(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(4/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62


◆みなさんが医学の根本姿勢に違和感を抱き続けてきた形跡

 現にみなさんが、そうしたことどもに勘づいていたらしい形跡を、俺たちは歴史のうちに認めることができます。


 その形跡というのは、優生思想という、多くのひとたちが、くり返し、おぞましい差別を意味するものとして使ってきた言葉、です。


 どういうことか。


 いま一度、不当にも異常、すなわち「ひとでなし/できそこない」と決めつけられてきたのは、誰だったか、思い起こしてみます。


 それは、以前から何度も考察していますように、「標準を下回っているひとたち」であるということでした。


 医学は、世間の、人間をつぎの3つに分ける見方を、無批判に踏襲してきました。

  • ①標準のひとたち(普通のひとたち)
  • ②標準を上回っているひとたち(優れたひとたち)
  • ③標準を下回っているひとたち(劣っているひとたち)


 で、①のグループは正常(標準のひとたちは正常)、②は天才(優れているひとたちは天才)、③は異常(劣っているひとたちは異常)と決めつけてきました(蛇足になりますが、どのグループのひとたちもほんとうは異常ではありません)。ここでは、各集団がそう決めつけられるに至った経緯に触れるのは、省略させてもらいますけれども。

 

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その経緯については、ここで見ています。

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 こうして医学は、異常な人間、すなわち、「ひとでなし/できそこない」なんかこの世に、ただのひとりたりとも存在し得ないにもかかわらず、「劣っているひとたち」は「ひとでなし/できそこない」だとする見方をとってきました。


 健康と病気をそれぞれ、正常であること、および異常であることとするおかしな定義をしでかしてしまったがばっかりに(実際、みなさんがふだんしきりに、やれ健康だ、やれ病気だと言うことで、争点にするのは、そんな「正常か、異常か」ではなく、「苦しくないか、苦しいか」ではないでしょうか)、このように医学は、「劣っているひとたち」は「ひとでなし/できそこない」だとする差別的見方をとることになってきました。


 実にみなさんが優生思想という言葉で、批判したがってきたもの、それは、「劣っているひとたち」は「ひとでなし/できそこない」だと見る、医学のこの根本姿勢ではないでしょうか。


 やはり、みなさんの勘は、鋭くも、ひとを異常と判定するのがまぎれもなく差別であることに、気づいていたのではなかったか。


 ただ、正常、異常という言葉の意味を明らかにしようとするという、ごくごく当たり前のことを、われわれはずっと避けてきたがために、その優生思想という言葉で、具体的には何を批判しようとしているのか、あまりよくハッキリさせることができなかったという事情はあるように思われますが。


 ひとを異常と判定するのが差別であることにもう薄々気づいている。あとは、それについても、いつものように、見て見ぬふりをつづけるかどうかだけなのでしょう。

 

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そうした残虐行為は、医学に内在した根本姿勢の問題であるのではないでしょうか。平たく言えば、健康を正常であること、病気を異常であることと誤った定義づけをしたことによる帰結であるように俺には思われて仕方がありません。


ナチスが医学を「指導した」という考えは、真実とは逆ではないかという予測が、下記の本の読書中、確かめられたような気がしました。

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2023年12月9日に文章を一部修正しました。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.61)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

 

わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(3/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62


◆みなさんが勘づいていたもうひとつのこと

 誰かの実際のありよう。それが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたとき、みなさんがほんとうにしなければいけないのは、何か。


 それは、その合致していないことをもって、そのひとを、問題有りと考えることか?


 いや、ちがう。


 そこで本当にみなさんがしなければならないのは、そのときみなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを、その誰かの実際のありようとも合致するものとなるよう、修正する、豊かにすることであると、俺たちは前から何度も確認してきました。

 

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ちょうどいま言っていることを、以下の記事で確認しました。

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 そうして、みなさんの頭のなかの「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを豊饒にしていく。


 それこそが、学び、である、と。


 ひとを異常と判定することは、実に、学びの放棄、に他なりません。そんなことを続けていると、ひとは、どんどん馬鹿になっていくだけです(他人にそんなことを偉そうにも言えた義理では絶対にないのですけれども……)。


 みなさんに、誰かのことが異常と見えたそのとき、本当にみなさんがしなければいけないのは、その誰かのことを異常と決めつけることなんかでは全くなく、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを、未熟だったと認め、その誰かの実際のありようとも合致するものとなるよう、豊かにすること。みなさんがもっている人間観を、大きくしていく学び、です。


 にもかかわらず、自分が頭のなかにもっている人間観の未熟さを認めることも、そうした学びも放棄して、反対に、すべてをその誰かの問題であることにすり替え、そのひとを「ひとでなし/できそこない」と決めつけて、事を済ませようとする、その怠惰さと卑劣さにも、みなさんの勘は鋭敏に反応し、みなさんに後ろめたさをも感じさせていたのではなかったか、というわけです。






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2023年12月9日に文章を一部修正しました。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.61)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

 

わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(2/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62


◆みなさんの鋭い勘が覚えた違和感

 その違和感とはこれのことです。


 今日に至るまで、われわれは長いあいだ、健康とは正常であること、病気とは異常であることと定義づけ、多くのひとたちを異常と判定してきました。けれども、ひとを異常と判定するそのつど、われわれは、胸のうちで、ひそかに違和感を覚えていたのではないでしょうか。


 誰かのことを異常と断定しようとするまさにその度、われわれはいつも、得体のしれない背徳感に襲われ、重いためらいを覚えてきたのではなかったでしょうか。


 俺たちはうすうす、ひとを異常と判定するのが差別であることに、心の隅のどこかで、遙かまえから気づいていたのではなかったか。


 俺たちの感性は、俺たちにずっと訴え続けてきていたのではなかったか。


 まあ、ひとつ、思い返してみてください。


 みなさんが誰かのことを、異常と判定しようとしていたときのことを。


 くり返し確認していますように、ひとを異常と判定するというのは、或るふたつのものを比べることです。そのひとの実際のありよう。それと、みなさんが、ひとという存在に対してもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージ(みなさんが頭のなかにお持ちの、ひとという存在についての定義、とも言えるでしょうか)。このふたつを比較するということです。


 すなわち、そのひとの実際のありようを、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見、その合致していないことをもって、そのひとを、問題有りと考えるということです。

 

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正常、異常の意味を確認した短編はこちら。

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 復唱します。ひとを異常と判定するとは、

  • ①そのひとの実際のありようを、みなさんが頭のなかにもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見、
  • ②その合致していないことをもって、そのひとを、問題有りと考えること


 みなさんはいま思い返しています。みなさんは、ひとを異常と判定しようとしていたあのとき、それが、そういうことをするものであると深く自覚はしていなかった。実際、いまだかつて、正常、異常という言葉の意味を考察しようとしたひとは、驚くべきことに、この世にただのひとりも存在しません。少なくとも、俺が古今東西の古典をペラペラとめくってきた限りでは、そうした当たり前の究明に尽力しようとしたひとを、ひとりも見つけることはできませんでした。そう、みなさんは、まさにあのとき、異常という言葉の意味には無自覚なままに、誰かのことを異常と決めつけようとしていた。


 が、そのときのことをもっと細部まで思い出してみてくれますか。そのとき、みなさんの勘は、まるでみなさんのかすかな放屁にも、すかさず反応する高性能空気清浄機のように、機敏な反応を示してはいなかったか。


 いまさっきの①と②を再点検します。


 誰かの実際のありようを、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見(①)、その合致していないことをもって、そのひとを問題有りと考える(②)。


 この、「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないことをもって、問題有りと考えるとは、どういうことですか。


 それは、そのひとのことを、ひとではない、つまり、ひとでなし、と見なすということではありませんか。


 言い換えれば、できそこない、と決めつけるということではありませんか!


 ひとを「ひとでなし/できそこない」扱いするという……ああ、なんという残忍な見方だろう!


 誰かを異常と決めつけようとしていたあのとき、みなさんは、異常という言葉の意味をしっかり把握していたのでは、確かになかった。しかし、みなさんの勘は、その残忍さになんとなくではあれ、気づき、みなさんに背徳感やためらいを覚えさせていたのではなかったか、ということです。


 ところが、みなさんが勘づいていたのは、おそらく、そうした残忍さだけではなかった。


 みなさんの研ぎ澄まされた勘は、もっと多くのことに気づいていた。


 こういうことにも……






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2023年12月9日に文章を一部修正しました。


*前回の短編(短編NO.61)はこちら。


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わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(1/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62

目次
・みなさんの鋭い勘が覚えた違和感
・みなさんが勘づいていたもうひとつのこと
・みなさんが医学の根本姿勢に違和感を抱きつづけてきた確かな形跡


 いま、すさまじい勢いで、続々と、化けの皮が、ありとあらゆるところで剥がれてきていますよね。


 日本のこと、ですよ。


 でもみなさんは、逆に、どこか納得されているかもしれません。


 みなさんがこれまでずっと胸の底のどこかで、覚えてきていた違和感が、いま日本に訪れているこの帰結に、ぴったりきている、と。


 みなさんは独り言つ。

 ああ、そんなことは些事にすぎないと言って、軽視してきたもの。気持ちにひっかからないではないが、でも、そんなことには、意を配るほどの価値がないと、見て見ぬふりをしてきたもの。


 愚かにも、強がって、多勢に付き一笑に付す、そのことが、立派な社会人の証だと思い込んで。


 しかし、そうした些細なものこそが、実は大切だったのだ。


 当時から声をあげていた少数のひとたち。わたしたちが白い目を向けながら、些細なことに大騒ぎをするウルサイ奴らだと嘲笑って、弱者扱いしてきたあのひとたちこそが、ほんとうは正しかったのだ。


 胸の底で覚えていた違和感に、わたしたちはもっと真剣に耳を傾けていなければならなかった。だが、残念なことに、わたしたちの人間性がそれを許さなかった。いつの時代でも、人間社会をより良い方にもっていこうとする当たり前の動きを押しとどめてきた抵抗勢力とは  そうした人間たちの存在を、学生時代、歴史教科書のほうぼうに認め、驚いたものだったが  まさにこんなわたしみたいな者を言うのだ。


 では、次の違和感はどうでしょうか。この違和感についても、いまのように、いつか、過去をふり返りながら、もっと早く真剣に向き合っておくべきだったと、唇を噛んで、手遅れを悔やむことになる日が、やってくるのでしょうか。






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2023年12月5日に文章を一部修正しました。


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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(7/7)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61


◆⑤医学とは「優生思想」の実践である

 医学のこの多様性の否定は、詳しく言うとこういうことでした。最後にもう一度、ふり返ってみます。


 医学がおのれの使命とする「異常なひとを無くす」とは、

  • 標準を下回っているひとたち」を
  • 間違った理由にもとづいて
  • 標準以上になるか、もしくは存在しなくなるか、しなくてはならない者であるということにし、

  • そのひとたちを、そのとおり、標準以上、あるいは居なくなるようにすることである、


 って。


 どうですか。この多様性の否定は、優生思想の実践、と言い換えられるかもしれないと、いま、思いませんでしたか(意味がちょっとちがうと言うひともいるかもしれませんが)?


 要するに、優生思想とは、「標準を下回っているひとたち」を誤った理由にもとづいて、標準以上になるか、もしくは存在しなくなるか、しなくてはいけない者であるということにする、多様性の否定(差別)のことと言えるのではないか、ということです。


 俺はしばしば考えます。人間は誰しも、多かれ少なかれ、「標準を下回っている」と映るひとたちのことを、見下すのを好むのかもしれない、って(たとえば、スポーツ選手への礼賛や批判を思い浮かべてみてくださいよ)。特に、エリートと言われる人間は、公然とそうしたひとたちを見下すことがありますね。時に、「この世に生きている価値はない」と言わんばかりに罵ったりして、ね? すぐに「バカじゃねえの」とか言ったりして、ね? そんなひと、よくいません?


 そしてそのように、「標準を下回っている」と映るひとたちに、標準以上になること、もしくは居なくなることを、熱い意欲をたぎらせ、常日頃から強制したがっている人間は、そうした強制を正当化するための「もっともらしい根拠、科学のなかに、言い換えれば、自然法則のなかに見出そうと努めてきたのではなかったでしょうか。


 で、そうした根拠になる自然法則として、ありもしない自然法則がこれまでいくつか捏造されてきたのではなかったでしょうか。


 たとえば、そうしたものとして、進化論の「適者こそが生き残る(この世は利益という名のイス取りゲームで、それを取り損ねたものが淘汰される)」とする完全に誤った自然淘汰観や、今回見てきた「健康を正常であること、病気を異常であること」とする誤った健康病気の定義などが挙げられるのではないでしょうか。






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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(6/7)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61


◆④ほんとうの多様性の肯定とは

 異常な人間などこの世にただのひとりたりとも存在し得ない。したがって、誰しも、標準以上(医学が勝手に狭めて定めた正常領域)になることを、他人に強制されるいわれは基本的には無い、ということになります(もちろん、いついかなる時もそうした強制をされるいわれはない、と言っているのではありませんよ)。


 仮にみなさんが、「標準を下回っている」のだとしても、標準以上になる必要を、基本的にみなさん自身が覚えないのであれば、よほどのことがない限り、みなさんは標準以上になろうとしなくても構わない、ということです。


「標準を下回っているひとたち」が、標準以上になろうとするかどうかは、基本的には本人が決めることであって、本人がそうなりたいと思ったのなら、そう努めればいいし、周りもその手助けをすればいいが、そうでなければ、そう努める必要はない、ということです。


 みなさんはどう思いますか。ひとりの人間のうちには、優れている劣っているを問わず、いろんな能力がありますね。話す、走る、泳ぐ、書く、読む、歌う、考える、記憶する、ひとを思いやる、笑わす等の能力もそうだし、身体の各部分、たとえば心臓、肝臓、目玉、鼻、脳みそ、それぞれの能力もそうですね。みなさんは、どのひとも、そのひとのもてる能力のすべてをみな、標準以上にしなくてはならないと思いますか? 医学が勝手に定めたその標準以上に?


 でもまた、いったいなぜ?


 実際のところ、いろんな程度の能力のひとたちの存在を、できる限り広く、受け入れてこそはじめて(非常にむつかしいことであると思いますが)、多様性を肯定している、ということになるのではありませんか。そしてそのときはじめて、「みんな違ってみんなイイ」という大それた言葉を口に出している自分に、あまり後ろめたさを覚えないで済むようになるのではありませんか。


 いま、医学がおのれの使命としてきたのは、多様性を否定するという差別をすることである、と言いました。でも、医学を全否定しようとしているのではありませんよ。もちろんです。そんなことをするつもりは毛頭ないし、そもそも全否定だなんてそんなことは、この世の何についてだって、まずできませんね?


 現実はそれが何であれ、そんな全否定ができるほど単純ではありませんね?


 ましてや、われわれ人類(!)に多大な貢献をしてきた医学にたいし、全否定なんてできるはずがありません。どれだけの人間が医学から恩恵をこうむってきたことか


 だけど、全否定できないというそのことをもって、批判する必要がないだとか、良いところだけを見て悪いところには目を瞑れだとかと言っていると、いまの日本のような手の施しようのない状態に陥ってしまうのではないでしょうか。

 

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みなさんの念頭にはさっきから"発達障害"のことが浮かび上がっているのではないかと推測しています。

 

"発達障害"を念頭に多様性の否定と肯定について以前おなじようなことを下で書きました。

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 ともあれ、もうそろそろ、医学のこの多様性の否定という差別行為を、簡単に、数語で言い換えてから、この文章を終わりにすることとしましょうか。






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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(5/7)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61


◆③医学とは「多様性の否定」である

 さあ、ここまで、どうですか? ひょっとすると、ダラダラと話しすぎて、論点がぼやけてしまっているかもしれませんね? この文章の主題はこういうものでした。先に進むまえに、頭からざっとふり返ってみますね。


 医学は「みんな違ってみんなイイ」といった、多様性を肯定する言葉を口にするが、しているのは実はその正反対ということはないか、という根性のヒン曲がった俺の疑惑を検証するのがこの文章の主題でした。そのためにまずここまで、医学がおのれの使命とするところを見てきました。それを箇条書きで簡単にまとめるとこうなります。

  1. みなさんが医学にその使命とするよう求めているのは、ひとが「苦しまないで居てられるようになる」のを手助けすることである。
  2. しかし医学はおのれの使命を「異常なひとを無くす」こととしてきた。
  3. が、この世に異常なひとなどただのひとりたりとも存在し得ない。
  4. そこで医学は、一部のひとたちを、ほんとうは正常であるにもかかわらず、不当にも異常であると決めつけて差別し、「無くす」ことにしてきた。
  5. では、そのように差別されてきたのは誰だったかというとそれは、「標準を下回っているひとたち」だった。


 そして以上を圧縮すると、こうなります。


 医学がおのれの使命としてきたのは、「異常なひとを無くす」ことである。すなわち、「標準を下回っているひとたち」を、異常だからという間違った理由で、標準以上になるか、もしくは存在しなくなるか、しなくてはならない者であるということにし、そのひとたちを、そのとおり、標準以上、あるいは居なくなるようにすることである、って。


 けど、それはいったい何を意味しているでしょう?


 それは、「標準を下回っているひとたち」に、標準以上になることを医学が強制している、ということを意味するのではありませんか。


 つまり、多様性を否定している、ということを意味するのではありませんか。


 しかも、その強制は不当誤り)なんだ、って。


 だって、そうした標準以上になることへの強制を正しいと医学が信じ切きれているのはひとえに、この世に異常なひとが存在すると盲信できていればこそですね?


 すなわち、「標準を下回っているひとたち」のことを、異常な人間であると盲信できていればこそ、そのひとたちについて、標準以上(医学が考える正常領域)に、絶対にならなければいけないと頭ごなしに決めつけられるわけですね。


 だけど、異常な人間などこの世にただのひとりたりとも存在し得ないということでした。


「標準を下回っているひとたち」は、異常ではありません。そのひとたちに、標準以上になることを強制するための根拠である、「異常である」という理由は完全に誤っています。よって、その強制(多様性の否定)には根拠が足りない、ということになりますね。






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