長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

❼【2023年(令和五年)大河ドラマどうする家康記念⑦】天下人・徳川家康の物語(家康小説の一部を先行掲載)徳川家康よ、どうする??

2023年01月10日 08時56分52秒 | 日記















         本能寺の変



  明智光秀は居城に帰参した。天正十年(一五八二)、のことである。
 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」
「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」
 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。
 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」
 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。
「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」
 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。
「あの方が……いなくなれ…ば…」
 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!
「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。
 かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。
 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。
「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」
 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。
「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。
「いえ。めっそうもない」
「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」
「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでござる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」
「ははっ」家康は平伏した。
 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」
「……いいえ」
「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」
 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。

 しかし、明智光秀はそれからが不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。
「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」
「は? ……羽柴殿の?」
 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。
 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。
「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」
 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。
 しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。
 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!

 元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大坂に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。
 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。
 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………
 かれは完全に油断していた。

 明智光秀は出陣の前日、弾薬、食糧、武器などを準備させた。そして、家臣たちを集めた。一族の明智光春や明智次右衛門、藤田伝五郎、斎藤利三、溝尾勝兵衛ら重臣たちだった。光秀は「信長を討つ」と告げた。
「信長は今、京都四条西洞院の本能寺にいる。子息の信忠は妙覚寺にいる。しかし、襲うのは信長だけじゃ。敵は本能寺にあり!」
 この襲撃を知って重臣たちは頷いた。当主の気持ちが痛いほどわかったからだ。
 襲撃計画を練っていた二七日、明智光秀はあたご山に登って戦勝の祈願をした。しかし、何回おみくじを引いても「凶」「大凶」ばかり出た。そして、歌会をひらいた。
 ……時は今、雨がしたしる五月かな…
 明智光秀はよんだ。時は土岐、光秀は土岐一族の末裔である。雨は天、したしるは天をおさめる、という意味である。
 いつものかれに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでる。この数十年のあいだ、光秀は自分のことは自分で処理してきた。しかも、そうヘタな生き方ではなかったはずだ。確かに、気乗りのしないこともやったかも知れない。しかし、それは生き延びるための戦だった。そして、かれは生き延びた。しかし、信長のぐさっとくる言葉が、歓迎せぬ蜂の群れのように頭にワーンと響いていた。
 ……信長を討ち、わしが天下をとる!
 光秀は頭を激しくふった。

「敵は本能寺にあり!」
 明智光秀軍は京都に入った。そして、斎藤利三の指揮によって、まだ夜も明け切らない本能寺を襲撃した。「いけ! 信長の首じゃ! 信長の首をとれ!」
 信長の手勢は五~七十人ばかり。しかも、昨日は茶会を開いたばかりで疲れて、信長はぐっすり眠っていた。
「なにごとか?!」本能寺に鉄砲が撃ちこまれ、騒ぎが大きくなったので信長は襲われていることに気付いた。しかし、敵は誰なのかわからなかった。
「蘭丸! 敵は誰じゃ?!」急いで森蘭丸がやってきた。「殿! 水色ききょうの旗……明智光秀殿の謀反です!」
「何っ?」
「…殿…すべて包囲されておりまする」
「是非に及ばず」信長はいった。
 信長は死を覚悟した。自ら弓矢をとり、弓が切れると槍をとって応戦した。肘に傷を負うと「蘭丸! 寺に火を放て! 光秀にはわしの骨、毛一本渡すな!」と命じた。火の手がひろがると、奥の間にひっこんで、内側の南戸を締めきった。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬもののあるべきか」炎に包まれながら、信長は「敦盛」を舞った。そして、切腹して果てた。
 享年四十九、壮絶な最期であった。 

 
 
     天下人






        8 天下を獲る





         中国大返しと山崎・牋ケ岳



信長は”本能寺の変”で、死んだ。
 その朝、家康や千宗易はバッとふとんから飛びおきた。何かの勘が、信長の死を知らせたのだ。しかし、秀吉は京より遠く備中にいたためその変を知らなかった。
 本能寺は焼崩れ、火が消えても信長の骨も何も発見されなかったという。光秀は焦りながら「信長の骨を探せ!」と命じていた。もう、早朝だった。
 天正十年(一五八二)五月、秀吉は備中高松城を囲んだ。敵の城主は、清水宗治で毛利がたの武将であった。城に水攻めをしかけた。水で囲んで兵糧攻めにし、降伏させようという考えであった。たちまち雨が降り頻り、高松城はひろい湖のような中に孤立してしまった。もともとこの城は平野にあり、それを秀吉が着眼したのである。城の周辺を堤防で囲んだ。城の周り約四キロを人工の堤防で囲んだ。堤防の高さは七メートルもあったという。しかも、近くの川の水までいれられ、高松城は孤立し、外に出ることさえできなくなったという。飢えや病に苦しむ者が続出し、降伏は時間の問題だった。
 前年の三木城、鳥取城攻めでも水攻め、兵糧攻めをし、鳥取の兵士たちは飢えにくるしみ、ついには死んだ人間の肉をきりとって食べたという、餓鬼事態にまで追い込んだ。そして、今度の高松城攻め、である。
 秀吉軍は二万あまりであった。
 大軍ではあるが、それで中国平定するにはちと少ない。三木城攻めのとき竹中半兵衛が病死し、黒田官兵衛がかわりに軍師になった。蜂須賀小六はこの頃はすでに無用の長物になっていた。野戦をすれば味方に死傷者が大勢出る。そこで水攻め、となった。
 それにしても、三木城、鳥取城、高松城、と同じ水攻めばかりするのだから毛利側も何か手を打てたのではないか? と疑問に思う。が、そんな対策を考えられないほど追い詰められていたというのがどうやら真相のようだ。
 山陽の宇喜多氏や山陰の南条氏はあっさり秀吉に与力し、三木城、鳥取城、には兵糧を送ることは出来なかった。しかし、高松城にはできたはず。しかし、小早川隆景、吉川元春の軍が到着したのは五月末であり、水攻めあとのことであったという。
 秀吉の要求は、毛利領五ケ国の割譲、清水宗治の切腹などであった。
 しかし、敵は湖の真ん中にあってなかなか動かない。
「よし!」秀吉は陣でたちあがった。人工の湖と真ん中の高松城をみて「御屋形様の馬印を掲げよ!」と命じた。「御屋形様の? 信長公はまだ到着されておりませぬ」
「いいのじゃ。城からみせれば、御屋形様まできた…と思うじゃろ? それで諦めるはずじゃで」秀吉はにやりとした。
 時代は急速に動く。
 天正十年六月二日未明、京都本能寺の変、信長戦死……
 六月三日夜、高松城攻めの陣中で挙動不審の者が捕まった。光秀が放った伝令らしかったが、まちがって秀吉のところに迷いこんだのだ。秀吉はどこまでも運がいい。小早川隆景宛ての密書だった。「惟任日向守」という書がある。惟任日向守とは明智光秀のことである。
 ……自分は信長に恨みをもっていたが、天正十年六月二日未明、京都本能寺で信長父子を討ちはたした。このうえは足利将軍様を推挙し、両面から秀吉を討とうではないか…

 秀吉は驚愕した。
「ゲゲェっ! 信長公が光秀に?!」
 秀吉は口をひらき、また閉じてぎょっとした。当然だろう。世界の終りがきたときに何がいえるだろうか。全身の血管の血が凍りつき、心臓がかちかちの石になるようだった。 秀吉軍は備中で孤立した。ともかく明智光秀は京をおとしたらしい。秀吉の居城・長浜、それから中国攻めの拠点となった姫路城がどうなったかはわからない。もう腰背が敵だ。さすがの秀吉も思考能力を失いたじろいだ。
「どうしたらええ? どうしたらええ?」秀吉はジダンダを踏んだ。
「よし! 今日中に姫路城に撤兵しよう…」
 黒田官兵衛は「このまま撤兵すれば吉川、小早川らが信長公の死を知って追撃してくるでしょう。わが軍も動揺するし、裏切るものもでるかも知れません。ここは天下を獲るかとらぬかの重大な”天の時”……わたくしに策があります」と策を授けた。
 官兵衛の策によって、毛利側と和議を結ぶことになった。幸、まだ毛利側は信長の死を知らない。四日未明、恵瓊を呼んで新しい和議の内容を提示。毛利側は備中、備後、美作、因幡、伯耆の五ケ国をゆずりわたし、そのかわり高松城の水をひいて城兵五千人を助ける。     という内容である。安国寺恵瓊は、その足で毛利側の陣にはよらず、船で人工湖の城に入城、清水宗治を説得した。宗治は恵瓊の腹芸とは知らずに承諾。
 恵瓊はその足で、小早川隆景、吉川元春の陣へ、かれらは信長の死を知らないから署名して和睦。四日午後、無人の城に兵を少しいれて警戒。五日、小早川隆景、吉川元春の軍が撤兵、それを見届けてから、六日、二万の兵を秀吉は大急ぎで撤兵させた。世にいう”中国大返し”である。その兵はわずか一日で姫路城に帰陣したという。
 その頃、毛利方は信長の死を知るが、あとの祭……。毛利方は歯ぎしりして悔しがった。騙しやがって、あのサルめ! だが、小早川隆景も吉川元春も秀吉軍を追撃しなかった。 このことも秀吉の幸運、といえるだろう。
 特筆すべきなのは二万あまりの秀吉軍は温存されたということだ。まったく無傷で、兵士は野戦などで戦うこともなかった。三木城、鳥取城、高松城攻めもすべて、調略、軍略であった。兵士たちは退屈な日々を送ったという。
 姫路城に帰陣してから、「信長公の弔い合戦をする」と秀吉は宣言した。そして、兵士たちを二日間休ませたうえで銭と食料を与えた。
 本能寺の変から十一日で、明智光秀と羽柴秀吉との「山崎の合戦」が始まる。秀吉は圧倒的な戦略と兵力で、勝った。明智光秀が落ち武者になって遁走する途中、百姓たちの竹槍で刺されて死んだのは有名なエピソードである。
 とにかく、こうして秀吉は勝ち、明智光秀は敗れて死んだ。光秀の妻・ひろ子も自害して果てた。かくして、天下の行方は”清洲会議”へともちこまれた。
 故・信長の居城・清洲城に家臣たちが集まっていた。天正十年六月のことである。
 織田家の跡目は誰にするか……。長男の信忠は本能寺の変のとき光秀に殺されている。   残るは、次男・信雄、三男・信孝か?
 しかし、秀吉はここでも策をめぐらす。信忠の嫡男・三法師(わずかに三才)を後継者にし、自分がそのサポートをする、というのだ。幼い子供に政は無理、これは信長にかわって自分が天下に号令を発する、という意味なのである。
 秀吉は赤子の三法師を抱いて、にやりとした。
「謀ったな……秀吉…」柴田勝家は歯ぎしりした。しかし、まだ子供とはいえ、信忠の嫡男なら織田家の跡目としては申し分ない。しかし、勝家は我慢がならなかった。
 ……サルめ! 草履とりから急に出世してのぼせあがっている。許せん! わしはあんなやつの下で働く気はもうとうないわ!
 秀吉は信長の妹・お市をも手籠めにしようとした。お市は反発し、柴田勝家の元へはしった。彼女は勝家がまえから好きだったので、意気投合し、再婚した。浅井長政との遺児・茶々、初、江も一緒にである。
 そして、琵琶湖の近くでついに、柴田勝家と羽柴秀吉は激突する。世にいう牋ケ岳の合戦である。そして、ここでも秀吉は勝った。勝家は炎上する城の天守閣で、妻のお市と娘たちに逃げるようにいった。しかし、お市は「冥途までお共いたします」と勝家とともに死ぬ覚悟だ、と伝えた。「わらわはサルのてごめにはなりたくありませぬ。お供します」「市……娘たちは助けてくれようぞ。あのサルめは子供までは殺さぬからのう」
 ふたりは笑って自害した。娘たちは秀吉にひきとられていった。
 農民たちは戦を楽しんでいたという。牋ケ岳の合戦のときも、農民たちは弁当片手で戦をまるでスポーツのように観戦していたのだという。また、合戦のあとは庶民の貴重な稼ぎ場となった。死傷者や敗者の武具・着衣を奪えることができたからだ。また、敗者の武将をとらえれば多額の賞金までもらえる。そのため、合戦のあとはかならず農民の落人狩りがおこなわれた。天王山から坂本城にもどる途中で竹やりで刺された明智光秀らは、庶民の強欲の犠牲者であるという。

「信長公のあとつぎだと天下に宣言するため安土城よりでっかい大坂城を築こうぞ」
 秀吉は大坂に城を築城しはじめた。
 この頃、奥州(東北)の伊達、徳川、北条氏が三国同盟を結んでいた。その数、十万、秀吉軍は十七万であったという。大坂城の大工事をやっている最中に、信長の次男の信雄が家康と連合してせめてきた。
「わしは信長の子じゃ、大坂城にはわしが住むべきじゃ!」信雄はいった。
 家康は「そうですとも」と頷いた。
 濃尾平野の小牧山と犬山城で、秀吉と家康は対陣した。小牧長久手の戦い、天正十二年(一五八四年)である。
 数年間、野戦の攻防をしたことがなかった秀吉は、山崎、賤ケ岳と白兵戦で勝ち続けた。  そして、小牧長久手の合戦である。この合戦で秀吉は大将を秀吉の甥子・秀次とした。しかし、この秀次という男は苦労知らずののぼせあがりで、頭も悪く、戦略をたてるどころか一方的にコテンパンにやられてしまう。池田恒輿は戦死、その他の大将も家康に散々にやられる。この合戦は家康の大勝利のようにも見える。が、そうではないという。
 きっかけは信長の次男・信雄がつくった。秀吉にまるめこまれた信雄は柴田攻めで、柴田らがかついだ信長の三男・信孝を尾張・内海で死においこんだ。秀吉にいいように踊らされたのだ。信雄は美濃の領地をもらった。
 秀吉はその年、出来たばかりの大坂城に諸将をよんだ。自分に臣下の礼をとらせるためだ。信雄はこなかった。すると秀吉は巧みに津川義冬ら三人の家老をまるめこみ、三人が秀吉に内通しているという噂をばらまいた。信雄はその策(借刀殺人の計)にまんまとひっかかり三人を殺してしまう。秀吉の頭脳勝ちである。
 信雄攻めの口実ができた。そんな信雄は家康に助けを求め、そこで小牧長久手の合戦が勃発したという。この合戦は引き分け。しかし、徳川の世になってからこの合戦は家康が勝って秀吉が負けたように歪曲されたのだ。
 数にたよって信長のように徳川滅亡をたくらめば出来たろう。家康の首もとれたに違いない。しかし、秀吉はそれをしなかった。なぜなら秀吉は天下を獲ろうという願望があったからである。家康と戦って勝利するために兵力を磨耗するより、家康と手を結んだほうが得策だと考えた訳だ。
徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長曽我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。
 家康の使者・石川数正が秀吉の大坂城にきた。
 秀吉は上機嫌で、「よくまいられた、石川殿」とにこりとした。そして、「わしはな家康殿とは戦いたくないのじゃ。家康殿とは義兄弟となりたい」
「ぎ、義兄弟でござりまするか?」石川数正は平伏し、不思議な顔をした。上座の秀吉はにこにこして「そうじゃ。家康殿とわしは義兄弟である。」
家康は「そうですとも」と頷いた。
 濃尾平野の小牧山と犬山城で、秀吉と家康は対陣した。小牧長久手の戦い、天正十二年(一五八四年)である。
 数年間、野戦の攻防をしたことがなかった秀吉は、山崎、賤ケ岳と白兵戦で勝ち続けた。 そして、小牧長久手の合戦である。この合戦で秀吉は大将を秀吉の甥子・秀次とした。しかし、この秀次という男は苦労知らずののぼせあがりで、頭も悪く、戦略をたてるどころか一方的にコテンパンにやられてしまう。池田恒輿は戦死、その他の大将も家康に散々にやられる。この合戦は家康の大勝利のようにも見える。が、そうではないという。
 きっかけは信長の次男・信雄がつくった。秀吉にまるめこまれた信雄は柴田攻めで、柴田らがかついだ信長の三男・信孝を尾張・内海で死においこんだ。秀吉にいいように踊らされたのだ。信雄は美濃の領地をもらった。
 秀吉はその年、出来たばかりの大坂城に諸将をよんだ。自分に臣下の礼をとらせるためだ。信雄はこなかった。すると秀吉は巧みに津川義冬ら三人の家老をまるめこみ、三人が秀吉に内通しているという噂をばらまいた。信雄はその策(借刀殺人の計)にまんまとひっかかり三人を殺してしまう。秀吉の頭脳勝ちである。
 信雄攻めの口実ができた。そんな信雄は家康に助けを求め、そこで小牧長久手の合戦が勃発したという。この合戦は引き分け。しかし、徳川の世になってからこの合戦は家康が勝って秀吉が負けたように歪曲されたのだ。
 数にたよって信長のように徳川滅亡をたくらめば出来たろう。家康の首もとれたに違いない。しかし、秀吉はそれをしなかった。なぜなら秀吉は天下を獲ろうという願望があったからである。家康と戦って勝利するために兵力を磨耗するより、家康と手を結んだほうが得策だと考えた訳だ。
 徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長曽我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。
 家康の使者・石川数正が秀吉の大坂城にきた。
 秀吉は上機嫌で、「よくまいられた、石川殿」とにこりとした。そして、「わしはな家康殿とは戦いたくないのじゃ。家康殿とは義兄弟となりたい」
「ぎ、義兄弟でござりまするか?」石川数正は平伏し、不思議な顔をした。上座の秀吉はにこにこして「そうじゃ。家康殿とわしは義兄弟である。そのために…」


「………義兄弟?」
 居城で、家康はもどった石川に尋ねた。「秀吉公がそう申されたのか?」
「ははっ。つきましては秀吉殿の妹君を殿の妻にと…申されました」
「妹君?」家康は茫然とした。「秀吉公の…?」
「はっ。朝日の方。年は四十三でござる」
「それは…」家康は続けた。「年増じゃのう」
「連れ添った夫と離縁して、嫁ぐそうでござりまする」
 家康の家臣たちは反対した。秀吉の妹などいらぬ! というのである。しかし、石川数正だけは冷静で、「受けたほうがよろしいかと存ずる」とがんといった。
 家康は遠くを見るような目をして、口をとじた。何にせよ、家康が何を考えているのかは、誰にもわからなかった。


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