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ねずさんのブログよりの転載です。

万物すべてに心あり - ねずさんの学ぼう日本 (nezu3344.com)

 

かつて婚礼の儀に際しての定番となってたお能の謡曲の「高砂」。その「高砂」は、自然界の生きとし生けるものは、草木土砂や風の動きや水の音にまで、すべて私たち人間と同じ「心」が宿っていると説く演目です。そこから自然界のもたらす四季の流れにさからうことなく、自然体で生きるという思考や行動が生まれ、そのことが千年の松のように末長い夫婦の愛をもたらすと謡(うた)っているのです。

 

 

お能に「高砂(たかさご)」という演目があります。
このお能で謡(うた)われる謡曲の中の一節は、かつては婚礼の儀に際しての定番曲となっていました。
以下のものです。

 高砂や
 この浦(うら)船(ふね)に帆(ほ)をあげて
 この浦(うら)船(ふね)に帆(ほ)をあげて
 月もろともに出(い)で汐(しほ)の
 波の淡路(あはぢ)の島影(しまかげ)や
 遠く鳴尾(なるを)の沖(おき)すぎて
 はや住の江に着(つ)きにけり
 はや住の江に着(つ)きにけり


舞台は9世紀の醍醐天皇の治世に播磨国(いまの兵庫県)の高砂の浦に立ち寄った神主(かんぬし)のもとに、一組の老夫婦が現れるところからはじまります。
その老夫婦に神主が、
「このあたりに高砂の松があると聞きました。
 それはどの木のことを言うのですか?」とたずねます。すると老人が、
「いまワシが木陰を清(きよ)めているこの木が
 高砂の松ですよ」と答える。

神主が続けて、
「住之江(大阪市住之江区)の松に
 相生(あいおひ)の名がありますな。
 ここと住吉とは遠く国を隔(へだ)てているのに、
 どうして相生の松というのでしょう」
このように問うと、
「つまらないことを言うものではありません。
 山海万里(さんかいばんり)隔(へだ)てていても、
 心はたがいにつながるものです。
 妹背(いもせ)の道は遠くないのです」
と老人が答えるわけです。

「妹背(いもせ)の道」というのは、現代語では「夫婦の道」と訳されますが、実はもう少し深い意味があります。
妹は妻のことですが、その妻を背負っての人生の道が妹背です。
逆に妻が背負った夫のことは「吾が背子(せこ)」と言います。
たがいに背負い、背負われて、ともに人生をすごすのが、夫婦(めおと)の道とされてきたのです。

近年は通勤カバンにもリュックが流行るようになりました。
手で持つカバンに比べて、リュックは両手が使えるだけでなく、重たい荷物でも背負えば、割と楽に持ち運ぶことができます。
では、そのリュックが、人の体重程もあったらどうでしょう。
背中の荷物が肩に食い込む。
足腰に重量がかかる。
昔の人の「荷を背負う」は、いまのリュックより、かなり重たいものであったのです。

そんな重たい荷物より、実はもっと重たい荷物が、互いの配偶者というわけです。
重い荷物を背負って長い道のりを行けば、途中で荷物を放り出したくもなる。
けれど、さいごまでそれを背負っていかなければ、彼岸にたどり着くことができないのです。
だから背負う。
だから歩く。

「人の世は重き荷を背負いて坂道をゆくが如し」と説いたのは徳川家康ですが、その言葉は、室町前期のお能の演目に、すでにちゃんと説かれているわけです。

お能は、武家文化として定着したもので、およそ殿様と呼ばれる人であれば、お能の謡曲の何曲かは、みずから舞い踊り、また謡曲も暗誦できたものでした。
当然、その謡曲の意味もしっかり学ぶ。
意味がわからなければ、舞えないのです。当然のことです。

そして殿が舞う謡曲に、この「高砂」などがあるわけです。
加えて「高砂」は、婚礼の際の謡いとして、広く世間一般にも知られた曲でした。
つまり「高砂」は、世間の常識であったわけです。
そしてその常識が、配偶者をして「降ろすことのできない生涯背負った背中の荷物」というものであったわけです。
さらにその常識は、配偶者が互いに遠く離れていても(物理的に離れていても)、どんな遠くにあったとしても、互いに心は繋がっている。
それを象徴しているのが、相生(あいおい)の松だ、というわけです。

この点は、西洋風の恋愛至上主義と、我が国の夫婦の道という文化の違いでもあります。
西洋では、もともと女性はゼウスが男性を堕落させるためという目的をもって造ったものという原理があり、男性が美しい女性を手に入れて所有するまでだけを重視します。
これに対し日本の文化は、もとより男女は対等な存在であり、その対等な男女が晴れて夫婦となってからの長い歳月を重視します。

お見合い結婚などがその典型で、極端に言えば、恋愛期間などなくてもよろしい、というのが日本的価値観であったわけです。
なぜなら、夫婦の愛は、燃えるものではなくて、育むものだからです。
燃える炎はいつかは消えます。
しかし育む愛は永遠のものです。

お能は、こうした神主と老夫婦のやり取りからはじまるのですが、いくつかの名言が謡曲のなかに含まれます。
たとえば、

「それ草木、心なしとは申せども、
 花実(くわじつ)の時をたがえず
 陽春(やうしゆん)の、
 徳をそなえて南枝(なんし)の花は
 はじめてひらく」

草木には心がないというけれど、四季の花は咲く時期を間違えないでしょ?
しかもそのことは、千年の時を超えても変わることがない。
つまりちゃんと、ルールを違えずに生きている。
生きているということはつまり、心がある、ということだと言うわけです。

「草木土砂、風声水音まで、
 万物にこもる心あり。
 春の林の東風(こち)に動き、
 秋の虫の北露(ほくろ)に鳴くも
 皆、和歌の姿ならずや」

草木土砂や風の動きや水の音など、あらゆるものには、人と同じく「心」がある。
「和歌の姿」というのは、察する姿です。
あらゆるものが、互いの心を察し合って生きている。
そして「察する心」には、物理的距離など関係ないのです。

そういうことを大切にしてきたのが、日本の文化です。

 

お読みくださり有難うございます。

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