謹賀新年・考え方の話。 | Tempo rubato

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アニメーター・演出家 平松禎史のブログ


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10月2日より放送開始。

 TVアニメ『呪術廻戦』にキャラクターデザインなどで参加しております。

第1弾PV  演出を担当いたしました。

お楽しみに!

 

 

                                                     

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あけましておめでとうございます。

 

去年は10月にはじまった『呪術廻戦』のキャラクターデザインや1話の絵コンテが19年中からあり、2、3話の絵コンテ監修とともにはじまって、2クールの折返し点で終えた1年でした。

並行して次の作品の準備もはじまっており、今年は徐々に新作の方へシフトしていくことになるでしょう。情報解禁はまだ先になると思いますが、今からとっても楽しみです。

 

 

さて、年始ということでちょっと気分を変えて見ようと思います。政治経済など社会的な事柄を書くことが多いので、内面の話を少々。

とは言え、内面の話とは、外面をどのように見ているか、という話であります。

 

「私」というものがどうやって出来上がってきたのか。50代後半になってくると今更考えてみてもどうにもならんよな〜と思ってしましますが、まだまだ引退は先のことだろうし、これからの人生、いくつかの山谷を越えていくことになるはずで、若い頃のように勢いで進めない年頃なので、時々立ち止まって確認する必要があるかな? とね。

 

これまでで、考え方を形成するようなインパクトのあったできごとやことばなどをツラツラ書いてみましょう。

 

小学校時代

両親が共働きの、いわゆる「カギっ子」だったので、友達が捕まらなかった時などは家でひとりで遊んでいた。当時はゲームはあまりなく、プラモデルや木材などを使った模型作り、ロボットやスーパーカー(まだこのことばはなかったかも)の絵を描いていた。マジンガーZやマッハ号、流星号、実在の車をスーパーマシンに改造したり、ノートの中で遊んでいた。お絵描きとともに好きだったのは、図鑑を読むことだった。見ること、といったほうが良いかな。特に科学技術や地理の図鑑が好きで、エンジンの構造やサスペンションの仕組み、飛行機の翼が揚力を生む構造などが特に好きだった。地理の方は地質構造。プレートテクトニクスということばはまだ知らなかったけども、地震が起こる仕組みや大陸移動説、マントルの動き、火山噴火の仕組みなど何度も読み返していた。この頃から、ものごとの仕組みを観察するのが好きだったようです。勉強は嫌いだったけど辞書を引くのは割と好きだった。

ある時、友達と何かのことばの意味で言い合いになった。

ボクは「Aだろう」と言い、友達は「それは違う」と聞き入れない。じゃー辞書を引いてみよう。調べてみると「A」で合っていた。その時、友達はこう言ったのです。

「辞書が間違っている!」

ボクはものすごいショックを受けた。辞書を否定したことよりも、自分にこんなにも自信を持てる友達を、ある意味「凄い」と思ったのです。もちろん、彼は間違っているのだが、間違いを認めない我の強さには、困りつつも感心するものがありました。ボクはいわゆる「自己肯定感」の低い人間なので、ちょっとうらやましかったですね。

 

高校時代は気楽に生きすぎたのが失敗でしたね(笑)。もっと深く悩んだり考えたりするべきだったし、本をたくさん読んでいればよかったと反省してます。まー、音楽やアニメばかりの楽しい時代だったので、一つの原点ではあるね。

 

美術短大時代。

もっとも濃い時代でした。とは言え、美術の方は短大なのでそれほど突っ込んだ勉強はしておらず基本的なことでした。濃かったのはサークル活動のほう。「視聴覚研究部」といって、子供達に人形劇・影絵劇をメインに、昔話や紙芝居をするサークルです。歴史のあるサークルで、文化部のような楽しさを想像して入ったら、ほとんど体育会系部活のようなきびしさで付いていくのが大変だった。けど、先輩方は柔軟な人が多く、元々が仏教系大学なこともあって道徳面も学べた。

特に光で投影する影絵劇は「映像」に近かったので、この時の楽しさ、経験がアニメーションの作画・演出への大きなステップになっています。

仏教学科の先輩ではなかったけど、ある女の先輩と恋愛の話をしていてこう言われたのが印象的だった。「恋愛とは、お互いを高め合うものだ。」

この年頃の1、2年の年の差はけっこう大きい感じがしたものだけど、ひとつ上の先輩だから19か20ですよ。恋愛と言えば、キャッキャウフフな感じじゃないですか。フツー。

「お互いを高め合うものだ」。何を言ってるのかわからんが、すげーー!と思った。このことばはその後ずっと忘れられず、良かった時もダメだった時も、「ああ…、そういうことだわなあ」と、アメとムチを食らわしてくれました。

 

サラリーマン時代はあんまり前向きな出来事とかなかったんですが、会社の幹部についている当時のボクから見て「おじいちゃん」たちにも、いろんな人がいておもしろかった。とにかく「金!カネ!かね!」という人もいれば、「新しいことをどんどんやろう!」と研究熱心な人もいる。ずっと若い中間管理職の卑屈な感じが嫌だったり、事務の女子社員が怖かったり(笑)

商品の発送作業をする「現場」の人たちのほうが仕事に誇りを持っていて生き生きして見えた。

 

ここまでが21歳くらいまでの歴史です。

特にどうということはないんですが、今でも共通しているのは、小学校時代の「仕組み好き」なんですよね。アニメが好きになったのも映像演出が好きになったのも、絵が生き物のように動いて見えること、映像が編まれることによって意味が生じること、それがおもしろくてたまらない。いったいどうしてこんなことが起こるのか? いまだにわからない。わからないからつづけられているんだと思う。

 

 

ここ数年、ユング派心理学を学んだ心理療法士の河合隼雄さんの本を読み、講演動画をよく聞いています。人間の心の動きの仕組みというものも、とてもおもしろいものです。おもしろいと同時にとても厄介でもあります。自分の心でさえ、思ったようには動いてくれませんものね。

河合さんの講演動画では「コンステレーションについて」が好きです。

 

特に、後半の「因果律が好きすぎると困ったことが起きる」というところ。

何かの出来事に対して「何が原因か」と考える時、「私を理由にしない」「私を基準に考えない」ことが大切だと説く。

このあたりはよくわかります。小学校の時、何が正しいかと証明する時に「俺が正しいと言ってるんだから正しいんだ」とは考えず「辞書を引いてみよう」と考えた子供ですので、どんだけ自分に自信がないのか…とも言えますが、物事の基準を「私」に求めない。今で言う「エビデンス(証拠、証言)」を求める態度というのが、(日中、家に両親がおらなかった、ということもありますが、味方してくれる人がいなかったため)「非個人的な」ところに求める意識を持たざるを得なかったのだろうと思う。

 

河合さんが黒板に書いたものを取り入れながら図解にしてみると、こんな感じです。

 

 

「出来事」と「私」とが、一体化しすぎると、「私」にとって不快な…認めたくない…願うことと違う…考えを受け入れ難くなってしまいます。

かと言って、「客観的に」とか言って、あまりにも外から見てしまうと、心の通わない考えになってしまう。

「出来事」「対象」「他人」と関わりながら、共に生きながら、その周囲に存在する様々な出来事や、その対象が示すもの(経済問題なら統計データなど)に、どのような物語が存在しているのかを「私」と通わせながら読み取る。仕組みを探る。そうすると、本質的なことに近づけるかもしれない。絶対一致する、とは考えない。

 

これは20代の頃ですが、山田太一のシナリオやエッセイをよく読んでいた頃のこと。

「だから」ということばづかいに抵抗がある、というエッセイがあった。「〇〇 だから△△である」と言うのは直線的すぎる。あまり簡単に「だから」と言ってしまうのは、その前後をつなげる思考がなくなっているように感じる。そういう時は「だとしたら」と言ってみる。前段が後段につながるかを慎重に考えてみる姿勢を持ちたい、と。

おそらく、「私」を基準にしていると躊躇なく「だから」が使えるのだろうと思う。

「私」と「対象」の間に一定の余裕をとって「非個人的な見方」をすれば、「だとしたら」と言えるのだろうと思う。

 

他方、ボクは、あえて「べし/べき」を多用します。「べし/べき」の一番目の意味は「当然のなりゆき。また、そうなるはずの事柄を述べるのに用いる」(大辞林第3版)であって、理由もなく使えることばではないからです。理由(またはエビデンス)を揃えた上ではじめて「そうするべし。/べきである。」と言える。命令の意味にとることがありますが、それは原因と結果が一致する可能性を強調する意味でうまれた、ほんの一部の用法です。

ですから、「べし/べき」は、理由やエビデンスがありますよと言える場合のみです。「私がそう思うから」だけで使えることばではないと考えます。

 

 

ものごと慎重に扱わないと、ボクには取り返す時間が限られてきています。慎重すぎるのも良くないが、冒険するにしても経験に基づいた手がかりや、信頼できる仲間、そして作品を見てくれるお客様が必要です。

 

ボクの生き様が何とコンステレートしているのか。自分にはわかりませんが、おそらく作品に少しは、あらわれるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

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