これ、私の子ども時代の話しです。

小学4年か5年生くらいのことなので、かれこれもう40数年前でして。

だいぶ記憶が曖昧なところもあるのですが、記憶の引き出しを整理しながら紐解いていきたいと思います。

 

まずはじめに、私が育った家庭環境を説明しておきます。

父は東大卒業後、私立高校の教員をしていました。その後、私が小学3年くらいの時に校長になり、しばらく経ってからまた別の高校で長いこと校長を務めた教育畑の厳粛な人でした。

そして母は横浜の資産家の長女。名門女学校から学習院に進み結婚後は専業主婦となるが、なかなか教育熱心なお方でありました。

 

そんな家庭に生まれた私には、4つ上の姉と2つ上の兄がいます。

で、この二人がまたちゃーんと母が思い描いた通りの道を行くわけです。

二人とも小学校の成績は5段階評価でほんとにいつもオール5。

一方、末っ子の私、けいくんはほんとにいっつもオール3の出来損ない。

ま、今思えばオール3は平均ってことですから、そこまで劣等感を抱くこともなかったのですが…。

しかしこの家庭においては、「いったいどうしてこんなに出来の悪い子が生まれてしまったのかしら…」という空気を背負って生きていたのは間違いなかったです。

 

更に。

そんな私の「劣等感」を増幅させた近所の塾の先生がおりまして。

うちの3兄弟が順番にお世話になっていた塾なもんで、姉のことも兄のこともよく知ってる先生ですからね。

「あなたはどうしてこんな簡単な問題も出来ないの?お姉さんもお兄さんも簡単に解いたのに…」と大変嫌味っぽく言われたものでした。

それが私、4年生だったかな。

その頃から私の自己嫌悪感は見る見る強くなり、鏡に写る自分の顔まで大嫌いになりました。

鏡に写る自分の顔を腫れ上がるほど何度も殴りつける、そんな自傷行為を始めたのもその頃だったと思います。

当時の自分の認識は「何一つ取り柄のない、つまらない顔の男」でした。

 

 

さて、そこで本題です。

そんな頃、私はひとりで子ども会のキャンプに参加したのです。

あれはもう兄が小学校を卒業したあとだから、5年生の夏休みだったかな。

親元を離れてひとりで外泊するのも初めてだったドキドキのキャンプ。しかもあまり仲のいい友だちもいなくて、私の心は顕微鏡で見えるかどうかってくらいちっちゃーくなっていたのでした。

夜になり、食事のあとキャンプファイヤーをしたのですよ。

それはもう、今でもはっきりと鮮明に脳裏に焼き付いている光景なのです。

大きな火を囲んでみんなで歌ったり踊ったり。

 

 

で、最後にある大人の人が子どもたちに向かって「最後にひとつ、ゲームをするよ」と言いました。

「これからおじさんが合図をしたら、みんなは目をつぶって自分の心の中で1分間数えてください。それで数え終わった人はすぐに座ってください」と。

私はとにかく必死に、できるだけ正確な1分を数えて座りました。

 

しばらくしてさっきのおじさんが「はい、目を開けていいよ」と言い、子どもたちにこんなことを話してくれたのです。

 

「今、一番早く座った子は約40秒くらい。で、一番遅く座った子はなんと2分くらいでした。(子どもたち、どよめく)

はい、でもね、このゲームは誰が一番正確な1分を数えたか、ではありません。

40秒の子も2分の子も、みんな正解です。(子どもたち、更にどよめく)

ここにいるみんながそれぞれ自分の中にある1分をしっかり数えたのだから、みんな正解なのです。人よりも早いとか遅いとかってことなんて気にしないで、自分を信じて自信を持ってこれからの長い人生を生きていってください」

と、まー、不確かな部分もありますが、そんな話しをしてくれたのです。

それは現代で言うところの「世界に一つだけの花」的なやつね。

 

それを聞いた当時のけい少年、10歳。

まさに目から鱗と言いますか、もうその場でボロボロ泣けてきちゃって…。

 

小学生であってもすでに競争社会は始まっていて、常に劣等感を抱いていた私をそっと優しく救ってくれたのが、その子ども会のキャンプでの知らないおじさんのことばだったのです。

それは当時、学校や塾では教えてくれなかった「自分の個性を認めてあげていいんだよ」ということ。

単純な私はあの時から急に心が楽になり、それからは自傷行為もすっかりしなくなりました。

 

そういうわけで、私にとっての「子ども会」はちょっと特別なものなのです。

なので今、私が住むこの町の子ども会が消滅してしまうかも…という状況を目の当たりにして、黙っていられなかった私の行動は当然かも知れません。

 

今後いつか、わが町の子ども会でキャンプをすることがあったら、あの時のおじさんの真似をしてみたいなと思う私であります。