和貴の『 以 和 為 貴 』

論語:子罕第九 〔6〕 夫子は聖者か 君子は多ならず


論語を現代語訳してみました。



子罕 第九

《原文》
大宰問於子貢曰、夫子聖者與。何其多能也。子貢曰、固天縦之將聖又多能也。子聞之曰、大宰知我乎。吾少也賤。故多能鄙事。君子多乎哉。不多也。

《翻訳》
大宰〔たいさい〕 子貢〔しこう〕に問〔と〕うて曰〔い〕わく、夫子〔ふうし〕は聖者〔せいじゃ〕か。何〔なん〕ぞ其〔そ〕れ多能〔たのう〕なるや、と。子貢 曰〔い〕わく、固〔もと〕より天〔てん〕 之〔これ〕に将聖〔しょうせい〕なること、又〔また〕 多能なるを縦〔ゆる〕せり、と。子 之を聞〔き〕きて曰〔のたま〕わく、大宰 我〔われ〕を知〔し〕れり。吾〔われ〕 少〔わか〕きとき賤〔いや〕し。故〔ゆえ〕に鄙事〔ひじ〕に多能なり。君子〔くんし〕は多〔た〕ならんや、多ならず、と。 




《現代語訳》


〈つづけて子貢さんが、次のように仰られました。〉


私が、〈季康子様の使いで呉国へと赴いたとき、〉大宰であった伯嚭〔はくひ〕殿に、次のことを尋ねられました。

「ところで、孔丘殿とは聖人であられるか。どうしてあれほどまでに多芸であられるのか」と問われて、次のように申しました。

「先生は天命を授かることによって、まさに、聖なる人となられました。また、多芸でもあられます」と。そして、そのことを先師に告げますと、先師は私に、次のように仰られたのです。


伯嚭殿は、私のことをご存じなのだろうか。私は若いころに、賤〔いや〕しいまでに芸を学ぼうとし、ゆえにつまらないことも出来るようになっただけであるぞ。

 "君子" とは多芸であることか。いや、多芸である必要などないのだよ、と。


〈つづく〉



《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。

このやりとりは、紀元前489年に、当時、飛ぶ鳥をも落とす勢いであった呉王・夫差〔ふさ〕が、魯の哀公を召して、百牢の礼を要求してきた際に、季康子が子貢を使者として呉の太宰・伯嚭を説得しようと目論んだときのものです。なお、子貢はみごと、呉王の要求を退けることに成功しています。



※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考


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