カルマとの対向発生、そして意識が変わる

ある日の大人ミーティングにて、ジイジはこんなふうに語りました。


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生命にとっては、変化変態することが進化することですが、人間が自我に取り込まれると、その自我が創り出すカルマ(=心の垢)に汚染されていって、カルマが変化を阻むようになります。


いいことも悪いこともカルマとなります。いいことも囚われていくと心の垢になっていきます。悪いことはなおさら心の垢になります。


だから常に柔軟性を持って、その都度、どこにいくかを見ていくという話をしています。


今、大人ミーティング中にマコモダケの処理をしていますが、365日毎日あんなことをやっていたら嫌になってしまいますが、今がマコモのピークだから、今はその気になってやりましょうね、ということでエネルギーが湧いてきます。そうやって地球でやることは変化していきます。


若い時もあれば、熟してきて終わっていく時もあります。それに相応しい自分自身の扱い方、そういうものも柔軟であれば、器用に有効に自分を使っていけます。


ですが柔軟でない人は、通り一辺倒になります。もっと酷いのは、自分の柔軟さに欠けている状態が見えない状態です。見えていて分析できる状態で、それをやるならば、それは超えていく作業になる可能性があります。分からないで頑なにやる人は、本当にいくら一生懸命にやったとしても、そのパターンを超えていくことが出来ません。それをやり続けていると、次へとクリアするために語る言葉が、その場逃れのものとなり、それが癖になってカルマになると、カルマが独り歩きするようになります。何か問題を起こして、周りから「これはこうだよ」と言われると、その「こうだよ」と言われる場面をクリアするための言葉を言うだけで、相手の言葉を心に入れなくなります。言葉では「改善する」と言いますが、それは魂の入った言葉ではなくて、その時点で噓八百を語りだすことになりますが、そういう自分も周りから言われないと分からなくなります。自分を全くコントロール出来ていない状態。こういうふうになるのは固いからで、その時その場に応じた相応しい自分の扱いが出来ていないのです。


自分から発した言葉が自分の心から発した言葉ではなくなっていきます。自分から発した言葉は魂込めて言霊としなければなりません。そうでないと、嘘をつくことになり、その偽物の言葉が発せられたことによって矛盾が自分に返ってくるのです。ここは、自業自得の世界ですから。反対に、矛盾のない魂を込めた言葉を発したら、矛盾のない出来事が返ってくるのです。


今ある現象を見て、これが答えだからこんなものだと思っていてはいけません。心磨きをしないでいたら、どんどんどんどん負債が溜まっていきます。それをいつ見て気づくかですね。


学ぶつもりになれば、どこからでも人は学べます。ただ学ぶ意思がある人のみです。「ガンジスの砂のごとく衆生はおる。そのすべてに仏性あり。」そうお釈迦様は言われたのですが、僕にはそれに付け加えて、「ただし、その道を歩んだものだけにな。」と言われました。その道を歩まなければ仏性は表れてこないのです。


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変化変容を繰り返すのが生命の本質で、それが進化するということなのですが、人間のカルマは変化を阻んでいます。道を歩むとは、そのカルマを超えていくこと、その方法を語っているのが、ジイジのブログ「カルマよ、ありがとう。私は次のステージに行きます」です。以下、その一部を紹介しますね。


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ガンが現れるのは、そこにガンが現れるべき理由があるからです。それをただ「これは要らないものだ」と切り捨て、正常な体に戻れば良しとするのが、現代の医療です。しかしガンが現れるには、私たちの側に何かしらの原因があり、ガンはそれを伝えるためのメッセンジャーとしての役割を果たしたのですから、切り取られたガンにも「ガンさん、ありがとう。ご苦労様」と言って、ガン供養をする必要があります。


それと同じように、カルマに対しても、カルマ供養をする必要があります。カルマにはカルマの発生した理由があり、カルマはカルマのように、自らへの自我的執着を形成したのです。それを解体して収めてあげるためには、「役割ありがとう、ご苦労様」と言って、その存在の意味を認めてあげることです。そうすると、カルマはスルスルと解けていきます。


人間は、人生の中でカルマと対向発生することで現象化を起こし、役割を果たしています。カルマと対向発生するということは、そこに何かしらの目的があるということです。その目的を現象化し、役割を果たした時に、優れた人格は切り離したカルマへ「ありがとう」と伝え、自らが美しいものとなり次のステージを迎えるのです。カルマも、必要なものとして存在していたのです。


視野を広げてみれば、この世界の政治にしても経済にしても、これまであったものはすべて、時代の要請により発生し、人間の歩みと共に、その仕組みが表現されてきたのです。そして時代の要請により、人間が次のステージへと進む段階を迎えた今、私たちはこれまでの仕組みに「ありがとう」と言って、それを供養する。そうして初めて、次の仕組みへと意識が向かうのです。その心に目覚めた人々が、これからの新しい時代を進めていってくれることでしょう。


こういった次のステージへ向かうための話を聞く時に、カルマは自身が崩壊しないよう、その話を自らが受け入れられる情報だけにしてしまいます。すべてを受け入れては自身が崩壊してしまうから、まず自らを守ろうとするのです。つまり、次のステージへと行かないようにするのです。それが自我です。


だからこそこういった仕組みを学び、自我ではなく真我を育て、真我が自我にメスを入れられるようにするのです。そして手放したカルマに向かい、「カルマよ、ありがとう」と慰め、これまでの自分に「ご苦労さま。私は次のステージへ行くからね」と言って、新たなステージへと上がるのです。


そうすると、カルマは捨てられたのではなく、その人間が上へ登っていくための階段になります。その人間が成長し、進化していく物語の中に組み込まれるのですから、捨てられたものではなくなるのです。こうしてカルマも納得し、新たなステージへの踏み台となるのです。


そのようにして人生を歩み、振り返ってみると、「ああ、いろんなことがあって、いろんなカルマを通してここまで来たんだな」と、みんなを認められるようになります。それは、カルマの階段です。今のカルマに役割を果たしてもらい、それが、次のステージへ上がるための一歩となるのです。


カルマよ、ありがとう。


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カルマと対抗発生し、カルマを学びの階段としていく。そのために必要なのが自分を客観的に眺める視点と柔軟さなのですね(^-^)その先には進化があり、人の意識はどんどん変わっていきます。最後にジイジが語ったそんな話を紹介しますね。


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意識をどのレベルに置くかが重要なのです。

 

たとえば相撲は、序二段、幕下、十両、幕内、小結、関脇、大関、横綱と位を上げていきますが、

自分の位にいる時に、そのレベルの相撲を取っている人は駄目なようです。

そこのレベルで目一杯なのですから。

そこを超えられる実力が出てきて、次のレベルに上がった時、そこは次元が全然違うそうです。

でもそこに気持ちがはまっていくとそこでやっていけるそうです。

だから位が上がった時、気持ちも一緒に上がっていかないと出来ないそうです。

十両の人が幕内に上がったら、切り替えてスイッチを入れる必要があります。

 

僕はこの間、半日れんこんを掘っていたら、量も大して取れていないのに午後から寝ていました。

それを1週間弱繰り返していましたが、その時はどんなに動こうとしても動けませんでした。

だから神様に心を向けて、「目の前にあることをやる」ということで、

テレビの前で寝ていました。

そういうふうに気持ちを切り替えていたのです。

そういうことを何日か自分を押して休まずに繰り返していると、

自分が変化していきます。

れんこん掘りを始めた頃は、胴長靴を履いて泥の中に入ると、

泥がぴっと足に吸い付いて、

畔(あぜ)に足を上げて上がるのがしんどかったのです。

人の手を借りる必要もありました。

そういう状態から、ブロックの階段を置いてくれたので、

それに乗って上がろうとすると、それにつまずいたり・・・

そんなヨチヨチ歩きを繰り返しながら、そこを自分の限界としないで、

その状態に付き合っていくと、次の自分が見えてきます。

考えてみれば、人間20歳から免疫力は落ち始め、成長が止まり維持するだけになります。

さらに自分は60を過ぎて衰える一方なのに、なにか成長を感じています。

これは気持ちの問題なのだと思います。

今は午前午後とれんこんを掘ることが出来るようになっています。

だから先のことは考えず、目の前のことをやっていけば、

新しい自分に出会えます。

限界を作っているのは自分なのです。



木の花ファミリー通信2020年秋分号に掲載されている絵です。


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