何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

森下典子『日日是好日』の感想

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)
(2019年10月読了)

 以前から読みたいと思っていたのだが、たまたま出入りしている取引先の人から文庫版を譲ってもらえた。著者の実体験に取材したと思われる「お茶」――茶道と人生についての随想録である。記事のタイトルからは省いたが、副題として「「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」とある通り、著者が茶道を始めてからの日々が、おおむね時系列に沿うかたちで綴られている。

 あらかじめ書くと、私は茶道にほとんど縁がない。「ほとんど」としたのは、幼少期、通っていた保育園でなぜか「お茶の時間」があったためである。恐らく園でいちばんの古株だった保母さん(当時は保育士という言葉もなかった)の企てによるものだったのだろう。
 ともあれ、その「お茶の時間」で、器の鑑賞や作法や茶菓子の味わい方などに触れたことはあるといえる。しかし、もちろんそれは5~6歳児なりのものに違いなく、それ以来、お茶といえば湯飲みで煎茶か番茶という生活だったので、やはり茶道には「ほとんど縁がない」というのが妥当であろう。

 くだくだしく書いてしまったが、そういう人間の読んだ感想とご理解いただければと思う。以下、いつものように概要から記そう。

概要

 25年前、当時大学3年生だった「私」(典子)は、突然の母の勧めによって茶道を習う事になる。先生は、「私」の家の近所で茶道教室を開いている「武田のおばさん」。同い年の従姉妹ミチコと同時の入門だった。

 ただお茶を淹れて飲むだけという中の、驚くほどの決まりごとの数に「私」は驚き、知らず侮りの心を持っていた己の無知を悟った。作法を懸命に頭で憶えようとする「私」だが、先生はそれをたしなめ、慣れるよう指導する。
 少し慣れ始めても、季節の移り変わりによって茶の道具も作法も次々と変化し、そのたびに憶えなおしになる。「今」に集中せよと語る先生の、おじぎやお点前を見て「私」はその自然な美しさに心打たれた。
 先生に連れられて行ったお茶会では、まるでバーゲンのようだという印象を抱きつつ、多くの「本物」を見て、自分たちよりはるかに年上の茶人たちが口にする「勉強」ということの意味を改めて考えた。
 四季折々の移り変わりをみせる和菓子や茶道具、茶花に掛け軸を、「私」は五感で味わうようになっていく。それは「私」に新たな感覚を開かせることにつながった。

 大学を卒業し、お茶の稽古の年数も積み重なって難しいお点前を習うようになった「私」だったが、いまだ出版社のアルバイトでしかないことに焦りがつのる。そんな私を、先生は時に「心を入れる」ようたしなめ、時に無言の気遣いで励ましてくれた。「私」が大きな失恋に遭った時には、先生と教室の仲間たちは変わらぬ関係をもって支えてくれた。

 稽古の年数は重ねたが、「私」の上達は鈍いようだった。才能ある新人たちを見て焦り、思い詰めて教室を辞めることも考える「私」だったが、初めての「茶事」の稽古で「亭主」役を任され、断片的だった個々のお点前を一体のものとして理解する。体の内から聞こえてきた「このままでいい」という声を、「私」は肯定した。最愛の者の死に「一期一会」を思い、煩わしい日常から離れた茶釜の「松風」の音には、「無」を思った。

 稽古を始めて15年目の6月、驟雨の中の稽古の最中に、「私」は自由で満ち足りた心地を味わう。これまで幾度も目にした「日日是好日」という言葉の意味を、理解した瞬間だった。先生が作法にだけ口を出し、そうした気付きについて何も言わないのは、それが言語で伝わるものではなく、自らが学ぶしかないものだからなのだ。

 お茶を始めて24年が過ぎたが、変わらず週1回の稽古は続く。12年に1度しか使わない干支の茶碗を見て年月の悠久とひとりの人間の生の短さを思いつつ、「私」の茶道はまた新たな一歩を踏み出した。

感想

 …大まかにいえば茶道の本ではあるが、著者の体験と実感が主体であり、教則本のように具体的な作法などについて詳述されているわけではない。ただ、お点前や茶道具などについては割と具体的に書いてあるので興味をそそられた。
 同時に、表面的な茶道の入門・体験記というものでもない。お茶についてと同程度のウエイトで、著者の境遇や心情について、かなり深いところまで描かれているので、感覚としては物語のように読める。本書が映画化された(後述)ことを当時は訝しんだものだが、内容を知ってみれば頷けるものである。

日日是好日の意味

 本書を読むうえでまず押さえたいのは、やはりタイトルにもなっている「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」という言葉についての理解であろう。これは禅語であり、本書でも採用されている「毎日がよい日(=捉え方によって、苦境をも楽しむことができる)」という解釈が有力なようである。登山・アウトドア用具店に好日山荘という会社があるが、この店名も大元を辿れば「日日是好日」から来ているようだ。

 本書の中で、この言葉は序盤から幾度か登場するが、その真意を「私」が悟るのは終盤である。この終盤のシーンが、静かな感動が伝わってきて素晴らしい。言葉を本当に理解するとはどういうことか、それを描き出しているように思う。

 仕事などで、私も他人に色々なことを説明するが、その説明が、その場で相手に完全に伝わるということはほとんどない。たいがい後になって「こういうことだったんですね」という相手の反応が来ることになる。
 無論、私の説明が拙いせいも多分にあるだろうし、本書で「私」が「日日是好日」に抱いた感動とは次元の違う話かもしれない。が、どのような言葉であれ、人がその真の意味を知るには、実は長い時間がかかるということではないだろうか。

松風の音と「無時間の今」

 「日日是好日」についてとともに、本書の特に後半で繰り返し述べられている境地が「無」であろう。煩雑な日常から切り離され、静寂の中で憩うひとときが、茶道には確かにあるようである。戦国武将たちの間で茶が流行したのも、血で血を洗う現実の中で、一切から解放され一期一会を感じるためだったのでは――という著者の考えにも賛同できる。

 本書において、そうした「無」の瞬間を如実に書き表しているのが、後半に出てくる「松風」の音のくだりである。先の「私」の気付きの場面と少し趣は違うが、やはり読み返したくなる部分だと思う。松風がどういうものかの説明にもなろうかと思うので、その部分を少し引用する。

 茶室の中には、つねに低く静かに鳴りつづける音がある。「松風」という。お釜の内底に漆で鉄片が貼り付けてあり、鳴るように設計されているのだ。
 お湯がわき始めると、「松風」が、
「し、し、し、し」
 と、途切れ途切れに始まる。やがて、それが、
「し――――」
 と一つに連なる。湯が煮えたぎると、松風は「ヒュ――――」と激しく吹きすさぶ。お茶と「松風」は、一体になっている。(文庫版『日日是好日』p.203~204)

 この直後の、煮えたぎる釜に水が注された松風がいったん鳴き止み、やがて息を吹き返すというあたりの描写が非常に印象的だった。著者は松風の動静を、人の生死になぞらえ、それが鳴き止んだ時を「眠りよりも深い」「短い死のような」安息と表現している。とても腑に落ちるし、ここを読むこと自体に私は深い安息を感じる。この安息の時間とは、あるいはハンナ・アーレントについての本(当該記事)を読んだ際に出てきた「無時間の今」に通じるものなのかもしれない。

 ところで件の松風とは釜の内底に貼られた鉄片ということだが、その実態がもう一つ分からない。その鳴る様子を確かめようとYouTubeでも少し探してみたが、上記のような音の移り変わりを感じ取れるものは無さそうだった。いつか茶釜を見る機会があれば、よく確かめたい。

茶道具と菓子

 本書が湛える精神的な側面については以上の通りだが、その他にも幾つか書き加えたい。
 まず触れたいのは、お茶の営みを彩る茶具や掛け軸、茶花、茶菓子の面白さである。それらの一部は、文庫版でも口絵カラーで見ることができる。本文で言及される分量としては1章分(第6章)ながら、それぞれ四季折々のものがあると納得できた。口絵にもある宮西玄性による「瀧」の軸などは、床の間の無い我が家ながら、盛夏に部屋に飾りたい逸品だと思う。

 とはいえ、茶道を形作る諸々の中で、とりわけ印象深いのはやはり茶菓子である。こちらも口絵で数点を見ることができるが、「初かつを」「落葉」「越乃雪」と名前も雅で、見た目だけでも楽しい。
 そうした菓子を、武田先生は毎度のように全国の老舗から取り寄せたり買いに走ったりして生徒に食べさせていたようだが、口絵に登場する菓子屋の中で、東京神田の「さゝま」だけは私も知っている。住所でいえば神保町1丁目にあるこの店は、私の昔の勤め先で大事な来客があった際に出す菓子の提供元だったのである。社の何事かを後援したり講演したりする「先生」が来社するたび、「さゝま」まで使い走りをしたことを思い出した。

茶事の魅力

 印象に残ったこととして、茶事についても挙げておきたい。
 茶人が集まりお点前を披露し合う茶会については、本書の表現を借りれば「バーゲンのよう」ということで強いて行きたいとは思わなかったのだが、それと似て非なる茶事は興味深かった。
 本書の記述に従えば、茶事とは茶道の集大成である。稽古でお茶を点てるのは、この茶事の一部をパート練習しているに過ぎない。それ以外の部分も個々に練習するところから始まるが、最終的にはこの茶事を切り盛りするのが、茶人として期待されることなのだろう。

 ただ、興味を抱いた理由としては、そうしたことよりも、茶事の一部として組み込まれた懐石料理の描写がとても美味しそうだったから、という方が強い(茶菓子への興味と同様、食い意地の張ったことであるが)。
 美しい器で上品な味の料理が次々に振る舞われる上、冷酒まで出るという。この懐石は、あくまでその後お茶を飲むための「助走」なのだが、なんとも豪華な「助走」ではないか。懐石の後、一度外に出て休憩した後に味わう濃茶まで、半日かけての茶事全般を、ぜひ味わってみたくなった。

 とはいえ、それだけで茶道を始めるというのも不純きわまりないので、どこかの旅館などでさわりだけでも味わわせてもらえないかと探してみた。茶事に組み込まれた懐石料理のことを「茶懐石」と言うようだが、その茶懐石を出してくれる旅館が幾つかはあるようである。ひとまず小康状態にあるコロナ禍の、収束後の楽しみに加えておこうと思う。

映画のことなど

 感想の冒頭でも少し触れたが、本書は2018年に映画化されている。主演は黒木華氏、武田先生を演じるのは、故・樹木希林氏である。樹木氏にとっては最後期の映画ということになる。
 黒木氏もよいが、やはり樹木氏の先生が印象深い。飄々としながら、奥底に揺るぎないものがある様子が、はまり役ではないかと思った。演出や音楽も抑え目で、たまに再視聴したくなる。薄茶の味わいを思わせる映画である。

 「そういえば」を書き連ねるが、読みは異なるが本書と同じ『日日是好日』という題名の漫画をAmazonの「Kindle  Unlimited」で見つけた。こちらも女性が主役ではあるが、茶道は関係ない。
 しかし、生き方について何らかの示唆が与えられるという意味では、共通のテーマを持っているとも感じた(題名が同じなのだから、当然といえば当然かもしれない)。ふとしたことから埼玉県の秩父で田舎暮らしを始めることとなった主人公の日々を描いた、なかなかの快作である。

 コロナ禍で各地の茶道教室がどのような影響を被ったか寡聞にして知らないが、稽古に何ら支障なしとはいかなかったことだろう。今のところ縁遠い茶道ではあるが、茶人たちが再び心置きなく稽古できる時が来ることを祈る。

 しかし、そのような抑圧された日々すらも、「好日」と捉えるのが本書で示された境地なのかもしれない。そう思えば、お茶の道にはまことに底知れぬものがある。一朝一夕に真似できるものではないが、心に留めておきたい思想ではないか。

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