(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

みなさんは当たり前のように知っているが、科学は全然知らない「存在は客観的ではない」という事実(9/10)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.4】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.50


 言葉でうまく表現するのは難しいですけど、そのひとつとしてまず、「容姿の違い」とでも言えるものが挙げられるのではないでしょうか。いっぽうの姿は「頭デッカチ」ですが、もういっぽうは「横から爪楊枝を見たような姿」でしたよね?


 また「色」も、そうしたふたつの姿のあいだの違いのひとつとして挙げられるように思います。近くのビル上層階から斜め下に見下ろしているときのその電柱の姿と、道路上に立って50メートル離れたところから見ているときのその電柱の姿とでは、色が異なって見えませんか。光の反射具合が、それらふたつの場合では異なって、電柱の同じ部分でも、色がおなじには見えないのではありませんか。


 まあ、ひとつ試してみてくださいよ。たとえば、目のまえの机の表面を、自分の身体を前後右左に動かしながら、見てみてくれますか。自分の身体の場所が変わると、机表面のおなじ部分でも、光の反射具合が変わって、色が違ってきませんか。


 電柱のそれらふたつの姿は「容姿」も異なるし、「色」も異なる。では、それらふたつの姿のあいだに認められるそれら違いの一切を、それらふたつの姿それぞれからとり除くと、何が残るか。


 両方の姿に共に残るのは、おなじ場所に位置を占めている、ということだけになりませんか?


 要するにですよ、このとり除き作業の結果、電柱は、「どの位置を占めているかということしか問題にならない何かになるのではないか、ということです。


 この「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かを、近代哲学の始祖で、近代科学の源流のひとりにも数えられるデカルトは、延長という名で呼び、それこそが物の本質であると決めつけました。それ以外の物のありようを、物にはほんとうは属していない性質であるということにして、ね。

 

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寺田寅彦氏も、科学によるこの作業について考察しています。


デカルトがこの作業をしているのを彼の著書『省察』に見ました。


でもデカルトの場合、こちらの著書のほうがわかりやすく書いてある気がします。


そしてラッセルもこの作業をやっています(上記の色の考察をラッセルはこの本でやっています)。ただし彼の場合、その作業の結果、この世界には何も実在していないと考えることになりますが。

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*前回の短編(短編NO.49)はこちら。


*これのpart.1はこちら(今回はpart.4)。


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