連載第17回
韓流時代小説 罠wana*魅入られて~日陰の王女は愛に惑う
(原題「化粧師パク・ジアン~裸足の花嫁~」)
ーその美しき微笑は甘美な罠か?
どこから見ても美少女のジアンには、秘密があったー。
「すべてのものから、僕が貴女を守る」
「あなたと出会わなければ良かった。あなたを傷つけたくないから、身を引こうとしたのに」
附馬とは国王の娘を妻に迎えた男性を指す。
いわゆる王の娘婿である。難関とされる科挙に
最年少で首席合格を果たしたナ・チュソン。
将来を期待されながらも、ひとめ惚れした美しき王女の降嫁をひたすら希う。
約束された出世も何もかも捨てて、王の娘を妻として迎えたにも拘わらず、夫婦関係はよそよそしかった。
妻への報われぬ恋に身を灼く一人の青年の愛と苦悩を描く。ー彼女はその時、言った。
「私と結婚したら、後悔しますよ」。果たして、その言葉の意味するところは? 官吏としての出世も何もかもをなげうって王女の降嫁を望んだ一人の青年。しかし、妻となった王女は、良人に触れられることさえ拒んだ。ー
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父は母に甘い。こんな風に声を荒げたのは初めてだ。母は戸惑ったように父を見つめ、それから両手で顔を覆いワッと泣き出した。
母を見つめる父の顔には困惑がありありと浮かんでいた。
「今日のところはもう良い。そなたの気持ちは判った。だが、色恋沙汰と仕事はまったく別ものだ。王女さまの話はまた別として、吏曹での勤務には支障が出ないようにしなさい」
父に言われ、チュソンは立ち上がった。父に一礼し、母にも挨拶しようとしたところ、母はまだ泣いていた。
静かに扉を開け、回廊に出る。
「王女さまを嫁に迎えるなど、冗談ではありません。大監はチュソンの望みを叶えてやるつもりですの?」
母の涙混じりの声が扉を通して聞こえてくる。ややあって、父の苦しげな声が聞こえた。
「恋愛経験のない者ほど、一度思い込んだら梃子でも動かぬ。あれほどに思い詰めたチュソンを見るのは初めてだが」
「では、大監(テーガン)は国王殿下に降嫁を願い出るおつもりなのですか!」
「ー」
父は黙り込んで、何も言おうとしない。
母が泣きながら訴える。
「央明翁主さまなどという方が王室にいらっしゃることも、私は今まで知りませんでした。息子の眼を引いたほどです、美しい方なのでしょうけれど、私は王女さまが恨めしいですわ。何故、後宮の奥深くにお住まいの姫君とチュソンが出会ってしまったのでしょう。チュソンの眼に入る場所にいなければ良かったのに」
父のたしなめる声が続いた。
「何を言うのだ。翁主さまご自身に罪はない。人の縁とはそのようなものだ。意図して避けることはできぬ。チュソンと王女さまが出逢ったのも縁だとしか言いようがない」
立ち聞きは人として褒められたことではない。父母の会話はまだ続いているようであったが、チュソンは足音を立てないように自室へと戻った。
父の訓戒を受けて以来、チュソンも勤務中は気を引き締めるようになった。そのお陰で、仕事上のミスもなくなり、表面上はすべてが順調に流れていっているように見えた。
三月半ばのある日、チュソンは勤務を終え、いつものように徒歩(かち)で屋敷まで戻った。高官クラスになると、偉そうに輿にふんぞり返って出仕する御仁もいるが、チュソンはあまり好みではない。ましてや、彼はまだ任官したばかりの新米だ。
屋敷の前は、人気の無い道が続いている。官服のチュソンが屋敷に向かって歩いていると、小道を若い夫婦が対向方面から歩いてくるのが見えた。
チュソンの頬が思わず緩む。
「チョンドク」
「若さま」
チョンドクも嬉しげに顔をほころばせていた。チョンドクに寄り添うように立つ若い女もチュソンに丁重に頭を下げた。この若い女はチョンドクが二年前に娶った妻である。
チョンドクの妻は、腕に丸々と肥えた赤児を抱いていた。
「今日は早いな。もう帰りか?」
チュソンが気軽に声をかけると、チョンドクが少し顔を曇らせた。
「赤ン坊の具合が良くないんで、連れて帰って医者に診せようと思ってるんです」
「それはいけない」
チュソンは近寄り、女房の腕の中の赤児を見た。生後八ヶ月くらいの赤児は男の子だ。チョンドクによく似た利かん気な顔をしている。ふっくらとした頬が紅いのは、風邪で熱があるせいかもしれない。
「春先は気候が変わりやすいからな。よく気をつけてやると良い」
チョンドクは頷き、軽く一礼し、夫婦は寄り添い合うようにまた歩き去った。チョンドクの妻は赤児を宝物のように大切そうに抱いていた。
良い光景だと素直に思う。チョンドクはチュソンの乳兄弟だ。子ども時分は二人でーというより専ら、屋敷を抜けだそうとそそのかしたのはチュソンだがーよく、学問の師匠が来る日に限って、室を逃れて出て下町を闊歩した。
チョンドクの母、チュソンの乳母を務めたヨニは今も女中頭として羅家ではなくてはならない存在である。執事を務めた父親の方は数年前、病を得て亡くなった。今は別の年かさの使用人が執事を務めているが、二、三年内にはチョンドクが父の跡を継いで執事になることは決まっている。
チョンドクはチュソンが王宮に出仕する際は、供回りとして付き従い、屋敷では彼の身の回りの世話や雑用をこなしているのは昔と変わらない。その他は下男としての仕事をし、二年前に所帯を持ってからは住み慣れた羅家の屋敷内にある小屋から出て、一家を構えた。去年には初子にも恵まれ、同じく羅家の女中である妻と共に子を連れて通いで奉公している。
そういえば、ジアンと初めて下町で出逢ったのも、チョンドクと屋敷を抜け出した最中だった。あの日がもう随分と昔のように思える。
幾ら探しても見つからないジアンと再会する夢は、とうに諦めた。そしてやっと出逢えたと思えた次の恋の相手は、あろうことか国王の娘、王女であった。
どうも自分は実りそうにもない恋に落ちる宿命らしい。王女を望むなど、母が言うように分不相応なのかと気弱になることもある。でも、チュソンは思うのだ。
人が人を恋することに、貴賤はない、と。生まれが人の価値を決めると考えているのは、両班特有の奢った思想にすぎない。人は生まれや身分を選べないのに、どうして、王族や両班だけに人としての価値があるといえるのか。