OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

『まいまいつぶろ』に物申す!(小姑根性丸出しなので、ファンのかたはスルーしてね)

2024-02-04 | 
昨年5月に刊行されたこちらの小説、『第12回「日本歴史時代作家協会賞作品賞」受賞』『第13回「本屋が選ぶ時代小説大賞」受賞』などというキラキラしい煽り文句がついているので、自称小説家のゴマは、どんな作品なのかとても気になっておりました。

とはいえ、「時代小説って、けっこう地雷だから、お金を出して買うのもなぁ」と思っていたら、江戸仲間のAさんが貸してくださいました。
あっざーす! 

で、さっそく読みはじめると……予感的中!

時代考証ユルユルで、まさに地雷そのものでした 

いやいや、そう思ってるのはゴマだけではござんせん。
Amazonのカスタマーレビューにも、同様の違和感をもつかたがたのコメントがいくつか見受けられました。


さて、この小説は、言語不明瞭&身体にハンディキャップのあった将軍として有名(?)な9代将軍・徳川家重と、


(家重さん。お顔がゆがんでいるのは脳性麻痺の後遺症だとも)

彼の言葉がわかった唯一の人・大岡忠光との友情物語(??)らしゅうございます。


(菩提寺のさいたま市岩槻区・龍門寺に残る忠光像)


(忠光さんのお墓。とても立派!)

Amazonレビューにも書かれていましたが、誰視点なのか統一されてないうえ(大岡忠相だったり、側室のお幸だったり、ブレブレ)、語っていた人(お幸)なんていつのまにか亡くなっていたり、ラストも尻切れトンボで「はいぃ?」な読後感でした。


なんやかんや、ひっかかるところはいろいろありますが、とくに気になるのは、

➀ しょっぱなの上臈御年寄(家重の乳母)が中奥に出向いて大岡忠相に会う場面
《大奥の人がそんなに気軽にひょいひょい出て来れるか! ふつう大岡のほうが広敷から奥入りして、対面所で会うだろーが! 不自然じゃ~! それに、中奥は将軍公邸。大奥のオバチャンが好き勝手に行き来して、利用していい場所じゃないんやで》

➁ 年齢に対する認識
『忠相は41歳という若さで江戸町奉行に任じられた』
『吉宗はまだ41という若さで』
『松平能登守乗賢という30過ぎの若者』 
《40歳は初老です。拙ブログ去年7月の記事『いや~、目からウロコっす』をご参照くだされ》

③ 西ノ丸でなぜか薔薇やサツマイモを栽培するふたりが圃場としている場所が、
『伏見櫓の手前なので、花壇が影を作る夕刻は土へ下りてもそう暑くはなかった』
《……西ノ丸の図面とか見ないで書いてるんですかね。伏見櫓周辺は土塁と白洲と建物で、植物を栽培するスペースなんざまったくありません》

④ 将軍になった家重に、薩摩藩主が参勤交代の帰国挨拶をする場面

 取次ぎ役の大岡忠相が、

『島津薩摩守宗信殿、家臣平田靱負正輔殿を伴い参勤帰国の儀、お赦しを願い出ておられます』
 忠相が口上を述べると、主従はさらに頭を下げた。
『薩摩守。此度は早う発つではないか。薩摩で何ごとか出来したか』
 家重の言葉を、忠光が絶妙の間合いで伝えた。

《ツッコミどころ満載で、思わず白目になりました。
 まず、取次ぎ役が言ったセリフは当然将軍に向けた言葉なはず。
 それなのに守名の薩摩守に【守】をつけたうえに(これだけでも超不敬)、宗信【殿】 
 さらに、家臣にまで正輔【殿】(ないわ!ないわ!) 
 さらにさらに、【おられます】(敬語の使い方まちがってる! 敬意を向ける対象はだれなんや!?) 
 さらにさらにさらに、将軍が「薩摩守」と【守】つきで呼びかける(気絶レベルの違和感)》

 これは、現代でたとえるなら、こちらに訪問してきた自社よりはるかに大企業の取引先の社長さんに対して、秘書あたりが自分のところの社長が入室するときに、「当社・社長の鈴木さまがお見えになりました」と、ほざいた場面を想像していただければよいかと。

将軍が大名に呼びかけるときは、「薩摩」「肥後」(会津藩主・容保さま)「掃部」(桜田門外で散った日本を愛した井伊直弼公)という感じだったはずで、これは将軍だけではなく、老中なども同じで、幕閣入りすると、ほかの大名連中を「加賀!」(あの100万石の前田さん)だの、「越前!」(四賢侯の春嶽さん・御三卿田安家出身の元徳川さん)だのと呼び捨てにできるので、老中さんはひそかにテンションをあげていたとかいないとか。

この場面、もし、ゴマが書くとしたら、
「薩摩が御暇言上にまかり越しております」
「それへ」
(島津がウンタラカンタラ申し上げる)
「大儀」

てな感じですかね。
尊い存在である公方さまは、必要最小限しか口にしませんが、まぁ、それだと物語が進みませんから、そこはいいとしても、家臣を伴って御前に出ることはありえないと思いますが。

⑤ 『家重の将軍襲封』
《【襲封】は、封地を拝領する大名が新しく藩主になったときとかでしょ。
将軍の場合は、【襲職】じゃないのかなぁ……  》

こうしてみてみると、これは時代小説じゃなくて、時代ファンタジーだと思えばええんやね!

なんだ、ゴマの書いてるアレといっしょだったのか
(といっても、ネット小説は、そこそこ時代考証してないと、コメント欄でフルボッコにされるから、泣きながら資料探さなきゃアカンのじゃ 


追記:

忠光家重の死後、家治は日光社参の際、大岡が拝領した岩槻に立ち寄って、息子・忠喜と語らい、
『余は父上の言葉も解することができなかった不孝者ゆえ』
と、忠光の功績を誉めるエピローグ的なシーンがあるのですが ―― 

ちょっと待った!

吉宗が次期将軍に家重を指名する場面(作中一番の山場)で、
「言語不明瞭な身体障害者に将軍なんて務まるか! どうしても将軍位につけるなら、忠光は罷免しろ!」
と、迫る老中・松平乗邑に、家重が反論するんですが、やっぱりなにを言っているかわからない。
でも、通訳役の忠光が威に打たれた(あるいは、ビビった?)のか、言葉を発することができなくなるという事態におちいり……

『――――』
 もう一度、家重がまた大声を張り上げた。
(※ 「もう一度」と「また」を一文の中で同時に使うんだ 
『伝えよ、忠光。余の命じゃ』
 つねに、家重の心まで伝えてくる忠光が、まるで気配の異なる声だった。
『忠光を遠ざける、くらいなら、私は将軍を……』
『忠光! 続きを申さぬか』
 乗邑が身を乗り出して叫んだ。
 だが、忠光は突っ伏したまま激しく頭を振っている。
 ~~ 中略 ~~
『忠光が言わぬならば、私が言おう』
 吉宗が驚いて首を伸ばした。
 乗邑も、当の家重も忠光も思わず振り向いていた。
 家治が穏やかな笑みを湛え、口を開いた。
『御祖父様。私は子ゆえ、少しは父上の言葉がわかります。代わりに申しても宜しゅうございますか』
『そなた……』
吉宗は呆けたようにぽかんと見返している。
(※ またもや、同意の「呆ける」と「ぽかん」をいっしょに使用)
『忠光を遠ざけよう、権臣にするくらいなら、私は将軍ゆえ、と。御祖父様、父上はそう仰せになりました』

……おいおい、完全に矛盾してるやん 

このとき家治ちゃんは8歳です。
こんなに小さいころに、けっこう難しい内容を聞き取れてたのに、『父上の言葉を解することができなかった』って……設定破綻してませんか?

ちなみに、老中や一族全員を呼んで次期将軍を宣言するこの公的な場で、吉宗さんが脇息を使っているのも、個人的には目が点ポイントでありました。
(あれは、完全にプライベート状態で使うものなんや。たとえ、相手が家臣でもそんなの置いて話すのはすごく失礼なんだけどなぁ)


では、最後に ―― Aさん、ご好意で貸してくださったのに、いろいろケチつけちゃって、すいません! 


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堆積した厄は落ちたのか?

2023-12-31 | 日記
残すところあと数時間となった2023年。
なんやかんやいろいろなことが起き、『こりゃ絶対ヤバイなにかが憑いてる!』と確信した涙目のゴマは、先週、厄落としの旅にでたのでした。
(辞表はたたきつけ済みなので、後顧の憂いもござんせん 

「とりあえず、尾形先生の梅の屏風でも見て心の洗濯でもするかー!」と、おもむいた某美術館では……



なんと、めざすアレが展示されてないっ!


(観たかったアレ 

今年の厄は、想像以上に強力や~ 

聞くところによると、画にちなんで梅の季節にしか展示されないそうな 
完全に調査不足です。



秀吉の金の茶室(再現)もあったけど、アタクシはあの残虐非道の成り上がりものが大キライなんやっ!
全然復活できぬまま、お宿へ 

楽しみにしていたは、やはりキライなぬる湯系でした 

ホテルもよく確認しないでパパっと勢いだけで決めちゃったせいか、かなりボロッボロ昭和チックなたたずまいで……(ウグウグッ 

どうやら厄のレベルを侮りすぎていたようです 


翌日、激ぬるな湯で風邪をひき、ティッシュを大量に消費しながら訪ねたのは、かつてアメリカ領事館が置かれていた玉泉寺さん。



ここはアメリカさんだけでなく、ロシアさんともご縁が深いお寺でした。



ロシア代表のプチャーチンは、この下田で日露和親条約の結ぶため寄港している際、安政東海地震に襲われたのでした。
(とはいえ、そのときはまだ嘉永7年だったんだけど)

プーさんの旗艦ディアナ号は、大津波により大きく損傷し、乗組員にも死傷が出ました。
思いがけず被災したロシア使節団でしたが、乗船していた船医による医療支援を申し出たり、波にさらわれた日本人を救助したりと、現代のプー(チン)とは真逆な人道活動を展開したのでした。
(同じプーなのに、なぜこうもちがうんだっ!?  )

ちょびっと気分がよくなったゴマは、下田の街をフラフラしたあと、はじめて乗る観光特急『サフィール踊り子』の中で爆睡しつつ、帰路に就いたのでした。




(奇跡的に1号車1番AB席が取れたのに、ほとんど寝てた  )

さてさて、全身にこびりついていた(?)厄は取れたんでしょうか? 


(全部伊豆の海に落ちていますように、ナムナム)

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久々のアーバンライフ♡

2023-10-16 | 日記
みなさま ごきげんよう。
みごとなくらい日々鬱々なゴマでございます。

そんなゲッソリな毎日に喝を入れるべく、シゲキックスなご府内に行ってまいりました~



ひさびさのサントリーホール
(絶不調のため、平衡感覚がマヒして、画像もかたむいております 



ひさびさすぎて、「あれ? こんなんだっけ?」な記憶喪失状態っす。

本日の演目は、マーラー交響曲第3番

前にここにきたときは、オケの後ろのちょいお安い席でしたが、今日は合唱つきなので、その席は売り出されていません。

この交響曲は、全6楽章・演奏時間は約100分で、かつてギネスブックにも認められた「最長の交響曲」であります。

……というのを忘れていて、事前に水をがぶ飲みしてしまったのは痛恨のミスでしたが、やっぱり生の迫力はちがう~ 

にしても、オーケストラのコンサートって、めっちゃコスパがいいよね 

だって、たとえば某O田和正氏のコンサートなんて、アーティストバンドの方々でS席15000円、A席でも10000円くらいするらしいのに、コレは合唱団こみ総勢100人以上でS席8000円すよ!

大編成バンザイ!!


てなわけで、ビムボムつぶやきながら帰途に就いたゴマなのでした~ 
 





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慶應高校前回優勝の1916年とは

2023-08-23 | 日記
本日行われた高校野球決勝戦は、サイコパス福沢ギライのゴマには不愉快な結果となりましたが、107年ぶりの優勝というのが気になってググってみたところ、なんと、あの方が亡くなった年でした!

その人は……加藤弘之さん!




加藤さんについては、過去記事の「福沢先生はクズ中のクズ=キング・オブ・クズだった件」をご覧ください。

加藤さんは、こんなところでもフクザワ(慶應)と接点が…… 

妙な因縁を感じますぅ 

そのほかの有名人としては、袁世凱(清国軍人政治家:1916年6月)、高松凌雲(医師:1916年10月)、夏目漱石(作家:1916年12月)、大山巌(軍人:1916年12月)がこの年に亡くなっています。

そして、世界は第一次世界大戦の真っ最中でした。

まぁ、フクザワはキライだけど、一世紀以上ぶりっつーのはすごい 




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ただいま『遠慮』中

2023-07-27 | 江戸時代
【遠慮】とは、江戸時代の自由刑の一種『慎(つつしみ)』(謹慎)の自主的バージョン。
 慎は、上級武士・公家に課された公的な刑罰で、外出・人との接見などを禁じるもの。
 これに対し『遠慮』は、内容的にはほぼいっしょだが、こちらは自主的に引きこもる行為。



みなさま ごきげんよう。

先週来、あまりご機嫌よろしくないゴマでございますです

なんでご機嫌ななめかといいますと、先週バイト先でお金を盗まれたからなのです

バイトに行く前、銀行でお金をおろして、そのまま仕事場に行き、帰宅してから振り込みをしようと思って封筒を開けたら万札が数枚なくなっていたんです!


江戸時代、軽い窃盗は100敲きの刑、10両以上は死罪。

刑法改正して、江戸時代と同じくらいの重罪に処せーーー!


……状況的に、同じ職場の人っぽいのも鬱です。

さらにいうと、封筒はけっこうわかりにくい場所に入れていたのにやられているところを見ると、日常的にチェックされてチマチマ取られていた可能性も……。

いわれてみれば、お金をおろして、数日後見てみると「あれ? そんなに使った?」なことが昨年来数回あったかも……管理がザルなのと、おバカなので「う~ん?」で済ませてきちゃったのがアダになりました。

目下、警察に指紋鑑定依頼中で、だれが犯人かわからなくて怖いので、事件以来仕事をお休みして、ずっと引きこもっているのです。

そんなこんなで執筆も思うように進みませぬ~ (それはいいわけ)


と、気が滅入る前フリはこのへんにして……例の妄想小説翻訳版、明日から海外配信開始されま~す 
(必死に気持ちを盛り上げるのじゃ)


ところで、それには松平忠輝も出てくるのですが、みなさまもご存じのように、忠輝は大坂夏の陣の直後(慶長19年8月)父・家康から今後の対面を禁じると通告されました。

翌元和2年、重篤になった家康は、生存していた息子たち(秀忠・義直・頼宣・頼房)を枕頭に呼びましたが、駿府城下に来ていた忠輝には最後まで面会を許しませんでした。

『徳川実紀』によると、《忠輝は、父の重態を知り、急いで駿府に来たものの、重臣(本多正信あたり?)を通じて見舞いたいと申し入れたが、家康は異様にブチ切れて「あいつは城の中にもいれるなっ!」と命じたので、会うことはできなかった。しかたないので忠輝は、駿府城下の禅寺に泊めてもらって、親父の気持ちが和らぐのを待って、謝ろうと思っていたら、そんなチャンスもなく、家康はポックリ逝ってしまった》感じだったみたいです。

そして、家康が亡くなった三ヶ月後、忠輝は、異母兄・秀忠から改易を命じられ、越後高田藩63万石は収公され、忠輝本人は伊勢国朝熊に流罪となりました。


―― で、ここで「?」なのですが、忠輝はいったい何をやらかして、親父を怒らせてしまったんでしょうか?

ウィキさんによると、

〇 大坂夏の陣に際して忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため。
  家康はこの一件を大坂の陣後の帰国時に同地を訪れた際に初めて聞き、怒りを露わにして調査を命じた。
  当時の軍法では他の者が自隊に入り込んだ際には、馬や武具の没収を命じており、斬り捨ては過剰行為であった。

〇 合戦後の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じたが、忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしたこと。

〇 帰国に際して許可を得なかった上、本街道を通らずに脇道を通り帰国したこと。これも当時の軍法違反に当たる。

〇 大領を得ているにも関わらず、私事に金穀を用いて軍用金不足を訴えたこと。


でも、これを見てゴマは「ん?」と思いました。

それっつーのも、家康自身が合戦の際に出した軍令に、この決定は反するんじゃないの?とモヤモヤしたからです。

天正18年、小田原の北条攻めのとき発せられた軍法によると、

「命令がないのに、先行部隊をさしおいて、物見(偵察)を出してはいけない」
「先行部隊を追い抜いて手柄を立てても、それは軍法違反だから、そんな不届き者は妻子もろとも処刑する」
「進軍するときは決められたルートを守れ。違反したら、その兵の主を罰する」
「命令がないのに、勝手に撤収してはいけない」

これに違反したものは容赦なく成敗する。


また、関ケ原の戦いのときに出された軍法では、これにいくつかプラスされていますが、まぁだいたい同じような感じです。

こうしてみると、忠輝の軍令違反は、「命令がないのに、勝手に撤収してはいけない」「進軍(?)するときは決められたルートを守れ。違反したら、その兵の主を罰する」くらいしか当てはまらないような???

むしろ、秀忠のほうは、
「命令がないのに、先行部隊をさしおいて、物見(偵察)を出してはいけない」
「先行部隊を追い抜いて手柄を立てても、それは軍法違反だから、そんな不届き者は妻子もろとも処刑する」
に、抵触するんじゃない?

さらにいうと、関ケ原の戦いのとき、秀忠の同母弟・松平忠吉は、福島正則が先陣と決まっていたのに、舅の井伊直政といっしょにシレっと前に出てきて、先陣争いをしたっていうエピソードがあるんですけど!

このとき忠吉は、手傷を負いながら敵方の島津豊久を討ち取る戦功を立てて、家康に激賞されたみたいなんですが……あんた(家康)、関ケ原直前の軍法で、「先陣の順番を守らずに手柄を立てたとしても、それは軍法違反。処刑」って通達してるやん!

ちなみに、松平忠吉はすごいイケメンで性格もよく、武勇に優れていたので家康にとてもかわいがられていたとか。


(イケメンの忠吉さん)

なんかさぁ、こういうダブルスタンダードとか、決め事の恣意的適用って、どうなの、家康?




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