【邪馬台国】特集卑弥呼の【気の力】が筑紫の里(福岡県)から芸能人を多く誕生させている土曜朝の旅情報バラエティー番組「朝だ!生です 旅サラダ」に出演する川島海荷さん=ABCテレビ提供俳優の川島海荷さんが、土曜朝の旅情報バラエティー番組「朝だ!生です 旅サラダ」(ABCテレビ・テレビ朝日系、土曜午前8時)の3月2日放送回に出演されました。3月3日に30歳になる川島さんは、ドライブ旅で福岡県を巡り、大好きなパワースポットや川島さんにとってパワーの源【邪馬台国八女津姫(卑弥呼)神社】を訪れていました👍私も去年の11月に【邪馬台国】を旅しましたが川島海荷さんの旅のコースと偶然にも同じでした🙌私の人生で初めての旅は父と二人で訪れた奥八女【邪馬台国】でした🙌🙌昨年11月27日から九州の邪馬台国【八女太陽☀国】の旅をしました 🙌写真の説明はありません。【八女太陽国】を何回か繰り返し言っていると【邪馬台国】になります🙌写真の説明はありません。            【福岡県】 邪馬(ヤマ)国=八女 (ヤメ)                                                        巴利(ハリ)国=杷木(ハキ)町

      支惟(キイ)国=基肄(キイ)城下(基山)

      烏奴(ウナ)国=鳥栖市

      伊都(イト)国=糸島半島
【大分県】
      躬臣(クシ)国=玖珠(クス)町
【長崎県】 末羅(マツラ)国=松浦市


【熊本県】 狗奴(クナ)国=球磨川


私のアメブロ記事を読めばもう誰も【邪馬台国論争】をしなくなるだろう🙌何故なら私のブログ記事で【邪馬台国の謎の種証し】がされているからです🙌プロパガンダの起源は朝鮮やロシアでなく日本かも? 今回の邪馬台国【奥八女】を訪ねる旅でつくづくそう思いました🙌プロパガンダが戦争の歴史を作って来ました🙌伊勢神宮は2000年前に建てられたというのは嘘で持統天皇【690〜】時代に卑弥呼の歴史を隠すために建てられた。卑弥呼は劉邦の血を受け継ぐ日本に帰化した人物だったからです👍それは日本書紀や古事記で
卑弥呼のことが記載されていなく卑弥呼の子孫【筑紫君磐井】が悪人として嘘の情報で登場するにとどまっています🙌
モンゴル出身の力士はなぜ強いのか?
それは相撲の起源は日本ではなくモンゴルだからです🙌モンゴル相撲は9000年前から行われていた🙌  大相撲は日本だけのものではありません。白鵬はモンゴルに帰って【モンゴル大相撲協会】を作るべきである🙌                             【歴史は繰り返される】卑弥呼が亡くなった後、大和朝廷は朝鮮侵略を九州の大蔵一族に命じ【磐井の乱】が起こります🙌後に秀吉も同じことをして【さやかの乱】が起こります🙌松田聖子さんはその【さやか】の子孫です                         「それからの邪馬台国」。去年、邪馬台国【奥八女】をめぐる旅に行きました。卑弥呼【八女津姫】像
写真の説明はありません。                         私の先祖である卑弥呼の血を受け継ぐ【筑紫君磐井】はなぜ九州独立を目指した【磐井の乱】を起こしたのか?後に天皇家や神社仏閣までも分裂させる【南北朝時代】を作り卑弥呼によって統一された日本国が長い戦争時代【武家社会】に繋がっていくことになる🙌 古事記や日本書紀には【筑紫君磐井】は「天皇の命令に従わない悪者」と記載されていますが本当にそうなのでしょうか?  卑弥呼が亡くなった後の大和朝廷は朝鮮半島進出のための負担を九州の豪族「大蔵一族」に強制し続けました。大和朝廷の勝手な出兵要請に疲れ果てていく九州の人々を見て、我慢の限界が来たのでしょうか❓  【筑紫君磐井】は卑弥呼の平和な時代を取り戻すために九州の大蔵一族を筆頭に大和朝廷相手に反乱【磐井の乱】を起こすことになります。                                    沙也可(さやか)の活躍については、彼の伝記『慕夏堂文集』に詳しく書かれている。『慕夏堂文集』によると、1592年4月に加藤清正の先鋒部将として釜山に上陸したが、朝鮮の文化を慕い、また秀吉の出兵に大義なしとの思いから、3000人の兵士と共に朝鮮側に降伏した。沙也可は火縄銃の技術を朝鮮に伝え日本軍とも戦い、戦後その功績を称えられ朝鮮王から金海金氏の姓を賜り(賜姓金海金氏、友鹿金氏)、金忠善と名乗って帰化人となった。現在の大邱近郊の友鹿に土地を与えられ住した。その後も女真族による侵略を撃退するなどの功績により、正二品の位階まで昇進した。

2017年現在でも朝鮮半島では英雄とされている。韓国の大邱市郊外の達城郡嘉昌面(カチャンミョン、가창면)友鹿里(ウロンニ、우록리)には、沙也可の後孫の一族が暮らしている。1992年には韓国で記念碑が建立された。

「偶然の一致」から「邪馬台国の謎」に迫る。                   昔から「邪馬台国の場所」についての論争は関西の「大和の国」と九州の「筑紫の国」が有力候補として挙げられいますが、私はどちらも正しいと思います。私は邪馬台国は最初は九州の「筑紫の国」にあり、それが奈良の「大和の国」へ移動したと思います。だから今でも九州と奈良では「筑紫山門」「奈良大和」のような同名の地名がたくさん残っています。皆さんも、家を引越した場合、前の家と同じ造りにしたいと思うことがあると思います。それが山門(ヤマト)と大和(ヤマト)とのように同じ地名として残ったと思います。

また卑弥呼はシャーマン(気功師)でした。私は父が画家だったので、子供のころよく父に連れられて、筑紫の国の日向神というところ、女優の黒木瞳さんが生まれた近くにある景勝地へスケッチに行きました。そこには中国を想像させるような岩山が幾つもあり、その一つに穴のあいた岩山があり、その穴から太陽が差し込む姿はまさに神々しく、卑弥呼の姿を想像させるような光景でした。 筑紫の国の久留米と羽犬塚と八女は国道で一直線に結ばれた㊣三角形をしていて、この人口の少ないこのあたりから芸能人や著名人が活躍しているのも、筑紫の国がもたらす独特の「」の力だと私は確信しています。           AKB総選挙での一位の指原の得票数「243011」を逆から読むと、「1位をさっしーに」と読める数になったのも単なる「偶然の一致」ではなく明らかに卑弥呼の気の力が働いたものです。指原の「指」は指先で気を感じることを意味し「原」は筑紫の国の気功伝導師である「原田一族(大蔵一族)」のことです。

筑紫の国の著名人は作家の五木寛之、歌手の松田聖子、チェッカーズ、チューリップ、俳優の田中健、黒木瞳などあげたら切りがありません。わたしが氣を感じた大和の国にある「天川神社」が芸能の神を祭っているのも、単なる「偶然の一致」とは思えません。
「邪馬台国」のあたりでは不思議と芸能人が多く出ています。女優の黒木瞳さんは私の母校である八女高校の後輩です。黒木瞳さんが芸能人になることに憧れたのは八女高校の先輩である「田中健さん」が同じく八女出身の作家「五木寛之さん」の代表作「青春の門」が映画化され、その主役を田中健さんがされ人気が出始めたころに母校の八女高校を訪れ、その姿見たからだと聞いています。田中健さんの一つ年上のお姉さん田中くに子さんも八女高校で実は私の「初恋の人」です。彼女に私が最初に出合ったのは私が羽犬塚中学の二年生の時で、学校の渡り廊下でのすれ違ったときでした。彼女はまだ中学一年生でしたが容貌がすごくせいたんで「澄んだ瞳」が印象的でした。彼女とすれ違った後になぜか「邪馬台国の卑弥呼」を連想しました。彼女とは最初は文通をして、私が高校二年のときまで交際しましたが、大変弟さん思いの人で逢ったときはいつも弟(田中健)さんのことばかり話していました。彼女と一緒に私の実家の近くにある「石人山古墳」へいったことは今でも思い出すことがよくあります。私は八女高校を卒業してミッションスクールの西南学院大学へ入りましたが、大学3~4年の時のゼミでは、チューリップの財津和夫さんと同じゼミでした。彼はよく授業が始まる前にギターを奏でていたのが私の記憶に残っています。このように実際に私のまわりでも、芸能界で活躍されているひとが見えるのも、この筑紫の国で誕生した「卑弥呼の氣の力」が今でも残っているからだと思います。「偶然の一致」の答えは、洞察、直観、出会い、新しい人間関係としてあなたの中に現れてきます。上の写真は邪馬台国で見た「卑弥呼の姿」です。

邪馬台国は吉野ケ里遺跡を玄関口とする九州(大蔵)連合国だった。「邪馬台国の真実」                            先週BS放送テレビで「邪馬台国の真実」に迫る番組がありました。それによると邪馬台国の時代は中国の三国時代であったということです。三国時代とは魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立し、中国内に3人の皇帝が同時に立った時代です。 その当時日本では蜀(蜀漢)と呉と交友関係がある大和(奈良)朝廷と魏と交友関係がある邪馬台国=九州(大蔵)連合国との二国(二本)時代でした。ところがその後中国では魏の国が中国を統一してしまったために日本では魏と交友関係がある邪馬台国の卑弥呼(八女津姫)を大和(奈良)朝廷の王女として迎い入れざるをえなくなったということです。ここで二本が一本にまとめられて日本国の誕生となります。卑弥呼(八女津姫)と共に大和(奈良)朝廷に入った大蔵一族は氏を安倍と改めて安倍一族となります。その子孫に 安倍仲麻呂、安倍晴明がいます。前の安倍総理も多分安倍一族と思います。

一方、九州に残された大蔵一族は氏を原田と改めて令和の起源となった太宰府を拠点として北九州一帯に大蔵連合体を形成していきます。

卑弥呼は日本国を統一するために一部の大蔵一族を引き連れて大和(奈良)を目指します。大和へ行った大蔵一族は氏を安倍に改名します。その子孫に安倍晴明がいます。奥八女に残された大蔵一族は筑紫の国(現在の福岡県)に都を築きます。 大蔵(原田)氏は平安時代前期には、学者として菅原道真と双璧を為した善行や、承平天慶の乱で藤原純友の追討に功のあった春実を輩出します。また、大蔵氏は春実以降、代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏を本家として秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏.黒木氏.蒲池氏.財津氏の祖となって繁茂し、大蔵党一族と呼ばれる。         財津氏 は 豊後大蔵氏の庶家で、この系統からは財津一郎、財津和夫などを輩出します。財津和夫さんとは西南学院大学時代のクラスメイトです。松田聖子(蒲池法子)さんも大蔵氏の血筋を引き継ぐ蒲池氏.の子孫です。写真の説明はありません。

             私の先祖 原田氏(大蔵氏)の歴史

私は福岡県の筑後市一条というところで生まれました。私の名前の呼び方は「光明(みつあき)」ですが、子供のころからよく「一条の光明(いちじょうのこうみょう)」とよく呼ばれていました。ふつうあだ名でよばれるとあまり良い気がしないといわれますが、私はこの呼ばれ方を不思議と心地良く感じていました。  私は7歳のとき、父に連れられて奥八女にある邪馬台国(日向神)へ訪れました。そこで父から卑弥呼(大蔵一族)がこの土地で大蔵一族に太陽の光明の力を借りた気功を教えていた話を聞かされました。大蔵一族とは卑弥呼の護衛をしていて国を守っていた一族です。大蔵省はこの大蔵の名前に由来しています。 卑弥呼は日本国を統一するために一部の大蔵一族を引き連れて大和(奈良)を目指します。大和へ行った大蔵一族は氏を安倍に改名します。その子孫に安倍晴明がいます。奥八女に残された大蔵一族は筑紫の国(現在の福岡県)に都を築きます。                                                                        平安時代の初期に空海は中国での「密教気功」を取得した後、日本へ戻ります。そして「密教気功」の精度を上げるために九州の久留米で一年間、卑弥呼の気功を受け継いだ大蔵一族から気功を学びます。久留米の地名は空海が「久米(奈良)」に似た景色の場所に留まると言ったことに由来しています。                                                                                                平安時代に筑紫の国(大宰府)を治めていたのは邪馬台国の卑弥呼から「卑弥呼の気功術」を受け継いだ大蔵善行でした。大蔵善行は大宰府の長官をしながら気功を教える【善行塾】を開いていました👍大蔵善行が開いた【善行塾】に熱心に通っていたのが少年時代の菅原道真です。 大宰府に左遷された菅原道真を有名にした【飛梅伝説】は菅原道真が大蔵善行から「卑弥呼伝来の気功術」を学び「気の力」によって京の都に植えていた梅ノ木の花粉を大宰府まで引き寄せ京の都と同じ梅の花を太宰府天満宮でも咲かせたからです👍                   原田氏の前身は大蔵氏であるといわれている。天慶2年(939年)大宰府の藤原純友の乱鎮圧のため大蔵春実が源経基・小野好古らとともに出陣。 戦功により菊桐の御紋と日の丸の御印を拝領、征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の管領職となる。 城を築き移り住んだ御笠郡の地名をもって原田氏と名乗る。 原田春実が築いた原田城跡は現在筑紫神社となっています。

 

平安末期、原田種雄(『大蔵姓 成冨家譜』では種成とも)の長子種直は太宰少弐に任官される。そして嘉永年間に源氏と平氏が争い始めると、種成・種直父子は平氏方として活躍。 平清盛の長男である平重盛の養女(清盛の弟・平家盛の娘)を妻とし、事実上の大宰府の長官となり、九州における平氏の基盤を築く。 平家都落ちの際には岩門城の私邸を安徳天皇の仮皇居にする。 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、種直も領地を没収され、鎌倉に幽閉の身となる。 扇ヶ谷の土牢にて13年、放免後は怡土庄の地を与えられる。

また『大蔵姓 成冨家譜』によれば、種成の次男次郎種雄は秋月城に住んで秋月氏を名乗り、三男三郎実種は筑後国田尻村に住んで田尻氏を、四男四郎種光は筑後国江上に住んで江上氏を(成富氏はこの江上氏の庶流)、五男五郎光種は筑後国御原郡高橋に移り高橋氏をそれぞれ名乗ったとしている。

鎌倉時代の建長元年(1249年)、原田種継(たねつぐ)、種頼父子が怡土城の遺構を利用し、高祖山に高祖城(高祖山城)を築城。 元寇の際は種照(たねてる)・種房(たねふさ)兄弟が奮戦。

南北朝時代には北朝・室町幕府の足利直義軍に加わり各地に転戦。南朝・懐良親王の征西府の全盛期には南朝の重鎮である菊池氏の縁戚となる。南朝の没落後、一時家運は衰退するも、室町後期には周防の大名で北九州に影響力を持つ大内氏の家臣として原田弘種・興種・隆種(それぞれ大内政弘・義興・義隆より1字を賜う)が少弐氏との戦いで活躍し再興を果たした。大内氏滅亡後は龍造寺氏、毛利氏、島津氏と盟を結び大友氏に対抗した。

戦国時代、最後の当主・原田信種の代には大友氏を駆逐し糸島全土を領土となした。しかし、豊臣秀吉の九州征伐の際に遅参し領地を没収される。その後、加藤清正の配下となり朝鮮へ出兵する。信種の子原田嘉種は唐津藩寺沢氏、後に会津藩に仕え、子孫は重臣の家系となった。幕末期の家老・原田種龍(たねたつ)、朱雀隊に所属した原田種英(たねひで)、白虎隊に所属した原田勝吉(克吉・かつきち)は会津原田氏の末裔である。            戦国時代の末期まで、筑前の有力国衆として勢力を維持した原田氏であったが、もっとも奮発すべきところで、しくじったといえよう。原田信種が快活に秀吉に接していれば、おそらく、その後の原田氏の運命は大きく変わっていただろう。まことに惜しいことであったが、それが原田氏の限界であったというべきか。『師郷記』によると興国5年/康永3年(1344)に、六車郷付近に原田兄弟が国人として働いているとの記載があることから、原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていた。その後原田氏は摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれていく。 気功師の家系である原田家はこの時期に細川氏の家臣団に気功を伝授していると思います。江戸時代、原田氏は久留米の有馬藩の参謀として活躍します。原田佐助は刀鍛冶の才能を磨き有馬の殿様に名刀を奉納します。私の実家の20畳の広間には有馬の殿様の直筆の書が飾ってありました。残念ながら実家は火災で全焼し、今はそれはありません。       有馬の殿様の子孫の方は中山競馬場が建設されるときに多額の財産を寄付されています。「有馬記念」はそのことに由来しています。                              明治に入り、私の祖父原田万吉は有馬藩から譲り受けた広大な土地を利用して日本一の植物園を建設します。京都植物園が出来るときの植物の大半は原田植物園から移されたと聞いています。原田万吉は商才にも引き出ていて、植物学者牧野富太郎と親しくなり、東京大学の才能がある人達を招き入れて原田植物園で植物図鑑などを作り、国からの支援も受けて多額の財産を築いていきます。昭和に入り「ダリヤの花ブーム」を予測して巨大なダリヤ園を作り日本中にダリヤの花ブームを巻き起こしていきます。この頃、私のいとこ 越村敏昭 が戦火から逃れるために原田植物園で少年時代を送っています。越村敏昭は原田万吉の商才を直に見ているので、後に東急電鉄の社長になれた要因になっていると思います。私の父原田筑紫は生まれ時から祖父原田万吉が残した使い切れないほどの財産があったために私は子供の頃から父が仕事をしている姿を見たことはありませんでした。父は趣味の囲碁、油絵、気功、相撲に明けくれていました👍しかしながら気功については家族には内緒でやっていました。それは私の母は気功が大嫌いだったからです。私は7才の時、父に連れられて卑弥呼の里、邪馬台国(奥八女)へスケツチ旅行に行った時、自分が気功師の家系で大蔵氏(原田氏)の子孫であることを打ち明けられます。

 

【私の二刀流】夢をかなえる信じ方がある【マニ宝珠】       私は常に【二刀流】で生きて来ました🙌【モリリンのサラリーマンとバーコード開発者】バーコード開発後は【モリリンのサラリーマンと気功師】定年後は【気功師とラジオパーソナリティー】現在は【気功師と歌手】 

【想い出の宿】大ヒツトの予感【ユーチューブ歌手時代の到来】      

 私が歌っている【想い出の宿】がユーチューブ視聴回数8000回突破👍感謝💛

原田光明の「ユーチューブ歌謡ライブ」公式ジャンル記事ランキング:
その他職業で全国 95位

【想い出の宿】東日本大震災で亡くなった愛する人を忍んで何度も二人で訪れた鳴門峡谷へ今一人で来ています。鳴子温泉観光テーマ曲です。続編として作られた【鳴子峡】も只今ヒット中です🎵

 

 

 

 

    私が 唄っている 【想い出の宿】は                                              【鳴子温泉】観光テーマ曲です🎵女優の山本美月さんにも聴いていただきました❤️私は大学生の時まで歌手になりたいと思っていましたが大学3年の時、ゼミで同じクラスになった財津和夫さんの歌を教室で聴いて歌手になることを諦めました。今は【想い出の宿】でユーチューブ歌手として再スタートを切りたいと思っています🎵

                                

  3月23日(土) 京都で「気功指導」と「気功治療」を実施します。                 

 

  3月23日(土)   時間 午後1時 ~ 午後3時 

 

場所は京都東福寺駅前のファミリーマートの前の道を南へ(右へ)七分ほど歩いたところにある喫茶「メモリー」TEL 075 551 3567で行います。  料金は気功指導五千円、気功治療は五千円です。両方受けられる方は一万円です。参加が二回目以上の方は気功指導と気功治療両方受けられても五千円です。 参加希望の方は私の携帯TEL 090 8797 5850 の方へ連絡お願いします。

気持ちは常に穏やかで優しく、
身体を若々しく年齢を忘れて、毎日パワフルに過ごしたい方へ。
氣功を通じて、魂と心と身体の調和を実現します。
心身ともに鍛錬することにより、健康な精神と肉体を取り戻します。 このセミナーでは、たった2時間で若返りを実現する為の氣功の魅力をお届けします。

氣功という言葉自体がよく分からないという初心者の方も大歓迎です。              

 

  

気功師光明
私は気功歴30年になります。私の気功は光明気功として私が開発したものです。                         平成22年私の【バーコード開発】が認められ国際アカデミー賞の社会文化功労賞受賞。平成24年読売テレビ出演。

バンクーシーが嫉妬したバーコード開発者は私です                神【宇宙】は自分の姿を見ることが出来ません👍神【宇宙】は自分の姿を見て感じるために【人間に目や鼻や耳や皮膚】を用意したのです☀️

バンクシー展に行ったらなんと私が開発した「バーコード」をバンクシーが描いていました👍    

 

 

        ”バーコード誕生秘話”私がサラリーマン(モリリン)時代に開発した「バーコード」が後に日本の「通販文化」や「携帯電話文化」に繋がっていくとは夢にも思いませんでした。私と「バーコード」をベルギーから日本に持ちこんだ(財)流通通システムコードセンターの浅野恭右さんとの出会いは1980年の原辰徳をドラフト会議で巨人が引き当てた日でした。それから私のモリリンのサラリーマンとバーコード開発者との2足のわらじの時代が始まりました。モリリンには私がバーコードを開発していることをずっと秘密にしていました。しかしバーコードの開発が成功したらモリリンの通販会社との販売拡大に役立つとの思いは強く持っていました

バーコードのマニュアル本の取引先番号456789は私が勤めていた会社【モリリン】の番号です👍

私が開発した「バーコード」の成果により 私が以前勤めていた会社モリリンの羽毛布団が通販会社ジャパネットたかたを通して145万枚(140億)の売上を達成しました👍

 

 

 

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    奇跡を見た

  •  

    先月24日に大阪から、原田先生が今治に来て下さった。

    原田光明先生は、俗に言う氣功師である。

    スピリチュアルの世界では有名な方で

    さっそくFAラジオバリバリにゲストとして、出演されて

    聞いた方も多いと思うが、

    江戸時代の話や人としての生き方など

    興味をそそる話をラジオで語って下さっていた。

    番組の進行は、スマイルプレゼンター貴さん。

    この方にもいつも元気を頂いている。

    しかし、先生の話す言葉をよくよく聞くと、

    1つ1つが理にかなっており、自然界の法則の入口を感じさせて下さった。

     

    又、先生が今治に来ていると言うのを噂で耳にした人が、

    夕方も夜の食事の時も

    次の日も先生に会いに来られ、

    次々と氣を送ってもらっていた。

     

     

    信じる 信じないの それぞれ個人の考えもあろうが、

    骨折して背中が曲がったままで痛かった女性が

    ものの15分 氣を当てるだけで真っ直ぐに背中が伸び

    身長も3~4cm高くなったり、膝が痛くてあまり動けない女性が、

    5分くらいでもう普通に跳んだりハネたりするのを目の当たりにすると、

    ビックリを通り越して、体中が震えだすし、

    感動する。

    治った人が次々と人に伝えるモノだから、

    結局20人くらいの方に次々と会われ、

    氣を送り続けられた。

     

    翌日は我が社にも少しの時間だが

    きていただき、スタッフ全員に氣功入門の手ほどきを受けた。

     

    目の前で次々と奇跡を見ると

    もう体中が震えたのを今でも思い出す。

     

     

    やはり世の中には、本物もいてるのだと思った。

     

     

    たぶん、

    この世界、見える世界でないので

    “ニセモノ”が多くいてると思うし、

    人を催眠的に誘導したり、

    強迫観念をうえつけたり、

    最終的に高い高い壷や鏡や水晶や

    ブレスレットを買わされたり、

    何かの申し込みにサインさせられたり、

    グループや会に入れられたりするのを耳にするが、

     

    何も無いのは、やっぱり本物だ。

     

    そんな体験をした。

     

    原田先生、ありがとうございました