韓流時代小説 月の姫【後編】～王を導く娘～
(第六話)
本作は、「復讐から始まる恋は哀しく」の姉妹編。
前作で淑媛ユン氏を一途に慕った幼い王子燕海君が見目麗しい美青年に成長して再登場します。
今回は、この燕海君が主人公です。
廃妃ユン氏の悲劇から14年後、新たな復讐劇の幕が上がるー。
哀しみの王宮に、再び血の嵐が吹き荒れるのか？
登場人物 崔明華（貞哲王后）
（恒娥）チェ・ミョンファ。またの名をハンア。町の観相師、18歳。あらゆる相談に乗る
が恋愛相談だけは大の苦手なので、断っている。理由は、まだ自分自身が恋をしたことも
なく、奥手だから。
燕海君 24歳の国王。後宮女官たちの憧れの的だが、既に16人もの妃がいる。
前王成祖の甥（異母妹の息子）。廃妃ユン氏（ユン・ソファ）を幼時から一途に慕い、大王大
妃（前作では大妃）を憎んでいる。臣下たちからは「女好きの馬鹿王」とひそかに呼ばれる。
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☆本作には観相が登場しますが、すべてはフィクションであり、観相学とは関係のないものです。本当の観相学とはすべて無関係ですので、ご理解お願いします。
前回までのお話はコチラからどうぞ
永遠
太陽がじっとりと照りつける真夏の昼下がり、明華は思わず頭上を振り仰いだ。玉のような汗が額から頬を流れる。顔だけでなく、背中も汗で濡れている。
都漢陽は連日、猛暑続きである。どういうわけか、この頃、とても疲れやすい。
今日、明華は兵曹参判の奥方から夢占の依頼を受け、屋敷に向かっているところだ。下町から両班たちの屋敷が建ち並ぶお屋敷町まではかなりの距離がある。
とはいえ、これまでの明華なら、これしきを歩いたとて平気であった。なのに、今は道程の半分まで来たところで、もう呼吸が上がっている。
こんな有様だから食欲も落ちて、ひと回りも痩せた。疲れやすいだけではない。頻繁に見舞われる吐き気もまた、明華の体力気力を奪う原因となっていた。
食べなければ痩せる。当たり前のことだが、不思議なことに、体重が落ちたというのに腹回りの肉だけは落ちないどころか、逆に余計な肉がついてしまった。心なしか、少しふっくらと出てきているようにさえ見える。
これは歳頃の娘としては、いささか由々しき事態である。中年のおじさんのように腹回りがぼってりしている女をヨンが好むとは思えない。
というわけで、明華は何とか腹回りの贅肉を落としたいと思うのだけれど、運動をする体力そのものが無いのだ。
ヨンにこの前、逢ったのは七月末だ。更にその前は六月下旬、王宮内でヨンと宜佑皇子が喧嘩をした日である。その後、明華は一度だけ大王大妃のお召しで参内したが、そのときは忙しいとかで、ヨンとは逢えずじまいだった。
つまり、王宮で最後にヨンに逢って、次に逢えるまでにゆうにひと月以上は待たなければならなかった。
最後に逢えてからでさえ、十日余りが経過している。もちろん、多忙な国王である彼のことを思えば、たまにでも逢えるだけで幸せだと思っている。それは事実だ。
前回だって、ヨンは多忙な政務の合間を縫って下町まで逢いにきてくれた。嬉しい、十分だと思う一方で、もっと彼に会いたいと願う自分がいる。
我が儘だとは判っていた。ヨンは幾度も求婚をしてくれたというのに、自分はその都度、断ってきた。心身共に結ばれてからでさえ、彼は懲りることなく誠意を持ってプロポーズしてくれたのだ。なのに、明華はまたも断った。
大好きな彼と離れ離れに暮らすのを決めたのは、他ならぬ自分自身。彼を恨めしく思うのは筋違いというものだ。
七月末に逢った時、明華とは裏腹にヨンは至って元気そのものだった。気力充実しているようで、清国使節団大使、宜佑皇子についても近況を教えてくれた。
大王大妃が話した通り、かつて決闘までした二人は現在、嘘のように琴瑟相和しているらしい。元々、二人とも男らしい気性で、武芸達者だ。ヨンは暇があれば宜佑を誘って宮殿内の射場や馬場で互いに腕を競い合っているらしい。
朝鮮と清を担うべき若い二人が気心を通じ合うのは、両国にとっても望ましい。二人の友好はそのまま国同士の良好な関係に結びつくだろう。
明華はまた、流れ落ちる汗を手のひらで拭った。ヨンにはたまにしか逢えずとも、王宮からは定期的に煎じ薬が届く。もちろん、大王大妃からの下賜である。そのため、明華は日に三度もあの苦い薬を鼻を摘まんで飲む羽目になっていた。
いつもの倍以上の刻をかけて、漸くお屋敷街にまでたどり着けた。兵曹参判邸は予想よりは、こじんまりとしていた。周囲が特に宏壮な屋敷に囲まれているため、余計にそう見えるのかもしれなかった。
人気のない小道から続く石段を登る。昼間だというのに、門はきっちりと閉ざされていた。明華は控えめに呼んだ。
「観相師の崔明華と申します」
予め言い含められていたと見え、すぐに扉は内側から開いた。中年の執事らしい男に出迎えられる。彼の案内で明華は広い庭を横切り、玄関から屋敷内に入った。
よく磨き抜かれた廊下は顔が映るほどだ。屋敷内は執事ではなく、やはり中年の女中頭が先導してくれた。
「こちらへどうぞ」
女中頭にしろ執事にしろ、殆ど喋らない。優秀な使用人というのは、余計なことを喋らないというのは鉄則だから、これは当たり前だ。
女中頭は明華をとある室に案内すると、軽く頭を下げて扉を閉めた。
室に落ち着き、改めて周囲を見回す。いかにも女性の室らしい、瀟洒な飾り付けが華やかだ。八月とて室の窓は開け放たれ、窓に懸かった紗の帳が生温い午後の風にはためいている。
帳の両端には蝶の飾りがかかっており、これもかすかに揺れていた。文机の向こうには極彩色で描かれた蓮花が美しい屏風が見える。
見たところ、当主夫人の居室と思われる。
今日、明華をここに呼んだのは、当然ながら、当主である兵曹参判の奥方だ。
とはいえ、これには少しばかり揉め事があった。観相とは異なり、夢占は完全予約制である。本来、この日にはまったく別の両班家の夫人の夢占をすることは半年前から決まっていた。ところが、直前になり、横やりが入った。兵曹参判の奥方がどうしても急ぎで占って欲しいと頼んできたのである。
当然、明華は断った。たとえ高官の夫人であろうが、明華にとって客の身分は関係ない。
ー歓んでお引き受け致しますが、残念ながら、その日は既に他のお客さまのご依頼があります。
一年ほど待って貰うことになると丁重に告げたら、兵曹参判夫人は元の予約者に直談判したのだ。また間の悪いことに、本来の予約者の夫君は兵曹の下級役人だった。同じ部署の上司夫人に予約を譲ってくれと言われれば、下役を良人に持つ夫人は逆らえない。
万が一、上司と良人の関係に溝ができてはならないからだ。
結局、すったもんだの挙げ句、兵曹参判の夫人はまんまと割り込んだ。明華としては気が進まないけれど、当事者同士が〝話し合って納得済み〟だというなら、約束通り夢占をやらないわけにはゆかない。ただ、話し合って納得済みというのは随分と都合の良い表現ではあろうが。