MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2228 がんで逝くのも案外悪くない

2022年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 今年、90歳の卒寿を迎えた母親の下に、住所地の自治体から「健康診断・がん検診のお知らせ」が届いたとのメールが(母親のガラケーから)ありました。

 せっかく区が通知してくれたのだから、(面倒でも)検診受けに行った方がいいのではないか。でも、暑い中一人でバスに乗って出かけるのも大変だし…と、昭和一桁生まれの生真面目な彼女としては大いに迷ったようです。

 相談を受けた私としては、そもそも(彼女は)ほぼ隔週ペースで近所の主治医のクリニックに通院しているのだから、いまさら健康診断でもないだろうとは思ったのですが、まあ「先生に聞いてみたら?」と(とりあえず)返信しておいた次第です。

 数日後、病院を訪れた母は主治医に「これこれ、しかじか…」と相談したとのこと。齢50歳がらみの大柄な彼は、彼女の相談に破顔一笑。「今さら、がんを早期発見してどうするの?」と笑って答えたということです。

 母の弁によれば、医師の指摘は次のようなもの。①もしも検診で(進んだ)がんが見つかったとしても、手術や強い抗がん剤治療は体の負担が大きいのでお勧めしない。②歳を取ってからのがんは進行に時間がかかるので、一旦知ってしまえば精神的な負担が大きい。③何か生活をしていくうえで具合が悪いところがあったら、私がきちんと対処療法をしていくので心配はいらない…ということでした。

 要は、「がんが見つかっても、90歳を過ぎての治療はつらいだけ」「もう十分生きたのだから、これからがんの心配なんかをして暮らすのもつまらないでしょ」という話のようです。本人は「もう、まったく…」と笑っていましたが、それも医師との間に信頼関係があってのこと。私自身、その話を聞いて「いいお医者さんに巡り合ったな」と思った次第です。

 とはいえ、高齢化の伸展とともに、この日本でがんは着実に増加しているようです。実際、男性の6割、女性の5割が一生に一度はがんを経験するとされ、数ある医療保険の中でも「がん保険」の売り上げは特別だという話も聞きます。

 私もあなたも、いつかは「がん」で逝くかもしれない。むしろその確率は、他のどんな死に方よりもポピュラーなものだと言って良いでしょう。

 それでも贅沢を言えば、(できることなら)苦しまずに、周りにも迷惑かけずに「ぽっくり」逝きたいと思うのは人として当然のこと。であれば、がんによる(今どきの)死に様が一体どんなものなのかは特に気になるところです。

 7月5日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」に、精神科医で医学博士の清水 研氏が「がんの終末期は苦しいのか…調査でわかった実態」と題する一文を寄せているので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 がんによる療養生活というと、(「壮絶な闘病生活」などと報道されることもあり)苦しみに満ちたイメージを持つ方も少なくない。しかし、私が実際の患者さんの診察現場で感じるものは、これとは異なるものだと、清水氏はこの論考に記しています。

 患者さんとご家族、友人、医療者との間には温かい人間的な交流があり、病室では笑顔が見られ、笑い声が聞こえることもある。さまざまな苦悩はもちろんあるが、療養生活は必ずしも陰湿なものばかりではないというのが長年終末期医療に携わってきた清水氏の認識です。

 近代ホスピスの生みの親であるイギリスの医師D.C.ソンダースは、がんによる苦痛を理解しやすくするため、その内容を4つに分類している。それは、①身体的苦痛、②精神的苦痛、③社会的苦痛、④実存的(スピリチュアル)な苦痛だと、この論考で氏は説明しています。

 精神的苦痛と社会的な苦痛、実存的な苦痛の境目はわかりにくいかもしれないが、一言で言ってしまえば「生きる意味を失うことへの苦しみ」ということ。がんによって(社会的に)仕事を失い、そのことで生きがいを失い精神的なダメージを受け、生きる意味を喪失していく人も確かに多いということです。

 特にがん関しては、耐え難い身体的苦痛を心配する日本人は多いと氏はしています。人はいったん痛みに襲われると、その苦しみにほとんどの意識が向かい別のことは考えられなくなる。逆に言えば、身体的苦痛が適度に緩和されて初めて、精神的、社会的、実存的といった人間らしい苦悩と向き合うことができると氏は言います。

 多くのがん患者が、自分は将来、身体的な痛みで苦しむのではないかということを、とても恐れている。「予期不安」という言葉があるように、 不安という感情は情報が少なくて不確実であるほど大きくなるということです。

 しかし多くの場合、これは「壮絶ながんとの闘病生活」などと書き立てられた頃の、昔のイメージを引きずっている可能性が高いというのが氏の認識です。この20年の歳月の中で、(がんの治療だけでなく)痛みなどの苦痛を取る技術は大きく進歩した。今では(条件に合わせて利用できる)たくさんの痛み止めが開発されており、治療手段は大きく広がったということです。

 また、医療者の痛みに対するとらえ方も、「がまんするもの」から「緩和させるもの」へと変わり、鎮痛技術も進歩したと氏は話しています。

 昔は痛みがあるのが当然のように思われていたがん治療も、今では耐え難い痛みを経験しないほうが普通になっている。2020年の国立がん研究センターがん対策研究所の調査では、「患者本人が身体的苦痛が少なく過ごせた」と回答した割合は半数以下の41.5%で、「亡くなる前に耐え難い強い痛みを感じていた」と回答した割合は28.7%と、概ね4分の1程度だったということです。

 また、全国の緩和ケアの病棟に入院した患者を対象とした「緩和ケア病棟に入院された患者さんに関する調査結果」によれば、緩和ケア病棟に入院することで、中程度から強い痛みを感じた患者の割合は、非小細胞肺がんで34%→7%、大腸がんで39%→19%、胃がんで38%→16%と大きく減らせると氏はしています。さらに、万が一病気が進行して耐え難い苦しみが生じた場合には、苦痛緩和のために一時的に鎮静状態を作って、苦しみを感じなくする方法もあるということです。

 繰り返しになるが、自身が様々な患者を看取った経験からイメージするがんの療養生活や終末期は決して陰鬱なものではないと、氏はこの論考の最後に綴っています。

 ぽっくり逝くような死に方に比べ、がんは死を迎えるまでに十分な時間を確保することができる。苦しむ可能性がゼロではないとしても、それを上回るメリットとして、大切な人ときちんとお別れができるなど、死を迎える準備のための時間が与えられ、納得のいくかたちで人生を終えられるというのが、この論考で清水氏の指摘するところです。

 さて、そう言えば私の父親ががんで亡くなった四半世紀前。その闘病生活は(自宅療養だったこともあり)確かに痛みとの戦いでした。最後には強いモルヒネを常用しなくてはならず、せん妄状態が続く様子に家族も随分と心を痛めたのを昨日のことのように覚えています。

 そして二十数年の歳月を経て、昨年、親しい親族ががんで亡くなりましたが、ホスピスで終末期医療を受けていた彼女の最期は(丁寧にコントロールされた)とても安らかなものでした。

 亡くなる前日まで、家族と一緒におやつを口にし、直前まで目を見て意思疎通を図ることができました。こうした状況を見ていると、医療技術の進歩はもとより、治療に携わる医師や看護師の皆さんの発想が、依然とは大きく変わっていることに気づかされます。

 「患者のための医療」に、真摯に向き合ってきた医療従事者たち。こうした状況を思えば、がんで逝くのも(案外)悪くないのではないかと、清水氏の論考を読んで改めて感じたところです。



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