ポポロ通信舎

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無着成恭と中島小泉製作所

2021年08月23日 | 研究・書籍
無着成恭(むちゃくせいきょう)と言ってもご存じない方が多くなっているかもしれません。TBSラジオ『全国子ども電話相談室』の回答者を1964-1989年の25年間、回答者をされていた良い子たちの「せんせい」です。

三島由紀夫や無着成恭が、大泉町の中島飛行機小泉製作所(現在のパナソニック・三洋電機)に戦時中、学徒動員で働いていたことは知っていました。三島由紀夫については、代表作の一つ『仮面の告白』の中で「N工場」の表記で登場しています。

気にはなっていましたが無着成恭については、今回『無着成恭 ぼくの青春時代』(日本図書センター)を読み詳しく知ることができました。

「西小泉駅で下車。下車したとたんに空をあおいでフーッと呼吸をした。空には練習機がとんでいる。めずらしくてたまらない。駅前の小泉荘というところで朝飯を食べる。もちろん、家から持ってきたおにぎりだ。・・・会社のバスが迎えに来た。それで中島高林寮に向かった。途中、右手に飛行機がずらりと並んでいるのが、ちらっと見えた。すごいなあと思った」すでに敗色漂う昭和19年8月7日、山形中学(現山形東高)5年生、17歳の無着成恭の日記の一節です。

何といっても食べるものが無く、育ち盛りの学徒動員生や徴用工たちには苦しい思い出ばかりの小泉工場だったようだ。一緒に働いた台湾から来た少年工たちのことも書かれている。

終戦の年の4月、無着成恭ら卒業学年生は高林寮を去って山形に引き上げる。帰路、福島県白河に着いたら東京は大空襲を受けている、と駅員が言った。誰かが「今、高林寮が直撃弾を受けて全滅だそうだ」と、どなった。ほかの学校の生徒はどうしただろう。酒田中学など全滅したんでないかな。沼田中学はどうだろう今の話デマであればよいなと思った、と日記にあります。

無着少年が8月の今頃初めて到着した西小泉駅。今も変わらぬ駅につながる線路=写真=をながめ70余年前の「動員日記」の大泉の街や飛行機工場の情景を思い浮かべています。


 
 


無着成恭著 『おっぱい教育論』
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