真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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インドネシア、スハルト政権の東チモール侵略とアメリカ

2022年08月08日 | 国際・政治

 「悲劇の島・東チモール」(築地書館)の著者、島田昱郎教授は地質学者です。日本チモール協会の要請で訪れた東チモールで、その後クーデターが起き、インドネシアの軍事介入によって、悲劇の島となってしまったことに心を痛め、本書を執筆されたということに心を引かれました。地質学者が、”東チモールに自決権を!、東チモールに独立と平和を!”と、専門外の政治的訴えをされていることが、私には貴重に思えたのです。東チモールの理解に予断や偏見がないことは明らかであり、それは、東チモールに軍事介入したインドネシアやそのインドネシアのスハルト政権を支援したアメリカ、また、インドネシアを支持し、安保理の国連決議案に反対した日本が、国際法を尊重しない野蛮な国であることを示していると思います。
 インドネシア軍による東チモールの制圧は凄惨を極めたと言われていますが、そのインドネシア軍に多くの武器を供与したのはアメリカであり、インドネシアが東チモールに軍事介入し、ディリーを攻撃、全面侵攻した1975年12月7日が、アメリカのフォード大統領とキッシンジャー国務長官がインドネシアの公式訪問を終えた日であるというのも偶然とは思えません。また、キッシンジャーは、ジャカルタの記者に「米国は東チモールの独立革命戦線による独立は承認しないだろうし、この件ではインドネシアの立場を理解している」と答えたといいます(「アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー」集英社)。
 ここでもアメリカが、「世界一のならず者国家」であることがわかると想います。下記は、同書の「Ⅲ 悲劇の島」「2 東チモール紛争」全文です。
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                       Ⅲ 悲劇の島
                     2 東チモール紛争
  ポルトガルの政変以前から、チモール人の独立への静かな闘争(独立への気概、願望を含めて)は続き、その準備が進められ高まっていました。というのは、私には渡航した頃、東チモールの政党のことはわかりませんでしたが、すでに三つの政党が発足していました。それは、チモール民主同盟(UTD)、東チモール独立革命戦線(FRETILIN)、チモール人民民主協会(APODETI)の三政党です。
 1974年に一緒に渡航した、当時日本チモール協会理事長の渋谷昇次さんと理事の和田敏明さんは、翌1975年11月発行の雑誌「講演」の”アジア最後の植民地──チモールをめぐって──”のなかで、三政党についてふれています。それを参考にしながら、三政党の内容と性格について要約しておきます。
チモール民主同盟(UTD)
 究極的には独立を望みますが、当初は自主能力がつくまで3年間ぐらいポルトガルとの関係を継続しつつ、漸進的独立を呼びかけた政党です。この党は、チモール人のなかでも富裕な農園主、高級官吏や、それに経済的にチモールを支配している中国系の華僑が多く、どちらかというと、保守的なもので構成されています。
東チモール独立革命戦線(フレテリン FRETILIN)
 ポルトガルの植民地主義を否定し、社会主義と民主主義による即時完全独立を主張する政党です。この党を構成しているのは、中流、下流階層の官吏や農民が主軸になっています。チモール人から広く支持を受けています。
チモール人民民主同盟( アポデティ APODETI)
 インドネシアとの併合を希望する党です。これは、インドネシアのスカルノ政権当時に左翼であった人たちが、チモール島に流されてきてチモール人と組んでインドネシアと合併しようとするものですが、きわめて少数派のグループです。

 1975年8月11日に、東チモールの首都ディリーでクーデターが起きました。クーデターを起こしたのはUTDなのです。どうして起こしたのでしょうか。
 1974年のポルトガル政変後、1975年になって当初UTDとフレテリンは非植民地化と独立問題について、一時連合を組んだといわれています。しかし、UTDはその後フレテリンとの連合を一方的に破棄してクーデターを起こしました。なぜでしょうか。寝返りしたその背後には、UTDが少数派のアポデティと、そしてインドネシアと組んだというのが、大方の分析です。
 その頃の新聞でも、”チモール独立の動き──インドネシア軍事介入説”の見出しで報道しています。8月11日のUTDのクーデターは、”チモールでクーデター。深刻な憂慮表明──ポルトガル大統領”の見出し(朝日新聞)で報道されました。
 私は、東チモールの紛争、内乱については、前年に平和なチモール、静かなチモールを訪れ、そして、わずかな期間でしたが地質調査で善良なチモールの人々と交流があっただけに、我が身のひきさかれるような想いで、身近な問題として新聞の記事をスクラップブックに整理し保存してあります。

 このスクラップした新聞記事を参考にして、私なりに綴ってみた東チモールの紛争の経過を、若干の私見を加えながら以下に記録することにします。
 まず三政党が十分な話し合い、独立への討議をしないまま、一方的にクーデターを起こしたのは、前にも記しましたがUTDです。しかも大きな裏切りです。この時点で、インドネシアの軍事介入があるのも確かでしょう。このクーデターが、東チモールの人々にとって、不幸な、そして新たな悲劇のはじまりになったわけです。
 UTDの過激派グループが、8月11日に警察署を襲撃して武器を奪取し、ディリーの中央警察署、通信センター、飛行場を占拠したことを、ポルトガル大統領補佐官が、チモールの政治抗争として確認しています。一方的にクーデターを起こしたUTDの過激派グループの鎮圧に、フレテリンが反撃しました。その頃の各新聞は、短い記事ですが、UTDとフレテリンの戦闘状況を日々報道しています。まさにチモール人同士の内乱です。
 当時、朝日新聞オーストラリア特派員の小林宏さんは「遠くて近い国オーストラリア」のなかで、東チモール紛争について、次のように記しています。
”75年8月10日夜に起きたクーデターから東チモールは間もなく内戦状態になった。紛争開始直後の8月13日に、東チモールへ行くべくダーウィン に飛んだ。同日夕、ダーウィン港に東チモールを脱出したポルトガル将兵の家族など272人を乗せた客船が着いた。事前の情報では3人の日本人が乗っているとのこと。確かに甲板上に3人のアジア人が私の方に手を振っている。しかし上陸してみると3人とも中国人。東チモールにいる華僑の子弟が集まる学校の教師だった。うち一人は台湾生まれで日本語がペラペラ。聞いてみると、内戦状態になっていてとても危ないという。
 
 紛争が起きる前、東チモールの首都ディリーはダーウィンに住むオーストラリア人のリゾートで、ダーウィンから週に三便もTAA機が飛んでいたが、紛争発生以後運航を停止。いずれも、そんな危ないところには飛べないと断られた。
 9月に入り即時独立派の革命戦線(フレテリン)が全土を掌握、インドネシア併合派をインドネシア領チモールに追い落とした。
 そこで10月1日再びダーウィンに飛んだ。一泊したあと、2日チャーヤー機で2時間ディリーへ行った。知り合いのフレテリン指導者が同行した。海岸に面して南欧風のホテルが並ぶ。市内の建物は白壁が多いが、いずれも弾のあとがあり、激しい内戦があったことを物語っていた。
 ポルトガル兵が皆逃げてしまったあとだったので、ワインがどっさり残っていて、5日間の滞在中ポルトガルワインをたっぷり味わうことができた。食事は肉がなく魚ばかり。内戦のためとインドネシア軍の海上封鎖で食糧危機が迫っていた”
 以上が小林さんの手記ですが、ダーウィンそして直接東チモールに渡航しての記録だけに、クーデター当初の様相の一端をうかがうことができると思います。
 
 東チモールの紛争は拡大し、略奪、死傷者が続出、戦闘は東チモール全土に及びました。この内乱はチモール人同士の争いだけに、非常に残念です。UTDとフレテリンの独立後の主導権争いともいえるでしょう。しかし、平和的に独立を進めていくことを願っていたフレテリンにとって、和解し統一する可能性をもぎとってしまったのは、インドネシア併合派と組んで、クーデターを起こしたUTDと決めつけざるを得ないでしょう。ともあれ、チモール人同士の主導権争い、チモール人の悲劇だけに悔やまれます。
 その後、8月末にはフレテリンが実質的に内戦を掌握しています。フレテリンはチモールのポルトガル当局とは交渉しないが、ポルトガル本国との間の交渉を通じて、独立を達成する方針を明らかにしたいと表明しています。この8月の内戦については、チモールから脱出した難民などによると、婦女子を含む2000人近くの住民が殺されたとの未確認情報もありますし、きわめて悲惨な内戦であったことを物語っています。
 フレテリンのホルタ書記長は、①チモールの将来について、ポルトガル本国政府との話し合いを強く希望する。②インドネシア政府をはじめ、交戦相手のUTDとチモールのインドネシア併合を望んでいるアポデティとも話し合いたい、との立場を明らかにしています。
 こうして東チモールの紛争は、ほぼ終了したかにみえましたが、隣国のインドネシアは微妙な動きをしていました。
 フレテリン、ホルタ書記長の主張、提案に対して、ポルトガル政府は、この提案に直接の言明は避けているようでした。また、インドネシア政府は反対し、チモール各政党間の話し合いもすすまないまま、再び武力紛争が再燃していったのです。インドネシア軍とフレテリンの争いも、国境近くで起こっています。インドネシア軍は海上封鎖し、ディリーに迫っていました。
 このような状況下で、フレテリンは内戦で混乱したチモール経済を立て直すため、10月初旬に臨時行政機関を設立しています。そして、フレテリンのゴンサルベス委員長は”現在東チモールにはポルトガルの行政機関は存在せず、しかも交渉が進行中なので、われわれは独立のための計画に着手しなければならない”と語っています。

 11月28日に、フレテリンはポルトガルからの一方的独立を宣言しました。ディリー市内の広場では、ポルトガル国旗が降ろされ、独立東チモールを象徴する新しい国旗が掲げられました。その新生チモールの国名は「東チモール民主共和国」です。
 ところが、29日に、UTDとアポデティは共同声明を発表し、チモールのインドネシア併合を宣言しました。
 これに対して、ポルトガル大統領は、フレテリンの独立宣言もUTD、アポデティのインドネシア併合宣言も認めないとの声明を発表しました。
 インドネシアのマリク外相は、12月1日に、東チモールのインドネシア併合を宣言したUTD、アポデティへの支援を公然と約束するとともに、”いまや紛争の決着は戦場でつける”と公言しました。これは、平和的話し合いにより解決を求めるとしていたポルトガル政府の建前に対抗して、名実ともに「力の対決」の姿勢を打ち出したわけです。
 とうとう12月7日のインドネシアの軍事介入、インドネシア軍のディリー攻撃、さらに全面侵攻に発展しました。これが東チモールの悲劇を、一層大きくしたのです。
 12月7日のインドネシアの陸、海、空からのディリーへの侵攻は残虐そのもので、手当たり次第に撃ち殺し、略奪、暴行、強姦、拷問は悲惨をきわめたといわれています。
 インドネシアは強硬姿勢で、東チモールの紛争決着は戦場でと、公然と力の対決を打ち出し、話し合いで平和的に独立を願っているフレテリンとの武力紛争はエスカレートし、泥沼化していきました。私は、その頃の戦闘の拡大、そしてチモール難民などに関する新聞の相次ぐ悲惨な記事、報道に憂慮の日々が続いたことを記憶しています。
 1975年11月11日に、NHKは「チモール内戦──独立への苦闘」と題する特別番組で、南太平洋の平和で、小さな島が悲惨な内戦にたたき込まれた状況を、19時30分から30分間報道しました。私は、紛争の前年に渡航し、生活した地だけに、この番組に注目し、変りはてたチモールの様相を心痛の想いで、画面を凝視していたことが想い出されます。インドネシア軍の全面侵攻の前でしたが、NHKはインドネシアはUTDの支持でチモールへの軍事介入は避けられないだろうと予測していました。
 インドネシア政府は、チモールへの軍事介入を”義勇軍”といっていますが、これは明白な侵攻、侵略です。インドネシアの卑劣な言い分です。
 オーストラリア、ポルトガル、中国、ソ連からのインドネシアの”武力侵略”に対する非難が相次いで論評されています。さらに、その頃の新聞には、チモールのフレテリンに対しては、背後にチモール住民の大きな支持があるだけに、”第二のベトナムか”の見出しがみられます。
 隣国の一つであるオーストラリアは、国連に対し、東チモール紛争の平和的解決と地元住民による自決の実現に対する努力と、また、東チモールに責任をもつポルトガルが国連現地調査団の派遣を求めるよう要請しました。
 このようなオーストラリアの出方に対して、前述した小林宏さんの「遠くて近い国オーストラリア」のなかで、次のような記事が注目されます。
”これに対するオーストラリアの出方は「二重外交」もいいところだった。国連で民族自決を唱えながら、内心では防備が手薄な北辺と海を挟んで赤い国ができるのは困る。東チモールの人口が60万人しかなく経済的自立が難しい。チモール問題でインドネシアを敵に回したくないことから、ひそかにインドネシアが併合することを願っていたようだ。
 オーストラリアがインドネシアに気を使うのは、インドネシアが1億4000万人とオーストラリアの十倍の人口をもち攻められたら困るととの潜在意識があるためである”
 これは主体性のないオーストラリア外交の一面を皮肉っているようにもみられます。
 ポルトガル政府は、海外植民地を独立させる政策の一環として、東チモールに、1978年をメドに独立を認める方向で進んでいたといわれています。ポルトガル政府は、インドネシアに対し、ポルトガル領チモールの軍事侵略を強く非難し、和平と独立問題の調停に努めましたが失敗に終わり、インドネシアとの外交関係を断絶しました。(12月8日)。
 これをうけて、インドネシア外務省のガンダムル欧州局長は、ギラン・ポルトガル代理大使に対し、ジャカルタのポルトガル大使館と領事部を即時閉鎖し、ポルトガル人職員は直ちに国外に退去するよう正式に通告しました。(12月9日)。
 また、ポルトガルは、国連に対し、インドネシアの軍事介入は、東チモールの平和と住民の自決権行使を侵す侵略行為であるとして、そして、現状(インドネシア軍とフレテリンの闘争中)では、ポルトガルにとって東チモールの平和回復と、交渉による植民地解放を保障する力はないと協議を求めていました。
 1975年12月に、国連はチモール問題について討議し、”インドネシアの軍事介入を深く遺憾とし、速やかな撤退を呼びかける”の議案が出されました。
 このとき、フレテリンのホルタ代表は、当事者として初めて登場し、インドネシアの”武力侵略”を激しく攻撃して注目を集めました。ホルタ代表は「東チモール民主共和国」外相兼情報相の肩書で発言し、安保理が、①インドネシアの武力侵略に対する強い非難、②東チモールからインドネシア軍の即時撤退要求、③国連事実調査団の現地派遣、などの措置をとらなければならない、と強い調子で要請しました。
 国連の議案は、圧倒的多数で採択されました。その表決結果は、賛成69、反対11、棄権38で、日本はインドネシア、フィリピン、マレーシアなどとともに反対の少数派に投票しています。この悲劇の問題に対して、日本のインドネシア支持の動きが目立ったといわれています。
 日本は、何故、反対の態度をとったのでしょうか。
 このときの国連安保理の決議案主文は次のようなものでした。
① すべての国が東チモールの領土保全、自決権を尊重する。
② インドネシアの軍隊は東チモールから速やかに撤退する。
③ 行政権を有するポルトガル政府は、東チモール住民の自決権行使を可能にするため、国連と協力する。
④ この決議を実施するため、国連事務総長がが特使を東チモールに派遣する。
 など、7項目の要請を行ったのです。なお、非同盟草案の主文第一、第二項に挙げられた、①ポルトガル政府の行政責任放棄、②インドネシア軍の介入に対する”遺憾の意思”表明などは、前文の末尾に回されたそうです。
 このため、インドネシアは東チモール撤退要求を避けることはできなかったものの、軍事介入に対する国際非難を、最小限に食い止めることに成功したわけです。このようなインドネシア有利の情勢をつくり出すため、最大の力となったのは、日本の強力な舞台裏工作だったといわれています。
 日本は国連安保理の決議案に対して、何故、反対の投票をしたのでしょうか。経済大国となった日本にとって、この汚点は優柔不断、驕れるものの不見識の態度として、歴史的に記録されていくことでしょう。
 1976年になり、インドネシア政府は、この国連安保理決議に対して、ポルトガルには東チモール非植民地化をすすめる資格はもはやないとして、インドネシア軍の東チモールからの即時撤退を拒否しました。
 そして、インドネシア政府はそればかりでなく、再びフレテリンに大規模な軍事攻勢をかけ、東チモール紛争の混乱をくりかえし続けました。東チモールの悲劇は続きます。
 インドネシアのマリク外相は、東チモール住民が全面的にインドネシア併合を望んでいると、勝手な見解をとばし、”国連が現地調査使節を派遣するとしても、これは、その結果、東チモール住民が国連の法的規制に従うことを意味しない”と述べ、事実上、国連の介入を全面的に否定しました。
 このような混乱が続くなかで、76年4月22日に、国連安保理は、現状掌握のため東チモールに派遣されていたウインスピア特使の報告を受けて開かれました。
 インドネシアの武力による東チモール併合の意図を激しく非難する「東チモール民主共和国」の支持派と、”進駐は東チモール人民の要請によるもの”と主張する併合賛成派のインドネシア政府の支持派とが対立しました。
 4月22日に、安保理で成立した東チモール決議の主文はつぎの通りです。
一、すべての国に東チモールの領土保全ならびに住民の不可分な自決権を尊重するよう呼びかける。
一、インドネシア政府に対し、これ以上遅れることなく、同地域からすべての兵力を撤退するよう呼びかける。
一、事務総長特使がその任務を継続、当事者との協議を続行するよう事務総長に対して要請する。
一、事務総長がこの決議案の履行を追求、できるだけ早く安保理に報告を提出するよう要請する。
一、すべての国および他の当事者に対し、平和的解決と非植民地化に向けて、全面的に協力するよう呼びかける。
一、引き続き状況に注目することを決定する。
 このような決議文のように、東チモール紛争問題でインドネシア軍の撤収案は採択されました。

 しかし、76年5月、インドネシア政府は、インドネシア軍の完全撤退後、国連の平和的解決努力のもとで、東チモール全政党、全住民による民族自決を主唱した国連決議を、完全に無視し、東チモール併合を強行しました。
 インドネシアのこの併合工作を、あわただしく強行する理由はなんであったのでしょうか。当時の消息筋によりますと、次のようなことがらが背景にあったものと報道されています。
① 国連の非力を見越しての既成事実優先策。
② 東チモールのフレテリン相手のゲリラ戦長期化による財政負担増。
③ 東チモール紛争で戦死したインドネシア”義勇兵”(侵略に動員された兵)の遺族やインドネシア軍内部の強硬派からの併合策の突き上げ
④ オーストラリアの労組などをはじめとする フレテリンへの支援ムードの高まり。など。
 さらに、インドネシア国会は、7月15日にポルトガル領東チモール併合に関する法案を可決しています。そして、東チモールはインドネシア共和国の27番目の州として、正式に併合を決めました。

 国連安保理は、75年12月にインドネシアが本格的に軍事介入して以来、二回にわたりインドネシア軍の撤兵、住民自決などを求める決議を採択しています。しかし、インドネシアは、これを事実上無視し、一方的な併合に踏みきったのです。
 その後、ポルトガル政府は、元植民地東チモールのインドネシア併合を正式に承認しています。
そして、東チモール紛争のさい、捕虜になったポルトガル兵と本国帰還を希望しているポルトガル人が、インドネシア赤十字を通じてポルトガル側に引き渡されています。また、原則的に同意したインドネシア併合の東チモールに、賠償金を支払うことにも同意しています。
 その当時の報道を整理してみて、私は、やむを得なかったかもしれませんが、ポルトガル政府のあまりの腰の弱さに、だらしなさを感じました。そして、今日までの東チモールの悲劇ついて改めて心の痛みを強く感じています。
 これまで東チモール紛争についての記録は、すでに書きとめておきましたように、クーデターの起ったとき(75年8月)から、約1年間(76年7月)、スクラップブックに整理していた紛争に関する新聞の記事と、それに、小林さんの著書「遠くて近い国オーストラリア」の記事の一部を再録しながら、多少の私見を加えて、紛争の経過を客観的に綴ってみたものです。
 いま、このように記述してみましたが、私は、ポルトガル、日本も腰があまりに弱く、インドネシアに無視された国連、権威を失った国連と、それに、事勿れ主義のように静観していた各国にも、一つの空しさを感じています。
 その後も(76年8月以降)、新聞の報道記事に注意して見ていましたが、約3年間ほど、東チモールに関する記事は目にとまらず、ほとんどなかったように思われます。


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