昨日は上野公園で夜7時半くらいに鳩が息絶えていたのを見つけたの。
思いっきり公園のアスファルトの歩道の真ん中で、みんな避けて通っていた。
私も50mほど通り過ぎたのだけど、せめて土の上に移そうと心中で何回か自問して戻った。
歩道の真ん中では、また自転車などに轢かれてしまうかもしれない。
踏まれてしまうかもしれない。
それはあまりにも悲しいよね。
でも触れるのに少し勇気がいってね。
ビニールに手を入れてそぉっと持ち上げた。
最初、尾に触れたらまだほんのり暖かくて、思わず手を引っ込めてしまった。
チベット医学では死の間際には他者が触れても声をかけてもいけない。
逝くことに集中できるように。
しばらく観察して、意識はないようだったから、
ゆっくり羽に触れ、
軽くて柔らかで、優しい感触に多少驚きつつ、
彼を傍らの大木の根元へ。
急ぐ必要も無いのに、急ぐ。
ものの数秒のことなのに
土がカチカチで掘れなかった。
「できれば埋めてあげたい!」
思わず声が出た
明日には公園管理の方に片付けられてしまうのだろうけれど、たくさんの生命の中で、ゆっくり肉体から離れられるように。
触れる時に必要だった小さな勇気、
出てきた小さな抵抗、
それは「死体に触れる」というよりは
「死」に触れることへのそれだった。
恐れではなく触れても良いのか、と許可を求めていた。
果たして私がこれから行うことは彼(鳩)にとって迷惑ではないのか。
しばし逡巡し、素手で無いことを鳩に詫びつつ、持ち上げた。
触れた瞬間、なぜか「許された」ような気がした。
何を、なぜ、許されなければならないのか
皆目 わからない
結局、いつも同じ結論なのだけれど、どんなこともやってみないと分からない。
どんな理屈も言い訳も、なんの価値もない。
行為のみが生であり、実であり、私の存在そのものなのだと改めて学ばせて頂いた。
鳩は私の偉大なる師であった。
あの持ち上げた時に掌に感じた感覚をなんと表現するのか、、、
この体験を言葉にするとしたら、
許し、としかしようがない。
説明しようとしても全く意味がわからないけれども、私の中ではとても納得がいき、救われた出来事。
安らかにおやすみなさい。
また、いつか、どこかで。
ཨོཾ་མ་ཎི ་པདྨེ་ཧཱུྃ