真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカによるパナマの政治的・経済的・軍事的支配とウクライナ戦争

2022年08月17日 | 国際・政治

 朝日新聞、8月14日付のGLOBEに「The Road to War プーチン 戦争への道」と題し、「プーチンはもう別の世界に行ったのだ──。」の書き出しで始まる、喜田尚・前モスクワ支局長の長文が掲載されました。日本にいては知りえないような事実や、諸問題に対するプーチン大統領やロシアの過去の対応を交え、ウクライナ戦争を論じているのですが、私は、こうした捉え方は停戦・和解を遠ざけると思いました。なぜなら、ウクライナ戦争を主導するアメリカの意図や行動がまったく語られておらず、ウクライナ戦争の全体を見ていないと思ったからです。
 プーチン大統領は、2月24日の侵攻直前に、ロシア国民向けの演説をしました。その中で、アメリカを中心とする”西側諸国の根源的な脅威”について語っています。NATOの東方拡大や、その軍備がロシア国境へ接近していることについて語っているのです。そして、ベオグラード、イラク、リビア、シリアなどで、西側諸国が行った軍事活動を非難し、”NATOが軍備をさらに拡大し、ウクライナの領土を軍事的に開発し始めることは、私たちにとって受け入れがたいことだ。もちろん、問題はNATOの組織自体にあるのではない。それはアメリカの対外政策の道具にすぎない。問題なのは、私たちと隣接する土地に、言っておくが、それは私たちの歴史的領土だ、そこに、私たちに敵対的な「反ロシア」が作られようとしていることだ。それは、完全に外からのコントロール下に置かれ、NATO諸国の軍によって強化され、最新の武器が次々と供給されている”と、その脅威について語っているのです。かつてウクライナがソ連の一部であったから”それは私たちの歴史的領土だ”ということには問題があると思いますが、プーチンの支持率が高いのは、ロシア国民の多くがプーチン大統領のいう”脅威”に共感しているからではないかと思います。だから、そうした”脅威”の問題を議論の対象から外してしまえば、停戦・和解はむずかしいと思うのです。

 また、エネルギー問題にまったくふれないで、ウクライナ戦争を語っていることも、私には頷けません。2014年のロシアによるクリミア併合の際、すでに、当時のオバマ政権ロシアへの経済制裁を主導したようですが、ドイツをはじめとする欧州諸国は、エネルギー供給に影響することを恐れ、足並みがそろわなかったといわれています。そして、「ノルド・ストリーム2」の建設が進んだのです。でも、トランプ大統領は、「悲劇だ。ロシアからパイプラインを引くなど、とんでもない」と発言し、現実に、「ノルド・ストリーム2」の事業を対象にした制裁を次々に打ち出したといいます。
 さらに、バイデン大統領が、ロシアがウクライナに侵攻する前の声明で、”ロシアがウクライナに侵攻した場合、ノルドストリーム2を停止するよう緊密に調整してきた”と語ったことも報道されました。だから、アメリカは、ヨーロッパがロシアにエネルギーを依存することは、アメリカとヨーロッパの結束の弱体化につながると考えたことは否定できず、「ノルド・ストリーム2」の問題を抜きに、ウクライナ戦争を語ることはできないと思います。

 中国問題グローバル研究所所長の遠藤誉・筑波大学名誉教授は、スイスのガンザー博士が、ウクライナ戦争に関して、アメリカの国際法違反を証明していることを明らかにし、”日本はこれを完全に無視し、事実の半分の側面だけしか見ていない”と書いていました。
 私は、喜田尚・前モスクワ支局長が、遠藤誉教授が指摘したように、”事実の半分の側面だけしか見ていない”と思います。だから、ウクライナ戦争の捉え方が歪んでおり、停戦・和解を遠ざけるとらえ方をしていると思うのです。

 中国の急成長で、今まで並ぶ者がなかった超大国アメリカの行く末が危うくなり始めている現在、台湾有事も心配です。アメリカは、中国を弱体化させるため、台湾を第二のウクライナにするのではないかと心配なのです。

 戦争や紛争の歴史をふり返れば、アメリカの対外政策や外交政策の多くが、法や条約、道義・道徳に反するものであったことがわかります。 
 今回は、「パナマを知るための70章」国本伊代編著(明石書店)から、「Ⅴ 米国がつくったパナマ運河とパナマの運命」の29から37まである章の中の三章を抜萃しました。アメリカの暴力的とも言えるパナマ支配の一部がわかるのではないかと思います。
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              Ⅴ 米国がつくったパナマ運河とパナマの運命

               29 アメリカ帝国主義──強まる運河支配

  19世紀末から、アメリカ合衆国はヨーロッパ列強のあとを追うようにして、本格的な帝国主義時代へと突入した。南北戦争後の飛躍的な経済的発展を背景に、アメリカは余剰生産物をさばくための新しい海外市場を求めていたのである。この海外への膨張の気運は、アングロサクソン民族優越主義とキリスト教的な使命感がむすびついた「マニフェスト・デスティニー」として社会的に正当化されていた。
 とりわけ、米西戦争(1898)の勝利によってカリブ海を制すると、勢いあまるアメリカは、ハイチ、ドミニカ共和国、バージン諸島、ホンジュラス、ニカラグアなど中米・カリブ諸国に対してつぎつぎと政治・軍事的介入を深めていった。これに伴ってアメリカはパナマ運河地帯に駐留するアメリカ軍を増強し、この地を中米・カリブ全域を統轄する軍事拠点へと変えていった。このアメリカの存在によって、国家としてのパナマは、長きにわたって地理的にも、心理的にも分裂することになる。
 イギリスは、1901年、ヘイ・ポンスフォート条約においてアメリカのパナマ地域におけるヘゲモニーを承認し、またフランスも、1903年、運河建設の権利をアメリカに売却したことにより、アメリカの中米支配の基礎はかたまった。こうして翌年から、アメリカは運河工事に取りかかる。このとき、パナマ軍部の反逆を恐れたアメリカは、パナマ国軍を解体して警察組織へと再編した。すなわち、パナマは自国軍を持つことを禁止されたのである。その一方で、T・ルーズベルト大統領は、いわゆる「棍棒政策」により、中米・カリブ海域へ積極的に進出し、敵対的な国家に対してはきびしく対応した。
 たとえば、当時のニカラグア大統領ホセサントス・セラヤは、高まる民族主義を背景にあからさまな反米主義を打ちだし、ニカラグア国内にパナマ運河に対抗する新運河を建設すると宣言した。これに対してアメリカは、反セラヤ勢力とむすんで、1909年、セラヤを失脚させている。ただし、パナマ国内では反米主義の高まりを恐れ、当時のアメリカはあからさまな武力介入をするよりも、むしろ選挙に介入することによって親米派の大統領を生みだそうと画策する傾向にあった。
 また、タフト大統領は、いわゆる「ドル外交」により、中米・カリブ地域に対する経済的な圧力を強めていった。1909年、イギリスのホンジュラスに対する債権が多額であることを憂慮したアメリカ国務省は、アメリカ銀行を通じてそれらの負債を肩代わりし、イギリスの影響力を排除した。1910年には、ハイチへのアメリカ資本の進出も国務省の指導のもとで大規模に行われている。
 1914年、運河完成の年に第一次世界大戦が勃発した。この戦争によるヨーロッパ諸国の疲弊により、イギリスやフランスなどはもは中米・カリブ諸国に介入する余力を残していなかった。こうした状況下で、アメリカはこの地域に独占的な権力を行使することになり、パナマ運河地帯はますますその戦略的重要性を増していった。第一次世界大戦前には役30億ドルの債務をかかえていたアメリカは、戦後には約160億ドルの債権を持つ強国となり、パナマ運河地帯はその要塞の1つとなったのである。世界最大の経済・軍事大国となったアメリカは、第一次世界大戦後の国際秩序づくりの核となるヴェルサイユ条約を批准せず、また国際連盟にも参加しないなど孤立主義的な帝国主義をとることになる。
 ちょうどその頃、アメリカのウィルソン大統領が提言した「14カ条」の影響により、世界各地に民族自決運動の波が押しよせ、ナショナリズム(民族主義)運動や反植民地運動が高まりを見せ始めた。それにもかかわらず、アメリカ自身はこれに逆行するようにパナマへの支配を強化していく。アメリカはヘイ・ビュノー=バリーヤ条約の第3項にのっとり、パナマにおいて文字通り「あたかも主権者のごとく」に振るまったのである。1918~19年、アメリカはパナマの国家警察を再編成し、これを自らの影響下に置くことによって反米運動に備えた。
 第一次世界大戦後、運河の経営もしだいに軌道に乗り始め、1918年にはパナマ運河を利用する船舶は年間2000隻以下であったのが、1925年には7000隻にも増えた。運河はもはやアメリカの重要な経済的源泉となっていた。さらに政治的な面でアメリカは、1920年代には共産主義、30年代にはファシズムという新たな敵と対峙しなければならない事情があった。こうした変化が、アメリカの帝国主義的な運河支配を強化させることになったのである。
 アメリカは、自国の産業を運河地帯に発展させ、労働条件においてもパナマ人労働者の地位と賃金をアメリカ人労働者よりも低く設定するなど、はっきりとした植民地主義者の顔を見せ始めた。これに対して、在ワシントン・パナマ大使であったリカアルド・アルファロは、1923年、こうした横柄な態度や人種・国籍による労働条件の不公平の是正をアメリカに求めたが、聞き入れられなかった。
 こうしてアメリカは、1930年まで、パナマ最高の権力者のごとく振るまった。合衆国の官僚は、運河における船舶の航行と地峡におけるアメリカの利害を守ろうとし、パナマ人もそれに協力するよう要請した。また、この時期のパナマの政治家たちも、あからさまな反米主義を表明することはなかった。彼らエリート層は、運河と運河地帯からさまざまなサービスや利益を獲得し、自国の生活水準を引き上げようと考えていたからである。
 しかし、アメリカの支配に関して世論が賛否両論に割れるなか、パナマの政治家はパナマ民族主義とアメリカ追随主義を同時に主張することは許されなくなり、パナマ側に立つかアメリカ側に立つかの二者択一をせまられた。この問題に関して「中道」を通すことはできない状況になっていたのである。その対立は、1930年に抜きさしならない状態に陥ることになる。  (小澤卓也)
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                  36 トリホス将軍と1977年の新パナマ運河条約

 アルヌルフォ・アリアスが3度目の大統領の座から追われ、国家防衛隊の主導による臨時議会が成立した。ここでめきめきと政治的な頭角をあらわしてきたのが、オマール・トリホス中佐であった。彼は独裁的な軍事政権を確立し、反対派を徹底的な暴力によってねじ伏せていたにもかかわらず、そのわかりやすい発言と柔軟性に富んだ物腰から「軍人らしからぬ軍人」として多くの民衆から慕われた異色の軍人政治家であった。彼が行った68年の軍事クーデター以降、パナマでは20年間にわたって軍部による政治支配システムが続くことになる。
 エルサルバドルの軍人学校で職業軍人としての英才教育をうけたトリホスは、1952年に国家防衛隊に入隊するや、すぐに市民運動対策や暴動の親圧において特異な才能を発揮し、司令室でらつ腕を振うようになった。1968年、国家防衛隊の最高司令官にのぼりつめて全軍を掌握すると、強力な反米・反オルガリキーアの姿勢を打ちだし、パナマ人民族主義主義者に熱狂的に支持されるようになった。彼の筋金入りの反米主義は、母親が米兵にぞんざいに扱われるのを目撃した幼少期の記憶に端を発すると言われている。
 
 トリホス大統領は「アメトムチ」を巧みに使いわけて権力を掌握した。一方では、都市の労働者階級と連帯する姿勢を明確にし、労働法を整備するなどしてその取り込みをはかった。また、農村部においても、農業組合を支援し、学校、診療所、市場などを建設し、農村社会の安定をはかるとともに農村から都市への急激な人口移動を防ごうと努力した。これらの政策は「市民派」であり、「貧者の味方」であるというトリホスのイメージ戦略とあいまって、彼のカリスマ的人気を確かなものとしていた。
 しかし他方では、自由な政党活動を禁止し、学生の自治や反政府運動を弾圧するなど、パナマ市民の政治的自由をつぎつぎと奪っていった。トリホスは国家防衛隊をさらに強化して市民の自由主義運動を抑圧するとともに、腹心であったマヌエルアントニオ・ノリエガの指揮するG─2と称される諜報機関を通じて政敵を拉致・拷問・暗殺するという恐怖政治をしいた。この頃になると、国家防衛隊は行政・立法・司法の各府と並びたつか、あるいはそれらをしのぐ「第四の権力」と化していたのである。
 とりわけトリホスは、くすぶっていた人々の反米意識やナショナリズムをあおりつつ、運河地帯の奪回を最終目的とする主権回復運動の先頭に立つことによって、政権の安定をはかろうと躍起になった。その背景には、深刻化していた貧富の格差や治安の悪化などの社会・経済的不安から人びとの目をそらす意図もあったと考えられる。トリホスは、「第三世界」諸国との関係を緊密化しながら、ヴェトナムからの撤退以降、対外消極策に転じていたアメリカ政府にさらなる国際的圧力をかけた。そうしながらトリホスは、もし運河条約交渉が失敗に終わった場合、数年間にわたってゲリラを組織してアメリカの運河運営に混乱をもたらすと公言するなど、アメリカ側に早々の決断を迫ったのである。
 こうしたトリホスの強硬路線を前に、アメリカ政府は、たとえパナマ運河の経営権がパナマに移管されたとしても、運河の安全が確保され、船舶の航行が保障されるならば、アメリカの基本的な国益は確保できると考えるようになる。カーター政権は、この観点から運河の「永久中立化案」を練りあげ、「運河がパナマに返還されたあともアメリカの防衛権を存続させる」ことを条件とする新条約案を打診し、トリホスもこれを受け入れた。
 その結果として、1977年、トリホスとカーターとの間で運河に関する新条約(トリホス・カーター条約)が締結された。カーター大統領は、「1903年の条約は、ラテンアメリカとのよりよい関係にとって障害となっていた」と述べ、この新しい取り決めは「相互の尊敬と協力のシンボル」であると強調した。これに対してトリホスは、アメリカの決定を合衆国国民の自由主権のなせるわざと評価しながらも、新条約が正しく管理されなければ、「永続的干渉の道具になってしまう」と警告することを忘れなかった。この条約によってこれまでのパナマ運河と運河地帯に関する不平等条約はいちおう破棄され、アメリカ・パナマ両国の代表によって構成される運河委員会が運河の管理・運営を行うことや、1999年12月31日正午までに運河地帯におけるすべての財産(軍事基地やアメリカ人居住区を含む約15万ヘクタールの土地や河川など)がパナマに返還され、この地におけるパナマの主権が完全に回復されることなどが約束されたのである。
 これを受けてパナマ国内には賛否両論の反応があった。条約調印前には、アメリカの即時撤退を望む1万5000名にものぼる市民のデモが「汚い条約」、「米軍基地反対」などのプラカードを掲げて市内を行進して外務省に向ったが、国家防衛隊の役人により散会させられている。他方で大部分の市民は、条約調印の様子をテレビで見て、車のクラクションを鳴らしながら「とうとうやった」と叫びあったという。
 こうしたパナマ人の反応とはうって変って、運河地帯に居住するゾーニアンと呼ばれるアメリカ人たちの反応は暗かった。彼らは各自ろうそくを手にし、表面に「民主主義」と書いた棺をひきずって「葬送行進」を行い、運河を建設したジョージ・ゲーサルスの記念碑前まで行進したのである。
 この条約の直後、トリホスは国家の最高役職からは身を引いたが、新たに結成した民主革命党(PDR)を通じてその後も圧倒的な政治的影響力を維持し続けた。そして、1981年、暗殺説もささやかれる謎の飛行機事故で悲運の最期をとげたのである。現在、アマドール地区にあるトリホスの墓には、何よりもパナマ運河の奪還を優先した故人が生前に残した名言が刻まれている。
 「わたしは歴史書のなかに入りたいのでなく、運河地帯のなかに入りたい」    (小澤卓也)
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                 37 ノリエガ将軍とアメリカの侵攻

 1979年、ニカラグアにおいて親米派のソモサ独裁政権がソ連・キューバとの親交の厚いサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を中心とする民衆革命によって打倒された。さらにその近隣のエルサルバドルやグアテマラにおいても左派民衆運動が活発化してくると、社会・共産主義陣営との対決姿勢を明確にしていたアメリカのレーガン政権は、再び大規模な軍事基地・施設が置かれているパナマ運河地帯の保持に執着するようになる。レーガンは、パナマ側の運河管理・運営能力への疑問、運河の安全や中立に対する将来的不安、パナマ社会に見られる国家暴力などの「非民主主義」に対する危惧、共産主義陣営および麻薬組織に対抗する際の運河地帯における米軍基地の「世界的な重要性」などの議論を持ちだし、1977年のトリホス・カーター条約を再検討する必要性を国内外に呼びかけた。
 これに対して、トリホス以降いっそう民族主義政策に傾倒していたパナマ政府は、1983年1月、コロンビア、メキシコ、ベネズエラなどと、「コンタドーラア・グループ」を結成し、中米における紛争は東西問題としてではなく、社会・経済的な構造の問題としてとらえるべきであること、そしてラテンアメリカ地域で起こった問題はラテンアメリカ自身の手で解決すべきであることなどを主張し、アメリカと対峙しながら独自に中米諸国と地域安定のために外交努力を重ねていった。このことを通じてパナマ政府は、すでに決着したはずの運河地帯の返還問題を再検討しはじめたアメリカを牽制したのである。
 しかし、パナマを軍事・情報基地として保持し、キューバを監視するとともにラテンアメリカ地域における存在感を誇示しようとするアメリカの態度がすぐに変化することはなかった。1989年のパナマ侵攻はまさにそのことを物語っている。
 反米主義を掲げてアメリカを挑発し、マイアミの大陪審に国際的な麻薬取引への関与で起訴されていたパナマの軍事独裁者マヌエルアントニオ・ノリエガに対して、ブッシュ政権は「(パナマ国内の)アメリカ人の生命を救い、パナマの民主主義を守り、麻薬取引と戦い、パナマ運河条約を遵守するため」に軍事攻撃に踏み切った。アメリカ側が「大義名分」作戦と名づけたこの侵攻は、約3000人ものパナマ市民を戦闘に巻込んで死亡させ、1万人以上の住居を破壊している。米軍は高度に武装・訓練された常駐軍に増援部隊を加えて合計約22万4000人の兵力で、武器・戦略においてはるかに劣る約1万5000人からなるパナマ軍をほぼ一方的にひねりつぶしたのである。命からがら戦火を逃れ、一時バチカアン市国の大使館にかくまわれたノリエガも、やがて自らアメリカ側に投降した。
 ノリエガは、トリホスのもとで長い間治安・諜報部門の責任者を務めており、1983年からパナマの実権を握っていた。彼はアメリカの中央情報局(CIA)やイスラエルの諜報機関「モサド」から、それらに敵対するキューバのカストロ首相やリビアのカダフィ大佐、さらにはコロンビアの麻薬組織「メディジン・カルテル」にわたる幅広い交友関係を持っていた。そのためアメリカのレーガンとブッシュ両政権は、敵国に関する情報を得たり、さまざまな軍事的ノウハウや武器を供与してアメリカが敵対するニカラグア革命政権の転覆をはかるなど、ノリエガを最大限に利用していたのである。
 しかし、ノリエガがアメリカの警戒するキューバ人やリビア人に対して合衆国のビザやパスポートを不正に売買していたことが明らかとなり、アメリカ国内において麻薬撲滅の気運が高まってくると、その存在はレーガン、ブッシュ両政権にとって疎ましいものに変っていった。1986年にアメリカ合衆国議会がニカラグア・コントラ(反革命)への資金援助を承認したことによって、もうアメリカ政府は対ニカラグア政治のためにノリエガの「裏ルート」を利用する必要がなくなったこともその背景にあった。最終的にアメリカはパナマの大統領選挙において反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラを支援し、その勝利に寄与したが、ノリエガがこの選挙結果を無効として、パナマ国内のアメリカ人に対する殺傷事件が起きると、これをきっかけにアメリカがパナマへ侵攻したのだった。

 この侵攻の直後にアメリカのCBSが行った調査結果は、全体の92%にものぼるパナマ人がアメリカの軍事侵攻を「解放」と見なしたと結論づけているが、これはむしろノリエガに対するパナマ人の不信感のあらわれだと考えるべきである。実際に、パナマ社会が平静を取り戻すとすぐに、多くの生命や財産が失われたことや、戦争被害に端を発する経済危機が全人口の30~40%にものぼる約15万人の失業者を現出したことに対して、パナマ国内のみならず、OSA加盟国からもアメリカに対する激しい非難の声があがっている。この機に、都市を中心とした愛国主権者は、新聞などのメディアを通じてアメリカの帝国主義を批判することに尽力し、多くのパナマ人は、アメリカがパナマ侵攻を通じてそれ以前に失ったラテンアメリカにおける政治的ヘゲモニーを復活させようと企んでいると考えるようになる。米軍の侵攻に関わるパナマ人の死亡者たちも、ナショナリストたちにとって「殉教者」とみなされるようになった。
 一方でノリエガは、91年から拘束されたアメリカにおいて裁判にかけられ、その翌年、マイアミの連邦地裁において8件の事件について有罪とされた。81年から86年にかけての、麻薬の製造や取引、それにからむマネー・ロンダリング(麻薬資金を浄化して他の資金へと転換すること)、「メディジン・カルテル」からの賄賂取得などが、その主な罪状であった。これに基づきノリエガは最終的に40年の実刑判決を受けたが、模範囚として早期釈放が決定された。しかし、麻薬洗浄の罪で10年の禁固刑が確定していたフランスの要求によってフランスに引き渡された。2012年にフランスからパナマに送還されたのち病状が悪化したノリエガは17年5月に83歳で死去している。                                   (小澤卓也)
 

 

 
 


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