MBSさんのちちんぷいぷい金曜日のコーナー、楠雄二朗(くっすん)と河田直也アナが、歩いて歴史ポイントを訪れ、現地の人と触れ合うコーナー『昔の人は偉かった』の第17章『東海道五十三次の旅』40宿目のまとめ。

【40宿目・前編】 2020年12月04日(金)放送 

 

旅の内容:●池鯉鮒宿 → 鳴海宿 ▲仲の悪いお墓?!■歯応えのあるご当地うどん★今も続く?!桶狭間の戦い


スタートは愛知県知立市・藤田屋。目標地点は名古屋市・鳴海宿。約14.5キロのコース(前編)。

 

午前8:00、愛知県知立市にある、藤田屋本店の前からオープニング。本日も晴天なり。ここ最近は、お天気に恵まれている。今回のロケは、知立市~刈谷市~豊明市~名古屋市へと入る。名古屋と聞いてテンションのあがるくっすん。

 

寒さにぼやきながら歩くこと、1.5キロ、愛知県知立市から刈谷市に入る。

 

スタートから3キロ、珍しいお墓がある、洞隣寺に到着。1580(天正8)年に創建されたお寺。さっそく、境内の墓地にある不思議なお墓の元へ、ご住職の野場さんに案内してもらう。

 

 『中津藩士の墓』で、江戸時代中期に建てられた2つの墓石。中津藩士が中津藩士を斬りつける事件が起こったという。それを聞いたくっすんは、中津藩士らが飲みに行って「お前、ココがあかんやろ。」って駄目出し会になった挙句に事件が起こったのでは?と見当をつける。

 正解は、2人の中津藩士同士が、1人の女性を取り合ったのが原因と言われている。参勤交代の帰り道で、激しく斬りつけあった結果、相打ちになって双方命を落とした。

 

 哀れに思った当時の住職が、2人を供養した。2つのお墓が仲良く?並んで建てられた・・・が、生前のお互いの恨みからか、2つのお墓が遠ざかるようにだんだんと傾いていった。河田アナとくっすんが実際のお墓を見てみると、確かに離れようとしているようにみえる。

 さらに、何度お墓の傾きを戻しても、また傾くという。何度直しても離れていく2つのお墓を、町の人に”中津藩士の祟り”と恐れられた。最近のお寺の整備でも直したけど、やっぱり傾いてしまった。「あの、いっそのこと、(2つのお墓を)離したらどうですか?」と河田アナが提案する。あの世でも2人の争いは続いているのかもしれない・・・。

 

午前9:20、江戸時代の名物・『いもかわうどん』を復活させたお店へ向かう。イモが入っているうどん・・・ではなく、この辺りの地名・”芋川”に由来する。

 

スタートから4キロ、『きさん』にて早めの昼食。店主の都築さんが、さっそく冷たい”いもかわうどん”をもってくる。

 麺は真っ白ではなく、薄茶色をしている。江戸時代は今みたいに製粉技術が発達してないので、小麦の皮が混ざった茶色の麺だった。

 町の名物がほしいと刈谷市の方から依頼を受けて、1年間様々な試行錯誤を重ね、完成させた。麺の特徴は、モチモチした食感と、小麦本来の味がダイレクトに感じられること。

 

 とーっても噛み応えがあり、普通のうどんではのどごしが重視されるが、いもかわのうどんはよく噛んで食べるべし。くっすんがピザの生地っぽいと言い、店主さんも否定しない。河田アナは「違うなら違うって、言うてくださっていいですよ。」と、ピザ感を全否定する。

 

 いもかわうどんを堪能した後、同じ麺を使ったメニューをいただく。くっすんは『味噌煮込みうどん』を、河田アナは『平成版 キジメン』を食べる。

 味噌煮込みは、八丁味噌をベースに、天然のカツオだしとムロだしを合わせた看板メニュー。煮込んでいるので、歯応えがモチモチ感になった、とくっすん。「うみゃぁーです。」と名古屋弁が思わず出る。

 キジメンは、発売当初は雉肉を使っていたが、現在は入手困難なため鶏肉を代用している。キジメンがなまって”きしめん”になった、という説もある。河田アナも、モチモチ感がアップしたと、くっすんと同意見。

 

午前11:40、雲一つない空の下、快調に歩き、

スタートから6キロ、愛知県刈谷市から豊明市に入る。

 

スタートから10.5キロ、『史蹟桶狭間古戦場』に到着。戦国時代におけるかなり重要な戦いなので、河田アナがくっすんに説明を求めると、「たぶん徳川と・・・、え~秀吉?」と当てずっぽうで答えられ、「全然違います。」とツッコむ。

 

桶狭間の戦い

1560年5月19日に起こった、織田信長 VS 今川義元の戦い。25,000の今川軍に対し、10分の1の兵力の織田軍が、悪天候を利用した奇襲作戦で、みごと勝利した。

 

 桶狭間は現在の地理では、豊明市と名古屋市のちょうど市境に位置している。それで、歴史の出来事として、豊明市で起こったのか、名古屋市で起こったのか、両者の言い分が分かれている。自分のところで起こったとそれぞれ主張し、もめているらしい。

 

 豊明市の『史蹟桶狭間古戦場』では、今川義元が本陣を構えたといわれる。一方名古屋市にある『桶狭間古戦場公園』は、今川義元が戦死した場所とされ、信長と義元の銅像が建てられた。お互い一歩も譲らない状況とのこと。

 

 桶狭間の研究をしている、豊明市の太田さんにお話しをうかがう。

 2回あった桶狭間の戦いのうち、本戦が豊明市の方であったという。歴史の教科書には、2回戦ったと書いてなかった気がする河田アナ。くっすんは、教科書を読んでないので分からない。

 

 桶狭間の戦いについて、古文書からまとめた屋外展示パネルの方へ移動し、太田さんに解説してもらう。

 1回目のバトルは、信長が今川軍の進路を塞ぐように、名古屋市の方へ兵を送りこみ、そこで戦った。兵力で圧倒していた今川軍は、本陣から次々に名古屋市方面へ兵を送りこみ、数に物を言わせた。

 実はこれは信長の作戦で、義元の本陣を空にするためだった。

 また、義元は信長を討ち取ったと勘違いして、宴を開くほど油断していた。

 

 2回目のバトルは、信長がチャンスを見逃さず、今川軍の本陣へ一気に攻めこみ、奇襲作戦で義元を討ち取った。

 

 太田さんの解説を聞いて、最初に戦ったのは名古屋だから、桶狭間の戦いが名古屋で行われたという意見もわからんでもない、と河田アナ。名古屋サイドと豊明サイドで、今まで話し合いはあったのか聞いてみると、ありませんとのこと。話し合いする前から、双方折れないだろうと思われるので、しない・・・。

 中立な河田アナが、桶狭間前半・桶狭間後半と分けるのはどうかと提案する。だがしかし、「向こうは向こうの言い分があるでしょう。」と、太田さんは聞く耳を持たない。

 

 スタッフさんが、事前に名古屋市の方にお話しを聞いていて、「これから新たな資料が出てくるかもわからないですし・・・。」と言っていた。だから、今も桶狭間の戦いは続いている、ということでまとめてはいかがかと提案する。

 そんな提案に対して、「我々は古文書にしたがってモノを言っております。資料も見つけております。」と、やっぱり一歩も引かない太田さん。現在も続く『桶狭間の戦い』を目の当たりにする河田アナとくっすんと、戦いに身を投じる太田さんであった。

 

 

 

【40宿目・後編】 2020年12月12日(金)放送 

 

旅の内容:●池鯉鮒宿 → 鳴海宿 ▲世界一の技法をもつ有松絞り■町家のカフェでまったりほっこり有松あるある言いたい


スタートは愛知県知立市・藤田屋。目標地点は名古屋市・鳴海宿。約14.5キロのコース後編)。

 

午後2:00、スタートから10.5キロ、愛知県豊明市から名古屋市へ入る。

 

昔ながらの街並みが残る、有松エリアを歩く。有松は、池鯉鮒宿と鳴海宿の間に設けられた、『間の宿(あいのやど)』。間の宿は、宿場間の距離が長いときに、旅人が休憩するために発展した町のこと。

 河田アナが早口言葉の如く、「(有松は、)重要伝統的建造物群保存地区。」と唱える。くっすんは、長くてオウム返しできない。

 

 有松の名物といえば、400年以上の歴史ある染め物、『有松絞り』。いろいろな形をした柄が特徴で、国の伝統的工芸品に指定されている。

 有松絞りの商品を常時販売している、『有松・鳴海絞会館』を取材する。お店の中で、きらびやかな有松絞りの浴衣を拝見する。

 

 有松絞りの特徴を、有松絞商工協同組合の理事長・成田さんにうかがう。

 模様を作る方法は、布を糸でしばったり折り畳んだりすることで、部分的に染色させず柄として浮かびあがらせる。技法の数だけ、柄の数があり、現在製造されている柄の数は、約70種類。これだけ技法が多いは、世界でも有松だけとのこと。

 基本的には、1人の職人で1種類の技法だけ用いる。職人たちは作業の質や効率を重視し、1つの技法を極め続ける。

 

 販売商品は浴衣だけにとどまらず、Tシャツなど現代風にアレンジされている。最近では、革を使った有松絞りの財布・サンダル・スマホケースなど販売されている。

 成田さんがつけている有松絞りのマスクは、今年の大ヒット商品。コロナを逆手にとって売り上げ倍増と笑顔を見せる。

 ならばと河田アナとくっすんは、たくさんの柄のあるマスクを物色する。ピンク色のマスクを手に取っていたくっすんは、『女性向けでしょうね』と言われて、「じゃ、ぼくつけちゃダメ?」と聞いちゃう。それぞれ悩みに悩んで、お気に入りのマスクを購入する。

 

 せっかくだからお店を出ると、プラスチックのマスクから買ったばかりのマスクにチェンジ。見た目はおしゃれで、フィット感もよくステキ。

 

 有松の町を歩いていると、ビックリするモノを見つける。とある建物の中をのぞいたら、赤い服を着て赤い顔をした、等身大のフィギュアが2体、どんと鎮座して目が合う。地元の守り神様で、猩々(しょうじょう)と天狗のコンビである。悪いことしとらんかとか言って、子どもには良い子にしろよとナデナデするとのこと。それを聞いて、「なまはげみたいですね。」とくっすん。ちょっと見た目が怖いので、そういう風に言われるみたい。

 猩々のヘアスタイルを見て、「昔の河田さんの髪型に、そっくりですね。」と指摘するくっすん。嫌がる河田アナ・・・と、参考までに20年以上前のロン毛の河田さんの写真を、編集でぶっこむスタッフさん。

 

 有松では、猩々と天狗が先導役をつとめて、大きな山車で東海道を練り歩く、『有松山車祭り』が、毎年10月第一日曜日に行われている(2020年は山車曳きは中止)。

 

 さらに有松の町を歩いていると、抜け目ないくっすんが、とあるカフェに目をつける。町家にあるカフェは絶対美味しいなどと主張し、素晴らしさを力説する・・・も、単に小腹が減ったから。

 

 てなわけで、『カフェ庄九郎』にておやつ&ティータイム。江戸時代後期に建てられた建物を、リノベーションしたカフェで、『藍抹茶セット』をいただく。

 江戸時代からあった『利休まんじゅう』、抹茶のセット。染め物の原料として有名な藍だが、実は漢方薬で、アクセントとしてお饅頭にちょこっと添えられている。お饅頭自体は、あんこを黒糖のようかんでコーティングした、黒光りする球体。

 

 河田アナが店主さんに、『庄九郎』の由来をうかがう。

 有松の町と絞りの伝統産業の開祖が竹田庄九郎で、店主さんの先祖にあたる。このカフェとして使われている建物が、庄九郎の本家のものだったとのこと。

 せっかく有松に来てもらっても、建物を外から見るだけでなかなか中には入れないので、本家の茶室を改装したカフェで、家の中も楽しんでもらおうとオープンさせた。

 

 お饅頭を平らげ、お抹茶を飲み干したくっすんが、抹茶のお替りを所望する。抹茶の量が少ないからという理由だが、「ちょっとずついただくものでしょ・・・。そんなもん、ジョッキで出てきたら困るで。」と作法を解く河田アナ。ともあれ、まったりとした時間と、心落ち着く空間を堪能した、河田アナとくっすんであった。

 

 再び歩き始め、

午後4:00、鳴海宿まであと1キロくらいの地点で、保育士さん2人と、カートに乗って散歩中のこどもたちに出会う。例によって河田アナとくっすんが、こどもたちにあいさつすると、全員泣き出して大パニックを引き起こす。なんとか泣き止んでもらおうと手を尽くすも、ダメだった。河田アナは、たいへん申し訳なく思う

 

 気を取り直して、広重の鳴海宿の浮世絵が描かれた場所まで移動し、待っていた『有松あないびとの会』の六鹿さんに、お話しをうかがう。

 鳴海宿の浮世絵の風景と今の風景を見比べると、大きく描かれている有松絞りのお店屋さん2件の構図が、よく似ている。なんで鳴海宿の風景を描かずに、有松の風景を描いたのかというと、その頃から有松絞りが有名だったからとのこと。よく見ると、浮世絵に”名物 有松絞”とちっちゃく書いてある。

 

 また、鳴海宿の浮世絵には女性が多く描かれている。カゴに乗っている女性、馬に乗っている女性、女性の旅人等々。当時の有松絞りは着物なので、女性に人気だった。有松絞りは、東海道を歩く女性の目当ての1つだったとされる。

 

 おしまいに、六鹿さんに鳴海宿の通行手形を書いてもらい、通行許可をいただく。手形の裏には、『つまり有松』と意味深なメッセージが書いてある。意味が分からず、「逆から読んでみてください。」と言われ、読んでみれば、上から読んでも下から読んでも『つまりありまつ』だと気づく2人。

 

 有松を越え、

スタートから14.5キロ、目標地点の鳴海宿 [本陣跡]に到着。日本橋から数えて40番目の宿場で、宿場の全長が約1.5キロあり、本陣1軒と旅籠68軒が建ち並んだ。

 東海道五十三次-40=あと残り13宿。残りわずかですけど、まだまだ遠そうとくっすん。京都目指して、来週以降も頑張りましょうと河田アナ。まだまだたくさんの発見・出会いが待ってるよ。

 こうして、東海道五十三次・キリのよい40宿目の鳴海宿への旅を無事終えた。

 

■簡易チャート
スタート:愛知県知立市・藤田屋 [本店] → 洞隣寺 (3km) → 昼食:『きさん』(4km) →『史蹟桶狭間古戦場』(10.5km) →『有松・鳴海絞会館』→『カフェ庄九郎』→ 鳴海宿の浮世絵が描かれた場所 → 目標地点:鳴海宿 [本陣跡] (14.5km)