(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

身体を機械と考えると、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに、争点にするところが、みなさんのように「苦しくないか、苦しいか」ではなく、「正常か、異常か」になってしまう科学の実例2つ(3/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.7】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.53


 快さや苦しさという「身体の感覚」は、俺の心のなかにある像である(②より)。前者の快さは、心の外に実在している「身体機械」が正常であるという情報をもとに、俺の脳が作り出したものである(③より)。いっぽう後者の苦しさは、心の外に実在している「身体機械」が異常であるという情報をもとに、俺の脳が俺の心のなかに作り出したものである(おなじく③より)、って。


 つまり、快さは、俺の脳が、俺の心のなかに作り出した像で、俺の心の外に実在している「身体機械」が正常であることを(俺の心に)知らせるサインであり、かたや、苦しさは、それもまた、俺の脳が、俺の心のなかに作り出した像ではあるが、反対に、俺の心の外に実在している「身体機械」が異常であることを(俺の心に)知らせるサインである、って。

  • A.快さは、俺の脳が俺の心のなかに作り出した、「身体機械」が正常であることを知らせるサインである。
  • B.苦しさは、俺の脳が俺の心のなかに作り出した、「身体機械」が異常であることを知らせるサインである。


 さあ、どうですか。こういった快さや苦しさの解釈を、みなさんは医学からしばしば聞かされるのではありませんか。肝臓は沈黙の臓器であるとか、自覚症状がないとかいった、医学がよく口にする表現は、快さや苦しさをいまいったように、「身体機械」が正常であるか異常であるかを知らせる、心(もしくは脳)のなかのサインと解するものではありませんか。


 が、こうした快さと苦しさの解釈についてはつぎのふたつのことが指摘されなければなりません。


 ひとつ、誤りであること。


 ひとつ、そうした説をとると、結局、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに争点にするところを、「苦しくないか、苦しいか」から、「正常か、異常か」にすり替えることになること。


 いまから追うことになるのは、後者のほうですけど、そのまえに前者についても、簡単にすこし触れておきますよ。


 前者は簡単です。異常ということはこの世にはあり得ないとずっとまえに確認しました(後日また触れる予定にしています)。さらに身体は「身体機械」ではありません。要するに、みなさんが医学からよく聞かされる、こうした快さと苦しさの簡潔な解釈は、その短さにもかかわらず、ほとんどどこも正しくない、ということです。

 

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異常ということはこの世にはあり得ないと確認したのはこちら。

(注)上記より簡単な確認法はこちら。

身体が機械ではないことを確認したのはこちら(再掲)。

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 本題に戻りましょう。ここから、先に挙げた後者の、争点のすり替えについて見ていきます。






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*今回の最初の記事(1/5)はこちら。


*前回の短編(短編NO.52)はこちら。


*このシリーズ(全60短編を予定)の記事一覧はこちら。