわからない人も多いと思います。
どうやら、外部ではなく、人の内部に原因がありそうです。
私に言わせれば、思考に原因があります。
対策とは解決ではなく思考の「明透化」、そして「解消」です。

★では、いま日本で何が起きているのか?
例を挙げるとこうです。
ゴルフ場のティーグラウンドは男性に比べて女性用は前にあります。
れっきとした〈差別〉です。
男女の身体的特性に合わせた「必要な差別」です。
ところが、女性はむしろ優遇されているにもかかわらず、
「女性を侮辱している」
と取る人がいるのです。
そして、それに反応して騒ぎ立てる変な第三者、その中に影響力を持つ要人や為政者がいます。
これが今の日本のすべてです。

〈平等〉という劇薬の副作用であり、〈女尊男卑〉になることさえあります。
問題にしなくていい差別や、必要な差別に対してすら、
「どう思ったか」
を問題にする輩が多いのです。
厄介なのは、そういう輩は、
【悪く思うこと】が【差別】だと言うのです。
その輩は、人が良かれと思ってした行為に、『負の価値』を勝手に付随させて非難するのだからたまったものではありません。(もちろん「思う」だけなら「問題」にすることはないのですが)
おまけに、「ティーグラウンド」を男女に分けたこと自体は【差別ではない(区別だ)】と言い出すのですから呆れます。
もっとも、話にならないから取り合わずに放っておけばよいのですけど、そういう輩に乗っかって一緒に問題にして非難する〈性善説〉を履き違えた左系の変な「第三者」がたくさんいるのも事実です。
この第三者が、いつも言う「何も考えていない人」です。
そういう輩が活躍すると、為政者などの影響力のある人たちが動き出し、まともに【言葉】が使えなくなり、世の中が息苦しくなり、他人と関われなくなるのです。
これでは社会が硬直しやがて崩壊します。
そして、賢人は隠遁します。
地上の法は、何かトラブルが起きた時にスムーズに「解決」を図るために「予め」決めておくものであって、けっして起きる前から「意識」して行動するためのものではありません。
地上の道徳は、トラブルがなるべく起こらないように、予め用意した偏った思想であって、むしろ「無意識」に行動できるのが望ましく、単に秩序を保つための方便(仮のもの)だということを省察する必要があります。
それがわからないのが(考えていないのが)、今の日本人の多数派です。
地上の〈仮の掟〉に帰依してしまって「野暮」が蔓延しています。
〔*言い訳をしてはいけない、プライド(自尊心)があってはならない、と「使われている者同士」が言い合っているとか、キリがありませんが〕

★今年の正月に古い友人の所へ行った時のこと。
法学部出身の友人が、未必の故意など、お得意の話をしていた時に、私はトイレに行く途中で、彼に問いかけました。
「死刑執行人は殺人罪にならないの?」
すると彼は、
「それは、手術の時に執刀医がメスで身体を切るのと一緒だ」
と答えました。(なぜ単刀直入に「立場が違うから」とか「はじめから偉い人がいなければ社会が成り立たないから」と言わないのか?)
私がトイレに行くので、途切れてしまいました。
その続きはありませんでしたが、彼に訊くつもりでした。
「じゃあ、執刀医は傷害罪にならないの?」
「なんで?」
おそらく、彼はこう答えたでしょう。(答えたがらないかもしれません)
「大義名分だよ」
そうです。
死刑も禁錮刑も、物質的には「殺人」や「監禁」と同じ行為です。(「いや、死刑は殺人ではない」と言い張る人もいます)
殺人や傷害、監禁も、物質的に同じ行為であっても、立場によって全く別の評価(言い方)になるのです。
つまり社会には「義」において必要な「悪」があるわけです。
ついでに言うと、「はじめから偉い人」がいなければ社会は成り立たない(秩序を保てない)ということです。
それを認めることです。(民主主義病、悪平等に冒された日本人には抵抗があるようですが)
「差別」も同じことです。
〔もちろん、秩序を保つことは平和や人間の幸福のための方便であって、平和や幸福そのものではありません〕
それがまったくわからない人が日本人にたくさんいます。
というより「何も考えていない人」が溢れています。
「平等だ!平等だ!・・・」
と地上的思想(小善)の一点張りで。(偉い人はみんなが決めるんだ!・・・と左翼系が)
その根源はやはり絶対的客観的なもの(適切か不適切かなど)があるという前提で思考や議論を始める「唯物論(実在論)」です。

*今、性加害が取り沙汰されているけど・・・。
両者の言い分が食い違い、「訴訟合戦」に及んでいます。
これもまた、ひとつの物質的事実に対して、特に初めに訴える側に、〈意識〉においても客観的絶対的なものがあるという前提(唯物論・実在論)が頭にこびり付いているということの顕れです。
〔*進化論を絶対的なものと見なし、生物が進化して人間が生まれた(物質の運動から知性が生まれた)というのは「事実なんだから」と言い張る共産党員を思い出します〕

★〔ネットの記事〕
【米兵に体を売る「パンパン」を笠置シヅ子は差別しなかった…夜の街に立つ娼婦とも友人づきあいをした情の深さ】
〔ある人「Iさん」のコメント〕
職業に貴賎なしと言いますが、昔も今も「大あり」だと思いますけどね。(個人の感想です)
〔それに対する私のコメント〕
自分が思うことはともあれ
「語り得ること」
客観的絶対的なものがあるとするのは
「語り得ぬこと」
ただそれだけ。(内側から境界付ける)
〔▲9 ▼0〕
*この場合も、「差別しなかった」ではなく、「侮蔑・排斥しなかった」と言うべきでしょう。
「パンパン」という職業に対して、誰でも何らかの思い(善悪・優劣などの価値)はあるはずです。
現象界・差別界ではともあれ「差別」をしているのです。
「言葉」で分けているのですから。
でも、それに対するその人の思いや扱いは人それぞれであり様々であって、優劣・貴賤・善悪およびその度合いはその人次第です。
そして、くどいようですが、扱いによる「実利害」が生じた場合にのみ、当事者同士が問題にしたり訴えたりして、裁く人が裁くことがあるだけです。
コメントの「Iさん」は、「個人の意見です」と言いながらも、自分が貴賤を決めているというよりは、客観的絶対的な貴賤がある、言い換えれば「(唯物論的に)職業そのものにはじめから貴賤が付随している」という前提で「大あり」と言っているような表現なので、私がコメントしたのです。
つまり、Iさんは「内側から境界付けていない」のです。
語り得ぬことを語っているのです。
この国に唯物論(実在論)的思考が蔓延しているようです。

※『5次元世界への超扉』の著者エハン・デラヴィ氏が、
「日本人に必要なことは、唯物論(実在論)を克服することだ」
と言っているように、とにかく、客観的絶対的なもの、特に「客観的絶対的時空」を前提にしないこと、早急にそれらを超越して、高い視点、霊的視点を設けることが必須なのです。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。