青い花

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骸骨

2021-11-19 08:34:25 | 日記
ジェローム・K・ジェローム著『骸骨』

この本は完全にジャケ買いならぬ表紙買いだった。
私の場合、未知の作家の作品を手に取るか否かは、書評よりも装丁が決め手になる。

「食後の夜話」「ダンスのお相手」「ディック・ダンカーマンの猫」「蛇」「ウィブリイの霊」「新ユートピア」「人生の教え」「海の都」「チャールズとミヴァンウェイの話」「牧場小屋(セター)の女」「人影」「二本杉の館」「四階に来た男」「ニコラス・スナイダーズの魂、あるいはザンダムの守銭奴」「奏でのフィドル」「ブルターニュのマルヴィーナ」の17編の短編と訳者あとがきが収録されている。

副題に幻想奇譚とあり、また国書刊行会ということもあって、きっと気に入るだろうと思った。表紙だけでなく、中の挿絵も洒落ていて雰囲気がいい。紙の本を手に取る醍醐味を十分に味わえる。

肝心の収録作はというと、正直言うと途中までは、私にはあまり向いていない作家かもなぁと思いながら、ノロノロと読み進めていたのだった。
バリエーションの豊富な作家なぶん、個人的には当たり外れが大きかった。ハマる作品には魂が持っていかれるほど引き込まれるが、そうではない作品は語りがやや煩く感じられたのだ。

あとがきを読んでみたら、ジェローム・K・ジェロームの代表作は、『ボートの三人男』というユーモア小説だそうで。なるほど。
ユーモア小説じたいは割と好きなジャンルだ。もしかしたら、本書より『ボートの三人男』の方が楽しめるかもしれない。
否、本書も十分良書だと思う。イラチな私が、自分向きではないかもと思いながらも、途中で投げ出さなかったくらいには引き付けられるものがあった。ただ、私が期待していた幻想奇譚とは、少々異なる作品が多かったというだけで。

ユーモア小説の書き手だけあって、本書の収録作は風刺的な語りが多い。
特に最初の「食後の夜話」は、序文でステロタイプな幽霊譚への皮肉を効かせたユーモラスな語りが延々と続く。そのあたりが、私の好むタイプではないというか。私の好きな幻想奇譚とは、孤独な幻視者によるものが多いので、怖くもなければ美しくもない饒舌な幻想奇譚というものを読み慣れていないのだ。
「ダンスのお相手」は、私の大好きな人形の恐怖譚ということで期待していたのだが、このジャンルの至高は、ホフマンの「砂男」だなぁと。
あと、「蛇」は、佐野洋の短編に似たような内容の作品があった気がする。もちろん「蛇」の方が先に出ているのだけど、ほかにも本書収録作の中には、今となっては使い古されたアイデアのものが多かった。
使い古されたアイデアには、使い古されるだけの王道の風格があるものだけど、最初の数編からは、古雅の域には達していない、何というか生乾きな中途半端な古さを感じたのだ。

と、途中までは半ば意地で読んでいたようなものだったが、「海の都」でようやく私が求めていたものに出会えた気がした。
この短編は、ディーン人の海賊がイングランドに侵攻していた時代を舞台としている。
人間の愚かさや栄華の儚さと荒涼たる自然の描写との配合が効いている。太古の伝説のように骨太な味わいだ。読んでいる間中、息も出来ないほど吹き荒ぶ潮風を感じた。
この作家の作品は、都会より地方を舞台にしたものの方が私の好みに合う。この物語を美しい挿画の絵本に仕上げて欲しい。

その大修道院と海との間には、かつては七つの塔と四つの立派な教会の立つ町があった。
贅沢な商い物が行き交い、典雅な装飾の施された建造物や水路の間には様々な異国の言葉が溢れ、町はたいそう活気づいていた。だが、町は今では海底20尋の深みに横たわっている。

富の香りに引き寄せられたデーン人と町を治めていたサクソン人との戦いは熾烈を極めた。長い戦いの末、疲弊した両者はこの地で友好的に暮らすことで同意した。
宴が催された。
かつて互いに向き合って戦った男たちは、並び座って杯を交わした。彼らは互いを友と心得、肩を組んだ。宴が終わると男たちは、ともに横になって眠った。
その夜、町に邪な声が流れた。

“我らのところへやって来て、我らの土地から分け前を得ようとしているのは誰だ。我らの道の石が赤く染まったのは奴らが殺した妻や子供たちの血ではなかったか。肉とワインで重く横たわっている奴らに今こそ襲いかかろうではないか。奴らは一人たりとも逃げられまい。そうすれば、奴らからも、奴らの子供たちからも、もう傷つけられることはなくなるのだ”

その声は町の住人の心を圧倒した。
この町の美と富のすべては、サクソン人が築き上げたものだ。なぜ、侵略者どもと共有しなければならないのか。謎の言葉は、サクソン人の心の奥に押し込められた共通の鬱屈から発生したのかもしれない。
忽ち殺戮が始まった。
サクソン人は、デーン人の退路を塞いだ。デーン人は、長い夜を通して大修道院の扉の前で叫び続けた。

大修道院長は跪いて神に呼び掛けた。

“神よ、聞き給え。答え給え”

その呼びかけへの答えだろうか、町は激しい嵐に襲われた。
無慈悲な津波が、恐ろしい速度で町の富と美と生活のすべてを飲み込んでいった。町で一番高い塔は、もはや高い塔ではなくなった。町の人々は迫りくる海水から逃げ出したが、逃げおおせた者は一人もいなかった。七つの塔と四つの教会、たくさんの通りと波止場のある町は海底に沈み、大修道院だけが残った。


恐ろしさでは、収録作のなかでは、「牧場小屋(セター)の女」が抜きん出ていた。
こちらは、ノルウェイのフィヨルドがある地方の特色を生かした、身も心も凍り付くような恐怖譚だ。この作家、やはり都会の描写よりも険しい自然の描写の方が上手い。

ノルウェイの高地に馴鹿狩りに来た二人のイギリス人男性、マイクルと私が、ガイドのノルウェイ人とともに山中で道に迷った。
三人は凍死寸前のところで丸太小屋に辿り着くが、その小屋に入った途端、ガイドは悲鳴を上げて、夜闇へと駆け去ってしまった。私たちが聞き取れたのは、「牧場小屋(セター)の女だ!」という金切り声だけだった。このあたりの迷信か伝説だろうか。
私たちがストーブに火を通すと、小屋の中の様子が見て取れるようになった。
それは古い牧場小屋で、奇妙な獣や悪霊の木彫りが黒ずんだ梁の上に置かれていて、楣の上にはルーン文字でこんな言葉が記されているのだった。

“ハールガゲルの時代にフントがこれを建てた”

家具のなかには小屋の壁と同じくらい古そうなものもあるが、もっと後の時代に持ち込まれたと思しきものも混ざっていた。この小屋には少なくとも二つの時代の人間が暮らしていたらしい。

最後の住人は、この場所を突然放棄したようだった。
生活用品は使っていた時のまま、錆びて汚れに覆われていた。読みかけの本が開いたままテーブルに伏せられ、褪せたインクで記された跡の残る大量の紙が散らばっていた。オーク材のチェストの上には、黄色の手紙が山のように詰め込まれていた。日付けは様々で、四カ月に及んでいた。それらとともに、大きな封筒が一つあって、表にはロンドンの住所が記されていたが、今ではすっかり見えなくなってしまっている。

私たちは好奇心に駆られて手紙を読んだ。
手紙の主は、療養のためにこの小屋を借りた都会の人間らしい。若い妻のみを伴い、使用人は連れて来ていない。
数通の手紙に記されていた、手紙の主と彼の妻、そして、それより遠い昔に詩人フントと彼の妻が辿った恐ろしい運命。

手紙には、手紙の主が地元民から聞いた話として、フント夫妻の最期が記されている。

夜ごと、妻が寝ている間に。フントのもとを出稼ぎ労働の女が訪れていた。
狭い小屋の中でのことだ。じきに妻は女の存在に気づいた。女が小屋を訪れるのには、必ず谷間の橋を渡らなければならない。妻は夫の目を盗んで、橋に細工をした。女が橋の上を歩くと、丸太が砕け、女は冷たい奔流に飲まれてしまった。
しかし、女は復讐を遂げないまま消えたわけではなかった。
その冬、ある男がフィヨルドでスケートをしていると、氷の中に妙な物体が埋まっているのを発見した。それは、二体の遺体であり、一人がもう一人の喉を絞めていた。彼らはフント夫妻だった。

手紙は途中で終わっているので、手紙の主夫妻が、どのように牧場小屋での生活を終えたのかは不明だ。
だが、手紙の主夫妻は、遠い昔にフント夫妻が辿った道をほぼトレースしている。特に、地元民からフント夫妻の物語を聞いて以降、その傾向が強くなっている。
外界から遮断された山小屋にいるのは、自分と妻と、もう一人、正体の分からない女の気配。
フントの暮らしていた時代と違い、この小屋は地域から完全に孤立している。フント夫妻の死以降、この小屋は禁忌の場になっており、誰も近づかないのだ。それなのに、手紙の主のもとには、夜ごと謎の女が訪ねてくる。
男の精神は一通、二通、三通と手紙を重ねていくうちにみるみる悪化していき、妻と女の悪霊との区別がつかなくなっていく。そんな夫に、妻は猜疑の目を向ける。
男は女の霊の訪れる夜より、妻と二人きりの昼が怖い。互いを愛しい人と呼び、やさしい手つきで髪を撫でる。だけど、瞳は石のように冷たく、愛を語る会話はもはや真似事でしかない。

男はやがて、自分があのフントのように妻の首を絞めてしまうことを予感している。どうしようもなく、妻が憎い。片方の腕で彼女を強く引き寄せる一方で、もう片方の腕で強く咽喉を押したら、その骨の折れる音が聞こえるまでどれくらいかかるだろうか。

“この荒涼とした孤独の地で、僕も荒涼とした心を抱くようになった。愛と憎しみという太古の情熱が僕のなかで蠢いている。それは激しく無慈悲で力強く、後の世の君たちの理解が及ぶ範囲のものではないだろう。何世紀にもわたって培われてきた文化は僕から剥がれ落ち、薄い服のように山の風に吹かれてひらひらと飛び去ってしまった。民族の古い残忍な本能が剝き出しになっている。いつの日か、僕は妻の白い咽喉に両手の指を絡ませるだろう。(略)そこで、僕は前へ前へ身をかがめて彼女の紫色の唇にキスをする。そして下へ下へ、驚く海鳥とすれ違って、溝を満たす白い水煙を抜けて、のぞき見をしている松の木を通り過ぎ、下へ下へ下へ、僕たちは一緒に突き進むだろう。フィヨルドの水の下に横たわって眠るものを見つけるまで”

冒頭の私とマイクルが遭難するまでの件以降は、謎の男の遺した手紙によってストーリーが展開していく。
一人称で一方的に奇怪な物語が進み、それを読んでいる第三者には疑問を投げかける術がない。そして、手紙は唐突に未完のまま終わる。手紙を書いた人物と、それを読んでいる人物、そして読者の私。それぞれの間に何の関係性もなく、それでいて、他人のプライバシーを盗み見ているような、妙な後ろめたさはある。

それが、人間であれ悪霊であれ――手紙の主がセターの女と思っていた者は、本当にいたのだろうか。
あの小屋には、彼ら夫妻しかいなかったと考える方が、自然な気がする。そのくらい、謎の女の描写より、夫妻の息の詰まるような偽りの愛の描写の方が生々しかった。男は女の霊と妻の区別がつかなくなったのではなく、最初から二人の女は一人だったのだ。
これは、太古より続く愛と憎しみの物語。
吹き荒ぶ雪嵐とか、凍えるような谷川の奔流とか。キスした時の冷たい唇とか。小屋に飾られた呪術的なオブジェとか。作中のあらゆるものが読む者の精神を圧迫する怪奇小説の力作だ。

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